気持ち
アディシェスの町へと続く早朝の街道をトラックは走っている。助手席にはイーリィが座り、無言で窓の外を流れる景色を見つめている。季節は確実に足を進めているが、本格的な夏にはまだ猶予があると感じられる程度には、朝の日差しは柔らかだった。
ルゼに呼ばれたトラックはすぐに評議会館の議長室に向かい、そこで驚くような話を聞かされる。なんとアディシェス伯は今回のケテルの失態を不問に付し、婚約を継続すると伝えてきた。ルゼが直接出向いて謝罪し、賠償を切り出した時、アディシェス伯はこう言ったらしい。
「細かか話たい。そがんこつ気にせんばってん、はよ花嫁ば顔見せに来らんね」
豪快だなーアディシェス伯。嫡男の婚約発表の場を台無しにされたのに、『細かい話』で終わらせちゃったよ。貴族とかって体面いのち、みたいなイメージだったんだけど、全然違うんだな。
てっきり破談と思われていた縁談がまだ生きていたことで、ルゼ、というかケテル側の対応は大きく路線変更することになった。また近隣の関係者を集めて、なんてことになると準備やら手配やらで日付が先になってしまう。『はよ花嫁ば顔見せに』という先方の強い要望を受けて、とりあえずまずは本人同士を会わせよう、ということで話がまとまった。
本来ならルゼを筆頭にケテルの主だった面々が揃ってアディシェスを訪問すべきところではあるが、今のケテルはルゼがいないと到底立ち行かない。なにせ副議長が不在となり、その理由も未だ公表できずにいるのだ。秘密を知っている少数の人間でケテルのこれからを決めていかなければならない、その負担と重圧は相当なものだろう。グラハム・ゼラーという男の存在は、ケテルにとって大きいものだったのだ。
そんなわけでルゼもコメルも動けない中、イーリィに付き添う者として相応しいのは誰か、というのが問題となり、最終的に白羽の矢が立ったのがトラックだった。なんで、って思うかもしれないけど、実はトラック、ケテルでは結構な重要人物扱いなのだ。魔王殺しの英雄、特級厨師トラックの名は近隣に鳴り響いている。アディシェスに花嫁を届ける、その役目に相応しい『格』をトラックは備えているのだ。信じがたいことに。
トラックはルゼの依頼を引き受け、今朝、イーリィを乗せてケテルを出発した。ルゼに対するわだかまりが薄らいだイーリィは芋ジャー姿ではなく美しいドレスを身にまとい、大人しく助手席に座る。イーリィを心配したのかセシリアが同道を申し出たが、ルゼはそれを拒み、トラックだけでイーリィを送り届けるよう命じた。セシリアはBランク冒険者に過ぎず、同道するには『格』が足らない、というのがその理由だったが、おそらくそれは建前だろう。トラックのみで移送せよ、と命じるルゼの顔は、感情を隠すように過度に無表情だった。
アディシェスが徐々に近づき、車窓からの風景は普段見慣れているケテルのそれとは違うものになっていた。ケテル周辺は大半が森で、少し北に行けば山岳が連なる。しかしアディシェスは平地が多く、農耕に適した土地柄のようだ。アディシェス家はクリフォト北部の中心的な存在とコメルが言っていたが、それは広大な農地を擁する経済力を背景としたものなのだろう。食糧が豊富にあるということは、それだけ兵士を抱えることができるということでもある。まだ青さを残した麦が揺れる田園地帯をトラックは進む。
――プァン
ずっと何も言わなかったトラックが、静かにクラクションを鳴らした。イーリィはわずかに目を伏せる。
「……私は、議長の娘だから」
言葉少ななイーリィの表情は、これ以上言わないで、と伝えている。しかしトラックはさらにプァンとクラクションを鳴らした。それは気遣うようでもあり、追い詰めるようでもある。イーリィは首を横に振った。
「母様のことを、私は何も知らなかった。何も知ろうとしていなかった。母様が『狩人熱』だったことも、父様があのときどんな思いでいたのかも。勝手に恨んで、自分だけが傷付いていたみたいに」
ばかみたい、とつぶやき、イーリィは自虐の笑みを浮かべた。父を責め続けていたことを悔やみ、自分の浅はかさを悔やんでいる。そしてその罪の意識が、判断を曇らせている。
「……ケテルは、クリフォトと戦になる。ケテルは、負けるかもしれない。グラハムが言っていたでしょう? 負けるということはすべてを失うこと。皆が死ぬということ。でもそのとき私がクリフォトの側に、次期アディシェス伯の妻の立場にいれば、それはきっと力になる。ケテルを、皆を助ける力に――」
――プァン!
トラックが少し強めにクラクションを鳴らし、イーリィの言葉を遮る。イーリィはまなじりを吊り上げ、無理解をなじるようににらみつけた。
「私の気持ちなんて、そんなの、どうだっていいでしょう! 私にしかできない役割があるなら、私はそれを果たさなければならない! だって、大切だもの! あなたも、セシリアも、ギルドのみんなも、父様もコメルも、誰にも死んでほしくない!」
――プァン!!
「どうして!」
トラックがイーリィの声を否定し、イーリィは理解しようとしないトラックのクラクションを打ち消すように叫んだ。イーリィの目から涙の粒がこぼれ落ちる。
「私だって、会ったこともない相手に嫁ぎたいわけじゃない! でも仕方がないじゃない! 私は――」
ぶぉん、とエンジン音を立て、トラックが強くアクセルを踏む。急加速に驚き、イーリィは小さく悲鳴を上げて口を閉じた。トラックはすさまじい速度でまっすぐな道をひた走る。聞きたいことは聞いた、「でも」も「だって」もいらない、そう言うように。
やがてトラックの前に巨大な石壁を備えた都市の外門が姿を現わす。門の前には百を超える兵士が並び、その先頭にはきらびやかな鎧を身にまとった一人の青年の姿があった。
トラックは居並ぶ兵士を従える青年の前で停車し、イーリィを降ろした。よく見ると青年の身に着けた鎧も、兵士が身に着けている武具もみな、儀礼用の装飾性の高いものだった。アディシェス家は武家の名門、賓客を迎えるための正装もまた、武具の装いなのだ。
「イーリィ・バーラハ様、ですね?」
いささか緊張気味に、青年はイーリィに声を掛けた。熊のように大柄な、二十代半ばの実直そうなその青年は、わずかに顔を上気させ、そしてそれを悟られぬように必死に平静を装っているようだ。本心を隠し切れない未熟さは、彼をむしろ信頼に足る人物に見せていた。
「初めてお目に掛かります、ウルス卿」
イーリィはにこやかに微笑み、ウルスと呼ばれた青年に挨拶をする。ウルスは慌てたようにイーリィに一歩近づいた。
「そ、そのように畏まらないでください。今回は顔見せで、堅苦しい儀式などはありません。それに――」
ウルスの頬が隠しようもないほどに赤く染まる。
「――私たちはこれから、夫婦になるのだから」
その発言は彼にとって相当に勇気のいるものだったのだろう。言ってやったぞ、という満足げな笑みと共にウルスは大きく息を吐いた。イーリィは優しく包み込むような微笑みを浮かべている。その瞳の奥に哀しみを隠して。
ウルスの横にはやはり熊のような壮年の男が立っており、イーリィに値踏みするような視線を送っている。この男がアディシェス家の現当主なのだろう。ウルスとは対照的に、その表情はどこか険しい。舞い上がっているウルスはその様子には気付いていないらしく、今度はトラックを振り向いて話しかけた。
「あなたは特級厨師トラック殿ですね? イーリィ様を送り届け下さり、感謝に堪えませぬ。あなたの勇名は広くクリフォトに鳴り響いております。ぜひ一度お話をと思っておりました」
どこか少年のように純粋な目でウルスはトラックを見上げる。ああ、なんていうかさ、この人絶対いいひとだわ。ルゼがイーリィの夫として選んだ理由がなんかわかる気がする。イーリィがウルスを愛することができれば、きっと二人は幸せになれるだろう。たとえその始まりに愛が無くても、愛は育むことができるものだから。でも、だからこそ、切ないわぁ。
返事をしないトラックを気にすることもなく、ウルスは上機嫌でアディシェスの町を指し示し、そして言った。
「さあ、どうぞ中へ。我がアディシェスはケテルに決して劣らぬ豊かな町。必ずやお気に召すはずです」
後ろに控えていた兵士たちが道沿いに整列し、手に持つ槍で一斉に地面を打った。それを合図にゆっくりとアディシェスの門が開く。門の向こうに見える街並みは整然として美しく、ウルスや兵士たちがそれを誇る気持ちが伝わってくる。「ありがとうございます」と答え、イーリィが一歩足を踏み出し――
――プァン
トラックのクラクションが広がる。和やかだった空気が、一気に凍り付いた。
「……今、何と申された?」
軋む音が聞こえるようなぎこちない動きで、ウルスはトラックに顔を向ける。その表情は明確に怒りを宿していた。イーリィが「トラさん!」と小さく悲鳴のような鋭い声を上げる。トラックは平然と再びクラクションを鳴らした。色めき立った周囲の兵たちを手で制し、ウルスは辛うじて理性を保った様子でトラックに問いかける。
「この私が、イーリィ様に相応しくないと、そう申されるか! いったい何を根拠にそのようなことを!」
やめて、とささやくイーリィを無視して、トラックはさらにクラクションを鳴らした。ウルスの顔がみるみる紅潮していく。
「弱い、だと!? 武家の名門、アディシェスの長子たるこの俺を侮辱するか!! いかな特級厨師とは言え、いわれなき侮辱に黙っていることはできぬぞ!!」
ウルスが腰の剣を抜き、一歩トラックに詰め寄った。イーリィが慌ててふたりの間に割り込み、ウルスに頭を下げる。
「どうかお怒りをお鎮めくださいませ! 私はあなたさまの妻となり、あなたさまにお仕えいたします! だから、どうか」
「いいえ、イーリィ様! こうも侮辱されて引き下がったとあっては武門の名折れ! まして貴女の夫たる資格なしと断ぜられたままでは、この俺の誇りが許さぬ!」
鼻息荒く奥歯を噛み、目を血走らせてウルスはトラックをにらみ上げる。兵士たちの間に不穏な空気が漂った。我が主を侮辱する者は許さぬという怒りが満ちる。ウルスは臣下に慕われていることがよくわかった。
「戦えばよか」
一触即発の雰囲気を変えたのは、今までずっと黙っていたアディシェス伯だった。その静かな声は有無を言わさぬ迫力を以て場を制する。アディシェス伯はウルスを冷静に見据えた。
「弱かかどうか、戦えばわかろうもん。小難しか理屈ば吠えんと、剣で証ば立てんね」
「お待ちください! 私は――」
イーリィの上げた制止の声は、しかしアディシェス伯の鋭い視線で封じられた。もはやこれはアディシェスの誇りの問題なのだ。イーリィがうつむき唇を噛む。ウルスの目に肉食獣のような光がかすめた。
「……特級厨師がいかほどのものか知らぬが、己が舌の軽さを必ずや後悔させてくれるぞ!」
トラックは何の気負いもなく了承のクラクションを鳴らす。それはウルスとトラックの決闘が成立した瞬間だった。
ウルスは数年ほど都にいたため標準語に染まっており、アディシェス伯はそれが不満なようですよ。




