目的
「――セフィロトの娘は今、どうしていますか?」
その言葉を聞いて、剣士の顔から一気に血の気が引いた。決定的に間違ってしまっていた、そのことに今、気付いたのだ。男が愉快そうに嗤っている。剣士は男に駆け寄り、襟首を掴んで引き上げた。怒りの眼差しを向ける剣士に男は侮蔑で応えた。
「どんな勇者も英雄も、その場にいる者しか救えない。ここに来た時点でお前たちは負けていたんだ。痛快じゃないか。たった五人に百人で立ち向かって勝てない私たちが、お前たちを出し抜いたんだ」
剣士が襟首を掴む手に力を込める。つま先が浮き、男は苦しげにうめいた。
――プァン!
トラックがクラクションを鳴らす。ギリリと歯噛みして剣士は男を突き飛ばした。壁に背を打ち、男は力なく座り込む。剣士は扉の脱落したトラックの助手席に飛び乗る。トラックがエンジン音を鳴らした。
「……何も変えられはしない。世界が壊されようと、生命の樹が新たな理を結ぼうと、一握りの強者が世を統べ、我らが使い捨てられることに変わりはない」
男の乾いた哄笑を背にトラックはアクセルを踏む。絡みつく笑い声を振り払い、トラック達は地下闘技場を後にした。
西部街区の施療院はひどく沈んだ空気に包まれていた。スタッフは忙しく働いているが、患者が続々と増えるような事態にはなっていないようだ。感染はピークアウトした、ということだろうか。以前のように患者の苦しげな息遣いが聞こえるでもなく、切迫した様子はないというのに、この暗い雰囲気はなんなのだろう。
「ミラ!」
スタッフと共に患者の処置をしていたミラを見かけ、剣士が声を掛ける。ミラは顔を上げ、ボロボロのトラックに驚いて駆け寄ってきた。かざした手から真白の光が溢れ、トラックを包む。光が晴れた時、トラックは新車同然の姿に戻っていた。プァン、とトラックはお礼のクラクションを鳴らす。ミラは首を横に振り――その両目から涙がこぼれる。
「……ごめん、なさい。ごめんなさい」
泣きながら謝るミラの足元で、リスギツネが心配そうにクルルと鳴く。剣士は感情を抑えるように静かに言った。
「何が、あった?」
涙を手の甲でぬぐい、しゃくりあげながら、ミラはトラック達と別れた後に起きたことを話し始めた。
トラックから【肺洗浄】をコピーし、セシリアとミラはスキルを使って続々と運び込まれる患者を治療していた。治療しても治療しても患者の数は一向に減らない。トラック達が施療院を離れて一時間ほどが経ち、感染は爆発的に広がっていた。すでに第三波が始まっているのだ。
「セシリア、来てくれ! 意識障害を起こしている!」
「解熱剤が足りません!」
「治療が終わった人にはベッドを空けてもらえ!」
スキルで対処できる人数を遥かに超える患者が押し寄せ、スタッフたちはその対処に忙殺されている。しかも患者の容態はまちまちで、来た順番に治療すればいいというものではないのだ。重症の患者を先に治療すれば先に来た患者の不安と不満が溜まる。患者やその家族がパニックを起こせば、事態はもう収拾がつかなくなる。コップから水があふれる、そのギリギリで、セシリアたちは辛うじて均衡を維持している。
――ヒャン
バタバタと患者の間を走っていたセシリアの足元で仔犬が鳴いた。思わず立ち止まり、セシリアは驚いた様子で仔犬を見下ろす。近くにいたミラも振り返って犬を見た。犬を施療院の中に入れるなどあり得ないが、この混乱の中で紛れ込んでしまったのだろうか? 近くにいたスタッフがその存在に気付き、慌てて仔犬に駆け寄った。
「こら、ダメだろ、入っちゃ」
スタッフはしゃがんで仔犬を抱えようと手を伸ばす。仔犬は逃げるでもなく、スタッフには目もくれずにセシリアを見上げていた。スタッフが仔犬に触れる、その寸前、彼の首に鈍く光る刃が当てられた。
「……え?」
スタッフの動きが止まり、その額に冷たい汗が滲む。スタッフに剣を突き付けたのはまだ若い女だった。女はひどく冷たい目でスタッフを見ている。その瞳は命に何の価値も見出していないと伝えていた。つまり、動けば殺すという意思表示。
「動くな」
静かな恫喝が施療院に響く。患者に紛れていた招かれざる客たちが一斉に剣を抜き、スタッフたちの動きを制した。周囲の人々から悲鳴が上がり、にらまれて口を閉ざした。慌ただしかった空間が不意に静止し、患者たちの苦しそうな呼吸の音だけが聞こえる。
「ここは病を治療する場所じゃ! 何が目的か知らんが、治療の邪魔をするな!」
院長が眼光鋭く侵入者をにらみつける。仔犬は院長を振り向き、不快そうに鼻にシワを寄せた。
「すぐに出ていきますよ。目的を果たせばね」
よっこらしょ、と若さのない掛け声で二本足で立つと、仔犬は満面に嫌な笑顔を浮かべ、慇懃な態度でセシリアに頭を下げた。
「お迎えに上がりました。アウラ殿下」
セシリアの瞳が宝石を思わせる冷たく硬い色に変わった。ミラが戸惑った様子でセシリアを見る。
「……そんなことのために、これほどの人を巻き込んだと?」
「貴女様にはそれだけの価値がありましょう。セフィロトの娘には」
悪びれもせず答える仔犬をセシリアは鋭く凍えるような視線で射抜く。しかし仔犬はまるで動じていないようだった。
「私の価値を知っているなら、私がお前たちをその存在ごと消し去ることができるということも理解しているはず」
「もちろん」
淡々としたセシリアの声音はその言葉を実行するに躊躇わぬと伝えている。そして仔犬もまた、それが虚勢でないと知りながら平然としている。
「貴女様にとって我々は塵芥に等しい。しかしあなたが我々を消し去るまでのわずかな間に、何もできぬわけでもない」
スタッフに剣を突き付けていた女がわずかに刃を動かした。スタッフの首の皮が浅く裂かれて血がにじむ。スタッフが恐怖に震え、小さく悲鳴を上げた。
「はてさて、貴女様が我々を全員殺すまでの間に、我らは何人殺せますかな? これは競争だ」
楽しげにさえ聞こえる声で仔犬は周囲を見渡す。命の価値を認めぬ視線にさらされた幾人かの患者の家族が固く目を閉じてうつむいた。仔犬が再びセシリアをひどく冷酷な目で見つめる。わずかの間、切り結ぶような視線を交わして、セシリアは小さく息を吐いた。
「……覚悟が足らぬと、笑われてしまうか」
うつむいて目を閉じ、顔を上げ目を開いたとき、セシリアの表情は心を覆う硬い仮面を被っていた。
「いいでしょう」
仔犬は顔を歪めて満面の笑みを形作った。セシリアは仔犬に向かって足を踏み出す。ミラが駆け寄ってセシリアの袖を掴んだ。
「お姉ちゃん!」
ミラの近くにいた、剣を持った小太りの男がミラに刃を向け、仔犬の視線に制止されてさがった。セシリアはそっと袖を握るミラの手を外し、微笑んで頭を撫でる。
「みんなをお願いね」
「待って! 私だって――」
ミラの言葉を遮るように、セシリアは膝を床について抱きしめる。
「あなたまでいなくなれば、みんなを救えない」
耳元でささやいたその言葉がミラを縛った。ミラの目から涙がこぼれる。その涙をそっとぬぐい、セシリアは立ち上がった。
「参りましょう」
大仰な仕草で仔犬は施療院の入り口を指し示す。セシリアは仔犬の隣に並び、入り口を見据えたまま言った。
「命の一つも失われたなら、それがお前たちの終わりの時と心せよ」
「それは貴女様の御心ひとつかと」
無表情の仮面を被ったまま、セシリアは施療院を出る。仔犬がその後に続いた。
「お姉ちゃん!」
背を追うミラの涙声に、セシリアが振り向くことはなかった。
語り終え、ミラが泣いている。無力と後悔に唇を噛み、両手をぎゅっと握って。
「……ごめんなさい。私、言われていたのに。お姉ちゃんを頼むって、トラックに、言われてたのに――」
トラックはプァンとクラクションを鳴らす。ミラは強く首を横に振った。
「――守れなかった――!」
どんな勇者も英雄も、その場にいる者しか救えない。工作員の男の言葉が蘇る。守れなかったというならトラックも同じだ。敵の目的を見誤り、セシリアの傍を離れた。敵の目的は最初からセシリア、つまりセフィロトの娘だったのだ。
いや、それは結果論、なのかもしれない。敵の目的はセシリアだった、のではなく、セシリアでもあった、というべきなのだろう。セフィロトの娘の確保は敵の目的の一つ、それも優先度の高い目的であったことは間違いない。だがそれは敵がゴブリンとケテルの関係を壊そうとしたことを否定するものではない。敵はゴブリンとの通商を阻止したかったし、特級厨師を抹殺もしたかったし、セフィロトの娘を攫いもしたかったのだ。ただ、セフィロトの娘の確保が叶えばそれ以外は諦めて構わないと思っていた。他の目的に拘泥してセフィロトの娘を取り逃がすことだけは避けようとした。だから優先順位の低い計画をトラックとセシリアを引き離す伏線としても使ったのだ。計画そのものの成否は、成功すればそれに越したことはない、その程度の意味合いだったのだ。
蒼白な、感情を失った氷のような無表情で、剣士はつぶやいた。
「……どう、しようか、トラック」
わずかにかすれたつぶやきは、呼びかけながら返答を期待してはいない。
「俺たちのお姫様が泣かされちまったぞ。俺たちのお姫様が、さらわれちまったぞ」
淡々とした声音が臓腑の怒りを圧縮する。
「どうしようか、なぁ、トラック」
震える手で強く拳を握り、
「……どうして、くれようか――」
剣士の瞳が、鮮血を思わせる赤に染まった。その輪郭がぼやけ、闇色の靄が身体から立ち上る。めきめきと音を立てて皮膚が、髪が、硬質な何かに変質していく。禍々しい気配にミラは言葉を失い、周囲から恐怖の悲鳴が上がった。
鋭く伸びた両手の爪を空間に突き立て、剣士は一気に左右に引き裂く。断末魔のような甲高い音を立てて異界の入り口が開いた。
「セシリアを助けたら」
異界の入り口に足を掛けた剣士が動きを止め、振り返らずに、ノイズ混じりの不穏な気配をまとった声で言った。
「……俺を、殺せ、トラック!」
返事を待つことなく剣士は異界へと身を躍らせる。戸惑いのクラクションを鳴らし、閉じ始めた異界の入り口にトラックは慌てて飛び込んだ。
次回、トラック無双の重大な謎が一つ、明らかになるとかならないとか。
……セバスチャンの論文の中身かな?




