十八年前
早朝のギルドは奇妙な緊張感にざわめいている。無理もない。衛士隊長が床に伏す姿などそうそう見る光景ではないのだ。衛士隊はギルドの調査部と協力関係にあるため、イャートのことを見知っているギルドメンバーは多い。この男の蒼白な顔も、怯えるように懇願する様子も、彼を知っている者にとってはにわかに信じがたいことだろう。
プァン、とトラックが戸惑いのクラクションを鳴らす。とりあえず立って、とでも言ったのだろう。周囲の注目を集めていることに気付き、イャートは「すまない」と慌てた様子で立ち上がった。ミラが助手席から降り、イャートに外に出るよう促す。どう考えてもギルドの入り口で立ち話する雰囲気ではない。人目を気にせずに話を聞く必要があるとミラは判断したのだろう。「わかった」と、拍子抜けするほど素直に、イャートはミラの言葉に従った。周囲の好奇の目を振り切って、トラック達はギルドの外に出た。
まるで真冬に薄着でいるように、イャートは血の気を失っている。まだ朝早い時間帯だからだろう、中央広場の人通りは少ない。トラック達は広場の端にあるベンチにイャートを座らせた。膝に肘を置き、祈るように手を組んで、イャートは呻くように言葉を絞り出す。
「……北東街区の、通り魔事件を知っているか?」
通り魔事件、って、リェフが捜査してたヤツ? 確か、商人ばかりが襲われてるんだけど、金目当ての強盗でも怨恨でもない、動機の分からない事件だったっけ? 魔王騒ぎの終わりと共に通り魔も姿を消し、捜査は難航しているとか聞いた気がする。トラックがプァンとクラクションを鳴らした。イャートが握る手に力を込める。
「衛士隊はリェフが犯人だと考えている」
プァン!? とトラックがクラクションを返す。イャートは固く目をつむった。
「聞き込みの結果、事件が起きた時間帯に現場付近でリェフの姿が目撃されている。それも、複数の現場で」
リェフは通り魔捜査のかなり初期の段階から単独で動いていたようだ。基本的に優秀な男だったし、イャートは彼を信頼していたため、特に疑問を抱くことはなかった。しかしもしリェフが犯人だったとしたら、部下を連れずに捜査をする振りをしながら、堂々と犯行に及んでいたのかもしれない。いや、でもなぁ。何かの間違いじゃないか? と言うようにトラックが再びクラクションを鳴らした。イャートは力なく首を横に振る。
「もはや真実はどうでもいいんだ。重要なのは、リェフが唯一、通り魔事件に関わる名前の判明している容疑者だということだ」
以前リェフも言っていたが、通り魔事件はケテルに結構な動揺を与えていて、早期解決は衛士隊の至上命題だった。評議会からの圧力は日々強くなっており、イャートは現場と評議会との間に挟まれて調整に奔走していたようだ。そんなある日、聞き込みで通り魔事件の現場近くから立ち去る不審な人物の目撃証言が出た。背格好も年齢もリェフによく似た男が早足で現場から離れる様子が近所の住人に目撃されていたのだ。もっとも事件が起きたのは薄暮の時間帯で、目撃者もはっきり顔を見たわけではない。
「目撃証言が一つだけなら身内を疑う根拠にはならない。だが、それが複数で、しかもその全てにおいて事件当時のリェフの所在が確認できないとなれば、疑いを排除できなくなる」
単独で動いていたリェフにアリバイを証明してくれる仲間はおらず、リェフ自身にそれとなく確認しても裏付けが取れない。捜査と称して動いている割にリェフは目立った成果を上げてもいない。真実を確かめるため、というより彼の無実を証明するために、イャートは信頼できる部下の一人にリェフを監視させた。それがちょうど、魔王騒動と重なる時期だった。
「リェフに監視を付けた時期と、通り魔が現れなくなった時期が重なった。そのことで評議会は一気にリェフ犯人説に傾いた。状況証拠に過ぎないと突っぱねてきたんだが、捜査に進展がないことに業を煮やした評議会はリェフを拘束して尋問しろと通達してきた。それが昨日のことだ。だが、我々が彼を拘束する前に、彼は姿を消した」
評議会の指示があるなら、衛士隊に拘束されることは有罪が確定したこととほぼ同義だ。評議会が求めているのは真実ではなく、事態が終わったことをケテルに示すことだからだ。通り魔がもう現れないのであれば犯人は『誰でもよい』。犯人が捕まり、裁きを受けた、その事実だけを評議会は求めているのだ。その意味では、リェフが拘束を逃れたことは朗報と言っていいのかもしれないが……
「姿を消したことで、評議会はリェフを通り魔事件の犯人と断定した。立場上、私はもう彼を庇うことができない。だが彼は無差別に人を襲うような、そんな人間じゃない! 絶対に!」
自らに言い聞かせるようにイャートは言った。実際のところ、リェフに付けた監視は幾度となく彼を見失っていて、彼の有罪の証拠にも無罪の証拠にもならなかったのだという。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。イャートは弾かれるように顔を上げた。
「会ったのか!? いつ!」
トラックがプァンと、おそらく昨夜の出来事を説明する。イャートは大きく息を吐くと、力なく首を横に振った。
「……いや、わからない。世界が壊れても、なんて、普段の彼が言う台詞じゃない」
地面に目を落とし、イャートはかすれた声でつぶやく。
「……君は、何をしようとしているんだ、副長」
イャートはベンチを降り、トラックに向かって地面に手を着いた。
「今までの全ての非礼を侘びよう。私が気に入らないというなら、この場で首を掻き切ってもらって構わない。その代わり約束して欲しい。リェフを止めると。君ならできるはずだ。法も善悪も踏み越える、冒険者なら!」
法の秩序にこだわるこの男が自らの矜持を投げ打って法を踏み越えることを懇願する様子は、トラック達に切実な本心を伝えている。イャートにとってリェフはそれほどに大事だということだ。ただの部下と上司の関係を越えた何かが二人にあるのだろうか? ミラが助手席の扉に手を添え、トラックを見上げた。
――プァン
トラックは静かにクラクションを鳴らす。イャートが顔を上げた。ようやく光明を見出したように表情が和らぐ。今にも弾けそうな切迫感が消えた。
「……すまない。本来、君に頼めた義理じゃないことは重々承知している」
トラックは気にするな、と言うように再びクラクションを鳴らし、イャートは再び頭を下げた。
「……違和感が、ある」
ミラが冷静に声を上げる。イャートはミラに目を向けた。ミラはじっと、見極めるようにイャートの目を見つめる。
「どうして、止めて、なの? 守って、ではなく」
イャートはわずかに目を見開き、そしてミラから視線を逸らせた。ミラは淡々と問う。
「本当は知っているの? リェフが何をしようとしているのか」
「……知らない。本当だ。だが――心当たりなら、一つだけ、ある」
イャートは鈍い痛みに耐えるように顔をしかめ、話し始める。
「彼は、父親の死の真相を追っている」
リェフの父は先々代、つまりイャートの二代前の衛士隊長だったのだそうだ。イャートはリェフの父の下で働き、衛士としての基礎を叩きこまれた。
「正しく、優しい人だった。リェフはあの人によく似ている」
イャートが懐かしさに目を細める。イャートにとって先々代との記憶は特別なものなのだろう。イャートは話を続ける。
「当時の南東街区はすでにケテルの統治の及ばぬ無法地帯だった。複数のマフィアが乱立して支配を争う混沌とした状況は、評議会の大きな懸案事項だった」
ケテルで犯罪を犯した者や借金を踏み倒した者が南東街区に逃げ込んで処罰されない例が相次ぎ、評議会は統治能力を人々から疑われ始めていた。焦った評議会は衛士隊に南東街区の秩序の回復を命じる。その責任者となったのが先々代、リェフの父だった。
「命じた、と言ってもその実態は丸投げでね。評議会の本音は南東街区に何の興味もなかった。人々の批判をかわすための言い訳として衛士隊は使われたんだ。問題が解決しないのは衛士隊の怠慢だ、と言うためにね」
しかしリェフの父は評議会の本音を逆手に取り、南東街区の秩序の回復に本気で乗り出した。丸投げ、ということは、好きにできる、ということでもある。評議会は人々の批判をかわすことができればいいので、そこさえ確保されていればあとはほぼ無関心だった。リェフの父は単身南東街区に乗り込み、そして――
「その辺のやつらを集めて、酒盛りを始めたらしい」
リェフの父は南東街区の人々を決して否定せず、ただ酒瓶を持ってふらりを現れては杯を酌み交わし、話を聞いたのだそうだ。最初は警戒していた南東街区の人々も、妙に愛嬌のある彼の笑顔に徐々に心を開いていった。
「ズルいんだ、あの人は。あの笑顔でいつの間にか他人の心を開いてしまう」
リェフの父は辛抱強く南東街区に通い続け、少しずつ人々の心を掴んで、やがてマフィアの幹部、そしてボスのところにまでたどり着く。彼はボスの心をも掴み、説得して抗争の一時停戦を実現した。彼は権力も暴力も振りかざすことなく、信頼という名の力を使って南東街区を変えようとしたのだ。そしてその試みは成果を上げたように見えた。彼の仲介によってマフィア同士の対立が大規模な抗争に発展することはなくなり、対話を通じてマフィア同士の一定の秩序が作られ始めた。それは衛士隊の奉じる法の秩序とはまったく異なる、マフィアが培ってきた価値観に沿うものではあったが、秩序を共有することによって相手の行動に対する誤解は減り、是非の判断も容易になって、少しずつ南東街区は落ち着き始めていた、はずだった。
「十八年前、南東街区で大規模な抗争が起きた。原因は不明、前日までその予兆さえなかったのに、複数のマフィアが入り乱れての抗争は短期間に一気に凄惨な殺し合いに発展した」
リェフの父は事態の収拾のため衛士隊の南東街区への出動を評議会に打診したが、評議会の回答は『否』だった。リェフの父は結局一人で南東街区に向かい、なんとか抗争を止めようとして――そのまま帰らぬ人となった。
「相当数の住民を救助したと聞いた。らしいと言えばあの人らしいが、それで死んでしまっては、ね」
共に行くと言ったイャートに、リェフの父は残れと言ったそうだ。まだ若かったイャートはそれに従った。彼の言う「大丈夫だ」という言葉を信じてしまった。あのとき無理やりにでもついて行っていたら、とつぶやき、ふっと息を吐くと、イャートは表情を改めた。
「リェフはあの人の死に疑問を持っていた。あの人がどこでどうやって死んだのかは分かっていないんだ。それにあの抗争が起きた原因もまったく分かっていない。私も当時手を尽くして調べたんだが、まるで情報が得られなかった。誰かが揉み消したみたいに」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。イャートはうなずきを返した。
「リェフは、あの抗争が何者かの手によって意図的に引き起こされたものではないかと考えていたようだ。父親はそれに巻き込まれたのではないかと。今までも捜査の合間に当時のことを調べていた。ここからは私の推測だが……」
イャートは苦しそうに、悔しそうに目を伏せる。
「……おそらくリェフは、通り魔事件の捜査の過程で、何らか当時の真相に関わるものを見つけたんだ。我々の前から姿を消したのは、衛士隊の身分ではできないことをしようとしているから。つまりリェフは――父親の復讐を果たそうとしている可能性がある」
気付くことができなかった。気付かなければならなかった。後悔と自責がその顔に滲む。首を振り、イャートは再び視線を上げた。
「リェフを止めてくれ。彼に人を殺させないでくれ。彼は衛士隊の、ケテルの未来に必要な男だ」
イャートの、今までに見せたことのない真摯な目がトラックを見つめる。その想いを受け止めるように、トラックは真剣な響きのクラクションを返した。
イャート、キャラ変の巻。




