歴史に刻む一歩
無事にノブロの式典参加の約束を取り付け――と言っても実質十割ヘルワーズの功績でトラックは何もしていないのだが――トラックは南東街区を後にした。時刻はすでに昼を過ぎ、汗ばむような日差しが降り注いでいる。行き交う人々の服装もすっかり薄着で、木陰で休む人の姿もちらほら見えた。穏やかな日常の風景は切迫した戦の雰囲気とは無縁だ。しかし実際には、クリフォトの脅威はひたひたとケテルに忍び寄っている。
ギルドに戻ると、セシリアとミラがトラックを出迎えてくれた。「おかえりなさい」と微笑むセシリアにトラックはプァンとクラクションを鳴らす。ミラは少し心外そうに口を尖らせた。
「無理なんてしてない。ひとりでだいじょうぶなのに」
ミラが退院した後、彼女の面倒はセシリアが見ている。ミラが身に宿した『始原の光』はなかなか扱いが難しいものらしく、『核』の出力が安定したとはいえまったく安全とまでは言い切れない状況のようだ。セシリアはミラを見守りつつ、力の制御の方法を教えているらしい。
「過信してはいけません。あなたに宿った力は決してあなたに優しくはない」
セシリアは真剣な表情でミラを見つめる。むう、と口を尖らせながら、ミラは渋々といった様子でうなずいた。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。セシリアが表情を緩めた。
「ゴブリンと友好関係を結ぶなんて、百年前にケテルを作った英雄にも為しえなかったこと。未だに信じられない思いです」
感慨深げにセシリアはそう言った。今から百年前、この地は人間と妖精、妖魔が入り乱れて相争う戦乱の時代だったのだそうだ。しかしあるとき三人の英雄が現れ、長く続く戦乱に終止符を打った。三人の英雄のうちのひとりはケテルを作り、ひとりは他種族の指導者となり、最後のひとりはセフィロト王国の女王となった。三人はそれぞれの立場で種族融和の実現のために力を尽くしたのだそうだ。しかし一部の妖魔と一部の人間は彼らの言葉に耳を貸さなかった。ゴブリンはその耳を貸さなかった種族のひとつ、というわけだ。もっとも、言葉が通じないのだから耳を貸すも何もなかったのだろうが。
「ゴブリンたちを味方にできれば、ケテル周辺から他種族の敵対勢力はほぼいなくなります。そのことの意味は大きい。クリフォトの侵攻に対する牽制にもなるはずです」
少し声を落として、セシリアは半ば自分に言い聞かせるようにつぶやいた。ケテルに味方する勢力が増えればクリフォトはケテルを攻めづらくなる。もしかして侵攻を諦めてくれるかも……というのは虫が良すぎだろうか? いや、でも実際、クリフォトにとってケテルの重要性はどの程度なのだろう? 武力を用いて奪わなければならないほどの価値がケテルにあるのか、正直その辺りがあんまりピンと来てないんだよね。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。セシリアは表情と声を明るくしてそれに答えた。
「ええ。こんなにめでたいことはそうありません。この歴史的な快挙を、私たちも充分に楽しみましょう」
ミラが「お祭り楽しみ」と笑った。どうやら式典よりも出店のほうに興味があるらしく、どんな店が出るのか、当日には何を買おうか、真剣な表情でセシリアに相談している。とりあえずお祭りの出店に行くなら、金魚すくいに気を付けて。安易な気持ちで持って帰ると思いのほかデカくなるからね。
式典準備のためにギルド内は慌ただしさを増し、マスターもイヌカも座る暇もないほど忙しくしているようだ。イヌカは調査部所属だから、おそらくクリフォトによる式典の妨害を警戒して動いているのだろう。調査部は秘密主義だから何をやっているのか具体的な情報はトラック達には来ないが、コメルやイャートとも連絡を取りあっているようだ。マスターはギルドの代表として式典にも出ないといけないし、警備に関しても取り仕切らなければならないし、調査部の動きも把握しなければならないしで、本当に大変そうだ。ちょっとやつれた顔で大きく息を吐く様子は見ているだけで同情してしまいそうになる。トラックも特級厨師なんだから何か手伝えばいいのだろうが、トラック自身にその意志はなさそうだった。
夕刻が近付き、トラックはマスターに頼まれて先生の家に向かった。そろそろゴブリンの代表団がケテルに到着する時間となり、ガートンの父親を迎えにいかねばならないのだ。代表団を門で出迎える、その光景自体が一つのパフォーマンスであるため、その場にいないとなるとガートンの父親の族長としての面目が立たない。夕方はゴブリンにとって、人間にとっての早朝と同じ感覚のはずだからちょっと大変だろうけど、叩き起こしてでも代表団に合流させてあげないと。
先生の家の前でトラックはプァンとクラクションを鳴らす。家の中からバタバタと慌ただしい音が聞こえ、程なく玄関が開いた。緊張の面持ちの族長ゴブリンが姿を現わし、付き添うようにガートンが隣に立つ。族長ゴブリンは目をギンギンに赤くしていた。眠れなかったんだろうか? 丁寧にシワを伸ばされた真新しい族長の服の着慣れていない感じが族長ゴブリンの今の状況をよく表しているようだった。
「ご、ごぶごぶ!」
よろしくお願いします、とでも言ったのだろうか、族長ゴブリンはトラックに向かって軽く頭を下げた。トラックが緊張をほぐすような軽いクラクションを返すと、族長ゴブリンは少し気が抜けたように笑った。トラックは助手席の扉を開ける。ややおっかなびっくり、という感じで族長ゴブリンはトラックに乗り込んだ。
「ごぶごぶっ!」
見送りだろう、妻ゴブリンがガートンの弟君を抱きかかえて玄関から出てくる。弟君はまだ半分寝ている感じで、何度も目をこすっていた。妻の激励に応えて族長ゴブリンは軽く手を上げる。行くよ、という合図のようにクラクションを鳴らし、トラックはゆっくりと走り始めた。遠ざかるトラックの背に向かって、ガートンは「ごぶごぶー」と言いながらずっと手を振っていた。
トラックは族長ゴブリンを乗せたまま一度ケテルを出る。族長ゴブリンは出迎えられる側なので、ケテル外でゴブリン代表団と合流して素知らぬ顔でケテルに迎えられなければならないのだ。あれ、昨日いらっしゃいましたよね、とか言われたら台無しなのだ。だからそこはお互い、大人の対応でお願いします。
ケテルから少し離れた林道に辿り着いた時、トラックの前に整然と並ぶゴブリンの一団が姿を現わした。昨日ゴブリン村で見た、たぶんゴブリンの諸族長たち。そしてそれを囲むように、冒険者ギルドのAランカーと衛士隊の衛士、ケテルの私兵がいる。彼らはケテルと、そしてゴブリンを象徴する旗を掲げていた。彼らはゴブリンたちの護衛であり、そして周囲にゴブリンとケテルの関係を知らしめる宣伝係でもある。たまたまゴブリンたちを見掛けた旅人が襲い掛かってくる、というような事故を未然に防ぐために彼らはいるのだ。そしてその中には今朝会った大剣使いの戦士もいた。
ゴブリンに対する一般的な印象は、知能が低く凶暴、というものなのだろうが、族長クラスはそういう印象とは程遠い。彼らは彼らなりの文化があり、人はそれを知らなかっただけなのだろう。言葉が通じない、相手の価値観が理解できない、そういう状況は意識的であれ無意識であれ、相手を貶める意識を育ててしまうのだ。だから、俺たちはまず、目の前の状況をありのままに受け止めなければならない。なんていうか、その、ゴブリンたち――狼に乗っとる。
ゴブリンって、馬じゃなくて狼に乗るんだ。初めて知ったわ。ポニーくらいの大きさの灰色狼が並足の速さでのしのし歩いて来る。狼たちの首には背に乗るゴブリンが身に着けたネックレスと同じ色の宝石をあしらった首輪があり、つまり狼たちも正装ということなのだろう。なんとなくツンとよそ行きの顔をしている気がしてちょっとかわいい。
――プァン
狼たちを驚かさないようにだろう、トラックは少し抑え気味にクラクションを鳴らした。ゴブリンたちが、というか狼たちが足を止め、トラックに視線を向ける。見慣れない生き物を見て警戒したのか、先頭にいた狼が「ウーッ」とうなり、鼻にシワを寄せて吠えた。
「ヒャン!」
鳴き声かわいいな灰色狼。その大きさでポメラニアンみたいな声なのかよ。トラックから族長ゴブリン……ああ、ここにいるのは全部それぞれの部族の族長なのか。何て呼べばいいかな。……うん、ガートンパパでいいや。ガートンパパが助手席から降りて他のゴブリンたちに頭を下げた。
「ごぶごぶ?」
一番年かさのゴブリンがガートンパパに問う。ガートンパパがうなずきを返すと、それはよかった、みたいな感じでゴブリンたちが表情を緩めた。ガートンパパは恐縮した様子でもう一度頭を下げると、列の最後尾にいた誰も乗っていない灰色狼に乗る。ガートンパパの灰色狼なのだろうその狼はうれしそうに尻尾を振った。
「ごぶごぶ」
感謝の声音で年かさゴブリンがトラックに声を掛ける。気にしないで、みたいな感じでクラクションを返すと、トラックはハンドルを切り返してケテルへと戻った。トラックも一応、ケテルのそれなりの重要人物? 重要車両? なので、ケテルでゴブリンたちを迎え入れる役回りで、ルゼや評議会に先んじてゴブリンたちに接触していたというのは立場上あんまりよろしくない。ま、全部形式的な話なんだけど。
夕日が山の端に掛かり、赤くケテルの門を照らす。普段は日暮れと共に閉ざされる門に旅人や商人たちが駆けこむ光景が見える門の前の広場に、今日はケテルの重要人物が揃っていた。ルゼと筆頭に評議会議員が並び、コメルがその後ろに控える。コメルの横にはおそらく通訳として先生の姿もあった。マスターはギルドメンバーを率いて周囲を警戒し、イャートも衛士隊に忙しく指示を出している。周囲には『敵ではないゴブリン』を一目見ようとケテルの人々が集まり、トラックはセシリアや剣士、ミラと一緒に、集まったやじ馬の整理をしていた。特級厨師、とはいえギルドメンバーであることに変わりはなく、使える者を遊ばせておく余裕は冒険者ギルドにはない、ということなんだろう。あるいは特級厨師の名前を使ってやじ馬を抑えようとしているのかもしれない。
この門を利用しようとする一般人は衛士隊によって別の門に案内され、今は人々の行き来はない。痛いほどの緊張が広場を包んでいる。
――シャン
遠くからかすかに鈴の音が聞こえ、ゴブリン代表団の訪いを告げる。広場の緊張がさらに一段高まった。鈴の音は徐々にはっきりとしたものに変わり、やがて人々の前にゴブリンたちが姿を現わした。イメージしていた『ゴブリン』というものとは違ったのだろう、人々が戸惑ったようにざわめく。代表団は門の前で灰色狼を降り、背を伸ばし、堂々と人々の前に立った。
「ようこそ、ケテルへ。お待ちしておりました」
ルゼが代表団の年かさゴブリンに歩み寄り、にこやかに手を差し出した。先生が「ごぶごぶ」と通訳すると、年かさゴブリンもまた笑顔を浮かべ、差し出された手を握る。
「オ招キ、イタダキ、カンシャ、イタシマス。議長閣下」
若干たどたどしい言葉で、しかしはっきりと年かさゴブリンは言った。ゴブリンが言葉をしゃべった、そのことに人々の口から驚きが漏れる。ルゼは一瞬だけ驚きを示し、すぐにそれを打ち消して、さも当然のようにケテルへと招き入れた。
「さあ、どうぞ中へ。今、この瞬間が、ケテルとゴブリン族との新たな未来の始まりとなりましょう」
年かさゴブリンがうなずき、一歩を踏み出す。その身体が、ケテルの門を越えた。それはまさにケテルの、いや、人類の歴史に刻まれる偉大な一歩だった。
――プァン!
トラックが広場に響くクラクションを鳴らす。それを合図にやじ馬たちから拍手が巻き起こった。その音は温かく広がり、ケテルがゴブリンを受け入れると、その意志を示したのだということを伝えた。どこか硬い雰囲気を纏っていたゴブリン代表団の面々がようやく安どしたように息を吐いた。
衛士隊が人々に道を空けさせ、楽隊が音楽を奏でながら行進を始める。楽隊に先導され、ルゼたち評議会議員とゴブリン代表団が並んで道の中央を歩いた。少し離れて警備のギルドメンバーと衛士隊が続く。周囲のやじ馬を警戒してか、警備に当たる者たちの表情は警戒と緊張に強張っていて、大剣使いのあの戦士も、ベテランに似つかわしくないほど固く青白い顔をしていた。トラック達はさらに後ろから一団について行く。歴史的瞬間に立ち会った感慨だろうか、セシリアが高揚を落ち着かせるように息を吐いた。
ゴブリンたちが乗る灰色狼は、彼らにとって家族同然。
赤ちゃんの時からずっと一緒で、年を取って乗ることのできなくなった灰色狼は逆にゴブリンが背負うのだとか。




