幕間~末弟~
評議会館のゲストルームにふたりの男の姿がある。ひとりは赤銅色の肌をした大柄な美丈夫。もうひとりはそれとは対照的な、人のよさそうな丸顔の男だ。机を挟んでソファに向かい合って座り、リラックスした表情でグラスを傾けている。
「ありがとうございます」
丸顔の男が軽く頭を下げる。明かりのない部屋は窓から差し込む月明かりにわずかに照らされるのみだ。美丈夫が怪訝そうな表情を浮かべた。
「何に対して?」
「まずは、ケテルに出向いてくださったこと」
ふっと笑みを浮かべ、美丈夫は酒をあおる。丸顔の男の持つグラスの氷がカランと音を立てた。
「それから、調印式の後のことも、宴でのことも」
「何かを忖度したわけではない。思った通りに振る舞っただけだ」
やや心外そうに美丈夫は丸顔の男を見る。わかっています、と言いたげに丸顔の男はうなずいた。
「すべてはついでに過ぎぬ。私がここに来たのはケテルとの交易のためでも、友好関係の構築のためでもない。弟に呼ばれたから来た。それだけのことだ」
雲が流れ、窓から差し込む月明かりが強さを増し、ふたりの顔を照らし出す。美丈夫――アフロ王は懐かしそうに目を細めた。
「久しいな、卵焼きよ」
丸顔の男――コメルは親愛の情を浮かべて答える。
「ご無沙汰しております、兄上」
「まったくだ。前に会ったのは何百年前のことだったか。お前の臣下の者たちが嘆いていたぞ。『我が王は一時も玉座に留まることがない』とな」
コメルは苦笑いを浮かべ、ごまかすようにグラスをあおった。
「オムレット公爵もサニーサイドアップ伯爵も、私よりもよほど優秀ですよ。彼らに任せておけば我が国は安泰だ」
そういう問題ではないだろう、とアフロ王は窘めるような視線を向ける。コメルは強引に話題を変えた。
「セフィロトの娘が現れ、『生命の樹』を巡る争いがまた起ころうとしています。百年前と同じように」
アフロ王は不快そうに鼻を鳴らす。
「創世神の差し金か? 相も変わらず悪趣味なことだ」
「創世神が世界に干渉する方法は限られている。やり直しを望んでいる以上、何度でもやるでしょう」
コメルがグラスを掲げ、月明かりにグラスが透ける。グラス越しに見える夜空は像を歪ませ、遠い時間を映し出す。
「創世神は自滅を待っている。あらゆる願いが叶うとき、人は世界をより良いものにしようとするのではなく、欲望を肥大化させ、他者を蹂躙し、己だけが幸福を享受する世界を作り出すと信じている」
そしてそれはあながち間違いでもない。どのようなことでも意のままに為すことができるとき、人は驚くほどに残酷になる。自己の生存に他者が必要ないと知ってしまえば、人は蟻を踏み潰すように他者を殺すのだ。それは過去に幾度も起こったセフィロトの娘を巡る争いで示された事実だった。
「だが、世界が滅ぶことはなかった」
アフロ王の言葉にコメルはうなずく。
「そう、不思議と世界は滅ばない。滅びかけた世界に英雄が現れ世界を救う。あるいは、世界を滅ぼそうとした当人が世界を救う側に回る。局面によって人はコロコロと考えを変える。不合理なほどにね」
それが面白いのだとコメルは笑った。人は見ていて飽きることがない。だから今、自分は人の側にいて、その生を眺めているのだと。グラスに酒を注ぎ足し、アフロ王が言った。
「駄女神の干渉ではないのか?」
創世神と魔王の戦いの裏で暗躍していた駄女神は、理由は不明だが、創世神と魔王の双方を世界から排除しようとしていた。ならば創世神の意図を挫くために干渉し、滅びに向かう世界を救っていたとしても不思議ではない。しかしコメルは首を横に振った。
「駄女神は極力、自らの力を行使しないよう自制している節があります。セフィロトの娘の存在が創世神の差し金だとしても、意思を持つ者である以上、駄女神が自ら介入して世界の在り方を変えようとするとは思えません」
ただ、と言ってコメルは視線を落とした。興味を惹かれたようにアフロ王はコメルを見る。コメルは顔を上げ、思案げにつぶやく。
「……トラック」
「トラック? あの、特級厨師か?」
思いもかけぬ名が出てきたことにアフロ王は声を上げた。コメルはうなずきを返す。
「兄上はあの男をどう思いますか?」
ふむ、と腕を組み、しばし考えた後、アフロ王はやや迷いながら答えた。
「面白い男だ、とは思うが……別段、それ以上に思うところはない」
人とゴブリンに区別を付けず、敵ですらあっさり赦してしまう、独特な価値観を持っている男ではある。そしてその在り方が許されている。ある意味で傲慢な、しかし他者をいつの間にか変えてしまうような、不思議な雰囲気を持つ男だ。しかしコメルが、地獄の六王の一柱が気に掛けるほどの何かを持っているようには見えない。コメルは真剣な眼差しでアフロ王を見つめた。
「私はこの世界で、あのような種族を見たことがない。創世の際に我々はこの世のあらゆる存在を造った。しかしその中にあんなものはいなかった。無論、私が把握していないだけの可能性はありますが」
そういえば、とアフロ王は軽く目を見張った。この世のあらゆる存在を造った『始まりの七霊』である自分たちが知らない種族などないはず、だとしたら、あの男はいったい何者なのだろう。
「おそらく、あの男はこの世の存在ではない」
確信を込めてコメルは言った。ほう、とアフロ王は面白そうに続きを促す。
「あの男は、異界から呼ばれたと私は考えています。駄女神によって、何らかの思惑のために。そうだと仮定すれば、この世の人々とおよそ異なる価値観を持つことも、この世の理を当然のように踏み越えるでたらめな力も、理解できなくはない」
まるであの男の願いを叶えるかのように都合よく授けられる神の恩寵は、異分子に対して世界が理を正しく適用できていないからではないか。本来そこにいるべきでない存在であればこそ、世界はあの男をもてあましているのではないか。セフィロトの娘との運命的な出会いも、彼の周囲に集まる協力者たちも、ただの偶然と片付けるにはあまりにピースが揃い過ぎている。
「駄女神はあの男を使って、間接的に世界に干渉している、と? 何のために?」
コメルは首を横に振った。
「分かりません。なぜ今、これまでの態度を翻して世界に干渉を始めたのか。なぜ、わざわざ異界からあの男を召喚するなどという面倒なことをしたのか。あの男に何をさせようとしているのか」
もっとも、とコメルは笑った。
「トラックさんがむざむざ駄女神の思惑通りに動くような従順な犬であるとはとても思えない。彼は自分の信念に従ってやりたいようにやっている。駄女神が何を考えていようとも、世界のこれからの姿を決めるのは彼や世界の人々の意思なのでしょう」
「ずいぶんとあの男を買っているな」
若干の驚きを込めてアフロ王が言った。コメルは大きくうなずく。
「飽きない男です。あの男が現れてから世界はぐっと面白くなった。ゴブリン族がケテル側につき、クリフォトはもうすぐ内乱を収める。舞台は整いつつあります」
そのために俺を呼んだのか、とアフロ王は呆れ顔で言った。コメルはクリフォトが戦いの準備を終える前にケテルとゴブリン族の関係を確定させ、ケテルが簡単にクリフォトに屈することの無いように画策したのだ。
「お前もセフィロトの娘を巡る争いに参戦か?」
からかうようにアフロ王が言った。まさか、とコメルは笑って否定する。
「私は傍観者ですよ。多少の肩入れはしても、プレイヤーになるわけじゃない。私はただ見たいだけです。人が何を選択し、どう生きてどう死ぬのかをね」
セフィロトの娘を巡る無数の争いの中で、人々はその醜さを嫌というほどさらけ出してきた。しかしただ一度、『生命の樹』がもたらす奇跡の力を我欲に使わなかった例がある。それが百年前、三人の英雄が望んだ一つの願いだった。人間は学ばない。同じ過ちを何度でも繰り返す。だがもし、百年前の奇跡が、あるいはそれ以上の奇跡が起こるなら、それをこの目で見たいのだとコメルは言った。
「バッドエンドは食傷気味なんですよ」
苦笑気味にコメルはつぶやく。同意するようにアフロ王はグラスを掲げた。
卵焼きの異名は『放浪王』。もう何百年も国に帰らず、臣下は半ば諦めています。




