幕間~毒~
評議会館のゲストルーム、そのベッドで昏々と眠るルルの手を握り、イーリィは労しげな眼差しでその顔を見つめている。護衛の観点からルルは施療院から評議会館へと移送され、今はセシリアから彼女の世話を託されたイーリィが付き添っていた。故郷を突然に襲われ、たったひとりでケテルに助力を求めてやってきた心細さはいかばかりだろう。親兄弟を、友人を置いて、ひとり逃げ延びる道はどれほど苦しかったことだろう。時折うなされて顔をしかめるルルの額にじっとりと滲む汗を、イーリィは固く絞った手ぬぐいで拭った。
「どうだ? 様子は」
なるべく音を立てぬよう気遣った開け方で扉が開き、部屋にイヌカが入ってくる。イーリィは振り向かぬまま首を横に振った。正門でトラックに助けを求めた後、ルルは倒れ、そのまま意識を失っている。「そうか」とつぶやき、イヌカはイーリィの隣に座った。
「……トラさんたちは、大丈夫よね?」
ルルを見つめたまま、イーリィは確認するように言った。大丈夫、とは彼らが無事で帰ってくるという意味と、彼らが猫人を救うという意味のどちらもを指しているのだろう。イヌカは素っ気なく答える。
「さあな」
「さあな、って」
イーリィは非難の目をイヌカに向けた。イヌカは不満そうに鼻を鳴らす。
「オレに何も言わず行きやがった奴らのことなんざ知るか」
拗ねているな、とイーリィは呆れた表情になる。置いて行かれたことを相当根に持っているらしい。もっとも、トラックたちがイヌカに何も言わなかった理由を理解していないわけではないのだろう。拗ねている以上の感情を抱いている様子はない。
イーリィは視線をルルに戻した。彼女の父であるケテル評議会議長ルゼが猫人の救援要請を拒むことを決めたということをルルはまだ知らない。そして、トラックたちがその決定を無視して猫人を救いに向かったということも。目が覚めてそれを知ればこの少女は苦しむだろう。ケテルへの失望と、トラックたち個人に重荷を背負わせてしまった罪によって。
「……責任を感じてんなら筋違いだぜ」
イヌカはイーリィのほうを向かずに言った。イーリィは無言のままルルを見つめている。イーリィは議長の娘として責任がないと言うことはできないのだろうし、イヌカもそれは承知の上だろう。それでも敢えて言うところがイヌカの優しさであり、こういう言い方しかできないところが彼の不器用さなのだ。
「……う、ぅ……」
ルルがうめき声を上げ、眉を寄せて――うっすらと目を開いた。イーリィが身を乗り出す。
「目が覚めた? ここがどこかわかる?」
まだ意識がはっきりしないのか、ルルはイーリィの呼びかけには答えず、焦点の合わぬ目を天井に向ける。イーリィが戸惑ったように視線を揺らせた。どこか、うまく言葉にできない不穏な空気が滲み出すように広がる。
「イーリィっ!」
イヌカの鋭い叫びが響き、イーリィはイヌカに突き飛ばされる。無造作に突き出されたルルの左手がイーリィの左肩を抉り、床に鮮血が散った。ルルの爪が抉ったのはイーリィの首があった空間。つまりルルは、イーリィの首を裂こうとしたのだ。椅子から転がり落ち、イーリィは信じられないという表情でルルを見上げた。ルルは天井を見つめたまま上半身を起こす。その目が徐々に赤く染まっていく。
「立て! 部屋から出ろ!」
イヌカが切迫した声で叫ぶ。茫然と動かないイーリィを強引に立たせ、イヌカは彼女を扉のほうに押しやると、ルルに立ちはだかるようにカトラスを抜いた。ルルの髪が逆立ち、全身の筋肉がめりめりと音を立てて盛り上がる。
――オオオォォォォーーーーーー!!
地獄から響くような苦痛の咆哮を上げ、ルルがベッドの上に立ち上がり、明らかに正気を失った瞳で虚ろにイヌカを見据える。イヌカの額に冷たい汗が滲んだ。
「狼憑き、かよ!」
猫人の爪は鉄を切り裂くという。それが『狼憑き』によって強化されればどれほどの威力になるのか想像もできない。ルルは今、完全に理性を失い、目の前にいる者――イヌカとイーリィの命を刈り取るべく機を窺っている。イヌカがカトラスを握る手に力を込めた。
「殺さないで! 助けてあげて!」
左肩を押さえて床に座ったままイーリィが声を上げる。彼女はルルに何が起きているのか、『狼憑き』のことも、おそらくは知らないだろう。それでも自分の命を脅かす相手の身を案じる。イーリィという女はそういう女だ。イヌカは苦く口の端を上げた。
「そいつができたら最高だな」
ぐるる、とうなり、ルルがわずかに身を低くする。呼吸でタイミングを計り、そして次の瞬間、ルルの爪が弧を描いてイヌカに襲い掛かった!
「う、あ――」
どさり、と重い音を立ててルルの身体が床に倒れる。身体はしぼみ、本来の姿を取り戻す。時間切れ――『狼憑き』の効果がようやく失われ、ルルは再び意識を失った。
ぜいぜいと荒く息を吐いてイヌカがカトラスの切っ先を下ろす。部屋の中には援護に駆けつけた数人の冒険者が、同様に濃く疲労の色を顔に示していた。イヌカも含めた全員が全身に無数の裂傷を負い、誰かが深いため息とともに座り込む。躊躇なく殺そうと襲い掛かってくる相手、しかも身体能力において人を大きく上回る獣人族に対して、殺さずに制することの困難を改めて痛感する。
「あいつはいつもこんなことをしてんだからな」
トラックという男の真の力をまだ知らずにいるのかもしれないと、イヌカは倒れたルルを見つめる。仲間の助力を得てルルを殺さずに済んだ。だが、まったくの無傷で終わらせることはできなかった。ルルの身体にもイヌカたちがつけた傷がある。もしトラックがここにいたら、おそらくルルも仲間たちも傷を負ってはいないだろう。
「いったい何なんだ。この猫人はクリフォトに通じてたってことなのか?」
ようやく息を整え、座り込んでいた冒険者がイヌカを見上げた。イヌカに「殺すな」と言われとりあえず従ったが、納得はいっていないようだ。イヌカは厳しい表情で首を横に振る。
「いや、こいつは、毒だ」
ルルは自分が敵に何をされたのか知ってはいないだろう。彼女は同胞のためにケテルに助けを求めただけ。そんな彼女に敵は、一つの毒を仕込んだ。『狼憑き』によって暴走し、ケテルの人間を殺す。そして彼女自身もケテルの人間によって殺される。そのことによってケテルと他種族の間に毒が広がる。『不信』という名の毒が。
トラックが『不殺』にこだわる理由が、少しだけ理解できる気がする。もしトラックがいなければ、あの男が『殺さない』という選択を自らの行動で示していなければ、イヌカは襲い来るルルを返り討ちにしていた。殺さなければ殺される、それがこの世界の当たり前だ。だがもし、ルルをイヌカが殺していれば、敵の狙い通りに『不信』の毒はケテルを蝕み、破滅を呼び込む『終わりの始まり』になっていたかもしれない。『殺さない』ことで未来がつながる。『殺す』ことは未来を閉ざすのだ。それがどれほど遠回りに見えたとしても、『殺さない』ことこそが未来へと続く唯一の道なのだ。
「治癒術師を呼んでくる」
イヌカはそう言って部屋を出ようと踵を返した。視界の端で冒険者のひとりが動き、ルルを抱えてベッドに寝かせる様子が見える。かすかに表情を緩ませ、イヌカは部屋を出ていった。
「イーリィ!」
真っ青な顔で部屋に飛び込んできたのは、評議員たちとの会議の最中だったはずのルゼだった。コメルもまた青ざめた表情でルゼに続く。評議会館の一室でイーリィは傷の手当てを受けていた。ルルが暴走しイヌカと戦い始めてすぐ、事態に気付いた他の冒険者たちに部屋から救い出され、イーリィは安全な部屋に移送されたのだ。
「大丈夫か!? ケガは!?」
イーリィは気丈に微笑み、首を横に振る。
「もう魔法で治療してもらったから、何でもないわ」
コメルはほっとしたように表情を緩める。
「いったい何が? 猫人の娘が暴れたと聞きましたが」
「詳しいことは、わからないけど」
イーリィはわかる範囲で状況を説明する。目覚めたルルの輪郭がみるみるうちに盛り上がり、正気を失って暴れ始めたこと。イヌカが言った『狼憑き』という言葉。イヌカと数人の冒険者たちが部屋でルルと戦っていること。イヌカはイーリィの言葉を受けて、ルルを殺さずに制圧しようとしていること。
「戦いはすでに終わったと聞いています。冒険者も猫人の娘も無事ですよ」
コメルの言葉にイーリィは胸をなでおろした。誰も死ななかったということは政治的にも心情的にも大きな意味がある。ケテルの、そしてルゼの立場も、より苦しくなることはないはずだ。
「……それにしても、『狼憑き』ですか。下衆なことを考えるものだ」
コメルは不快そうに顔をゆがめた。『狼憑き』を使うことでより猫人の娘がケテルの人間を殺す確率を高める。そうすることでケテルの人間が猫人の娘を殺す確率も高める。暴走したルルができるだけ多くを殺し、そして殺されるシナリオを敵は描いていたのだろう。敵に誤算があるとすれば、今のケテルの冒険者は一人の男に感化され、『殺さずに制する』ことを行動の選択肢に入れている、ということだろうか。敵の頭の中に『殺そうと迫る敵を救う』という想定はない。『屠龍』にしろクリフォトにしろ、そんな夢物語を思いつきすらしない世界を生きているだろうから。
「私たちはまだ、他種族との未来をつないでいる。共にクリフォトと戦える。そうでしょう?」
ルルを助け、ルルも誰も殺さずに済んだ。トラックたちが猫人を救えば、それは他種族にケテルの意志を示す大きな出来事になるだろう。本当の信頼でつながった絆があればケテルはクリフォトに対抗できる。いや、勝つことができる。
「……お父様?」
蒼白な顔のまま反応を返さないルゼに、イーリィは訝しげに呼びかける。はっと我に返った様子でルゼはイーリィを見つめ返すと、
「とにかく、無事で、よかった」
そう言って深く息を吐いた。こちらの問いに対応しないルゼの言葉に戸惑いながら、イーリィは「うん」とうなずきを返した。
毒は傷口から入り込む。




