たとえ世界が壊れても
グラハム・ゼラー。ケテル評議会の現副議長。以前、ガトリン一家の件で『存在しない部屋』に呼ばれたとき、トラック達はルゼの隣に座る副議長グラハムと対面している。確かグレイヘアーの、キツネの様な細い目をした初老の男だった。老獪な、腹の底の読めない印象の男ではあったが――
「ばかなっ!」
イャートが思わずといった風情で声を上げる。セシリアと剣士も、周囲にいた衛士たちも一様に驚きの表情を浮かべていた。
「十年以上評議会議員を務めた重鎮だぞ!? その正体がクリフォトの工作員だったというのか!?」
グラハムはルゼよりも一年早く評議会議員になり、ルゼと競うように評議会での地位を高めてきた男なのだそうだ。ルゼが良識派と呼ばれる派閥を率いたように、グラハムは自由派という派閥を率い、両者は対立しながらもそれぞれのやり方でケテルを発展させてきた。思想や手段が違っても、ケテルの繁栄という目的は同じ。同じ、はずだった。しかしグラハムが本当にユリウス・トランジという名の工作員なのだとしたら、彼はケテルの中枢に潜り込んで内側からケテルを蝕もうとしていた、ということなのだろうか? 十年以上もかけて、ケテルを崩壊させるためにケテルで生きてきたのだろうか?
「いや、理屈に合わない! クリフォトは六年ほど前にできた若い国だ。グラハムが評議員になった当時、クリフォトは存在していない!」
イャートの疑問にセシリアが答える。
「クリフォトの現国王、ズォル・ハス・グロールはセフィロト王国の宰相だった男です。ユリウス・トランジを送り込んだ当時からすでにクーデターも、その後のケテル併合も見据えていたとしたら、辻褄は合う」
セシリアの声にわずかな怒りが滲む。ズォルがいかなる人物なのかを俺は知らないが、そんなに前からケテルの併合に向けて動いていたとしたら、いったい何が目的なのだろう。ケテルを手に入れたいそれほどの理由が何かあるのだろうか? どこか納得できない表情のイャートにボスははっきりと言った。
「グラハムがユリウス・トランジであることは間違いない。僕の父はヤツとはそれなりに因縁があるんだ。友人の仇だって、父はずっとヤツの行方を追っていた」
ボスはイャートとは対照的に、落ち着いた様子で答えた。嘘をついている様子はなく、ボスがわざわざ嘘をつく必要も思い当たらない。セシリアが確認するように言った。
「お父様の友人、というのは、ゼオという方ですか?」
「え? そう、だけど、どうしてそれを?」
ボスがやや戸惑い気味にうなずく。イャートの顔から血の気が引いた。
「副議長が、ゼオさんの、仇……」
かすれた声でイャートがつぶやく。その拳は固く握られ、震えていた。先々代の衛士隊長ゼオはイャートの恩人であり、南東街区で起きた大規模なマフィア同士の抗争を治めようとして命を落としたとされていた。南東街区に向かうゼオを止めることも、一緒に行くこともできなかったイャートは胸に後悔を抱え、ゼオの最期がどのようなものであったのかを長く調べながら、それを知ることができずにいた。それが思いもよらぬ形で今、真相を知らされた。仇、という言葉を使う以上、ゼオが単に抗争に巻き込まれたのではなくユリウス・トランジの明確な意思によって殺害されたのだと、イャートは思い至ったのだろう。
「……これほど近くにいながら、何も気付かなかったか――」
イャートの顔が自虐に歪む。剣士が口を開いた。
「そんな相手から、どうして仕事を請け負った?」
父親が友人の仇として追っていた相手からの依頼なら、断るほうが自然ではないか、と剣士は言っているのだろう。当然の疑問だと思ったのか、ボスは小さくうなずいた。
「信じてもらえるか分からないけど」
トランジ商会を名乗って接触してきたのは向こうのほうからだった、とボスは言った。トランジという姓はケテル周辺では珍しいらしく、因縁の相手に関わることを直感したボスは、仕事を敢えて引き受け、ユリウス・トランジの行方を探ることにしたのだという。獣人売買、詐欺、人身売買、細々とした犯罪も併せればもっとたくさんあるらしいが、それらを通じてボスは少しずつ情報を集め、そして一つの結論を得た。副議長グラハム・ゼラーこそがユリウス・トランジであると。
「直接会うことができるくらいに信用を得て、実際に会ったときに――殺すつもりだった」
しかし獣人売買を始めとした幾つかの大きな事件はトラック達に阻止され、思うように信用を得ることはできなかった。ユリウス・トランジもボスに直接姿を見せることはなく、そのうちにトラック達によってガトリン一家は壊滅させられてしまった。
「父の最後の心残りだった。叶えてあげたかったんだけど」
ボスがわずかに目を伏せる。いや、でもね、それはボスが人殺しになるってことだから、そんなん叶えられなくていいんだよ。トラックたちがガトリン一家が起こした事件を邪魔したことで、結果的にボスにユリウス・トランジを殺させなかったわけだ。結果論だがグッジョブトラック。人殺しなんかせんほうがいい人生に決まってるんだから、それでよかったんだよ、ぜったい。
「おそらく、リェフは気付いています」
セシリアがイャートに向けて言った。イャートの顔はますます白くなり、身体の震えの意味が変わったようだ。ボスは当然だがリェフの名に覚えがないようで、何の話かと訝しげな視線をセシリアに送った。
「『たとえ世界が壊れても』、か」
ようやく得心がいった、というように剣士がつぶやく。セシリアがうなずきを返した。リェフがトラックに投げかけた言葉、『たとえ世界が壊れても、あんたは皆を守るでしょう?』が意味するものは、リェフが起こそうとしている事件によってケテルがこれから否応なく巻き込まれる変化の予言だったのだ。ケテルはリェフによって選択を迫られようとしている。それも、選択肢の一つしかない選択を。
「リェフは副議長を――誅殺しようとしている」
セシリアの言葉が、まるで神託のように厳かな響きを帯びて広がった。誅殺、すなわちグラハム・ゼラーの正体を暴き、全ての罪を公にした上で殺す。それが意味するものは、ケテルとクリフォトの関係の不可逆的な破綻だ。グラハムの正体を暴き罪を公表することは、エルフやドワーフを始めとする他種族に対し、ケテルの中枢である評議会が『異種族排斥』を国是とするクリフォトに浸蝕されていたことを露呈する。他種族の不信の目が厳しくケテルに注がれるのは必定で、議長であるルゼが他種族融和を掲げる以上、ケテルはクリフォトを公的に非難せざるを得ない。しかしクリフォトはその非難を事実無根と主張し、逆に「不当に国の名誉を傷付けた」と激しく反発するだろう。それはクリフォトにケテルとの戦端を開く口実を与える。
一方で、罪を明らかにした上でグラハムを殺すことは、クリフォトに対してケテルが敵対する意志を表明するものとして機能するだろう。単に暗殺するのではなく、「お前のところの工作員だと知っているぞ」と宣言してから殺すのだから、クリフォトには明確な挑発として受け取られる。リェフが衛士隊の副長という身分であることもそれに一役買うことになるはずだ。外交的な意味とは別の、影の部分でケテルとクリフォトの対立は先鋭化する。おそらくはより露骨な手段でクリフォトはケテルに干渉するようになる。
公的にも裏面でも、ケテルはクリフォトに正面から戦うことを求められるのだ。それが、リェフが言った『世界が壊れても』の意味。平穏は彼方へと去り、戦いの運命がケテルを呑み込む。文字通り世界が壊れるほどの激変にケテルは見舞われる、いや、それを自分の手で引き起こすのだと、彼はあの夜、トラックに告げたのだ。そして同時に、運命に呑まれるケテルを、人々を守ることを、トラックに託した。
「副議長の所在をご存知ですか?」
焦燥を抑えた冷静な声でセシリアがイャートに問う。半ば呆然としていたイャートはハッと我に返り、唾を飲んで喉を湿らせると、やや早口に言った。
「……今日の午後、評議会主催のパーティが予定されている。議長の娘とアディシェス伯の子息の婚約を公式に発表する場だ。評議会議員はもちろん、他種族の使者やアディシェスの関係者も大勢招かれている。パーティの最中に事を起こせば、他種族にもクリフォトにも、確実に情報が伝わる」
隠蔽や情報操作の余地のない、リェフにとってはうってつけの舞台、ということになるだろうか。でもそれは、もう引き返すことのできない血塗られた道だ。父の仇を討つ。ユリウス・トランジを断罪する。クリフォトに浸蝕された評議会の現状を白日の下に晒す。その果てにあるのはケテルと他種族を巻き込んだクリフォトとの大戦なのだ。リェフはそれをどう思っているのだろう。彼の正義は今、どこにあるのだろうか?
「行きましょう。リェフを止めなければ。何より、彼を人殺しにしてはなりません」
剣士とイャートが表情を引き締め、うなずきを返す。そして三人はわずかな時間も惜しむように部屋を飛び出した。事情を理解していないボスが、彼らの背に声を掛ける。
「ユリウス・トランジは呪銃の名手だと聞いている。気を付けて!」
走る足を止めず、感謝の言葉だけをボスの許に返して、セシリアたちは詰所を出る。イャートは祈るように、怯えるようにつぶやいた。
「君は、殺しちゃいけない。汚れ役は僕の仕事だ。君は正道を行くんだ。ケテルの未来に、君は必要なんだ、リェフ――!!」
椅子の上に丸まり、怯えて震える男にトラックはプァンとクラクションを鳴らした。男はガクガクと首を縦に振る。
「あ、あいつは、狂ってる! あいつはケテルを滅ぼすつもりなんだ! 親の仇か何か知らないが、ユリウスを殺せばクリフォトは間違いなく報復してくる! 国家を相手にケテルが勝てるはずがない!」
何を言っているのか分からないのだろう、コルテスが肩をすくめた。リェフの事情を知らないコルテスには仕方のないことだけどね。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。男は呻くように言葉を搾り出した。
「……今日の午後、評議会主催のパーティがあるらしい。詳しいことはわからないが、異種族の使者や近隣の領主の関係者が呼ばれる大きなものだ。あいつはそこに向かうと言っていた。誰にも言い逃れをさせないように、と」
一堂に会した関係者の目の前で、リェフは復讐を果たすつもりなのだろう。もしそのことが公的に伏せられたとしても、実際にそれを目撃した者たちの口を完全にふさぐ術はない。誰にも言い逃れをさせない、とは、実質的に隠蔽が不可能な状況で事を為すというリェフの意志の現れなのだ。
トラックはプァンとお礼のクラクションを鳴らす。向かうべき場所は分かったのだ。これ以上この男に聞くことはない、ということだろう。コルテスが「もういいのか?」と驚いた表情を浮かべた。コルテスにとってはちんぷんかんぷんだろうから、ここで話が終わるのは釈然としないところだろうな。
トラックがバックで部屋を出る。静かな部屋に場違いな警報音――バックシマス、ゴチュウイクダサイという電子音声――が鳴り響く中、男は顔を上げて、どこか許しを請うように言った。
「……俺たちは確かに、十五年以上前に、セフィロト王国から送り込まれた。俺は足を洗ったが、ユリウスはクリフォトとも関係を繋いでいる。それは事実だ。でも、俺たちは十五年以上、ケテルで生きてきた。ここで、暮らしていたんだ――」
男の言葉の意味を考えるように、トラックは一時停止してハザードを焚いた。数秒ほどの間をおいて、トラックは部屋を出る。男は再びうつむき、コルテスがそっと部屋の扉を閉めた。
外に向かいながらトラックはコルテスにプァンとクラクションを鳴らす。コルテスは一瞬考える表情を見せ、そして言った。
「北部街区には要人を迎えるための迎賓館がある。ケテル外からの客人を迎えるならそこを使うだろうな」
お礼のクラクションを鳴らし、トラックはアクセルを踏み込んだ。離れる距離にトラックの意思を感じたのか、コルテスは足を止める。去っていくトラックの背にコルテスは声を掛けた。
「あの若造を頼んだぞ。若いのが不幸になるのは見たくないからな」
任せろ、という強めのクラクションを返し、トラックは避難所を後にした。
一方その頃、評議会のパーティに出席を命じられたイーリィは、芋ジャー姿で会場に入ろうとしてコメルに必死で止められていました。




