赦すことでしか
緊張の面持ちで戦士はゴブリンの一団の前に立っていた。戦士の隣には彼の妻がおり、やはりひどく緊張しているようだ。さらに、戦士とその妻を挟んで剣士とセシリアが並ぶ。名目としては戦士を監視し、場合によっては取り押さえるための要員だが、実質的にそれが必要ないことは理解されている……と、思う。そうでなければゴブリンたちはこの場にいまい。
対するゴブリンたちは年かさゴブリンを中心に、複雑な表情で戦士を見つめている。一度ケテルを裏切り、自分たちを危険に陥れた男。ガートンパパが生死の境をさまよった原因を作り、ゴブリンとケテルの通商を破綻に追い込もうとした男だ。本来ならば決して許すことのできない、即時処刑をケテルに求めるはずの相手とこうして向き合っていること自体が奇妙で、場違いな話かもしれない。
両者の間を取り持つような位置にトラックとルゼが並び、戦士たちとゴブリンたちの双方を視界に捉えている。先生は通訳としてゴブリン側に立っていた。そして、少し離れたところにはルーグと、ガートンとその弟、そして戦士の娘が集まっていた。評議会館の一室――『存在しない部屋』で、トラックは戦士にゴブリンたちへの謝罪の機会を与えようとしていた。
冒険者ギルドを出てすぐトラック達は評議会館に向かい、ルゼに面会してゴブリンたちと戦士の面会をセッティングするよう願い出た。頭を下げるトラックをルゼは見つめ、ルゼはうなずく。
「権力とは通らぬ無理を通す時に使うものだ。お前の権力の使い方は正しい。今、ケテルに特級厨師を失うリスクを負う余力はない」
やられたほうはこの上なく腹立たしいがな、とルゼは苦い表情を浮かべた。
「ゴブリンたちに話をしてみよう。だが結論は保証できん。相手が拒否すればそれで終わりの話だ。それでよいな?」
これ以上の妥協はないとルゼの鋭い眼光が伝えている。充分だ、と言いたげにトラックはクラクションを鳴らし、ついでに、と言うようにさらにクラクションを重ねた。ルゼが眉を寄せて眉間にシワを作る。
「妻子を帯同させろというのか? 何のために?」
ガートンパパは妻子をケテルに連れてきており、今は評議会が客人待遇でその面倒を見ている。だからガートンの家族を一緒に連れてきてと言えばもしかしたら連れてきてくれるかもしれないが――謝罪の場に妻子を連れてきて何の意味があるの? トラックがプァンとクラクションを返す。ルゼは右手で顎を撫でた。
「あざといな。女子供を利用するか。同情を引くような真似が通用する相手でもあるまいが……」
思案げに宙を見つめ、ルゼはわずかに口の端を上げた。
「案外、そういうものなのかもしれぬ。歴史を動かす決断も、理屈ではなく情に左右されるのかもしれぬな」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。できるだけのことはしよう、と言って、ルゼは早速席を立ち、ゴブリンたちのいる部屋へと向かった。
『存在しない部屋』は窓のない無機質な部屋で、そこにいるだけで圧迫感を覚える。戦士とその妻もそれは同様のようで、落ち着かなさそうに浅く呼吸をしている。ゴブリンたちが厳しい視線を戦士に注ぐ中、ガートンパパの妻、つまりはガートンママは戦士の妻をじっと見つめていた。子供たちも場の緊張を感じ取ったのかおとなしくしている。ただ、大人たちと違って戦士の娘とガートンたちの間に距離はないようだった。子供たち四人は不安そうに身を寄せて大人たちを見ていた。
ルゼの提案に対し、ゴブリンたちは一日回答を保留し、彼らの中で話し合ったようだ。賛成も反対も意見が出たようだが、最終的には提案を受け入れるということで一致を見た。ただし、彼らはルゼに条件を一つ提示してきた。
「赦すことを前提とはしない。場合によってはこちらに身柄を引き渡していただく」
面会が形式的なものになることをゴブリンたちは拒んだ、ということなのだろう。直に戦士に会い、その上で『赦せない』という結論に至った場合は、戦士の処分をゴブリン側に委ねよというのが面会を実現する条件なのだ。ルゼはその条件を飲んだ。ルゼにとって戦士はただの裏切り者に過ぎず、ケテルの法に基づいて処刑してもよいと考えていたはずなので、ゴブリン側に身柄を引き渡したとしてもまるで痛くない。ゴブリンたちの体面を保ち、トラックに恩も売れる。ゴブリンたちの結論がどちらになろうともルゼに損はないのだ。かくして両者の思惑は一致し、翌日にはゴブリンたちと戦士の面会が実現する運びとなって、現在に至る。
トラックがプァンとクラクションを鳴らし、戦士が裏切るに至った背景を説明し始めたようだ。クリフォトの工作によってゴブリン・ケテル間の通商関係構築の阻止が企図されたこと。その企ての中でゴブリンたちの護衛として重要な役割を担うべき冒険者ギルドのAランカーが調略の対象となったこと。戦士の妻子が人質に取られたこと。敵の狙いはAランカーの裏切りを露見させることによってゴブリンとケテルの間に拭えぬ疑心を生じさせることだったこと。たぶんそういったことをトラックは淡々と、自身の感情を交えずに説明しているのだと思う。分からんけど。全然違ってたらごめん。
「弁解の余地はありません。あなたがたの命を危険に晒し、ケテルとゴブリン族の未来を破壊しようとした。そうなることを承知で裏切った。謝って許されることではないが、本当に、申し訳ありませんでした」
戦士が深く頭を下げる。彼の妻も同様に頭を下げた。戦士の娘が不安そうにこぶしを握る。「大丈夫だ」と言ってルーグが娘の右手を取る。ガートンの弟が心配そうに娘の左手を握った。ガートンが弟の左手を取り、四人は互いを支えるように手をつないだ。
年かさゴブリンは頭を下げた戦士の姿をじっと見つめ、口を開いた。
「ごぶごぶ」
うん、ゴブリン語だね。ごめん、わからないね! 助けて先生! すぐに通訳して! すかさず先生が同時通訳を開始する。
「裏切りを赦さぬのは、おそらく人もゴブリンも同じだろう。それは、裏切りによって破壊されるのが財や命だけでなく、信頼だからだ。疑心が不和を生み、不和が信頼を蝕む。信頼が失われた集団はやがて瓦解する。そうではないか?」
ひどく落ち着いた口調で年かさゴブリンは諭すように言葉を紡いでいる。頭を下げたままの戦士の身体がわずかに震えた。
「裏切りに正当な理由があるだろうか? やむを得ぬ事情があれば、我らは裏切りを赦さねばならないだろうか? 再び妻子を人質に取られたら、あなたはまた我らを裏切るのだろうか?」
戦士は奥歯を噛み、何も言うことができずにいる。通訳している先生も辛そうに顔を歪めていた。ぐうの音も出ない。ゴブリンの言っていることが正論過ぎて反論できない。赦してもらうなどとんでもない、ゴブリンたちの戦士に対する処罰感情はこちらが思っていたよりもずっと強いらしい。戦士の妻がぎゅっと目を瞑る。子供たちがつないだ手を強く握った。息苦しい沈黙が『存在しない部屋』を支配する。しばしの時が過ぎ、年かさゴブリンはトラックに顔を向けた。
「……思えば、始まりはあなただったな」
年かさゴブリンの顔から感情を読み取ることはできず、何を言わんとしているのか想像するのは難しい。トラックは静かに次の言葉を待つ。
「あなたが剣でなく言葉を携えて我らの前に現れてから、人とゴブリン族の未来が変わった。何百年も、いや、創世以来ずっと、我らと人の間にあったのは血と憎しみのみであったというのに、あなたはそこに言葉をもたらした。言葉は、信頼を生んだ」
年かさゴブリンは再び戦士を見る。
「血と憎しみで成し得ぬことが、言葉と信頼によって成し得る。この一年足らずの時間で我らはそのことを知った。未来を創る力とは、言葉と信頼なのだ。ゆえに――」
年かさゴブリンは戦士に近づき、その肩に手を置いた。
「我らはあなたを、赦そうと思う」
戦士とその妻は顔を上げる。戦士を見つめる年かさゴブリンの目に優しさや労りはない。
「勘違いしないでほしい。あなたを憎む気持ちがある。あなただけではない、人を憎む気持ちがある。それだけの歴史を積み重ねてきた。あなたもまた、その歴史の一つだ」
甘い期待を打ち砕く厳しい言葉が戦士を打つ。年かさゴブリンは言葉を続けた。
「だが、変わらねばならないのだろう。今、赦すことでしか、望む未来に辿り着けない。憎しみを、恨みを、なかったことにするのではなく、赦すことでしか、前には進めないのだ、きっとな」
年かさゴブリンは子供たちを振り返る。戦士もつられてそちらを見た。子供たちは不安に耐えながら身を寄せ合っている。
「あれが、未来だ。あれを未来とせねばならぬ。だからあなたを赦すのだ。そのことの意味を、よく考えてほしい」
戦士が床に膝をつき、目を閉じて頭を下げる。戦士の妻もまた平伏した。ガートンママが戦士の妻に近づいてその背をさする。年かさゴブリンが初めて表情を柔らかくした。
「裏切りは赦せぬ。だが、『裏切りは赦されぬ』という理由で妻子を見捨てるような者を信頼することなどできぬと、私はそうも思うのだよ」
戦士の目からボロボロと涙が溢れ、床に落ちた。ルゼが確定判決のように告げる。
「多くの尽力と厚情によってお前は生かされた。それにどう報いるか、これからのお前の生でお前は示さねばならない。忘れるな。お前は生かされたのだ」
はい、と涙混じりの声で戦士が絞り出すように答えた。誰かが長く深いため息を吐く音がして、部屋を包んでいた緊張が緩んだ。剣士とセシリアが顔を見合わせて微笑む。ガートンの弟がおそるおそると言った感じでガートンに耳打ちした。ガートンは苦笑しながらうなずく。戦士の娘がガートンを振り返った。
「もう遊んでいい? って」
ガートンの弟は期待に満ちた目で戦士の娘の手を引っ張る。少し戸惑いながら、戦士の娘は笑った。
この子供たちの姿が未来だ、と年かさゴブリンは言った。それを実現させるのも、夢と消えてしまうのも、大人たちのこれからに掛かっている。ルゼは戦士に「これからの生で示せ」と言ったが、これからの生を問われているのは皆も同じだ。子供たちがはしゃぎはじめた様子を見つめ、トラックは誰にも聞こえぬ小さなクラクションを鳴らした。
クリフォトの工作を何とか乗り越え、裏切った戦士をゴブリンたちが赦したことで、ケテルとゴブリンたちとの関係はむしろ深まったようだった。通商の開始を祝う式典の日取りは変えられることなく、厳重な警備体制を再構築して準備は急ピッチで進められた。ゴブリンたちはケテルの住民に少しでも良い印象を持ってもらおうと、式典のプレイベントに精力的に参加している。クリフォトの工作員の残党狩りも積極的に行われ、もはや何か事を起こすことができるほどの勢力はないように思われた。大々的に行われた『ゴブリンの皆さん大歓迎』キャンペーンは奏功し、ケテルの人々のゴブリンへの意識は改善の方向に向かっている。瞬く間に時間が過ぎ――
ケテルはついに、式典の当日を迎えた。
ゴブリン、子供が目の前にいると良識的にふるまっちゃう説。




