共に
気が付けばすでに夜は明け、太陽は容赦なく世界の輪郭を描き出している。【フライハイ】で空を飛んだトラックはそのままケテルの外壁を越え、一目散に施療院へと向かった。施療院は朝の静寂の中にあり、トラック達がセシリアを助けに行く前と状況は変わっていないようだ。感染の第三波はなんとか乗り越えたと言っていいのだろう。もっとも感染が人為的なものである以上、いつ第四波が起こるかは敵の胸先三寸ということになるのだが。
トラックのエンジン音に気付いたのか、ミラが施療院から外に出てきた。助手席から降りたセシリアを見て、ミラは駆け寄って抱き着く。
「お姉ちゃん!」
きっと恐ろしかったのだろう。もしあのままセシリアが戻ってこなかったら、セシリアが死んでしまったら――そんな恐怖に耐えながら迎える夜明けは、心細くて冷たい。胸に縋って泣くミラの頭を優しくなでながらセシリアは目を細めた。
「ごめんなさい。心細い思いをさせてしまって」
ミラは強く首を横に振る。ミラを追ってか、施療院の扉が開いて院長が姿を見せた。
「無事じゃったか」
心からの安堵を示した院長が微笑む。ご心配をおかけしました、と小さく頭を下げ、セシリアは表情を改めた。
「状況は?」
「今は落ち着いている。ミラが頑張ってくれたおかげでな」
セシリアが仔犬に連れていかれた後、搬送される患者の数は徐々に少なくなっていったのだという。つまり仔犬は一応、セシリアとの約束を守ったということだ。律儀と言うべきか――いや、おそらくはセシリアの誘拐に人員を割いたため、ゴブリン病の原因菌を撒く者がいなくなった、というあたりが真実なんじゃないかな。一人でも犠牲者が出たら許さない、というセシリアの脅しがあったとしても、クリフォトの工作員が一般人に犠牲が出ないよう配慮するとは考えづらい。
「私もお手伝いを――」
言いかけたセシリアの言葉の続きを遮るように院長は首を横に振った。
「いや、君は冒険者ギルドに戻りなさい。ここにいては、また敵が現れた時に君を守り切れん」
敵の狙いがセフィロトの娘である以上、セシリアをここに留まらせておけば再襲撃は充分にありうる。また攫われてしまったら非常につらいよね。もう一回ナカヨシ兄弟に馬車馬に変身してもらわなきゃいかんことになるもの。セシリアは言葉に詰まる。泣いていたミラが顔を上げた。
「私に任せて。お姉ちゃんはトラックと一緒にいて」
セシリアから離れ、自らの手で涙を拭って、ミラはしっかりとセシリアを見つめた。セシリアの顔に迷いが浮かぶ。セシリアが施療院に関わりがある、ということは敵に知られているのだから、施療院にセシリアがいなくても襲撃される恐れはある。セシリアを従わせるための人質として。
「ならば我らがこちらに残ろう」
「うむ。力仕事なら役に立てよう」
トラックの荷台から出てきていたナカヨシ兄弟がふたりの会話に口を挟む。うーむ、確かにナカヨシ兄弟が残ってくれたら施療院は安心だが、ナカヨシ兄弟は患者の治療はできないからなぁ。なおも悩むセシリアに剣士が言った。
「院長の言うことに従った方がいい。今度は、助けられないかもしれない」
妙に思いつめたような剣士の言葉はセシリアの心を揺らしたようだ。『悪魔』の力を使って前回はセシリアを救出したわけで、力を失った剣士にはもうズルはできない。惰眠王の言った通り、剣士は人間としてできる範囲で戦わなければならないのだ。
「……わかりました」
しばらくの逡巡の後、セシリアは小さく息を吐いた。
「ワシらも一から十まで君らのスキルに頼っておるわけにはいかん。ゴブリ……ドゲンナー・モンカ・ワカレヘン病に対する有効な薬をいろいろ調べておってな。ある程度の目星はついたところじゃ」
おお、そうなのか。さすが院長。あの修羅場の最中でも次を見据えて行動していたんだな。院長は目尻のシワを深くした。
「君らにすべてを背負わせはせん。ワシらを信じてくれ」
セシリアが「あっ」と小さく声を上げ、そして「申し訳ありません」と消え入りそうな声で言うと、わずかに赤くなった顔で頭を下げる。勝手に一人で背負おうとしていた自分に気付いたのだろう。院長は優しく首を横に振った。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。
「ああ。ゴブリンたちのことも気になる。いったん評議会館に戻ろう」
セシリアがうなずき、しかしなお心配そうにミラを見つめる。ミラは力強くうなずきを返した。ナカヨシ兄弟が自信に満ちた笑みを浮かべる。
「安心めされよ。我ら兄弟、必ずや皆を守ろう」
「この約束、命に代えても守ってみせようぞ」
トラックがたしなめるようなクラクションを鳴らす。たぶん『命に代えても』という部分が気に入らなかったのだろう。おっと、とヨシネンがバツの悪そうな顔になった。ナカノロフがフォローのように声を上げる。
「命を捨てるつもりはない。あなたが死ねと言わぬ限り、我らは生きてあなたのために刀を振るう所存」
誰が死ねなんて言うか、という抗議めいたクラクションをトラックは鳴らす。なんだかよくわからないやり取りに皆が笑った。トラックはミラのほうに向きを変えてプァンとクラクションを鳴らす。ミラは「任せて」とうなずき、
「今度こそ……」
と決意をつぶやいた。セシリアを頼むと言われ、果たせなかったことを気にしているのだろう。でも、そんなに思いつめないで。工作員が襲撃に来るなんて想定外だし、トラックが頼むって言ったのは別に敵から守れって言ったわけじゃないからさ。
「では」
迷いを振り切るようにセシリアが促し、トラックは助手席と運転席のドアを開けた。剣士が運転席側に、セシリアが助手席に乗り込むと、ドアを閉めて【フライハイ】を発動する。巻き起こる風がミラの髪を弄ぶ。ナカヨシ兄弟は髪がないから風の勢いに目を細めるだけだ。車体がふわりと浮き、挨拶の代わりのようにミラたちの頭上で一度輪を描くと、トラックは評議会館に向けて飛んで行った。
評議会館の周囲はギルドメンバーによってがっちりと固められ、猫の子一匹入る隙間もない、という言葉の意味を実感させてくれる。公園での襲撃で空からの攻撃があったこともあり、会館を半透明な結界が覆い、朝日を反射してきらきらと輝いていた。見た目はきれいなんだけどなぁ。戦いへの備えだと思うとそのきれいさがむしろ複雑に思える。結界に阻まれたトラックは会館前の道に着陸し、警戒中のギルドメンバーにプァンとクラクションを鳴らした。ひとりのAランカーがほっとしたような、苦しそうな表情でトラックに近づく。
「ごくろうさん。大変、だったな」
おそらく彼は大剣使いの戦士と短槍使いのことをすでに聞いているのだろう。彼らのことはイヌカがいい感じにしてくれているはず、だからいきなりふたりとも処刑なんてことにはならないと思うんだけど、ちょっとどうなったのか教えてくんない? トラックがプァンとクラクションを鳴らす。Aランカーの男は少しだけ表情を緩めた。
「死んじゃいないよ。詳しいことはマスターに聞いてくれ」
男は脇に退いて門の向こうを示した。評議会館の門は結界の中への入り口でもあるようだ。門が開くと同時に結界も大きく口を開ける。トラックは男にお礼のクラクションを鳴らすと、急いで門をくぐった。トラックが通り過ぎると同時に門は閉められ、結界も陽光を乱反射しながら口を閉じた。
評議会館のロビーに入ると、ちょうどマスターがルゼと話しているところに出くわした。話の切れ目だったのだろう、マスターもルゼもトラックを振り返る。
「トラック! ちょうどいいタイミングだ」
マスターの顔もルゼの顔も、疲労はあるものの思いのほか明るい。何かいいことでもあったのだろうか? ルゼは襲撃を受けたゴブリンたちと今後について話し合いをしていたはずだが、それがいい結果になったということだろうか? 剣士とセシリアがキャビンから出て、トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ルゼが大きく頷いた。
「式典は予定通り実行する。ゴブリンの王をケテルに迎え、新たな時代の到来を宣言する。ゴブリンたちはそう言ってくれた」
そ、そうなの!? よかったじゃん! はっきり言ってもう完全にダメかと思ったよー。剣士とセシリアがホッと表情を緩める。しかしよくゴブリンたちも決断してくれたねぇ。王に危害を加えられたらケテルとゴブリンたちは全面戦争になる、みたいなこと前に言ってた気がするけど。トラックはやや聞きづらそうにクラクションを鳴らした。ルゼはかすかに苦笑いを浮かべる。
「私の功績ではないよ。子供らのおかげだ」
公園でアネットが言った言葉――ガートンの友であり、まだ見ぬ多くのゴブリンの友でありたい、という言葉は、ゴブリンたちの心を大きく動かしたのだという。ケテルの子供たちが示した「共に歩む」という意思が、ゴブリンたちの進む道を決めた。年かさゴブリンはルゼに、
「我らは使節である前に戦士である。もはや守られているばかりではおられぬ。ケテルとゴブリン族の未来のため、我らはケテルと共に戦う用意がある」
とまで言ってくれたのだそうだ。ガートンパパが撃たれた時は「ケテルはゴブリンを守り切れず、信頼は失われた」と言っていたのと比べると真逆の反応である。つまりはそれほどに、アネットの言葉はゴブリンたちの心を掴んだのだ。
へへっ、やっぱアネゴはすげぇや。ついにはケテルを救っちまった。おれっち、死ぬまでアネゴについていきまさぁ!
「そうまで言われて、ケテルが覚悟を示さぬわけにはいかぬ。潜伏するクリフォトの狗を一掃し、必ずや式典を成功させてみせる」
ルゼの口調には迷いを振り切った力強さがある。大国であるクリフォトと一都市に過ぎないケテルの軍事的非対称を思えば、ケテルの代表としてのルゼは全面的な対決を避けたいという思いがどこかにあったはずだ。しかし今、ルゼはそれを振り払った。戦うという覚悟を決めたのだ。
「お前さんが工作員たちを大量に捕縛してくれたのはまさに天の配剤だった。是が非でも口を割らせて残りの奴らも一網打尽にしてやるさ」
マスターが物騒な笑顔を浮かべる。ずっと守勢を強いられてきたフラストレーションをぶつける先が見つかって喜んでいるようだ。工作員たちがちょっと憐れに思えてくるな。冒険者ギルドが手ぬるい方法で口を割らせるとは思えないし、それに工作員たちを束ねていたあの、ちょっと変態っぽい敬語男はさ、自分たちのことを「成功を期待されていない端役」みたいなことを言ってたんだよね。なんかさ、こう、もうちょっとさ、いいことあるよって、言ったげたい気もするんだ。工作員なんかやめて、畑耕せってさ。
トラックは声を潜めるようなクラクションを鳴らす。マスターはトラックに近づき、顔を寄せて小さく囁いた。
「……ふたりの身柄は俺が預かってる。ルーグのときみてぇなマヌケは晒しゃしねぇよ」
それだけ言うとマスターはすぐにトラックの側から離れた。ああ、きちんとイヌカから話は伝わっているんだな。そしてマスターは彼らの味方をしてくれているのだ。ちょっとホッとしたよ。問答無用で死刑、てなことにならないみたいで。
ルーグのとき、というのは、かつてルーグが南東街区のマフィアであるガトリン一家の一味だったときに、それを隠して冒険者ギルドに潜入してトラックを罠にかけて殺そうとしたことを、つまりギルドを裏切ったときのことを指しているのだろう。あのときはイャートの手回しによって他のギルドの幹部連中に先に裏切りの事実を知られてしまい、ルーグを擁護する有効な手立てを講じることができなかった。その苦い経験を踏まえて、今回はいち早く自分でふたりの身柄を確保したのだろう。もっとも、いくらギルドマスターといえど掟を蔑ろにするような決定はできない。マスターが時間稼ぎをしてくれている間にこっちでどうにかしないと、早晩ふたりの命は失われてしまう。トラックはカチカチとハザードを焚いた。
「旦那様」
会館の奥からコメルが現れ、ルゼに近寄って何事か耳打ちした。ルゼは表情を引き締めると、マスターに向き直る。
「尋問の準備が整った。冒険者ギルドの調査部、衛士隊、商人ギルドの監査部で手分けをして対応する。何か情報を得られたら速やかに共有をお願いする」
マスターは大きくうなずいた。ルゼはトラック達を見回す。
「何かわかり次第、君たちには動いてもらう。ここで待機していてほしい」
承知しました、セシリアが答え、それに同意するようにトラックがクラクションを鳴らす。剣士は【なんでもない剣】の柄に手を触れた。ルゼは満足そうにうなずき、
「始めるぞ」
そう言って背を向け、評議会館の奥へと歩いていく。マスターがルゼに続いた。そちらに拘束されたクリフォトの工作員がいるのだろう。コメルはトラック達に会釈すると、やはりルゼを追って会館の奥に体を向けた。
「さて」
コメルは周囲に聞こえぬくらいの小さな声でつぶやく。
「少々ルール違反だが、そろそろ、飽きたかな」
その瞳が縦に細く窄まり、暗紫色の不吉な色に染まった。
コメルは最近、カラーコンタクトにハマっています。




