道
ケテルを守りたかった――
その小さなつぶやきは、リェフが振り上げた剣をほんのわずかの時間だけ止めた。そしてそのわずかな時間は、セシリアが魔法を、剣士が、そしてトラックがスキルを発動する隙を作った。トラックが【念動力】で手近にあった燭台を投げつけ、リェフの剣を弾く。セシリアの放った魔法の風がリェフを押し下がらせ、【加速】を発動した剣士がリェフとグラハムの間に瞬時に割って入った。剣士はそのままリェフに身体ごとぶつかり、その身体をがっちりと捕まえる。動きを封じられながら、しかしリェフはただグラハムをにらみつけていた。
「……今更」
目を血走らせ、抑えることのできない憤りを込めて、リェフは叫んだ。
「今更、善人ぶるな! どれだけの人間をお前は殺した! どれだけの人間を不幸にしたと思っているんだ! ケテルを守りたかった? ふざけるな! お前は人殺しで、許されることのない裏切り者だ! それ以外のものになどなれるはずがない!! 今更、お前は!!」
荒く息を吐きながらリェフはグラハムをなじる。父の仇であるグラハムはリェフにとって絶対悪でなければならないのだろう。やむない事情があった、後悔する心を持っていた、誰かを守りたいと願った、そんな『普通のひと』であってはならないのだ。改心の余地などあってはならないのだ。
グラハムは目を固く閉じてリェフの罵声を聞いている。やがてリェフは、意味をなさぬ獣の咆哮の如き叫びを放った。もはや自分が何を望むのか、それさえも見失ったような苦しいその叫びは広間に満ち、ただやりきれない思いだけを皆に伝えていた。
衛士隊によってグラハムと、そしてリェフは、拘束されて詰所に連行されることになった。グラハムはある種の覚悟を決めたかのように大人しく従い、一方でリェフは魂が抜けたかのように放心した様子で連れていかれた。拘束、連行などと言えば厳めしいが、あからさまに罪人と分かるような方法はとられず、二人は最低限の人数の信頼できる隊士によって密やかに移送されたようだ。ケテルの最高権力である評議会の副議長が工作員であった事実は気軽に公にできるものではないし、リェフの犯行動機もそれに関わる以上取り扱いは慎重を期す必要がある、ということらしい。
イャートは連行される二人の背を複雑な表情で見つめていた。リェフの気持ちの少なくとも一部を、イャートは共有しているはずだ。リェフの父であるゼオは彼の恩人でもあったのだから。しかし一方でグラハムの言葉にも正当性を感じている。ケテルがクリフォトと戦うことの無謀さを理解できてしまっている。グラハムの行為は法的にも心的にも決して許されるものではないが、『ケテルを守る』という一点においてもしかしたらグラハムの選択は、クリフォトの支配を受け入れるという道は、正しいのかもしれないのだ。
床に膝をつき、焦点の合わぬ目で中空を見つめるルゼの傍らに、イーリィはそっと近づいた。軋むようにぎこちない仕草でルゼはイーリィを見上げる。わずかな逡巡の後、イーリィは言葉に迷いながら言った。
「……他人から、知らなかった家族の真実を聞かされる、なんて、最悪だわ」
ルゼの瞳が、今までに見たこともないほどに気弱げに揺れる。イーリィはルゼに右手を差し出した。
「全部話して。あのとき何があったのか。父様が何をして、何をしようとしていたのか」
ルゼはどこか怯えるように目を伏せる。そして、大きく息を吸い、深く吐いて、
「……分かった」
イーリィの手を取り、立ち上がった。
ルゼとイーリィが退出して、取り残されてしまったトラック達にイャートが近付き、おもむろに頭を下げた。
「心から感謝します。リェフを、人殺しにせずに済んだ。すべて君たちのお陰だ」
剣士とセシリアが驚いたように顔を見合わせ、慌てて顔を上げるように言った。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。一瞬の間が空き、剣士が思わず吹き出し、セシリアが口元を隠す。イャートは苦笑いと共に顔を上げた。
「ひどいな。何も企んじゃいないよ」
トラックが安心したようなクラクションを返す。「まったく」とつぶやき、イャートは軽く息を吐いた。
「リェフは、どうなる?」
表情を引き締め、剣士が言った。イャートは淡々と答える。
「殺人未遂の現行犯、だからね。基本的には起訴されて裁きを待つことになる。ただ、彼はその前に工作員から副議長を守っている。そこの辺りがどう評価されるか、だね」
未遂で終わった、ということはリェフの命を繋ぐための大きな成果だとイャートは言った。殺してしまっていたらケテルの法では死刑を免れるのは難しく、おそらく本人も生きることを望まないだろう。現行犯である以上犯行事実に関しては争点にならないはずで、裁判の焦点は動機とその背景に絞られる。リェフの事情を裁判官がどれだけ酌量してくれるかで量刑は変わるだろう。
リェフが今後の取り調べや裁判でどう証言するのかは分からないし、実際に彼がどんな思いでいたのか、いるのかは分らない。でも、ちょっとさ、思うんだよ。本当に彼はグラハムを、ユリウス・トランジを殺したかったのかなってさ。父の無念を晴らしたかったのは本当だろう。ユリウス・トランジの罪を明らかにしたいと望んだことも、きっと本心だと思う。でも、殺したいと思ったかっていうと、何となく信じられない気がするんだ。通り魔事件の犯人扱いされて追われながら、命を狙われていた関係者を助けて回っていたこの青年が本当に、誰かを殺すために行動するなんてさ。
もちろん父の仇っていう事情はあるし、ユリウス・トランジだけは殺したいと思ったのかもしれない。だけど、いやこれは本当に何となくでしかないんだけど、リェフは、何というか、ユリウス・トランジを殺したいと思い込んでいたんじゃないかっていうかさ。伝わるかな、この感じ? 義務感とか責任感とかと感情がごっちゃになって、自分が真に何を望んでいるのか、分からなくなってたんじゃないかな? だって本当に殺すつもりなら、その機会はきっと何度もあったと思うんだよ。トラック達が止める間もなく実行できる機会がさ。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。イャートは表情を緩めた。
「ありがとう。弁護側の証人として出廷してもらうかもしれない。その時は頼むよ」
お安い御用だ、と剣士が答え、セシリアがうなずく。イャートは三人を順に見回し、改めて深く頭を下げた。
リェフは過去の清算を求め、グラハムはケテルの未来を望んだ。二人が自らの行為に『正義』の名を付けるかどうかは分からないが、彼らの選んだその道の行く先は、それぞれに異なるものだったのだろう。リェフはケテルが滅んでよいと思っていたわけではないし、グラハムは自分の過去を罪と認識していなかったわけでもない。しかし彼らが道を貫けば、結果的に相手の道を否定することになる。
リェフの求めは正当なものだろうか、それとも不合理だろうか? グラハムの望みは真摯だろうか、それとも恥知らずだろうか? グラハムに保身の心が無かったわけではないだろうし、リェフのとった手段が肯定できるわけでもない。でも、彼らの全てを否定することは、正しいのだろうか?
トラックは、どう考えるのだろう。これからもしケテルが戦火に飲みこまれたとき、トラックはどうするのだろう? 誰も傷付けない、みんな幸せ、そんな理想を貫くことが、本当にできるだろうか? トラックはカチカチとハザードを焚く。「行くぞ」という剣士の呼びかけに応え、トラックはぶぉんとエンジン音を鳴らした。
当然と言えば当然だが、その日のパーティは中止となり、コメルが対応に忙殺されることになった。なにせ式を取り仕切るはずの副議長は逮捕され、主役のイーリィとその父親であるルゼは祝賀などと言っている場合ではない精神状態にある。パーティ会場はトラックが暴れ回ったせいでボロボロ、賓客を迎えるなどもってのほかだし、百人超の会場スタッフのうち二割もの人員が工作員だったせいで逃げ去ってしまい、今から準備をし直す時間も人手もまったく足らなかった。コメルは続々と会場入りする賓客たちにいちいち謝罪し、手土産を渡し、なんならケテル観光も手配して、足を止める間もないほどに働いていた。完全に貧乏くじだな。安易に真相を広めるわけにもいかず他の評議会議員を頼れなかったという事情もあるのだが、コメルがなまじ優秀なために誰もが頼ってしまうということもあるのだろう。実際、この突然の事態にかろうじて対処できているのはある意味驚異である。能力の高い中間管理職の悲哀を感じるよ。頑張れ、負けるなコメル。
ルゼとイーリィは、迎賓館の一室で、かなり長い時間を掛けて話をしたようだ。十年の空隙を埋めるためのその時間に、二人がどんな話をしたのかは分からない。ただ、話が終わった後、トラック達の前に現れた時、二人の雰囲気は大きく変わっていた。イーリィが持っていたルゼへの強い嫌悪と拒絶は和らぎ、ルゼがイーリィに対して抱いていた負い目からくる不自然な溺愛ぶりも影を潜めている。イーリィは目を赤くしていたけれど、鬱屈した様子はその表情からは消えていた。互いにまだぎこちなさは残っていて、急に何でも話せる間柄になるなんてこともないけれど、きっとこの父娘はこれから少しずつ、適切な距離を探りながら、変わっていくのだろう。
その後、ルゼとイーリィも迎賓館の後片付けを手伝い、日暮れギリギリに何とか撤収することができた。実は今日はイーリィとアディシェス伯の子息――つまりイーリィの夫となるはずの男との初顔合わせの予定だったのだそうだ。互いに肖像画的なもので姿を伝えていたらしく、まったく何も知らない状態ではなかったらしいが、それでも似顔絵みたいなのだけで結婚話が進んでしまうことに若干の恐怖を覚える。もっとも今回、パーティの開催を中止したことで、アディシェス伯はこの結婚を破談にするだろう、とルゼは言った。近隣領主も集めて盛大に結婚を宣言するつもりだったのだ。体面を潰された以上、それを不問にして縁談を進めるメリットはアディシェス側には無い。これから賠償を求められるだろうと、ルゼは憂鬱そうにため息を吐いた。しかしその顔は、どこかホッとしているようにも見えた。
藍色の空の下、トラックはイーリィを助手席に乗せ、ギルドへの道を走っていた。セシリアと剣士は荷台で体育座りをしている。窓は開けられており、湿り気を帯びた生温い風が頬を撫でた。ケテルに本格的な夏の足音が近づいている。
「トラさん、私ね」
愁いを帯びた瞳で流れる景色を見つめながら、イーリィは独り言のように言った。
「……少しだけ期待したの。あなたが迎賓館に来たって聞いたとき」
イーリィの表情からは感情を読み取れない。彼女がどんな気持ちで言っているのか、わからない。
「私を、さらってくれるのかも、って」
そしてイーリィは口を閉ざした。トラックがそのつぶやきに応えることもなく、徐々に星が姿を現わし始めた空が、やけにきれいだった。
数日後、トラックに評議会議長ルゼから一つの依頼が舞い込んでくる。その依頼の内容は、イーリィのアディシェスへの移送だった。
アディシェス伯のご子息は武人肌の不器用な男。
イーリィさんの肖像画を見て、一目惚れだったようですよ。




