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悪魔

 戦いの気配が去り、南東街区との境界にある広場は静寂を取り戻していた。ただ、不器用な男の願いが叶えられたことを証明する嗚咽だけが、かすかに響いている。ボスはヘルワーズを優しい眼差しで見つめ――ほどなく目を閉じた。剣士がハッと息を飲む。看護師の女性が慌てて駆け寄り脈を取った。


「……眠っただけのようです」


 看護師の女性の安堵の声に、剣士は深く息を吐いた。半年以上眠り続けたのだ、ボスの体力は相当落ちているだろう。むしろこのタイミングで声を上げることができたことのほうが奇跡なのだ。

 不意にぐらり、とヘルワーズの身体が揺れ、ボスに覆いかぶさるように倒れた。


「ヘルワーズさん!」


 看護師の女性が悲鳴を上げ、今度はヘルワーズの手を取る。その顔色はみるみる青ざめていった。狼憑き(ベルセルク)の効果が消え、その身に受けた全てのダメージが一気にヘルワーズに襲い掛かったのだろう。無数の矢傷も、法玉の爆発を受け止めたことも、薬の効果で無視できていただけでダメージがなかったわけではないのだ。膨張した筋肉で無理やり塞いでいた傷口は開き、出血が止まらない。


「このままじゃ――!」


 看護師の女性が唇を噛む。持っていた布と包帯で素早く応急処置は施してくれているが、それでどうにかなるとはとても思えない。ヘルワーズの一撃で痛めたわき腹に顔をしかめ、剣士がヘルワーズに駆け寄った。


「せっかく、せっかく弟さんが目覚めたのに! こんなところで死んじゃ、ダメです!」


 傷口に当てた布を手で押さえながら看護師の女性は必死に呼びかける。何の反応もしないヘルワーズに、剣士はつぶやくように言った。


「……こんなのは、嘘、なんだよ」


 看護師の女性が顔を上げ、不可解そうに剣士を見つめる。剣士はぽつり、ぽつりと言葉を続けた。


「生まれを呪って、後悔抱えて、擦り切れて、縋って。やっと生き方見つけて、守りたいもん、これから守っていこうってとこだろう。こんなとこで死ぬなんて、嘘なんだよ。ボスが次に目覚めたときにお前がいないなんて嘘なんだよ。お前らが揃って生きてなきゃ、嘘なんだよ!!」


 どこか遠く、切実な祈りを込めて、剣士が叫んだ。その瞳が禍々しい赤に染まり、怪しい光を放つ。夜の闇を呑み込むようにその肌が黒く染まっていく。人の形を、失っていく。看護師の女性が呆然と剣士を見上げた。


「助けられるヤツのところに連れていく」


 剣士の声にノイズのような、人にあり得ぬ、不快な、錆びた鉄を擦り合わせたような気配が混じる。異様な雰囲気の気圧されながら、看護師の女性はうまく動かない口で言った。


「運ぶ、なんて、無理、です。移送に耐える、体力が、もう――」

「ニンゲンには無理でも」


 剣士はにやりと口の端を上げる。鋭い牙が覗いた。


「『悪魔』になら、できるのさ」


 剣士が虚空の手を伸ばす。鉄の手甲に似た堅く冷たいその手は、長く鋭い爪で細い赤月を引き裂こうとしているようだった。


「敵が阻めば敵を引き裂く。時が阻めば時を引き裂く。距離が阻めば――」


 剣士の瞳が不吉な輝きを増す。伸ばしたその手を振りかぶる。


「――距離を引き裂く」


 鈍く月光を反射し、爪は振り下ろされた。断末魔のように大気が、いや空間が甲高い金属音を立てる。


「この俺の望みを、阻むな――!!」


 火花のように光が散り、剣士の爪が空間を引き裂いた。かぎ裂きの断裂面の向こうに闇でも光でもない、ぼんやりと明るい黒が見える。それはおそらく異界への入り口。剣士は軽々と、ヘルワーズとボスと看護師の女性を抱え、ためらいなく異界へと身を躍らせた。




 ベッドの脇に置いた椅子に座り、イャートは難しい顔で腕を組んでいる。ベッドには眠るセシリアの姿があった。襲撃者を退け、詰所には安堵の気配が広がっている。しかしイャートの眉間のシワはむしろ深くなっていた。


「奴らはなぜ撤退した?」


 セシリアを見下ろし、イャートはつぶやくように言った。問い、というよりは自身の思考を整理するための言葉のようだ。


「君の力が我々を救った。しかし、それは奴らが撤退する理由にはならない。あんな力が何度も使えるはずもない。戦いを続けられていたら、僕たちは負けていた」


 セシリアの髪は普段の栗色ではなく、陽光を思わせる金に変わっている。そしてその身体はほのかな白い光に包まれていた。神聖な、近付くことを躊躇ってしまうような、全き白。それは彼女がただの魔法使い、ただの癒し手ではないことの証明のように見える。


「……ターゲットを変えた? 人形師から、『翡翠の魔女』に?」


 瀕死の重傷者も、崩れかけた建物さえ一瞬で元に戻す。そんなデタラメな力なら、確かに有用かもしれない。敵が『人形師の殺害』から『翡翠の魔女の捕獲』に目的を変えたのなら、撤退の理由も理解できる。殺しの専門家は誘拐の専門家ではない。生きたまま捕獲し、その後意のままに従わせるためには、今回の襲撃メンバーでは不適切だったということなのだろう。そして再襲撃までして殺害しようとした人形師をあっさり諦めるほどに、敵は『翡翠の魔女』に価値を見出している。ならばそう遠くないうちに、入念な準備を整えた上で、敵はセシリアを攫いにやってくるだろう。

 イャートは自らの腹部に手を当てた。仲間だと思っていた隊士が抉った傷は最初からなかったようにきれいに消えている。それどころか昨日受けた傷も消え、青白かった顔にも血色が戻っていた。何もかも元通り。あたかも新しく作ったみたいに。

 イャートは再びセシリアを見る。まだ十六そこそこの少女は、特異な力を宿したまま昏々と眠っている。彼女はその力ゆえに狙われ続けるのだろう。あるいは、今までもそうだったのだろうか? 冒険者として流れ者のような生活を選んだのは、背負った力の呪いゆえなのだろうか?

 衛士隊の中に敵の内通者がいた。戦いの後に数名の衛士が行方をくらましているが、それで全部とは限らない。未だ息を潜め、仲間のふりをしている虫がいるのかもしれない。だが、それでも、衛士隊は正義を標榜する組織だ。そして、どれほど強い力を持とうとも、子供が過酷な責任を負わされ、理不尽に一人で立ち向かわねばならない世界は、正しくない。絶対に。


「……恩は、返さないとね」


 常になく誠実な声音が部屋に広がる。それは決意と責任を示すようにはっきりと力強く響いた。




「た、隊長!」


 焦ったような声と共に扉が開け放たれ、一人の衛士が転がるように飛び込んでくる。と、同時に、吐き気を催す異様な空気が部屋に流れ込んできた。近付くな、すぐに逃げろと直観が告げる。真っ青な顔の衛士にイャートが大きな声を上げる。


「何があった?」

「そ、それが、突然、部屋に、化け物が!」


 しどろもどろで要領を得ない衛士の言葉にイャートは眉をひそめる。衛士の動揺は事態の緊急性を伝えているが、化け物とやらが暴れているような音は聞こえてこない。とにかく状況を確認しようということだろうか、イャートが椅子から腰を浮かせたとき、今までピクリとも動かずに眠っていたセシリアが勢いよく上半身を起こした。


「……まさか、『悪魔』の力を――」


 セシリアはベッドを降り、裸足のままで部屋を飛び出す。イャートは慌ててその背を追った。




 仄明るい黒に覆われた異界を踏み越えて、剣士は再び現世に戻って来た。時間にしてほんの一分程度。異界に入った時と同じように空間を裂き、飛び出したその先は、衛士隊の詰所だった。衛士たちがぽかんと口を開けて呆気にとられたように剣士を見つめる。そしてその目はすぐに恐怖と混乱に染まった。皆が一斉に剣を抜く。しかし、その手は一様に震えていた。剣士の異形と禍々しい気配に衛士たちは飲まれている。ランプの灯りに照らされた剣士の姿は光を通さぬ闇に紅い瞳が浮かび、おおよそ人の姿を留めていない。

 剣士が抱えていたヘルワーズとボス、そして看護師の女性を荷物のように床に放り投げ、愉快そうに笑った。だが次の瞬間には痛みに耐えるように右手で頭を抑える。何かを押し込めるように奥歯を噛み、うつむいて上げたうなり声が怖ろしげに響いた。ボスも、ヘルワーズも、看護師の女性も床に転がったまま動かない。全員意識がないようだ。

 ヘルワーズたちを被害者と認識したのか、衛士たちの表情が変わる。数人が剣を強く握り、前に出て剣士を囲んだ。気合の声を上げて衛士たちは剣士に斬りかかった。後ろに控えていた衛士たちがヘルワーズたちに駆け寄り、抱えて壁際に退避させる。剣士の顔が残酷な悦びに染まった。


――オオオオォォォォーーーーーーーーーーッッ!!!


 胸を反らし、天を見上げ、剣士はこの世の者とも思えぬ咆哮を上げた。その声は剣士に斬りかかっていた衛士たちの剣を砕き、その身体を吹き飛ばした。壁に強かに背を打ち、衛士たちは意識を失う。剣士が忌々しそうに言った。


『邪魔をするなよ。殺し損ねた』

「……うる、せぇ。引っ込んでろ!」


 一人芝居のように剣士は自分と対話している。剣士は再び苦しげにうつむいた。囲んでいた衛士たちを一瞬で吹き飛ばしたのを目の当たりにして、他の衛士たちは動けずにいる。

 バタバタと足音がして、廊下からセシリアとイャートが部屋に入って来た。剣士の姿を見たセシリアが驚きと、怒り、悲しみ、憐みが混ざった複雑な表情を浮かべる。


「侵蝕が、これほど――」


 剣士はおどけたように肩をすくめた。


『おいおい、またお嬢ちゃんに頼るのか? ママがいなきゃ何もできない赤ん坊かお前は』

「黙れ! ここはお前の居ていい場所ではない!」


 鋭く剣士をにらみつけてセシリアは叫ぶ。剣士は逆撫でするように大げさなため息を吐いた。


『こっちは呼ばれて出てきたんだぜ? それなのにその言い草は――』

「こいつらを、頼む――!!」


 自分の言葉を自分で断ち切り、剣士がヘルワーズたちを指さして叫んだ。さされた方向を振り返って、すぐさまセシリアから光が溢れる。光はヘルワーズたちのみならず部屋中を満たし、さっき剣士に吹き飛ばされた衛士たちも、砕けた剣もきれいに癒していく。セシリアの身体がふらつき、イャートが慌てて支えた。


『すごいじゃないか。死にかけた男が一瞬で全快だ。そうやってセフィロトの娘は安らかに死にゆくはずだった魂を血みどろの現世に留め、駒のように戦わせるのさ。知ってるか? セフィロトの娘の異名は、死神、だ』


 セシリアが憎悪を込めた瞳で剣士を射抜く。セシリアを支えているイャートが「セフィロトの娘?」とつぶやいた。剣士は楽しげに言葉を続ける。


『大きな力を使った直後なんじゃないか? 励起した力を治められていないんだろう。始原の力がだだ漏れてるぜ? 俺の事なんかほっといてさっさと休んだ方がいい。このまま力を垂れ流してたら――死ぬぞ?』


 剣士の声が脅すような響きを帯び、一段低くなった。セシリアは怒りを叩きつけるように剣士をにらんだまま、イャートの手を離れる。その双眸が鮮やかな翠に輝いた。イャートがセシリアの肩を掴む。


「これ以上、力を使ったら――」

「これは、彼と私の約束なのです」


 イャートの手を払い、セシリアは剣士に向かって手をかざした。黒を打ち消す真白き奔流が剣士を飲みこみ、その姿をかき消した。


『あぁあ。今日はこれでお終いか。暴れて逃げてもいいんだが、セフィロトの娘がここで死んだらつまらねぇし、大人しく帰ってやるよ。どうせ次はすぐに来る。お前が死を呼ぶ存在(セフィロトの娘)である限り、こいつが力を望む機会はいくらでもあるだろうよ』


 せいぜい楽しませてくれよ、の台詞を残し、禍々しい気配が消える。光が晴れ、そこには剣士の――人の形をした剣士の姿があった。剣士は力尽きたように膝をつく。セシリアが駆け寄り、その身体を支えた。


「……悪魔が、誰かを助けたいと、言ったら、おかしい、か……な……?」


 うわごとのように剣士がつぶやく。剣士を抱きしめ、セシリアは首を強く横に振った。


「何もおかしくはない。何もおかしくなど、ありません――!」


 安心したように幼く微笑み、剣士は意識を失った。過酷な運命を支えるように、セシリアは剣士の身体を強く抱きしめ続けていた。

真っ赤なルージュを引いた唇で、女は艶やかに微笑んだ。

「この伏線、回収されるかどうか、賭けてみる?」

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[一言] >「この伏線、回収されるかどうか、賭けてみる?」 されない可能性もあるの!?www
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