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幕間~先輩~

 南東街区の廃屋に一匹の仔犬の姿がある。夏だというのにフード付きのコートを着込み、まるで顔を見られてはならぬとでも言うように目深にフードを被っていた。

 仔犬の手には一つの法玉がある。クリフォトから支給された最後の、そして最大威力の魔法を封じたものだ。これを発動すれば近隣一帯が吹き飛ぶだけの威力がある。これを使うということはつまり、使用者の死を意味している。


(みんな――)


 仔犬は手の法玉をじっと見つめた。もはや彼に部下はいない。自分を逃がすために、文字通り命を捨てて冒険者に立ち向かったからだ。【サクリファイス】を発動した以上、死神が魂を刈り取らずに済ませるわけもない。彼は独りになったのだ。




 ズォル・ハス・グロールという男に会ったのは、スラムの裏路地だった。犬人でありながら集落を追われ、クリフォトの都に流れてきた彼は、スラムで通りかかる誰かを襲っては日銭を奪う日々を送っていた。意味もなく奪い、意味もなく生きる、頭の中に靄が掛かったような毎日。襲った相手の顔も覚えていない。その頃の彼にはヒトとモノの区別がつかなかった。

 その日も淡々と作業のように通りがかる者を襲った。一人目から奪い、二人目は殺し、少し顔をしかめて、次の獲物を探す。すると、どう考えても場違いに高級な服を着たやせぎすの男が目に入った。


「バカなのか?」


 思わずそう独り言ちる。こんな場所にそんな恰好で歩いていれば襲ってくれと言っているようなもの、むしろよくここまで無事に来られたというべきだろう。ものすごい強運の持ち主、なのかもしれないが、自分に見つかった以上はその強運も尽きた、ということか。

 仔犬は足音を立てぬよう男に背後から近づいた。騒がれれば人が集まる。人が集まればせっかくの獲物を横取りされかねない。手早く片付けて身ぐるみを剥がなければ。服に血がつくと売値が下がる――そんなことを考えながらそっとナイフを抜く。もうすぐナイフが届く距離まで近づく、そう思った瞬間、不意に男が振り返った。


「……が、はっ」


 男と目が合い、なぜか仔犬は息ができなくなった。吸おうとしても吸えない。吐こうとしても吐けない。思わず手を胸に当てるが何も効果はなかった。目が充血し、瞳孔が収縮する。男の目が暗紫色の光を放った。


「汚らわしい獣人めが。この都に貴様のような輩が存在すること自体が許しがたい」


 心の底からの嫌悪と侮蔑を込めた、傲慢で見下すような瞳。その瞳に強く反抗し、仔犬は声を搾りだした。


「……好きで、犬人に、生まれた、わけじゃ、ねぇよ……!」


 男の顔にわずかな興味が浮かぶ。瞳から暗紫色の光が消え、仔犬は呼吸を取り戻した。激しく咳き込み空気をむさぼると、全身から汗が噴き出す。男がわずかに口の端を上げる。


「己の生まれを恨むか。ケダモノのその身を呪うか」


 裁判官のように男は胸の内を問う。仔犬は男を睨みつけた。


「くそくらえ」


 ククク、と男は喉の奥で笑い、楽しげに仔犬を見つめた。


「お前のような者を捜していた。よもや獣人とは思わなかったがな」


 男は無造作に仔犬の首を掴み、その痩せた身体に似合わぬ強力で仔犬を持ち上げる。爪先が地面から離れ、折れそうなほどに強く首を掴まれて、仔犬の顔が赤黒く染まった。


「選べ。この場で死ぬか、私に仕えて私のために死ぬかを」




 仔犬は男に従って生き延びた。男が当時のセフィロト王国の宰相であると知ったのは少し後のことだった。宰相の地位にある男がなぜスラムを独りで歩いていたのかは未だに分からない。しかし仔犬にとってこの出会いは天啓だった。ズォル・ハス・グロールという名の男は優しく囁く。


「お前が必要だ」


 それが都合の良い嘘だということは分かっていた。この男は仔犬の、いや人間以外の種族の命を塵芥の如くにしか考えていない。しかし、それでも――求められている。役に立っている。そう信じることのできる日々は、仔犬にとって得難く、そして手放し難いものだった。誰からも必要とされない日々には戻れない。頭の中の靄が晴れ、世界が鮮明に目の前に現れた気がしていた。

 ズォル・ハス・グロールは仔犬の他にも似たような境遇の者たちを集め、使い捨ての駒としていいように使おうとしているようだった。諜報活動から暗殺まで、おおよそ日の当たる場所にない任務を仔犬たちは担い、大半が死んで、生き延びた者が経験を積み、ますます使い勝手の良い駒となった。激しく入れ替わる顔ぶれの中で、以前に見た顔があれば不思議と安堵し、生き延びた者たちに奇妙な連帯感が生まれる。父母にさえ疎まれ、故郷に捨てられた仔犬が、いつの間にかその中心にいた。


「あんたと組むと生き延びられそうな気がするんだよ」


 幾度も死線を共に潜り抜けた男がそう言って笑った。


「あなたが指示を出して。きっとそれが一番、可能性が高い」


 窮地の最中に揺らがぬ瞳で女が仔犬を見つめた。


 彼らのことを『仲間』と呼ぶのだと気付いたのは、それからしばらく後のことだった。




 もうすぐケテルは夕刻を迎える。ゴブリンは夜行性のため式典は日暮れと共に始まるのだ。すでに町には人が溢れており、皆が新たな歴史の始まりに酔っている。本来ならば門が閉ざされる時刻に今日はケテルの要人たちが集まり、ゴブリンの王を迎えることになっているはずだ。つまりそこでこの手の中にある法玉を発動させれば、ケテルの中枢とゴブリン族の頂点を同時に破壊できる。ケテルとゴブリン族との関係は白紙、どころか一気に戦争状態にまで持ち込むことができるかもしれない。そうなれば、ズォル・ハス・グロールは満足そうに笑うことだろう。


「……無駄死にではない。そうだろう?」


 仔犬は小さくつぶやく。もはやズォル・ハス・グロールへの忠誠などではないことを仔犬は自覚していた。生きる場所を与えてくれた、そのことに対する恩義を忘れたわけではないが、今、仔犬を動かすものはただ、仲間への鎮魂の想いだった。何も成すことなく終わることはできない。生かされた、その責任を果たさねばならない。彼らの命に価値があったのだと証明できるのは自分だけなのだから。

 仔犬は目を瞑る。仲間たちの顔を一人ずつ思い浮かべ、目を開いて、仔犬は立ち上がった。


「やめときなよ」


 不意に背後から声を掛けられ、仔犬は驚愕と共に振り返った。いつの間にか、壁際に置いた小さな椅子に一人の男が座っていた。気配など感じなかった。いつからそこにいた? ケテルの諜報員か? どうやってここを嗅ぎ付けて――仔犬の身体から汗が噴き出す。


「自爆なんぞつまらんぜ? ズォル・ハス・グロールにそこまで義理立てする必要もない」

「黙れ」


 つまらない、という言葉に反応し、仔犬が低くうなる。仲間の死を意味あるものに、その想いを他人に否定される謂れはない。湧き上がる怒りが動揺を鎮め、仔犬は突然現れた目の前の男を観察した。

 年齢は五十代といったところか、短く刈り込まれた黒髪には白髪が混じっている。服から覗く肌の色は赤銅色で、その場にいるだけで場を支配するような静かな覇気をまとっていた。歴戦の勇士然とした雰囲気だが、しかしその印象とは裏腹に、彼が身に着けているのは白い調理服だ。そして何より目を引くのは、その右腕――中身のない袖だけが重力に従って垂れ下がっている。調理服を身にまとう隻腕の勇士、という奇妙なキーワードに仔犬の記憶が反応する。そんな特異な条件に該当する者が一人だけいた。仔犬の顔が徐々に驚きを形作る。


「まさか、初代特級厨師!?」


 ありえない。初代特級厨師は歴史書の人物になって久しい。今、生きて目の前にいるはずがない――いや、一つだけ、可能性があるとすれば――


「……威霊、召喚――!」

「はっきり呼ばれたわけじゃないんで、ちょいと気まずいんだがね」


 男は左手で頭を掻いた。否定しない、つまりはこの男は初代特級厨師なのだ。記憶を失って現世を彷徨っていた冥王を保護し、共に暮らし、記憶を取り戻しかけた冥王の力が暴走したとき、己の身一つでそれを抑え込み、世界を滅亡から救った男。そんな、伝説上の登場人物がなぜ、こんなところに?


「せっかくおいらの後輩が、頑張って頑張って、ようやくたどり着いた祝祭の日だ。水を差さないで欲しい、ってこのささやかな願い、聞き届けちゃあくれないか?」


 男は仔犬に頭を下げる。一見無防備なその姿にはしかし一部の隙も無かった。わずかでもこちらが殺気を見せれば次の瞬間に命を失っているのはこちらだろう。逃げることさえ至難、完全に空間を支配された中で、仔犬は男を鋭く睨んだ。


「断る!」


 生き延びなければならない。生かされてしまったから。成し遂げなければならない。託されてしまったから。伝説の英雄であろうと、神であったとしても、邪魔をするものは絶対に許さない。仔犬の目に激しい炎が揺らめく。男は顔を上げた。


「だが、誤解で命を散らしちゃぁ、残った部下たちが辛かろうぜ」


 仔犬が怪訝そうに眉を寄せる。男はまっすぐに仔犬を見つめた。


「お前の部下は生きているぞ。誰一人欠けちゃいない」


 仔犬の顔が朱に染まり、フードを外して激しい怒りに牙を剥く。


「特級厨師ともあろう者が下らぬ虚言を弄するか! 【サクリファイス】の代償は発動者の命! その摂理を誰が曲げられよう!」


 ごもっとも、と男は苦笑いを浮かべる。信じられぬのも無理はないが、と前置きして、男は笑いを収めた。


「おいらの後輩は、トラックって男は、この世の摂理を捻じ曲げて、通らぬ無理を通すのさ。それが命に関わることであれば、な」


 ありえない、そう言おうとして、仔犬は男の真剣な様子に言葉を飲み込んだ。少なくともこの男は、自分の発言を信じている。ならば、本当に? いや、そんなことは――


「【サクリファイス】の死神を退けたとしても、我らはクリフォトの工作員だ。ケテルに捕らえられれば処刑は免れまい。それに私の部下はおめおめと虜囚の辱めを受け入れるようなことはしない」

「そうなんだよ」


 大きくうなずく男の様子に気勢を削がれ、仔犬が戸惑って言葉の続きを失う。男がわずかに身を乗り出した。


「健気に命を断とうとする姿が哀れでなあ。お前さんが言えば彼らも思い止まるだろう。物騒なもんは捨てて、会いに行ってやってほしいんだわ」


 男の声に偽りは感じられない。本当に、生きている? 皆はまだ生きているのか? いや、敵の言葉を信じるなどバカげている。真実のように嘘を吐くなどいくらでもあることではないか。だが嘘を吐く理由は? 今、私を殺さずにだます必要がどこにある? 信じたい気持ちとすべてを疑う工作員としての本能が葛藤する。男は言葉を繋げた。


「敵だろうが、命を狙われようが、奴にとっちゃどうでもいいことらしいぜ? 信じがたいことだろうが、あいつが気にしているのは、それが『命』かどうかってことだけだ」


 仔犬は揺らぐ瞳で男を見る。命である、ということに何の意味がある? 誰もが命を持っている、だから命などどこにでもありふれている。どこにでもあるものに価値などないだろう。何の意味もないだろう。


「命が、なんだというのだ?」


 男はニッと笑った。


「『命』こそ(・・)、価値だ」


 少なくともトラックはそう信じているのだと男は言った。命に価値がある、ではなく、命こそ(・・)が価値、とはどういう意味だろう? 呆然と立つ仔犬に男ははっきりと言い放った。


「お前さんも、『命』だぜ?」


 言葉の意味を把握するより先に仔犬の目から涙が溢れる。手に持った法玉が床に落ち、コロコロと転がっていった。命が価値で、自分も命なのだとしたら、それは――


「おいらの後輩は、一度助けた命を見捨てるなんて許さねぇよ。だからお前さんは必ずまた部下に会える。迎えに行ってやんな。そんで、望まれる場所で生きるんだ」


 自分に価値などないと思っていた。やがて、誰にも顧みられることなく野垂れ死ぬだろうと思っていた。親にすら見捨てられたのだ。そんな者に誰が価値を見出す? だがもし、本当に、命こそが価値なら、自分が『命』なのだとしたら、自分は――もしかしたら仲間と、大好きな彼らと、生きていくことが赦されるのだろうか?

 仔犬は崩れるように膝をつき、大きな声で泣いた。




 男は立ち上がり、床に転がる法玉を拾うと懐にしまった。


「年を取ると、余計なおせっかいが過ぎるな」


 男は遥か遠い時間を見つめる。


「ズォル・ハス・グロールは未だ百年の妄執に囚われるか。なぁ、後輩よ」


 苦い思いを表情に示し、男はつぶやく。


「お前は、あの男を救えるか?」


 廃屋の仔犬の泣き声が響いている。傾いた日が室内を赤く照らし、伝説の英雄は大気に溶けるようにその姿を消した。

【キッチンカー】は威霊召喚の一種です。

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[一言] サーヴァントキターーー!!!!(大歓喜)
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