真実
自ら口にした『狩人熱』という言葉に、コメルは瞑目する。
「当時、すでにリュネーの花は乱獲され、絶滅したとされていました」
『狩人熱』とは、皮膚に赤黒いあざが浮き出るという特徴を持つ、呪いとさえ言われる死病だ。以前ゴブリンの族長の妻――ガートンの母親が感染し、生死の境をさまよっていたのをトラック達が救ったことがある。その狩人熱の特効薬の材料がリュネーの花。狩人の若者に恋をした妖精の名を持つ、青く美しい花だ。その花は青の染料の材料でもあり、王侯貴族の間でリュネー染めが流行したときに採り尽くされ、元々は泉のほとりに咲くありふれた花だったリュネーは人々の前から姿を消した。
「奥様の病が『狩人熱』だとわかったとき、私たちは絶望に打ちひしがれました。それはもはや、治療の手段がないという宣告だった」
そんなとき、コメルたちは一つの噂を聞く。都の薬草園にはリュネーの花がまだ残っており、『狩人熱』の治療に使われている。ルゼは急いで薬草園にリュネーの花の購入を打診したが、そのときはまだ無名の零細商人に過ぎなかった男のことなどまるで相手にされず、門前払いされたのだという。
「どこの誰とも知れぬ者に貴重なリュネーの花を譲るわけにはいかない。第一、お前はリュネーの花の価値を知っているのか? あからさまに見下すみたいにね、そう言われました」
リュネーの花の取引価格は、とても当時のルゼに用意できるような金額ではなかった。商人としての格も、財力も、ルゼには足りなかった。
「しかし、私たちには一つだけ、希望がありました。当時進んでいたエルフとの米の取引です。私たちはエルフの信頼を得つつあった。非公式にですが『真緑の樹』に招いてもらえるという話も出ていたのです」
もし『真緑の樹』、つまりハイエルフの都に招かれ、女王に謁見を許されるなら、ハイエルフとの大規模な米の取引が可能になるかもしれない。それはルゼにとって、零細商人から一気に北部街区の壁を飛び越える、いや、それどころか評議会議員の席にも手が届く、おそらくは二度とこないであろうチャンスだった。ケテルの評議会は薬草園ともコネクションがある。エルフとの取引で得られる莫大な利益と評議会議員の椅子。それはルゼがリュネーの花を得るための、手が届きうる唯一のカードだった。
「旦那様は奥様とお嬢様のことを私に託し、文字通り寝る間もないほどに懸命に働いていました。ウォーヌマとエルフの村々を往復し、取引先を増やし、生産者を説き伏せ、品質を確保しながら価格を抑え、生産者の生活も安定させる。銅貨の一枚でもコストを減らし、利益を最大化する。気の遠くなるような工夫と努力の果て、ついに旦那様は『真緑の樹』に招かれた」
ルゼの提供する米の品質は、ハイエルフの間ですでに噂になっていた。ルゼは女王に謁見を許され、そしてその場で正式に、城に納入する全ての米の取り扱いを任せるとの約束を取り付けた。それはルゼの、生産者と消費者がどちらも幸せになるという理念が結実した瞬間であり、妻の命を繋ぎとめる力を得た証明でもあった。ルゼはかき集められるだけの米をすべてかき集めてハイエルフに納品し、得た利益を持って評議会議長の許を訪れる。当時の議長はルゼの実力を認め、評議員の一席を与えることを確約した。
「金も地位も手に入れ、旦那様はようやく家に戻ってこられました。あとはリュネーの花を手に入れるだけ。しかし――」
帰宅したルゼを待っていたのは、目を閉じた妻と、泣きはらした目でにらむ娘の姿だった。
「どうして帰ってきてくれなかったの!?」
呆然と立ち尽くすルゼに、イーリィは容赦のない言葉を浴びせる。
「母様はずっと、父様を待っていたのに!」
イーリィの言葉を聞いているのか、ルゼは血の気の引いた顔で妻を見つめていた。
「そんなに仕事が大事なの!? お金を稼ぐことが、母様よりも大切なの!? 成功するためなら、母様の事なんてどうだってよかったの!?」
イーリィの目から大粒の涙がこぼれる。
「父様は、最低よ!!」
叩きつけるようにそう叫び、イーリィは部屋を出て行く。ルゼは自らを支える力を失ったように膝から崩れ落ちた。その手に持っていた、金貨を詰めた袋が床に落ち、中身が床に散らばった。
「旦那様は、お嬢様にひとことも弁解することはありませんでした。私にも決して真実を告げることをお許しにならなかった。奥様を助けることができなかった以上、結局は見殺しにしたのと同じだと、旦那様はご自分を責め続けておられます。自ら命を絶とうとまで思いつめておられた時期もありました。お嬢様の存在が無ければ、本当にそうなさっていたかもしれません」
コメルはそう言って、深く息を吐いた。その日々に感じた無念、後悔を思い出しているのだろう。コメルは目を開き、トラックを見上げた。
「……不器用な、御方なのです。素直な気持ちを伝える術を知らない」
トラックはカチカチとハザードを焚いた。コメルの言葉を信じるなら、ルゼとイーリィの確執は、実は全く必要のない行き違いだということになる。イーリィはルゼを誤解し、ルゼは誤解されることを甘んじて受け入れている。でもそれって、誰も幸せになってないじゃん。不幸が積み重なってるだけじゃん。ルゼの悔恨が、妻を助けられなかったという自責の念が、娘に憎まれることで贖われると思っているのだろうか? でも、それは、逃げだ。娘と向き合うことから逃げているだけだよ、ルゼ。
コメルは表情を改め、居住まいを正してトラックに向き直った。
「旦那様は決して、冷徹でも無感情でもない。ただ、大切なものを守るためであれば、己がどれほど汚れようとも貫徹する意志がある。旦那様にとって、お嬢様も、このケテルも、決して失ってはならない大切なものです。トラックさん、どうか、旦那様の意志を汲んでいただけませんか? お嬢様の結婚は、お嬢様とケテルをどちらも守るために必要なことなのです!」
コメルは深く頭を下げる。トラックはずっとハザードを焚いたままだ。釈然としない、と言いたげな様子。うん、俺もね、釈然としない。全然しない。
ルゼがイーリィの事を心から想っているのは本当だろう。しかし、それはイーリィの心を無視していい理由にはならない。このまま結婚話を推し進めて、イーリィは幸せになれるだろうか? 母を失い、父を誤解したまま、なげやりな気持ちでする結婚はうまくいくのだろうか? すれ違いが生んだ憎しみを抱えたまま、幸福が彼女を包み込んでくれることがあるのだろうか? とてもそうは思えない。
一方的なのだ。ルゼはイーリィを大切と言いながら、イーリィを一個の独立した人格として扱おうとしていない。ルゼにとってイーリィはどこまでも保護対象であり、無力な、可愛い娘。だけど、それは間違いなのだ。イーリィはルゼに一方的に守られる者ではなく、妻の母の死を共に乗り越える仲間であるべきなのだ。だって彼らは家族なんだから。
だからルゼがすべきは、イーリィに真実を話すことなのだ。病に倒れた妻を見舞わなかった理由を、あのとき何をしようとしていたのかを、包み隠さず話すこと。この結婚の意味を話すこと。イーリィはきっと信じないだろう。言い訳だと詰られるかもしれない。それでも、ルゼは伝えなきゃいけない。そこからでないと始まらない。それができないのは、ルゼが自分自身の挫折と、後悔と向き合うことができないからなのだ。それは、ただの自己保身だ。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。コメルは頭を上げ、苦しそうに顔をゆがませた。
「……あなたは、正しい。しかし人は、それほど強くも正しくもないんです、トラックさん」
コメルの言葉に応えず、トラックはアクセルを踏み、公園を後にした。去っていくトラックの姿を、コメルは複雑な表情で見送った。
トラックは北部街区を出て、冒険者ギルドに戻った。時刻は正午を少し回ったところだ。トラックの助手席に乗っていたミラが、ぽつりと言った。
「……トラックは、優しい」
プァン? とトラックは疑問形のクラクションを鳴らした。ミラはかすかに微笑む。
「ふたりとも、幸せにしたいんでしょう?」
そ、そうか。トラック、そんなことを考えていたのか。俺は、実はちょっと反省している。なんかずいぶん強い言葉でルゼを責めてしまったんだけど、コメルの言葉を聞いて思ったんだ。妻を失って、自分の無力さに打ちのめされているときに、そんなに理想的な動きなんてできないよなって。でもでも、それじゃダメなんだってことも、やっぱり思うんだよ。きちんと向き合わなきゃって、そうしなきゃ、変われないって。
トラックはどこかばつの悪そうに無言でギルドの扉をくぐる。ミラがふふっと笑った。滑らかに扉がスライドし、トラックを出迎えた。
「おっ、トラック!」
中に入るなり、トラックに声を掛けてきたのはイヌカだった。最近特に忙しく動いているようで、何だか話するの久しぶりのような気がするな。いや、すれ違ったりはしてたんだけど。
「ちょうどよかった。話したいことがあってな。ちょっといいか?」
イヌカはトラックに、ギルドの外に出るよう促す。あまり周囲に聞かれたくないということだろうか? 今帰って来たのにすぐ追い出される感じが切ない。まあここで敢えて断ってもいいことはないので、従うしかないわけだが。トラックが了承のクラクションを鳴らす。イヌカはうなずくと先導するように外に向かい、トラックはその背を追いかけてギルドを出た。
「通り魔事件を追ってるって?」
ギルドの裏手に回り、イヌカはそう切り出した。トラックはプァンとクラクションを返す。イヌカはちょっと得意げな顔を作った。
「じゃあ、その通り魔事件の犯人と目されているのが、衛士隊副隊長のリェフだってことは知ってるか?」
えー、その情報古いわぁ。もうとっくに知ってるわぁ。今さら得意げに教えてもらっても困るわぁ。トラックがプォンとクラクションを返す。おっと、とイヌカは驚いた顔になった。
「なかなか早耳じゃねぇか。だったら、通り魔事件の現場で目撃されていたのが、リェフだけじゃないってことも知ってるか?」
えっ? そうなの? イャートもルゼも、そんなことは言ってなかった気がするけど。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。イヌカは少しホッとした顔で話を続ける。
「通り魔事件の現場付近で、黒装束に身を包んだいかにも怪しい人物が目撃されてる。で、こっからが本題なんだが――」
イヌカは真剣な表情になり、声のトーンを落とした。
「――どうも、その目撃証言が揉み消されてるらしくてな」
イヌカは今、ガトリン一家のボスを襲った黒装束の刺客の足取りを追っているのだが、その過程で通り魔事件との関連に突き当たったらしい。刺客の目撃証言を集めようとすると、しばしば通り魔事件の目撃証言が出てきたのだ。刺客と通り魔事件の犯人は何か繋がりがあるのではないかとにらんだイヌカは、通り魔事件について調べ始めた。イヌカはギルドの調査部員として、商人ギルドにも衛士隊にもコネクションがある。自分の足で集めた情報と商人ギルドや衛士隊の知り合いから得た情報を突き合わせた時、相手の情報から黒装束の目撃証言だけがすっぽりと抜け落ちていることに気付いたのだという。
「目撃者は衛士隊や商人ギルドの調査員にも証言したと言ってた。だが、それが衛士隊や商人ギルド内で共有された形跡がない。つまり、誰かが目撃証言を握りつぶしてるってこった」
ああ、それでイヌカはギルド内でこの話をせずにわざわざトラックを外に連れ出したのか。つまり、商人ギルドにも衛士隊にも、トランジ商会に通じている人間が紛れている、とイヌカは考えているのだ。そして、冒険者ギルドだけが浸食されていない、などということは考えられない。誰が敵か、分からない。
「それからもうひとつ、通り魔事件の被害者のことなんだがな」
イヌカの表情が厳しさを増す。深刻な声音が不穏な予感を増幅する。
「全員、姿を消してる」
被害者が、姿を消してるってどういうこと? 確か通り魔事件は怪我人は出ていても死者は出ていないはずだ。被害に遭った後、町を出た? いや、一人二人ならともかく、全員が町を出るというのは考えにくい。
「この事実も商人ギルドや衛士隊内で共有されてねぇ。ってことは揉み消されたってことで、揉み消す必要があったってこった。気になって調べてみたら、被害者にはある共通点があることが分かった」
確か、通り魔事件の被害者に『商人である』こと以外の共通点はなく、それゆえに通り魔とされたはずだ。もし共通点があるなら、そもそもこの事件は通り魔ではなく、通り魔を装った、何か目的を持った傷害事件、だということになる。そうすると、被害者と接点のないリェフへの容疑は的外れだ。ちょっと、もったいつけないで早く教えて!
「被害者は全員商人、と言われてたが、何人か例外がいた。お前も知ってる奴らだぜ? 半年以上前、保証金の名目で商人の家族から金をだまし取った詐欺グループの関係者だ」
詐欺……って、シェスカさんからお金をだまし取った、あのチャラ男? 確か、あの事件で逮捕されたとき、商人ギルドから除名されてたはずだよね? あいつも襲われたの? っていうか、あいつもう釈放されたの!? トラックがプァンとクラクションを鳴らす。
「保釈されたのは最近だ。で、保釈直後に事件に遭ってる。おそらく襲うために保釈したんだろう。すでに商人ではない奴らが含まれているってのが突破口になった。被害者の真の共通点は――トランジ協会絡みの事件の関係者、だ」
トランジ商会絡みの事件、すなわち、獣人売買、詐欺、人身売買、イーリィのお見合い、そして人形師の起こした事件。他にもあるかもしれないが、どうやら通り魔事件の目的はトランジ商会と何らかの形で繋がっていた者全員を消すことではないかと、イヌカは推理したようだ。どうしてこのタイミングで、という疑問はあるが、事情が変わった、ということなのだろうか? ……ん? 待て、事件の関係者、全員?
――プァン!
トラックがハッと何かに気付いたようにクラクションを鳴らす。そうだ、関係者全員を消そうとしているなら、ターゲットになりうる人間がいる! 灰マント四兄弟は間違いなくトランジ商会の関係者だ! つまり、エバラたちが危ない!?
トラックが慌てたように向きを変え、アクセルを強く踏み込む。戸惑うイヌカを置き去りにして、トラックは西部街区に向けて加速した。
家を囲む黒装束たちに向かい、不敵な笑みを浮かべて、エバラは言いました。
「ウチと一戦交えたいなら、軍艦一隻引っ張ってくるんだね」




