名と命と
部屋の中がざわめく。幹部の男が言葉を失った。マスターが思わずといった様子で立ち上がる。椅子の足が床を削った。
「やめてくれ! お前が頭を下げる理由はない!」
大剣使いの戦士は悲鳴のような声を上げる。特級厨師という、冒険者ギルドの最高位にある男が裏切り者のために頭を下げた、その事実がギルドメンバーを混乱させていた。
「軽々しく頭を下げるんじゃない! その背に負う名の重みを知らぬわけじゃあるまい!」
マスターの戸惑いを含んだ叱責が飛ぶ。しかしトラックが頭を上げることはなく、床を見つめたままクラクションを返す。マスターは首を横に振った。
「重みを知るならなおさら、今、ここで頭を下げるべきじゃないはずだ。特級厨師の立場を濫用すれば、その名は瞬く間に価値を失う」
トラックはさらにクラクションを鳴らす。幹部の男は鋭くトラックを見据えた。
「掟は意味なく定められているわけではない。必要によって作られ、有用であるがゆえに存続してきたのだ。その歴史の重みを、特級厨師たるお前は理解せねばならない。一時の感情で蔑ろにしてよいものではない!」
幹部の男の主張はギルドメンバーのざわめきを収束させた。裏切りに死を、という掟が存在する理由を、皆それぞれに実感しているのだ。冒険者は金で命を懸ける仕事だ。ならば敵からそれ以上の金を提示されたとき、冒険者はどうふるまうべきか? 金だけを基準にすれば裏切って当然、ということになりかねない。冒険者に求められるのは金額に見合った成果を上げること、だけではなく、一度引き受けた依頼に誠実であること。裏切りに死を、は決してただの罪に対する罰の規定ではなく、冒険者のあるべき姿の一端を示している。それゆえに、どのような事情があったとしても掟を軽んじることはできない。掟を軽んじることは冒険者という存在の自己否定に等しいのだ。
――プァン
トラックは感情を抑えたクラクションを返した。収まったはずのざわめきが再び広がり、マスターと幹部の男が唖然とした表情を示す。幹部の男は正気を疑うような視線でトラックを睨みつけた。
「ふざけるな! 掟を変えろ、だと!? 誰かの都合でコロコロ変わる掟を誰が尊重するというのだ!」
怒声を黙って受け止め、トラックは顔を上げる。おそらく真剣な眼差しで幹部の男を見据え、覚悟のこもったクラクションを鳴らす。幹部の男が怪訝そうに眉を寄せた。
「……取引?」
トラックは静かに、しかしはっきりとしたクラクションを鳴らす。幹部の男が息を飲み、マスターが激しく机を叩いた。
「バカなことを言うなトラック! 特級厨師の称号を返上するなど、軽々しく口にしていいことじゃねぇだろうがっ!!」
悲鳴に近いマスターの叫びをかき消すようにトラックは強くクラクションを鳴らした。しかしその音をさらに打ち消すように幹部の男が怒鳴る。
「特級厨師の名の価値を、お前は理解していない! その名にどれほどの期待が、希望が託されているのかを分かっていない!! 裏切り者の命ひとつのためにお前はそれらをすべて投げ出すというのか!!」
――プァンッ!!
名が負う重みもその価値も振り払って、トラックのクラクションが部屋の空気を震わせる。その迫力に皆は口を閉ざし、ただ「なぜそこまで」という疑問をトラックに注いだ。トラックは再び頭を下げ、祈るようなクラクションを鳴らした。
「トラック……すまん。すまん――!」
戦士が床に膝をつき、涙を流して額を床にこすりつける。集まったギルドメンバーの誰もがトラックの主張を受け止められないでいるようだ。受け入れるでも受け入れないでもなく、何が正しいのか判断しあぐねている。それは掟の正しさを信じてきた今までの自分と、掟を踏み越えてでも命を優先するトラックの懸命さとの葛藤なのだろう。この男がそうまで言うのなら、そこには自分たちの知らなかった真実があるのではないか――皆は今、自己の価値観を揺さぶられているのだ。
「……特級厨師の返上など、俺の一存では決められん。ケテルの評議会にも話を通す必要がある。この場で結論は、出せん」
うめくように、マスターは辛うじてそう言葉を搾りだした。幹部の男は奥歯を噛み、しかし異論を唱えることはない。どこかほっとした雰囲気が部屋に広がる。今、ここで結論を出さなくてよくなったことに皆は安堵したのだろう。結論を出す、ということは、命の価値を再定義する、ということなのだから。
床に伏して泣き続ける戦士にセシリアと剣士が歩み寄り、その身を起こした。イヌカが深く息を吐いて椅子に落ちるように座る。苦悩をはらんだ声でマスターが『裁定』の散会を告げた。
トラックが『裁定』で主張したことはギルド内に静かに波紋を広げることとなった。トラックの評価はおおむね二分され――いや、肯定的な評価は少なく、大半が『特級厨師の名を使って無理を通そうとした』と理解されている。特級厨師がただの冒険者ギルドの称号ではなく高度に政治的な存在であることは周知の事実で、それを承知でトラックは言わばギルドを恫喝したのだ。言うことを聞かねばお前たちは特級厨師を失うことになるぞ、それで困るのはお前たちの方ではないのか、と。トラックの真意はどうあれ、ギルドメンバーはそう思っている。
だが一方で、トラックの言ったことは全くの不条理である、と切って捨てられているかというと、必ずしもそうではない雰囲気も感じる。トラックは今まで、ギルドに登録してから今日この時までずっと、敵も味方も、誰一人殺してはいない。にも拘わらず多くの仲間を救い、敵を退けている。その強さと一貫した態度が、ギルドメンバーの意識を知らず変えようとしている。
もしかしたら、命というものは我々が思っていたよりも重いのかもしれない
敵であっても、裏切ったとしても、弱くても、役に立たなくても、命は命であることそのものによって価値を持つのかもしれない。奪ってよい命などないのかもしれない。金で、欲で命を扱ってはいけないのかもしれない。今までそんなことを考えたこともなかったけれど、殺し殺される世界が当たり前だと思っていたけど、トラックが――あの男が違うと言っている。殺さず、殺されず、互いを尊重する世界が絵空事ではないと言っている。
トラックの言うことを皆が信じているわけではないだろう。だが、信じたいと思っているギルドメンバーは決して少なくなさそうだ。みな戸惑い、互いに「どう思う?」と囁きあいながらも、トラックを冷笑する者はほとんどいなかった。
「うおぉぉぉーーーっ!!」
興奮冷めやらぬ様子でルーグは虚空に拳を繰り出していた。どうやらじっとしていられないようで、意味もなく動き回っては天に向かって吠えている。
「やっぱりアニキは最高だぜっ!!」
冒険者ギルドのロビーの隅にある丸テーブルにセシリアと剣士、そしてトラックが陣取り、ルーグはその前を行ったり来たりしている。腕を畳んで前かがみになり、感無量だとばかりにルーグは目を瞑って足をバタバタさせた。トラックが呆れたようにクラクションを鳴らす。しかしルーグの耳にはまったく届いていないようだ。
「名と命と! どちらが大切かなど考えるまでもない!」
妙に真面目くさった顔を作り、背筋を伸ばして、芝居がかった様子でルーグは言った。これは、トラックのマネ、だろうか? セシリアが思わずといった様子で吹き出し、口を手で覆って目を逸らした。ルーグは床にごろごろと転がる。
「くぁぁぁーーーーっ! かっこいいーーーーっ!!」
床は木の板なので、ごろごろ転がったら痛そうだが、ルーグが気にする様子はない。トラックが呆れたようにクラクションを鳴らす。剣士が同意するようにうなずいた。
「幸せを望む心を、否定してはならない」
再びルーグが立ち上がり、トラックのモノマネを披露する。勘弁して、と言うようにトラックはクラクションをつぶやいた。ルーグは悶えるように身をくねらせる。
「おれは改めて思ったね。一生アニキについていくってさ!」
ルーグは『裁定』の傍聴をしていないはずだが、どうやら傍聴していた誰かから『裁定』の内容や顛末を聞いたらしい。ほんの少し前には裏切った戦士を詰るようなことを言っていたが、戦士の事情も耳に入ったのだろう、今は戦士を糾弾する言葉はなく、ただトラックのカッコよさに酔っている感じだ。裏切りを強いられた、という点でルーグも戦士も似たような境遇であり、トラックが戦士を救ったことでどこか自分も救われたような気がしているのかもしれない。
特級厨師返上についてはすぐに結論が出ず、マスターは頭を抱えながらルゼと協議しているようだ。協議がまとまるまでの間、戦士はマスター預かりのまま留め置かれることになったらしい。とりあえずは処刑とかって話にはならなさそうでよかった。
追跡者だった短槍使いについては特に公式なアナウンスはないが、こちらも今のところマスターが身柄を預かっているようだ。任務の失敗は追跡者の死、というのが掟だと彼女は言ったが、追跡者そのものがギルドの裏側の存在であり、それにまつわる掟というのも明文化されている類のものではない。つまり、任務に失敗した追跡者は死ななければならないという掟は『存在しない』。マスターはそう強弁して彼女の処分を拒否しているらしい。短槍使い自身はどこか気が抜けたようにぼんやりと日々を過ごしているとのことで、今は生きていることだけでよしとすべきだろう。
はしゃいでいるルーグの様子をギルドメンバーは呆れたように、あるいは複雑な表情で見つめる。トラックがキャビンを向けると彼らは視線を逸らし、足早に立ち去って行った。簡単に理解など得られない。命が薄紙のように失われる世界で生きてきた彼らに、その価値を実感しろと言っても無理なのだ。戦士の裏切りによって命を脅かされたゴブリンたちは戦士を許してくれるだろうか? 捕縛したクリフォトの工作員たちをルゼは生かすだろうか? あり得ない、だがその『あり得ない』をトラックは覆そうとしているのだろう。セシリアがトラックに微笑みを向け、剣士がこつんと拳をキャビンに当てた。
さて、と言うようにトラックはハザードを焚き、ゆっくりと動き始める。「どこにいくの?」と駆け寄るルーグにプァンとクラクションを返し、トラックはギルドの出入り口へと向かった。セシリアと剣士がトラックに並ぶ。無理を通すために今必要なのは、力ではなく言葉だ。奇跡を呼び寄せる言葉を届けるために、トラック達は日が傾き始めたケテルの町へと出て行った。
そしてトラック達はアネットの許を訪ねると、平伏して言いました。
「アネゴ、お願いしやすっ!」




