なんでもないもの
――ぱちぱちぱち
惰眠王の拍手が『無限回廊』の壁に反響する。悪魔の消えた回廊の向こうを見つめていた剣士が、力が抜けたように座り込んだ。
「見事。正直、本当にできるとは思っておらなんだわ」
惰眠王の顔には素直な称賛がある。リスギツネが剣士に駆け寄ってその手を舐めた。剣士は表情を緩め、リスギツネの頭を撫でる。
「持っているものを手放すということは存外、難しいものじゃ。それがどんなものでも、憎んでいるものであってもな。それを成したは充分に誇れるものぞ。胸を張るがよい」
剣士が惰眠王を見る。その表情に変化の実感はない。本当に悪魔はいなくなったのか、完全に信じることはできていないようだ。まあそれはそうだろう、生まれた時からずっと一緒にいたのだ。まったく望んだものではないとしても。
「信じられぬか? ならばこの惰眠王が保証しよう。お主は今、ギフトを克服した!」
惰眠王は力強く宣言する。その言葉は沁み込むように広がり、剣士の顔が少しずつ高揚していく。叫びたくなる衝動を抑えるように、剣士は天井を仰いで目を瞑り、深く長い息を吐いた。生まれながらに負った過酷な運命を乗り越え、彼は今、自分の生を取り戻したのだ。
「久々に眠気が覚めたわ。よいものを見せてもらった。何よりあのクソ親父の姑息な思惑を挫いたかと思うと愉快でならぬ」
心底楽しそうに惰眠王は意地の悪い笑みを浮かべた。トラックが不思議そうなクラクションを鳴らす。惰眠王は意外そうに振り返った。
「なんじゃ、知らんのか? 魔王と、地獄の六王と呼ばれるワシらは、元々は神の創世を手伝うために作られた、いわば初期メンバーじゃ。ゆえにワシらから見れば神は父親、ということになる。まあ、控えめに言ってロクデナシじゃがな」
思い出すのもおぞましい、と言いたげに惰眠王は顔をしかめる。しかしすぐに満面の笑みに戻り、もうこらえきれないと笑う。
「あの悪魔はな、神が作った自分の影じゃ。それも、ワシらに気付かれぬよう極めて力を抑えて、裏口から入れる大きさに縮小した出涸らしみたいな奴。そうまでしてようやく、実無限に隔離された世界からこの世に干渉することができるようになったと思った矢先にさよならじゃ。さぞ向こうで怒りに身悶えしとるじゃろと思うと、こんなに愉快なことはないわ!」
かっかっか、と惰眠王は胸を逸らせて笑った。剣士は戸惑いを惰眠王に向ける。自分を苦しめていた悪魔が神の影、と言われてもピンとこないようだ。これ以上説明する気はないのか、惰眠王はひとしきり笑うと表情を改め、剣士を見据えた。
「悪魔の力を失いお主は人に戻った。じゃがそれは、もはや無敵でも万能でもなくなった、ということでもある。お主は都合よく人の領分を超えることができなくなった。お主は人のまま、セフィロトの娘を巡る争いに身を投じねばならぬ」
セフィロトの娘、という言葉に剣士の表情が引き締まった。惰眠王の目が試すようなものに変わる。
「お主が望むなら褒美を一つ、くれてやってもよい。我が宝物庫にある剣じゃ。うまく使えば過酷な運命に抗う一助となろう。じゃが、力に呑まれれば望みを叶えることはできぬ」
惰眠王が剣士に向かって手をかざす。剣士の目の前の空間が青白く光り、パリパリと弾けながら、一振りの長剣が姿を現した。見覚えのあるそれは確か、さっき短槍使いがトラックにその刃を向けた、【惰眠王の刻命剣】――
「強い力は呪いと同じ。悪魔も魔剣も本質は変わらぬ。それを知ってなお力を必要とするなら、その剣を取るがいい。呪いを未来とするか滅びとするかはお主の器量と知れ」
厳かな惰眠王の言葉が重く響く。惰眠王の宝具は人には過ぎた力だ。ようやく悪魔から解放された剣士に新たな力を与えるというのは酷なんじゃなかろうか。トラックが気遣うようなクラクションを鳴らす。剣士は中空に浮かぶ長剣を見つめ、覚悟を決めたように手を伸ばす。リスギツネがクルルと鳴き、惰眠王が憐憫をその顔に示し、剣士が長剣の柄に手を触れ――
――ぶぶーっ
『サブスクリプション契約中のため、【惰眠王の刻命剣】は所有権を移動できません』
「しもうたっ! まだ契約が残っとった!」
惰眠王は慌てた様子で「ちょっと待て別の出すから」と言うと、ポッケに手を入れてゴソゴソと中身を探り始めた。しかしなかなか目当てのものが見つからないのか、鍋のフタやらけん玉やら、おおよそガラクタとしか思えないようなものばかりが飛び出してくる。なんかアレだな。めっちゃ焦った猫型ロボットみたいになっとる。
「こ、これならどうじゃ!」
ようやくそれっぽいものを見つけたのか、すごくホッとした顔で惰眠王が刀を天に掲げた。しかし無情なサウンドエフェクトが惰眠王の安堵を打ち砕く。
――ぶぶーっ
『サブスクリプション契約中のため、【惰眠王の斬月刀】は所有権を移動できません』
「これもかっ!」
ちょっぴり涙目になりながら惰眠王はポッケをまさぐる。
「ならばこれで!」
――ぶぶーっ
『サブスクリプション契約中のため、【惰眠王の果物ナイフ】は所有権を移動できません』
「だったらこれじゃ!」
――ぶぶーっ
『サブスクリプション契約中のため、【惰眠王の百均で売ってるパイナップルを切るアレ】は所有権を移動できません』
どんだけサブスク契約しとんだ惰眠王。果物ナイフとかパイナップルを切るアレとかまで出してるけど需要あんの? そして剣士の過酷な運命に抗う一助となる武器として授けられるのがパイナップルを切るアレだったらすごく嫌なんですけど。セフィロトの娘を巡る争いに身を投じる剣士の手にはパイナップルを切るアレ。……無理じゃぁーーーっ!! どうやって運命に立ち向かおうってんだ、パイナップルを切るアレで!
動揺が収まらない惰眠王にリスギツネが近づき、ひどく冷めた目で蹴りを入れた。「ごめんって!」と言いながら惰眠王はポッケに手を入れ、何かに手が触れたのか、ぱっと表情が明るくなる。しかしそれをポッケから引き出すと、すごく微妙な表情になった。よりによってこれかぁ、という残念さが全身から滲み出る。
「もうこれくらいしか!」
無念そうにそうつぶやいて惰眠王は剣を掲げた。ぴんぽん、という間の抜けた音が響き、機械的なアナウンスが聞こえる。
『【惰眠王のなんでもない剣】の所有権を移動しますか?』
惰眠王が心底安心したように深くため息を吐いた。【惰眠王のなんでもない剣】はその名の通り、ひどく飾り気のない武骨な長剣のようだ。刃に魔法の輝きがあるわけでもなく、いかにも数打ちという趣で、あまりに特徴がなさ過ぎてむしろ不気味な感じさえする。惰眠王は剣士に剣を差し出す。剣士は受け取ることに若干の戸惑いがあるようだった。
「これは、どんな?」
「ただの長剣じゃ。何の変哲もない」
剣士の問いに惰眠王は即答する。いや、ただの剣じゃ、じゃないよ。普通の剣もらってどうしろってんだ。運命に抗うための武器じゃなかったのかよ。コンセプトがずれてるよ。
「この剣はな、ただの長剣なんじゃ」
いま聞いたよ。なんで同じこと繰り返してんだ。惰眠王はひどく真剣な様子で言葉を続ける。
「この剣はなんでもないんじゃ。まだ、何者でもない。可能性だけがあり、何も実現してはいない」
何も実現していない? 剣士が理解できないというように眉を寄せた。
「お主が憎しみで振るえば、この剣は憎悪の剣になる。怒りで振るえば憤怒の剣に、慈しみなら慈愛の、虚しさなら空虚の剣になる。振るう者次第で最強にもなまくらにもなる、それがこの【なんでもない剣】じゃ」
お、おお、実はすごい剣だった、のか? いまいちよくわからんのだけども。使い込むと成長する剣、ってことでOK?
「何一つ保証してはくれぬ剣じゃ。実用性を求めるなら選ぶべきではない。じゃが、他のあらゆる剣で為し得ぬことが、この剣ならばできる、かもしれぬ。白紙にあらゆるものを描くことができるようにな」
剣士はじっと【なんでもない剣】を見つめる。
「さあ、どうする? 白紙に描く絵が拙ければ何一つ為し得ぬ剣となろう。お主自身の意志が、覚悟が問われる。これはそういう剣ぞ」
剣士は手を伸ばし、触れることをためらうように手を止める。惰眠王の瞳は答えを示さずに淡々と剣士を見ている。地獄の六王の一柱に『覚悟が問われる』なんて言われて、そうそう容易く「いただきます」なんて言えないよね。剣士は目を閉じ、目を開けて、大きく息を吸って、【なんでもない剣】を手に取った。
「悪魔の力を失ってなんでもなくなった俺には、ちょうどいい剣だろうさ」
惰眠王が厳かにうなずく。無機質なアナウンスが承認を告げる。
『【惰眠王のなんでもない剣】の所有権の移動が完了しました。以後この剣は【カイのなんでもない剣】と呼称されます』
惰眠王が手を放し、【なんでもない剣】は剣士の手に収まった。立ち上がって重さを確かめるように軽く剣を振り、剣士はぽつりとつぶやく。
「……普通の、剣だな」
「そう言っとるじゃろが、ただの長剣だと」
ひとの話を聞け、とばかりに惰眠王は軽く剣士をにらむ。剣士は【なんでもない剣】の刃に映った自分の顔を見つめた。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。惰眠王はトラックを振り返って首を横に振った。
「礼はいらぬ。そも、お主らには借りがあるでな」
借り? 惰眠王に? 今まで何か関わりがあったっけ? トラックが疑問形のクラクションを返す。
「ウチの長男と五男と七男が世話になっとるじゃろ。特に長男が」
惰眠王は記憶を呼び起こすように目を細めた。
「ハル、という名前な。本当に喜んでおった。あれほど嬉しそうな魔王をワシは見たことがない」
ハルの名にトラックは前のめりにクラクションを鳴らした。惰眠王はまた首を横に振る。
「それは言えぬ。それに言っても意味がない。ワシが魔王の居場所を伝えても、お主がその場所に辿り着いた時にはもうそこに魔王はおるまい」
ぐぬぅ、というようにトラックはハザードを焚いた。惰眠王は冷淡に告げる。
「お主は己の力で魔王に追いつかねばならぬ。たとえワシの力を借りて魔王の許に辿り着いても、魔王の心をこじ開けることは叶うまい。お主が力を示さねば、守らずともよいと信じさせねば、お主は『ハル』を取り戻すことはできぬ」
あやつは何でも背負いこむ性質じゃからのぅ、と惰眠王は薄く苦笑いを浮かべた。もっと頼ってくれたら、その背を少し預けてくれたら、きっと違う道もあったろうに、と思っているようだ。トラックはハザードを消し、強く短いクラクションを鳴らした。
「お主は不思議な男よの。期待しておるぞ。魔王もいい加減、幸せになっていいころじゃろ」
プァン、とトラックは力強くクラクションを返した。満足そうに微笑み、惰眠王は「さて」と言ってパチンと指を鳴らす。
「そろそろワシは眠たいんじゃ。お主らも用事は済んだじゃろ? とっとと帰れ。昼寝の邪魔じゃ」
さっき惰眠王が開けていた異界の扉に吸い込まれるように風が吹いた。風は徐々に強くなり、トラック達を扉へと追いやる。やがてトラック達の身体が浮き上がり、一気に扉へと吸い込まれていった。気を付けてと言うようにリスギツネがクルルと鳴き、惰眠王の朗らかな声がトラック達の後を追う。
「じゃあの。弟たちに会ったら、たまには顔を見せにこいと伝えてくれ」
プァンというクラクションを残し、トラックは異界の向こうへと姿を消した。
異界を凄い速さで通り抜け、トラック達は仄かな明かりの向こうへと一気に飛び出した。異界は一歩踏み外せば二度と戻れない危険な場所だけに、惰眠王は確実に送り届けてくれたということなのだろう。虚空に開いた異界の入り口からポーンと投げ出されたトラック達の眼下に見覚えのある風景が広がる。そこはケテルから南に続く街道の途中、つまりセシリアが『無限回廊』への扉を開いたその場所にトラック達は戻ったのだ。
「トラックさん!」
顔を上げてセシリアが叫ぶ。その声に皆の視線がトラックに集まった。セシリアの横には彼女を守るように刀を構える血塗れのナカヨシ兄弟がおり、その周囲には一匹の仔犬に率いられた工作員の群れ――
セシリア再襲撃されとったーーーっ!!
な、なんつー奴らだ! 悪魔から守ってもらっていったん逃げたはずなのに、悪魔がいなくなったら早速戻ってきたのか! こっの恩知らず! まゆ毛犬!! 確かにセシリアが「生きていれば、次の機会はある!」って言ったけども! 手のひら返し過ぎだろうが!
「戻ってきたのか――!」
仔犬が口惜しそうにトラックをにらむ。トラックと剣士はセシリアとナカヨシ兄弟をかばうようにその隣に降り立つ。工作員たちが気圧されたように包囲の輪を広げた。
「去ねぃ! もはや貴様らに勝ち目はない!」
「我ら兄弟を崩せなんだ貴様らに、さらに特級厨師と剣士を相手にする余力はあるまい!」
ナカヨシ兄弟が上げた気勢に工作員たちが動揺する。トラックがダメ押しのようにプァンとクラクションを鳴らした。退けば見逃す、退かぬなら、覚悟を決めろ。静かな恫喝が工作員たちの戦意を奪っていく。
「――退け!」
感情を噛み殺し、うめくように仔犬が叫んだ。同時に幾人かの工作員が法玉を地面に叩きつけ、転移魔法の光が視界を覆う。光が晴れた時、工作員の姿はきれいに消えていた。
はぁー、と気が抜けたように長い息を吐き、ナカヨシ兄弟が地面に座り込む。剣士がややバツの悪そうにセシリアを振り返った。セシリアは胸の前で自らの手を握る。
「戻って、きちまった」
「戻ってもらわなければ困ります」
咎めるようにそう言ったセシリアの目から涙がこぼれる。
「よかった――」
無事でよかった、戻ってきてくれてよかった、そう何度も繰り返しながらセシリアは子供のように泣く。どうしていいかわからないように「すまなかった」と謝る剣士を、トラックとナカヨシ兄弟が見守っていた。
記念すべき二百回目を彩るゲストは、ナカヨシ兄弟のお二人でした! みなさんどうか盛大な拍手を!




