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幕間~夢の価値~

 ケテルの西部街区、その住宅街の一角に、一見ごく普通の平屋がある。隣家との間にはほぼ隙間がなく、本来は一軒の家を建てるべき土地に無理やり二軒押し込んだような、ひどく窮屈な木造の狭小住宅。もっとも、この辺りの家は皆、そんなものだ。

 窓に厚手のカーテンを引き、外からの光を遮断して、灯りのない部屋の中心に、イヌカは座っていた。ここはイヌカが使っている隠れ家の一つ。ギルドメンバーの誰にも、マスターにさえ伝えていない、ギルドの調査部員としての活動拠点だ。調査部に所属する者はほぼ例外なく、こういった自分だけの拠点――巣、と呼ばれる場所を持っている。

 板間に直接あぐらをかき、手に独特の印を結んで目を閉じ、イヌカは小さく何事かをつぶやいている。その額にはじっとりと汗が滲み、顔色はひどく悪い。その手に触れれば生きていることを疑うほどに冷たいだろうと思うほどに、彼の肌は血の気を失っていた。

 やがてイヌカの身体から、ぼうっと仄かに光を放つ球体が遊離し始める。一つ球体が体を離れるごとに、イヌカから存在感が失われていく。イヌカは苦しげに眉を寄せた。しかしつぶやきを止めることはない。次々と球体を吐き出し、その数が二十七になったとき、イヌカはつぶやきを止め、大きく息を吐いた。


【隠形鬼・割魂の法】


 スキル【隠形鬼】を極めることで得られる究極の業。自らの魂を分かち、己の分身を作り出す外法だ。ただ分身を作るだけなら【影分身】に代表される別のスキルがあるが、それらとの決定的な違いは、割魂の法で作られた分身は自律思考する、という点にある。他の分身技は術者が作り出した分身をすべて自身でコントロールする必要があるが、このスキルで生み出された分身は自らが術者と同じように考えて行動する。術者が寝ていようと、別の何かに集中していても、あるいは死んだとしても、分身たちは術者本人の思考パターンを正確になぞって動く。それを可能にするのが魂の分割――このスキルは、術者の魂の一部を分身に与えることによって、いわば本人を複製するのである。ただし【影分身】のように実体を持つわけではなく、ゆえに分身に戦闘能力はない。隠れ、忍び、情報を集めることこそこのスキルの本領なのだ。

 イヌカは目を開き、虚空を見つめる。夜のとばりはすでに降り、雲に覆われたケテルは照らすもののない闇の中にある。闇は敵の姿を隠し、自分たちの心を蝕もうとしている。(しるべ)なき闇に人は耐えられないものだ。だが逆に、ほんの小さな灯でも、それがあるだけで人は闇に耐えることができる。


「……あいつは、光だ」


 トラックという男が現れて、ケテルは、いや、この世界は変わった。ほんの一年前のケテルは今よりもずっと殺伐として冷淡な町だった。マフィアに拾われた子供が生きようが死のうが誰も関心を払わない。裏切り者の助命など鼻で笑われて終わる。それはおそらく十年前であっても二十年前であっても、百年前でも同じだっただろう。だが今、ルーグは許され、冒険者として生きることを許されている。トラックの存在がそれを実現させたのだ。かつては考えられなかった、誰もが考えもしなかった変化を、あの男が起こしている。

 百年前、ケテルを作ったのは、真顔で堂々と理想を語る男だったという。当時世界は、人と妖精と妖魔が互いに憎しみあい、殺しあう戦乱の最中にあった。そんな時代にその男は他種族融和を掲げ、世の冷笑をものともせず、それを成し遂げたのだ。イヌカはトラックにその男と同じものを見出していた。

 トラックは命を何よりも大切にする。悪であろうと、罪を犯そうと、命を奪ってはならないと言う。声高に主張することはなくても、行動で、たたずまいでそれを伝える。悪は殺せ、過ちを犯した者は排除しろ、それが当たり前のこの世界で、トラックは真正面からそれを否定する。そしてそのことが、少しずつ、この世界を変えていく。


――裏切らざるを得ない状況に彼を追い込んだこの世界をこそ恥じるべきだ


 妻子を人質に取られた戦士を救うためにイヌカに協力を求めた時、トラックはそう言った。責められるべきは戦士ではない。彼の妻子を誘拐した者たち、そして彼の妻子の誘拐を許したこの世界のすべてが責めを負うべきなのだと、トラックはそう言ったのだ。

 イヌカは確信する。トラックこそがケテル創建の英雄を継ぎ、世界を新たな段階へと押し上げる男なのだと。戦士が救われることでこの世界はまた少し変わる。裏切りには死を、その当たり前を壊し、過ちが許され、生きなおすことが赦される、そんな世界の到来が近づく。だから今、失敗するわけにはいかないのだ。トラックの征く王道は、すべてを救いながら進む道なのだから。

 分身たちがゆらめき、闇に溶けるように姿を消す。二十七体もの分身を作ったことは今までにない。今のイヌカの力で可能な最大数――この広いケテルでたった二人の人間を探すにはとても充分とは言えまいが、イヌカには自信があった。以前から調査部として内偵を行ってきたのだ。人質を監禁できる場所の絞り込みはある程度できている。


「……夜明けまでに片を付ける」


 そうつぶやき、イヌカは激しくせき込んだ。口に当てた右の手のひらがべったりと赤く塗れる。魂を分割して分身を作れば、それだけ本体に宿る魂は減る。魂を引きはがされた体の一部が血を流している。


「あいつの夢には、命を懸ける価値がある」


 割魂の法で作った分身には一つ特殊な力がある。それは、本体と分身の場所を瞬時に入れ替えることができる力だ。分身が人質を見つけたら、場所を入れ替えて急襲し人質を救出する。血に濡れた右手を握り、強く決意の光を瞳に湛えて、イヌカは闇をにらみつけた。

どんな苦労も、どんな決意も、イヌカがトラックに語ることはない。

密やかにトラックを支える。それがイヌカの矜持なのです。

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― 新着の感想 ―
[一言] >――裏切らざるを得ない状況に彼を追い込んだこの世界をこそ恥じるべきだ 間接的にとはいえ、初めてトラックの台詞が明文化された( ˘ω˘ )
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