予感
調印式から一ヶ月が経ち、アフロ王率いるゴブリン一行は確かな未来の手ごたえを携えて帰っていった。歴史的快挙とはいえ、一ヶ月ずっとお祭りは長いわ。後半のほうはもうみんなお疲れ気味で、イベントも縁側でお茶飲みながらゴブリンと話そうみたいな感じになっていた。そんな中で人気を集めたのは族長クラスのゴブリンたちが乗っていた灰色狼で、見た目に反した可愛い鳴き声と穏やかな性格が評判を呼び、ケテルの子供たちに大人気になっていた。灰色狼たちは頭もいいらしく、子供たちがケンカを始めるとそっと間に割り込んで仲裁したり、泣いている子供を頭の上にのせてゆっくりと歩いたり、子育てに悩む若い母親の相談に乗ったりしていた。
季節はすっかり夏の盛りとなり、セミに似た虫の鳴き声がけたたましい。空は高く雲は白く、清々しいんだけどあっついな! 日本の夏より若干湿度が低いのが救いだが、こっちにはクーラーがないからなぁ。トラックはときどきこっそり自分のクーラーつけて涼んでるみたいだが。
一年後にはアフロ王の城にケテルの議長を始めとする要人を迎える約束をしてゴブリンたちは帰っていったんだけど、アフロ王の城ってつまり地獄にあるんだよね? 生きたまま地獄に落ちなきゃならんのか。本当に帰ってこられるのか心配になる。地上に戻る時に「けっして後ろを振り返ってはなりませぬ」とか言われるのかな?
捕縛されていたクリフォトの工作員たちは、まあ百人を超える数がいるんだけども、仔犬が率いていた者たちはアフロ王が【めっ!】で許してしまったこともあり、はっきり言えばケテルは彼らをもてあましていた。【めっ!】の後に仔犬は部下たちと面会して説得し、ひとまず自害を思い止まらせることはできたようだ。それはまあよかったんだけど、無罪放免というわけにもいかず、対応に苦慮した評議会はちょっと驚くような決定を下した。
「クリフォトの工作員たちの管理をグラハム・ゼラーに一任する」
表向き病気療養中だったグラハムは正式に評議会議員を退任し、自らの商会を他者に引き継がせ商人としても引退して完全に評議会の裏方に回る。無論、過去の罪を水に流すわけではないためその行動は常に監視下に置かれることになるのだが、その監視役に抜擢されたのが、また適任というか残酷というか――元衛士隊副長のリェフだった。
「もしグラハムが今後、君の正義に照らして許しがたい行動をとったのなら、君は彼を斬るがいい。それは君の職権であり罪ではない」
ルゼはリェフを議長室に呼んでそう言ったそうだ。それはリェフにとって甘い誘惑であり、悪魔の囁きであっただろう。リェフは公的にグラハムを殺すことを許されたのだ。たとえ私怨によってグラハムを殺したとしても彼は罪に問われなくなった。理由などいくらでも後付けできる。父親を殺した憎い男をいつでも殺せる立場になる。
「……少し、考えさせてください」
リェフはその場での回答を避けたが、結局その話を受けたらしい。どんな気持ちでその役割を引き受けたのかは分からないが、リェフという男の性格を考えればきっと、グラハムを殺す機会を窺っているわけではない、と思う。『正しい裁きを望む』と言っていたこの青年が救われるためにはいったい何が必要なのか、俺には分からない。
グラハムにしてもこの決定は青天の霹靂であったはずだ。死罪は免れないはずが、むしろケテルにとって重要な役回りを与えられてしまった。それは彼の望んだものとは違うはずで、戸惑いは大きいだろう。敵を懐に招くようなマネはケテル評議会議長としても不適切だし、ルゼ個人としても不可解な決断だ。ルゼにとってグラハムは最愛の妻の仇なのだから。ただ――これは俺の勝手な想像なんだけど、ルゼはもしかしたら、グラハムを赦す理由を探していたんじゃないだろうか。ルゼとグラハムはこの十年、評議会議員として共にケテルを支えてきたのだ。彼の罪だけを捉えてこの十年を否定するには、彼らの時間は長すぎたんじゃないだろうか。
年かさゴブリンが大剣使いの戦士に言っていた。憎む気持ちがあると。血を流した歴史は消えるものではないと。だがそれでも、赦すことでしか前に進めないのだと。忘れるのでもなかったことにするのでもなく、赦すことでしか進めないのだと。妻の仇が、父の仇が、憎くないはずはない。愛しいひとの喪失を埋めるものは憎しみしかない、ということもあるだろう。でも、でもね? 喪失を埋める憎しみは消えてくれないんだよ。ずっと苦しいままなんだよ。重くて、辛くて、手放せないんだよ。そりゃ俺だって、妻や娘を殺されたら犯人を憎むし赦さないし何を犠牲にしても必ず仇を取るって思うだろうけどさ! そうなるに決まってるけどさ! でも、生きてるからさ。生きてくからさ。どっかで、手放さなきゃ。憎しみとか、苦しみとか、そういうものは。ちょっとずつで、いいからさ。
大剣使いの戦士はゴブリンたちに赦され裏切りの罪を問われることはなくなったものの、結局冒険者を引退してケテルを離れることになった。ギルド内には戦士の罪が不問に付されたことに対する不満がそれなりにくすぶっており、戦士自身もそれは自覚していたのだろう。ケテルがこれから迎えるであろう困難に対し、内部の不和をもたらしかねない自分の存在を憂慮した彼は、マスターに引退届を提出した。もっとも、辞めたら辞めたでいろいろ言われるのは世の常で、「このケテルの危機に逃げ出すなんて無責任だ」なんて非難されたりもしている。理不尽な話だが、元々戦士はゴブリンたちの護衛が終わったら引退するって言ってたから、単にその通りになっただけとも言える。これからは人里離れた場所に移って家族と静かに暮らすよ、と申し訳なさそうに言って、戦士たち家族はケテルから出て行った。
時を同じくして、短槍使いも冒険者ギルドから姿を消した。マスターが身柄を預かっていたはずだが、どうやら内々に追跡者を統括する幹部との話がついたらしい。マスターは詳細を語ってくれなかったが、とりあえず命は保障されているようだ。彼女はギルドを離れたのか、それとも再び追跡者として名も姿も変えて活動しているのか、それがトラック達に伝えられることはない。ただ『短槍使い』としての彼女が姿を現すことはもうないのだろう。なんか、アレだな。幸せになってくれたらいいけど。
そんなわけで、ケテルは結果的にAランク冒険者を二人、失ったことになる。戦の気配が徐々に強まるこの状況でそれは結構致命的な気がするんだけど、大丈夫なんだろうか。いや、大丈夫じゃないよね。残った奴らでふたりの戦力を穴埋めしないといけない、ということで、トラック達の役目がますます重要になってくるのだろう。もっともトラックは今日も楽しげに配送の仕事に勤しんでいるのだが。
「特級厨師、殿!」
配送中に声を掛けられ、トラックは慌ててブレーキを踏む。キキィー、と地面を削って止まると、見覚えのあるふたりがトラックの前に回り込んできた。ひとりは仔犬で、愛くるしい見た目とは裏腹に油断のならない目をして二本足で立っている。もうひとりは人間で、こいつは確か、トラックをセシリアと引き離すために大剣使いの戦士をダシにして南東街区の廃屋に呼び出した、ちょっと変態っぽい敬語男だな。こいつも処刑を免れたということか。なんか主役になれないみたいこと言ってたから、これを機会に自分の人生を取り戻してほしいものだ。畑を耕せ。土いじりはいいぞ、無心になれるから。
「礼を、言おうと思って、無理を言って外出の許可を得た。あまり時間はないから用件だけ言う」
仔犬はそう言ってトラックに頭を下げた。
「ありがとう。仲間を助けてくれて。殺さずにいてくれて、ありがとう――」
トラックは気負いもない軽いクラクションを返した。敬語男が不快そうに顔を歪める。
「……私は礼など言いませんよ。生かされたとしても、結局我々が誰かに使われる存在であることに変わりはない。クリフォトに使われるかケテルに使われるかの違いしかないのだから」
敬語男がふっと視線を路地の向こうに向ける。そこにいた人影が自然な動作で路地の奥へと入っていった。おそらく監視が付いているのだろう。今、姿を消したヤツ以外にも、そこここから仔犬たちに視線が注がれている。彼らの立場上仕方がないとはいえ、疑いの目に晒され続けていながら「よぅし、頑張ろう!」なんて思えないよねぇ。トラックは敬語男に向き直ると、プァンとクラクションを鳴らした。
「……私に? 何を?」
敬語男は不可解そうな目をトラックに向ける。トラックは【念動力】でダッシュボードから小さな袋を取り出して敬語男に渡した。戸惑いながら敬語男は袋を開けて中を覗き込む。そこにあったのは――その辺で拾ったような小石と雑草だった。ああ、これ、トラック達が敬語男に地下闘技場に呼び出されたときに、事前に牛すじ煮込みの材料を買おうとしたんだけど店が閉まっていて、しょうがないからその辺の石と草でも入れとけってなったアレだわ。まだ持っとったんかい。律儀っていうかもう意味が分からんレベルだけど。敬語男はしばらく袋を覗き込んだまま固まっていたが、やがて無言で思いっきり袋を地面に叩きつけた。仔犬が少し笑って、トラックは残念そうなクラクションを鳴らす。
「……石ころも、雑草でも、袋に入れて大切にすれば宝にもなる、ということか?」
いや、それはたぶん大いに買い被りですよ? そんな深いこと考えてないから。牛すじが買えなかったから石と草でごまかそうとしただけだから。仔犬は袋から飛び出した小石と雑草を拾い、袋に戻して懐に入れた。トラックは真剣なクラクションを鳴らす。仔犬は微笑みを返した。
「心に刻もう。お前のような男がいたことを」
敬語男は「口では何とでも言える」と目を逸らした。時間切れということだろう、仔犬は「では」とトラックに背を向ける。敬語男は仔犬の首輪にリードを付けた。仔犬は四つ足に戻ってちょこちょこと歩き始める。あ、ふたりは意外と仲良し? 雑踏に消えるふたりの背をトラックはじっと見つめていた。
配送を終え、トラックのタイヤは衛士隊詰所に向いていた。詰所の地下には人形師が囚われており、それだけなら別に訪ねる理由もないんだけども、今はここにジンがいる。ジンはドラムカンガー7号の背中のロケットを直すために人形師に弟子入り、というか、技術を盗もうとしているのだ。している、はずなのだが――
「何度言ったらわかる! その配管は分岐したらエネルギー効率が悪くなるだろうが!」
「ここを直接つないだら出力を上げた時に負荷が集中しすぎる! 安全性を犠牲にした性能に意味なんてないだろう!」
「過度に安全性に配慮すれば革新など望めんわ! リスクを負う覚悟がないなら帰れ!」
「ゴーレムを使い捨てみたいに考えているお前の態度が気に食わないんだ!」
おお、今日もヒートアップしておられる。人形師とジンはそもそもゴーレムに対する思想が全然違うため、しょっちゅう意見が対立しているのだ。いつ殴り合いになってもおかしくないくらいの勢いだが、人形師はほとんど自力で動くことができないため物理的な衝突は回避できている。そのことが辛うじて二人の関係を破綻から守っているのだろう。
「いらっしゃいませ。今日も暑いですね」
人形師とジンのことは視界に入らないとでもいうように平然と79号はトラックに話しかけてきた。ゴーレムのはずだが、ひとりで優雅に紅茶を嗜んでいるようだ。一段図太くなった気がするな。まあ人形師に付き合うにはそのくらいのメンタルでないと、ということかもしれないが。
「トラックさん!」
ジンがトラックの来訪に気付いて、人形師とのバトルを中断してこちらを振り返った。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。助手席からミラが降りる。人形師がちらっとミラを見遣り、フン、と鼻を鳴らした。
「あの男をどうにかしてください! 説明がへたくそな上に無駄に偉そうなんですよ!」
「ジンはいつも表現が的確ですね」
人形師を指さすジンを79号が感心したように見つめた。一瞬顔を引きつらせた後、平静を装って人形師は見下した目をジンに向ける。
「自分の無能を棚に上げて師を罵倒するとはいいご身分だな。文句があるならせめて基礎の基礎くらいは修めてから言ってほしいものだ」
「誰が師だ! お前なんてただの踏み台だ!」
ジンがキッと人形師を睨み返す。しかし人形師は憎たらしい余裕の笑みでそれに応えた。どうすれば相手の気持ちを逆撫でできるか、人形師はよく知っているのだろう。相変わらずねじくれた男だ。わずかに苦笑いを浮かべたミラがジンに声を掛けた。
「順調?」
「ほど遠いわ」
勝手に答えた人形師をさらに強く睨みつけ、ジンはミラを振り返る。
「悔しいけど、あいつの言う通りだ。ドラムカンガー族の背のロケットを再現するのは思った以上に難しいみたいだ」
肩を落とし、ジンはうつむいて唇を噛む。ドラムカンガー7号の背を修理できなかったことを未だに気に病んでいるのだろう。人形師はジンのそんな姿をせせら笑った。
「お前如きが容易く成し遂げられると思っていたなら笑わせる。ドラムカンガー族はゴーレムの原型、自然が作り出した奇跡の造形物だ。一部とはいえそれを再現しようというのだから、いわば神に挑むも同じ事よ。そんなことも理解できないなら泣きながら帰るがいい」
ギリリとジンが奥歯を噛む。不意に真顔になった人形師が厳かにジンに告げる。
「我らは神を殺し、神を踏み越える。そしてやがて万物の起源――生命の樹へとたどり着くのだ。真理の探究と世界への深い考察なくして極みに辿り着くことはない。お前はまだあらゆるものが足らんのだ。知識も、知恵も、経験もな」
ジンが小さくうめいた。足りないものがあるということは本人が一番理解しているのだろう。人形師は再び侮りの色の瞳でジンを見下した。
「愚か者め」
かちん、ときたようにジンは身体を硬直させると、まるでスローモーションのようにゆっくりと手を振りかぶり、持っていたスパナを思いっきり人形師に投げつけた。スパナは見事に人形師の額にクリーンヒットし、ゴッ、と鈍い音を立てる。だらだらと血を流しながら人形師は叫んだ。
「何をするこの無礼者が!」
「黙れ!」
ああ、人形師は身体はサイボーグ化してるけど頭は人間のままだったっけ。スパナが直撃してよく平気だなー。良い子はマネしないでね。普通は大変なことになるからね。刑事事件になるからね。
再びケンカを始めたふたりを見て、ミラが「ジン、元気になったね」と感慨深そうに言った。そういえばジンは持病持ちで、以前はよく熱を出していたなぁ。ケテルに来てから結構劇的に元気になった気がするよね。環境を変えたのが良かったのかな?
「ジンの健康管理は私が責任をもって行っています。安心なさってください」
79号はそう言って微笑みを浮かべる。ミラはうなずいて、当分終わりそうにないふたりのケンカを眺めていた。
ケテルは今、うわついた、地に足のつかない高揚に包まれている。不安から目を逸らすような、現実を見ようとしていないような、怯えを隠すための高揚は、少しつつけば一気に崩れ去ってしまう危うさを内包している。崩壊の足音は耳をふさいでも、どうしたって届いてしまうのだろう。少しずつ、やがて一息に。
「……いよいよ、か」
評議会館の議長室にマスター、評議会議員の面々、イャート、そしてトラックが集められ、ルゼが重い口を開く。机の上には一通の手紙。それはクリフォトが内乱をほぼ治めたことを知らせるものだった。内乱を収めたということは、いよいよクリフォトはケテルにその矛先を向けるだろう。戦いの気配がビリビリと肌を刺す。
「他種族の長に報せを。すべての力を集めねば、勝てぬ」
やがて来る終わりの予感を振り払うために、ルゼもマスターも皆も、道を模索するように目を固く閉じた。
「すべての力を集めねば勝てぬ。まずはセイウチ夫人とセバスチャンに連絡を」




