悪辣
木々の隙間から差し込むわずかな星明りの下でトラックたちは夜の森を進む。敵がどこにいるかもわからない状態ではトラックのヘッドライトも使えず、進行の足はもどかしいほどに遅い。ミラが精霊の声を聴きながら進む方向を指示してくれているが、精霊たちの感覚は人やエルフのものとは異なるようで、具体性に乏しいというかなかなか要領を得ないというか、はっきり「ここから北に五百メートルです」なんて答えてくれるわけではなく、見通しのきかない重圧がジリジリとした焦燥を生み出している。
「……どれくらい進んだんだ?」
息苦しさに耐えかねるようにルーグがつぶやく。夜闇が距離感も時間の感覚も失わせているのだろう。夜の森では景色の変化を実感することは難しい。自身を闇に食われるような不安に駆られているのかもしれない。
「……あと、どれくらいなんだろうな」
「大丈夫。我らはきちんと進んでおる」
ナカノロフがルーグに並んで肩を叩いた。「う、うん」と返事をしてルーグは深く息を吐く。猫人を守るとか、敵と戦うとか、そういう覚悟はしてきたのだろう。だが、不安や焦り、いつ敵に出くわすかわからない心理的負担、そういった『見えない敵』と戦わねばならないことまでを、この十歳そこそこの少年があらかじめ想定できるはずもないのだ。
張り詰めた緊張感はルーグだけでなくセシリアや剣士も圧迫しているようで、二人の表情は一様に硬い。トラックは……まあ表情なんてわからないからどういう状態なのか不明だが、見かけ上は落ち着いているっぽい。ミラとナカヨシ兄弟が落ち着いているのは年齢ゆえだろうか。ミラは、あるいは精霊とのやり取りに手いっぱいなだけかもしれないが。
「止まって」
ミラが上げた声に反応して皆が動きを止める。トラックはエンジンを止めて沈黙した。夜の森にエンジン音は騒がしすぎる、って今さらもう遅いような気はする。森の向こう、トラックたちが向かっているほうからさぁっと風が吹いた。
「もう少し先に、猫人の集落がある。ルルさんが言っていた場所はたぶんそこ。でも……」
ミラが額にシワを寄せて言いよどむ。その不穏な様子を察した皆の顔が強張った。意を決したようにミラは口を開く。
「動いている者はいないって、風が言ってる」
セシリアの顔がサッと青ざめる。動いている者はいない、ということは、すでに猫人たちは――
「行きましょう!」
悲鳴に近い声を上げてセシリアが駆け出す。他の皆も蒼白な顔で彼女に続いた。エンジンを掛けなおす時間分遅れて、トラックは最後尾でアクセルを踏んだ。
森の木々が不意に途切れ、小さな集落がトラックたちの前に現れる。雲が風に流されて月光が集落を照らした。動いている者はいない、の言葉通り、集落に生きる者の気配はない。もし『屠龍』が処刑を演出するために猫人を生かして閉じ込めているとしたら、そこには『屠龍』のメンバーが必ずいるはずだ。一度捕まえた猫人を放って姿を消すなんてありえない。動く者がいないということは『屠龍』もここにはいないということ。それはつまり――猫人をもう監視する必要がないということ。
「誰か、いらっしゃいませんか!?」
闇の中をセシリアの呼びかけが渡る。しかし返事はどこからも来なかった。剣士が皆を振り返る。
「手分けして探そう! まだ、生存者がいるかもしれない――!」
剣士の言葉には奇跡に縋るしかない悔しさが滲んでいる。『屠龍』が村を襲い、そして去った。それが示すのは絶望しかない。皆が口を引き結んでうなずき、それぞれ別の方向へと走った。集落の規模は小さく、戸数は二十かそこらのようだ。すべての家を片っ端から調べてもそう時間は掛からない。
「誰かいないか!」
「我らはケテルから来た! あなた方の味方だ!」
ナカヨシ兄弟が家の扉を開けて中に呼びかける。しかしやはり返事がない。ルーグもミラも、一生懸命に声を上げながら家々をめぐる。返事は、ない。まるで最初から誰もいないみたいに、何の反応もない。
玄関を開ける。部屋の中をのぞく。机があり、机の上に食べかけの料理があった。椅子は引き倒され、月明かりが差し込む部屋の床には無数の靴跡がある。誰かがいた。いなくなった。不在が強調された部屋の前で立ち尽くすセシリアの目から涙がこぼれる。
……いや、おかしい。何かおかしい。争った形跡はあるのに遺体がない。血痕もない。他の家の中にも、遺体や血痕がある家はなかった。もしかしたら、もしかしたら猫人は生きている? ルルは『屠龍』が「処刑するために猫人を監禁している」と言っていた。だったら、ここからさらに連れ去られた? いやでも、ルルが監禁場所として教えてくれたのはこの付近だったはず……
――プァン!
トラックが村中に響くようなクラクションを鳴らす。皆が捜索を中断してトラックの許に駆け寄った。そこは村の一番奥にある大きな建物、印象としては教会のような場所だった。猫人にも奉じる神がいるのだろうか? 他の建物が木造なのに対してこの建物だけは石造りで、明らかに他と区別された神聖な雰囲気が漂う。入口の扉はわずかに開いていて、そこから少しだけ中の様子が見えた。
「これは……」
セシリアが言葉を失い、剣士が奥歯を噛む。入口から覗く中の様子は、折り重なるように床に横たわる人影だった。ルーグとミラが手をつなぎ、ナカヨシ兄弟が唇を噛んだ。
『屠龍』が猫人の遺体を教会に運んだ? 何のために? まさかせめて死後の安寧を、なんてことはないだろう。だとしたらそれをしたのには意味があり、意図があるはずだ。たとえば、教会に注意を向けるための手段、とか?
トラックが進み出て【念動力】で扉を開ける。月明かりは大きな窓のある教会の礼拝堂の中をはっきりと浮かび上がらせていた。老若男女を問わず、床に倒れている猫人の姿を。皆は無言で倒れた猫人たちを見る。間に合わなかった。助けられなかった。その後悔が滲む。トラックがカチカチとハザードを焚き、そして何かに気付いたように鋭くクラクションを鳴らした。
「まさか――!」
弾かれるようにセシリアが教会に駆け込み、倒れている猫人の傍らにしゃがみ込む。その鼻先に耳を近づけ、セシリアの表情が驚きにほころんだ。
「生き、てる? まだ、生きてる!」
呼吸は極めて浅く、一見するとほとんどわからないが、猫人は確かに息をしていた。剣士とミラ、ルーグも教会内に入り、倒れている猫人を抱き起こす。
「しっかりしろ! 起きろ!」
「お願い、起きて!」
奇跡を願う悲痛な祈りに応えて、猫人がゆっくりと目を開ける。セシリア、剣士、ルーグ、ミラの顔が喜びに沸いた。猫人は焦点の合わない目で、自分を抱き起した相手を見つめ――
「いかん! 皆、離れろ!!」
ナカヨシ兄弟が教会に踏み込み、ナカノロフがミラを、ヨシネンがルーグを後ろに引っ張った。トラックの【念動力】がセシリアと剣士を引き寄せ、二人の鼻先を鋭い爪がかすめる。信じられないものを見るようにセシリアと剣士が目を見開いた。理解が追い付かない様子でルーグとミラは茫然としている。助けに来たはずの猫人に攻撃され、何が起きたのかわからないのだ。
猫人たちが身を起こす。セシリアたちが抱き起した者だけでなく、他の猫人も次々に起き上がった。皆一様に目を血走らせ、低く唸り声を上げる。めきめきと音を立てて筋肉が膨張し、体が明らかに巨大化した。ナカノロフが苦々しい表情でつぶやく。
「狼憑き!」
狼憑き、って、確かヘルワーズが使ってたヤバい薬? 戦闘力が爆上がりだけど理性も吹っ飛ぶアレ? なんで猫人がそんなもん使ってんの? ナカノロフの言葉を聞いて剣士が怒りを込めて吐き捨てた。
「猫人と俺たちを殺し合わせるってことか!」
狼憑きによって理性を失い、異常な興奮状態になって周囲を手あたり次第に襲うようになっている猫人と、猫人を救うべくケテルから派遣された者たちをぶつければ、必ず凄惨な結果をもたらす。敵の、『屠龍』の狙いはそれなのだ。ケテルに猫人を殺させ、猫人にケテルの人間を殺させる。それによってケテルと他種族の信頼関係を完全に破壊するのが敵の目的なのだ。ぬぅ、なんと悪辣な! 最低だな『屠龍』!
荒い息を吐き、猫人がゆっくりと教会から出る。杖を握るセシリアの瞳が焦燥に揺れた。戦うわけにはいかない。しかしもはや話もできない状態の猫人はためらいなくこちらを殺しにかかるだろう。殺さず、殺させず。そんなこと、今の状況でどうやって実現できる?
――オオオォォォォーーーーーー!!
ひとりの猫人が青白い月に向かって吠えた。長く伸びた爪が月光を反射し、そして猫人たちは一斉にトラックたちに襲い掛かる!
と思ったら解決したーーーーっ!! 大ピンチかと思ったらあっさりと解決したーーーーっ!!
トラックは襲い掛かろうと向かってきた猫人たちにヘッドライトを向けてスキルを発動する。それは【解毒】、体を蝕むあらゆる毒を打ち消す力だ。セシリアとミラがハッとした表情になる。
「そうか! 『狼憑き』の、無理やりに身体を強化する負荷の高さを毒だとするなら、【解毒】できてもおかしくはない!」
セシリアとミラの身体からそれぞれ淡い光が放たれ、正気を失った猫人たちを包んだ。猫人たちの血走った目から狂気が消え、無理やりに膨張させられていた体が本来の姿を取り戻す。猫人たちは力尽きたように次々に地面に倒れた。
「あの切迫した状況で【解毒】に思い至るとは、さすがトラック殿」
「うむ。お見事な冷静さよ」
ナカヨシ兄弟が感嘆したようにうなずく。セシリアとミラは倒れた猫人に駆け寄り、安堵の息を吐いた。猫人たちの呼吸の音が聞こえる。ルーグは蒼白な顔で倒れた猫人たちを見つめていた。猫人たちの中には子供も老人もいる。そんな、本来戦いに巻き込むべきでない者たちを平気で利用し、命を弄ぶ途方もない悪意を目の当たりにして立ち尽くしているようだった。
「……トラック、どの……」
倒れている猫人の中からか細い声が聞こえ、トラックはプァンとクラクションで答えた。セシリアが声の主の傍らに膝をつき、その背に手を回して体を起こす。声の主はルルの父親、猫人の村長だった。
「来て、くださったか……あなた方の要請を拒んだ、不甲斐ない我らのために……」
村長はそう言って激しくせき込んだ。おそらく『狼憑き』の秘薬を無理に飲まされ、限界に近いくらいに消耗しているのだろう。「しゃべらないで」と制するセシリアを振り払い、村長は必死の表情でトラックに訴えた。
「今さら、厚顔に過ぎるとは承知している。じゃが、恥を忍んでお頼み申し上げる! どうか我らを、猫人をお助けくだされ! 我らの他にも捕らえられた者がおる!」
村長は地面に手を突き頭を下げる。トラックはプァンとクラクションを鳴らした。村長が弾かれたように顔を上げ、
「あなたという方は――!」
村長の目から涙がこぼれ、セシリアはかすかに微笑む。剣士は『何でもない剣』の柄を握り、ミラが立ち上がった。
「……すまぬ。――ありがとう」
村長がもう一度頭を下げる。気にするなというようにクラクションを鳴らし、トラックは闇に包まれた森を振り返る。この先に、まだ助けを待つ猫人たちがいる。
――プァン
静かなクラクションに仲間たちはうなずきを返す。ただルーグだけが、途方に暮れたように固まったまま動かないでいた。
猫人を『狼憑き』にしてケテルからの救援を襲わせるという悪辣な罠の打開策が【解毒】って……
せめて新スキルとかさ……




