手を取る
ゴブリンとの通商――それは、今から半年以上前にコメルがゴブリン村の族長と交わした約束だった。『狩人熱』によって死の淵にあった妻ゴブリンを救ったコメルは、村を閉ざして人との交流を拒んでいた族長ゴブリンを説得し、ケテルに戻ってからも商取引を通じた新たな関係を築くための準備を進めてきた。ゴブリンとの通商の最大の障害はゴブリン語を人間が理解できないことだったのだが、なぜかトラックはクラクションでゴブリンと会話できたため、通訳としてコメルに力を貸していた、のだが、実はそれは最初の一、二か月だけで、その後はガートンからゴブリン語を教わった先生が通訳をやってくれていた。ガートンと一緒に暮らしているとはいえ、二か月程度で通訳ができるほどゴブリン語を習得するなんて、やっぱり先生はすごい人だなぁ。伊達に眼鏡は掛けていないわけだ。
そういう事情でゴブリンたちとの交渉の内容についてはもうトラックは蚊帳の外だったのだが、無事に話が進んでいたようでなりよりだ。もし話がとん挫すればゴブリンはケテルにとって敵対勢力のままだということを考えると、単に商取引が始まるという以上にこの出来事には意味がある。ガートンも役目を果たせた、ということだ。まだ子供なのにひとりで頑張ったねぇ。
「二週間後、ゴブリンたちをケテルに招いて調印式を執り行います。その場で旦那様がゴブリンを正式に友好勢力と認定し、ゴブリンの代表もケテルに友情を誓う。そんな日が本当に来るなんて、一年前には誰も予想していなかったでしょう」
興奮冷めやらぬ様子でコメルはこの出来事がいかに歴史を変えるものかを語る。
「実はね、トラックさん。交渉の過程で、ガートン君の父君からゴブリンたちの王を紹介していただいたんです。この商い、ゴブリンの一つの村に対してではなく、ゴブリン族全体、いいえ、もしかしたらもっと大きな単位で行われることになるんです。人の文化に触れてゴブリンたちは変わるでしょう。そして我々もゴブリンたちの文化に触れて変わっていく。これは、本当に、歴史の大きな転換点なんです!」
コメルのすごい熱量にトラックは気圧されたようなクラクションを鳴らした。コメルは「いやいや」と首を横に振る。
「他人事のように捉えられては困ります。あなたがいなければゴブリンとの通商など考えることもできなかった。あなたは間違いなく功労者のひとりです。調印式には参加していただきますよ、特級厨師トラック殿」
ちょっと悪戯っぽい表情でコメルは大仰にお辞儀をした。トラックは戸惑ったようなクラクションを返す。コメルは小さく笑った。
「演説をしろなんて言いませんよ。列席していただくだけでいい。式にはガートン君も出席しますから、あなたがいてくれたらきっと心強いでしょう」
そっか、ガートンも出席するんだ。ガートンは実質的な人質としてケテルに来たわけだが、今回の調印式が終われば人質としての役割を全うしたことになるだろう。言わば最後の晴れ舞台だが、どうなんだろう、帰っちゃうのかな? 青空教室のみんなとせっかく仲良くなったんだし、帰っちゃうのも勿体ない気がするけど……親からしたら帰ってきて欲しいだろうな。
そういうことなら、と言うようにトラックは渋々クラクションを返した。コメルはホッとしたように笑顔を浮かべる。嫌だとゴネられることを想定していたのだろうか?
「明日、ゴブリンの実務担当者が先行してケテルに入り、調印式の具体的な段取りを我々と詰めることになっています。ガートン君の父君もいらっしゃいますよ。半年ぶりに会う我が子の成長ぶりを見て、きっと驚かれると思います」
おお、族長ゴブリンも来るのか。意外とゴブリン族の重鎮なのだろうか? ガートンは喜ぶだろうな。早く会わせてあげたいものだ。
「もし可能なら」
コメルが何か思いついたように視線を上に向けた。
「今からゴブリンの村に行っていただけませんか? 明日以降は式の準備で忙しくなります。今日、族長をケテルに迎えれば、ガートン君とゆっくり話す時間も持てると思うんです」
ああ、そりゃいい考えかも。族長ゴブリンも立場があるから、式の準備をしている間はそうそうガートンに構うこともできないだろう。式典が終われば時間は取れるだろうが、それでは二週間も先の話になる。だったら今日連れてきて、気兼ねせずに会える時間を用意してあげたいよね。
トラックはプァンと気安いクラクションを鳴らす。そう言うと思っていた、というようにコメルは笑った。
時刻は午後三時を回り、トラックは森の中の道を進む。助手席にはコメルが乗り、落ち着かない様子でその景色を眺めている。早く着かないかとソワソワしている子供みたいだ。っていうか、一緒に来て大丈夫なの? 忙しいんじゃないの? トラックがプァンとクラクションを鳴らす。
「問題ありません。だいいち、トラックさんは『妖精の道』を開けないでしょう?」
妖精の道、というのは、ゴブリンたち妖魔やエルフたち妖精が使う、異界を経由することで移動時間を短縮することのできる特別な道のことだ。下手をすると異界から戻ってくることができなくなって永遠に彷徨うことになったりするデンジャラスな移動手段で、以前、トラックがゴブリン村に行った時には族長ゴブリンやハイゴブリンが道を開いてくれたんだっけ。エルフの都である『真緑の樹』に行くときはコメルが道を開いていたな。考えてみたらなんでコメルはそんなことできるんだろう? 謎の多い自称零細商人である。
やがてトラック達の前に、見覚えのある景色が現れる。鏡写しのようにそっくりな二本の木。トラックがその前で停車すると、コメルは助手席から降りてそれらの木の前に立ち、二本の木に挟まれた空間に手をかざした。何事か唱えると、木と木の間の空間が波紋のように揺らめき、光を放つ。異界と繋がったのだ。
「行きましょう」
トラックの返事を待たず、コメルは揺らめく空間の向こうへと消える。トラックは慌てて後を追った。
妖精の道を抜け、トラック達はゴブリン村に無事辿り着いた。まだ太陽が空に君臨する時間、ゴブリンにとっては睡眠の時間に当たるはずだが、ゴブリン村は慌ただしい雰囲気に包まれていた。忙しくゴブリンたちが行き交い、あちこちで何かを打ち合わせるような話し声が聞こえる。もっとも話し声ったって全部「ごぶごぶ」なので、本当に打ち合わせをしているのかただの井戸端会議なのかは俺には分らないが。
トラックの接近に気付いて、少し眠たそうにしていた門番ゴブリンが大きく手を振って声を上げた。トラックのことを憶えていてくれたのか、その様子に敵対の色は見えず、「どうもどうも久しぶり」みたいな様子だ。トラックは門番ゴブリンの前で停車してクラクションを返す。コメルが助手席から降りて挨拶した。
「突然すみません。族長にお会いしたいのですが」
言いながらコメルは懐から酒瓶を取り出し門番ゴブリンに渡した。トラックがプァンとそれを通訳し、「こいつはありがてぇ」みたいな感じで門番ゴブリンは酒を受け取る。普通に買収されとるがそれでいいのかゴブリンよ。まあコメルを信用しているから、ということなのかもしれんが。
門番ゴブリンはにこやかに門を通してくれて、トラック達は村に入った。村は以前とは違い、何だろう、少し華やかな雰囲気がある。花や蔦で編まれた飾りが家々を彩り、素朴な喜びがそこここから見て取れた。お祭り、あるいはハレの日、そんなささいな非日常の風景が広がっている。
「皆さんもケテルとの新たな関係を喜んでくださっているんですね」
コメルが感慨深げに周囲を見渡した。正式な通商ではないにしろ、この半年でコメルはゴブリン村との小規模な商取引を何度も行っているらしい。ケテル経由でもたらされたエルフ産、ドワーフ産の品物がゴブリンたちに珍重され、それを持つことがちょっとしたステータスなのだとか。伝統を重んじる上の世代の中には顔をしかめる者もいるが、そんなものを軽々と飛び越えて異文化を楽しむ者も多くいるのだ。
村の通りを進むトラック達を見る周囲のゴブリンたちの視線は、かつてのような敵意と警戒の色が薄れ、むしろ好意的ですらあった。ケテルの文化に触れてゴブリンたちは変わる、とコメルは言ったが、その兆しはすでに表れているようだった。
やがてトラック達の前に族長の家が姿を現わした。族長の家は他の家に比べてもさらに飾り立てられており、若干ピリピリした空気に包まれている。ケテルへの出発を明日に控えてその準備に追われているのだろう。家の前にはハイゴブリンが目を光らせ、不審者を見逃すまいと周囲を見渡していた。
「ごぶ!?」
トラックの姿を視界に捉え、ハイゴブリンが驚いた様子で駆け寄ってくる。トラックはプァンと軽いクラクションを鳴らした。コメルも軽く頭を下げる。ハイゴブリンは懐かしそうな、でもちょっと困ったような表情を浮かべた。
「ごぶごぶ、ごーぶごぶ」
雰囲気としたら「その節はお世話になりました」的なあいさつの感じでハイゴブリンはトラックに話しかける。プァンとクラクションで返事をすると、ハイゴブリンは嬉しそうに、身振り手振りを交えて、たぶん「元気過ぎて困ります」みたいな返事をした。きっと族長の妻ゴブリンの様子を聞いたんだな。そっか、すっかり元気になったみたいだ。よかった。コメルは妻ゴブリンの様子を知っていたのだろう、うんうんと頷いていた。
「族長はいらっしゃいますか?」
雑談の切れ目を待って、コメルがハイゴブリンにそう問いかける。トラックが翻訳するとハイゴブリンはちょっと言い辛そうに「ごぶー」と答えた。あれ、族長ゴブリンいない? そんなはずないよね、明日ケテルに来るのに。ハイゴブリンはしばらく迷うように首を傾げていたが、やがて、ちょっと待っていて、と言うように手のひらをトラックに向けると、族長の家の中に駆けていった。取り次いでくれるということだろうか。まあ考えてみれば、明日ケテルに行くんだから今は準備の真っ最中だよね。ケテルのそれなりの地位にある者がアポなしで急に来たら対応に困っても不思議じゃないよなぁ。何事かって思われるかも。コメルが「失敗したかな」と顔を歪めた。
しばらくして族長の家の扉が開き、慌てた様子で族長ゴブリンが飛び出してきた。以前と違い、カラフルな布をパッチワークのように縫い合わせたゆったりとした服を着て、ヒスイだろうか、宝玉の首飾りをしている。族長としての正装、ということなのかもしれないが、若干慣れていない感じが伝わってきた。
「ごぶごぶっ!」
どうかしましたか!? みたいな感じで族長ゴブリンがコメルに駆け寄る。ああ、やっぱり何か急な事態でも起こったかと思われたようだ。コメルは慌てて首を横に振った。
「いえ、特に何ということではなく――」
言いかけて、コメルはハッと息を飲んだ。族長に続いて家からぞろぞろとゴブリンが姿を現わす。族長に似た服装をしていることからして、他地域の部族長、というところだろうか。服や首飾りのカラーリングが異なるのは、きっと部族ごとに色が決まっていたりするのだろう。コメルはしまった、と言うように深く頭を下げた。
「申し訳ありません! 他の部族の方々をお迎えしている最中だったのですね」
急に頭を下げたコメルを見て、族長ゴブリンが戸惑ったように「ごぶごぶ」と言った。頭を上げてください、ということなのだろう。他の部族長たちが「何事だ」と言うように集まってくる。トラックがフォローのようにクラクションを鳴らした。族長ゴブリンは驚いた顔をすると、穏やかな表情を作る。
「ごぶごぶ、ごぶごぶごーぶ」
しかし族長ゴブリンはすぐに表情を真剣なものに改めると、首を横に振った。トラックの通訳を受け、コメルは恥じるように身を縮めた。族長ゴブリンはコメルの手を取り、顔を上げさせる。コメルはもう一度「申し訳ない」とつぶやいた。
「ごぶごぶ」
事態を見守っていた他部族の長のひとり、一番年かさのゴブリンが不意に声を上げた。族長ゴブリンがびっくりしたように振り返る。年かさゴブリンは、何だか「ええんちゃう」みたいなノリで「ごぶごぶ」と言った。なおも迷いを浮かべる族長ゴブリンに近付き、年かさゴブリンは労わるように肩を叩いた。
「ごぶごぶ、ごごぶごぶーぶ。ぶごごーごぶ」
族長ゴブリンはうつむき、目を閉じると、他部族の長たちに頭を下げる。他部族の長たちは「かまへん」みたいにうんうんとうなずいた。族長ゴブリンはコメルに向き直ると、
「ごぶごぶごげごぶごぶ」
と言ってまた頭を下げた。コメルは「お任せください」とホッとした表情を浮かべ、トラックが了承のクラクションを鳴らした。
えーっと、これね、なんのやり取りか全然わかんないと思うんだけど、そして俺も全然わかんないんだけど、おそらく、俺の想像ね? 想像で言うと、トラックが族長ゴブリンに「一日早くケテルに来てガートンに会わないか」と提案して、族長ゴブリンは「申し出はありがたいが、私事を優先して公務をおろそかにはできない」みたいなことを言って断ったんだけど、年かさゴブリンが「えんちゃう、行っても」と言ってくれて、他の部族長たちも「かまへん」と言ってくれて、族長ゴブリンはコメルに「よろしくお願いします」と言った、と、おそらくそんな感じだと思います。たぶん、たぶんね。
ケテルへ続く夕暮れの道をトラックは走る。ゴブリン村を出て妖精の道を抜け、トラック達は帰路の途中だ。運転席には族長ゴブリンが、助手席には妻ゴブリンが座り、膝の上にまだ幼いガートンの弟ゴブリンを抱いている。コメルは荷台の中だ。日が長くなった夏のケテルは閉門の時間も遅くなっていて、間に合わずに外で夜を明かす、ということにはならなさそうだった。
やがてケテルの門が見え、族長ゴブリンたちは少し緊張に身を硬くした。これから友好関係を築くとはいえ、ゴブリンにとって大勢の人間がいる場所に踏み入れるのは勇気がいることなのだろう。門番の前で止まり、トラックがプァンとクラクションを鳴らす。門番はトラックに乗っているのがゴブリンだと気付いて一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作って通してくれた。ゴブリンたちとの通商の話は冒険者ギルドを始めとした関係各所にはすでに通達されているが、だからといって皆が手のひらを返すように態度を変えられるわけではない。普段やる気のなさそうな態度の門番だが、意外とデキる奴なのかもしれない。
門をくぐると、見知った顔がトラック達を出迎えてくれた。ガートンはトラックを見つけるとうれしそうに大きく手を振る。コメルが出掛ける前に伝えていたのだろうか? ガートンの横にはルーグやレアン、アネットもいて、その後ろに先生がいる。族長ゴブリンと妻ゴブリン、それから弟ゴブリンはトラックから降り、ガートンの前に立った。
「……ごぶごぶ」
なんと声を掛けたらよいのか、ためらいを含んだ族長ゴブリンの声音に、ガートンは首を横に振ると、笑顔でルーグたちを示した。
「ごごぶ、ごぶぶごぶぶぶごぶ」
族長ゴブリンは目を丸くし、妻ゴブリンは口を両手で覆って驚きを表す。ルーグはやや緊張気味に言った。
「おれたちは、ガートンの、友達です」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。族長ゴブリンはルーグに近付き、その手を取って、
「アリ、ガト、ウ」
おそらくは懸命に覚えたであろう、拙い感謝の言葉が、夕暮れのケテルに優しく響いた。
コメル、浮かれちゃってちょっと失態の巻。
でも結果オーライ。




