縁談
――カラン
グラスの氷がどこか憂鬱な音を立てる。ギルドに併設された酒場のカウンターでイーリィは独り、ぼんやりと座っていた。意味もなくグラスの縁を撫で、小さくため息を吐く。愁いを帯びた表情はむしろ彼女を魅力的に見せていた。
時刻は深夜を過ぎ、酒場の客の姿もまばらになってきている。酔い潰れて床に転がる冒険者の姿も見慣れた光景だ。喧騒から解放され、落ち着いた雰囲気となった酒場のカウンターは、物思いにふけるにはちょうどいいのかもしれない。
――プァン
やや遠慮がちに掛けられたクラクションに、イーリィは少し驚いた表情で振り向いた。
「……珍しい。こんな時間に、こんな場所でトラさんに会うなんて」
イーリィが艶然と微笑む。ランプの光に照らされたその笑みは、どこか本心を覆い隠すためのもののように見える。トラックが再びクラクションを鳴らした。イーリィの瞳にいたずらっぽい光が宿る。
「あら。それは、私に興味があるってこと?」
トラックは真剣な様子でクラクションを返した。予想外の答えだったのか、イーリィは目を丸くしてトラックを見つめる。わずかに頬が赤くなった。「ズルい」とつぶやき、イーリィはカウンターに向き直ると、グラスを手に取り、琥珀色の液体に少しだけ口を付ける。再び小さく息を吐き、遠い時間に視線を向けて。独り言のようにイーリィは言った。
「……どこにでもある話よ」
「イーリィちゅわ~~んっ!! パパが来ったよ~~んっ!!」
真昼の冒険者ギルドに場違いな声が響き渡る。ロビーにいた冒険者たち――その中にはトラック達もいるのだが――が一斉にギルドの入り口を振り返った。満面の笑みを浮かべて現れたのは当然、ケテル評議会議長ルゼ・バーラハである。受付に座っていたイーリィは無言で立ち上がり、ひらりとカウンターを乗り越えた。まさか出迎え!? とばかりにルゼの喜びが爆発する。感動の涙を浮かべながらルゼはイーリィに駆け寄った。
「ようやくパパの愛が伝わったんだね! こんなに嬉しいことはない! よぅし、今日という日を記念日として永遠にケテルに語り継ご――」
――めきっ
両腕を広げてイーリィに抱き着こうとしていたルゼは、しかしイーリィが無表情に放ったハイキックに側頭部を撃ち抜かれ、くるくるとコマのように回転しながら後方に倒れた。バタン、という意外に派手な音がギルドに広がる。うむ、イーリィの議長迎撃能力は日毎に進化しているようだ。イーリィはつまらなさそうに鼻を鳴らした。議長を助け起こすべきか否か、判断しかねてるギルドメンバーたちのざわめきが聞こえる。
「……お嬢様。お気持ちはお察ししますが、もう少しお手柔らかに」
ルゼの後から入って来たコメルが苦笑気味に言った。イーリィはギロリとコメルをにらみつける。「おっと」とつぶやいて視線を逸らし、コメルはルゼを助け起こした。
「ふっ。さすが私の娘。芸術的なハイキックだった」
コメルに肩を借りながら、なぜか誇らしげにルゼがつぶやく。鼻からはダラダラと鼻血が流れていた。議長の娘であることとハイキックの技量に関連性はないためルゼのつぶやきは意味不明だが、おそらくは娘に構ってもらえたことがうれしいのだろう。あるいは脳に衝撃を受けたことで意識が混濁しているのかもしれないが。
「帰れ」
イーリィが無慈悲にルゼを見下す。いや、身長からすればルゼを見下ろすことはないのだが、精神的には明らかに見下している。しかしルゼはどこかうれしそうだ。きっと視線を合わせてくれただけでうれしいのだ。なんか切ねぇなオイ。
「ところでイーリィちゃん。結婚する気ある?」
白いシャツを鼻血で染め上げながらルゼは天気の話でもするようにそう言った。受付にいたジュイチが驚愕の表情を浮かべる。唐突な話題転換についていけず、イーリィは「は?」と妙に甲高い声を上げた。その表情がみるみる険しさを増す。ルゼは回答を待たず、畳み掛けるように言った。
「あるよね? あるに決まっている。よし、じゃあ結婚だ。式は盛大に行うから楽しみにしててね。それじゃ、準備が整ったらまた来るよ」
「ちょっと待て」
背を向けて帰ろうとするルゼを強引に振り向かせ、イーリィはその襟首をつかんだ。
「今度はどこのホルスタインを連れてくるつもり?」
地獄の底から響くような静かな怒声がイーリィの心情を伝える。ルゼはにへらっと笑った。娘が間近にいることがうれしくてたまらないらしい。
「嫌だなぁ。あれは不幸な行き違いだよ。今度は間違いなく人間だから安心して」
人間だったらいいってもんじゃねぇだろ、という気がするが、少なくとも人間だということが確約されているのは安心材料ではあるかもしれない。そんなことが安心材料になる時点ですでに何かが間違っているのだが。ジュイチが「ぶもー」と抗議の声を上げた。
「いったいどういうこと? 洗いざらい全部吐け」
イーリィが襟首をつかむ手に力を込める。ルゼはやや苦しそうに顔をゆがめた。
「いやぁ、実はね。数日前にアディシェスの領主から内々に連絡があって。イーリィちゃんを息子の嫁にしたいんだって。それはいいお話ですねって盛り上がっちゃってさぁ」
ルゼはふと視線を逸らせる。
「……オッケーしちゃった」
「はぁ!?」
ふざけるな、という表明の代わりに、イーリィはルゼの襟首を締め上げる。もうルゼの身体が浮きそうな勢いですよ。「息が、息が」とルゼが目を見開く。コメルは無情にも素知らぬ顔をしている。
「取り消して、今すぐに!」
「む、無理だ。もう使者は帰ってしまったから」
言葉を失い、イーリィは呆然とルゼから手を離した。ルゼはよろよろと後ろに下がって咳き込む。ルゼの身体をコメルが支えた。
「あまりに横暴ではありませんか? 本人の意思を無視して、こんな」
黙っていられなくなったのか、セシリアが席を立ってルゼに詰め寄った。トラックと剣士もセシリアに続く。ルゼは急に真顔になって冷淡にセシリアを見る。
「これは我々親子の問題だ。口を挟まないでいただこう」
さっきまで「イーリィちゃ~~ん」とか言ってたおっさんが急に冷徹な評議会議長の顔になると落差でクラクラするわ。テンション統一せぇよ。どうリアクションすればいいか見てる方が混乱するわ。セシリアは一瞬気圧されたように黙ったが、すぐにキッとルゼをにらみ返した。
「イーリィさんは私の大切な友人です。彼女の尊厳にかかわる問題を見て見ぬふりなどできません」
ほう、とルゼは意外なものを見たというような表情を浮かべた。しかしその顔はすぐに議長のそれにとって代わる。
「イーリィは個人である前に『議長の娘』だ。その立場から逃れることはできない」
「ですがそのことが個人の意思を蔑ろにしてよい理由にはならないはず」
「自由意志が我を通して責任から逃れてよい理由にもならぬ」
ルゼとセシリアの視線が火花を散らす。どちらも折れるつもりはないらしい。セシリアの翠の瞳が強く怒りを放った。
「『議長の娘』であることは彼女の選択の結果ではない。心を抑圧せねばならないほどの責任を課すのはそもそも筋違いというもの」
「代わりがおらぬ以上、イーリィは生まれた瞬間から立場と責任を負っている」
セシリアの怒りをルゼは冷たく受け止めている。剣士が不快そうに顔をしかめた。トラックがプァンとクラクションを鳴らし――
「もういいわ」
イーリィの、どこか疲れたような声が重なる。皆がイーリィを見つめた。
「アディシェスはケテルの近隣では一番大きな町だものね。その領主の家に私が嫁げば、バーラハ商会はますます安泰だわ」
ルゼは表情を変えずにうなずく。
「そういう意図があることを否定はしない」
否定しないのかよ。むしろそこは否定しろよ。セシリアが表情を険しくする。イーリィは目を伏せた。
「……あなたにとって、私たちはどこまでも、道具なのね」
かすれたつぶやきに一瞬だけルゼの表情が動いた。すぐに表情は戻り、本心を覆い隠す。
「勘違いしないでほしい。君を不幸にするような相手ではないと確信したからこそ、この縁談を受けたんだ」
「何が私の幸せなのかをあなたが知ってるなんて、驚きだわ」
乾いた笑いを浮かべ、イーリィは虚ろにルゼを見る。はっきりとした諦念と絶望がそこにあった。イーリィはルゼに背を向ける。
「……顔も見たくない」
そう吐き捨て、イーリィはギルドの裏口に向かって歩き始めた。イーリィの背にルゼは声を掛ける。
「二週間後、正式に使者がケテルを訪れる。それまでに身辺を整理しておきなさい」
聞いているのかいないのか、イーリィは足を止めることなく外に出て行った。皆の非難の視線を一身に浴びながら、平気な顔をしてルゼはギルドを後にした。
深夜の酒場のカウンターに肘をついて、グラスを揺らしながら、イーリィはぽつり、ぽつりと昔を語った。彼女がまだ幼い頃、バーラハ商会は北東街区に店を構える零細商人に過ぎず、ルゼとその妻、そしてコメルの三人しかいなかったのだという。
「……決して裕福ではなかったけれど、楽しかったわ。父様は今と違って、商取引によって生産者と消費者がどちらも幸せになる方法を模索していた。母様は優しくて、いつも笑顔を絶やさない人だった。父様はとても立派なことをしているのよって、いつもそう言っていたわ」
ルゼたちは懸命に働き、少しずつ顧客と生産者の両方から信頼を勝ち取っていった。そしてある日、彼らに大きなチャンスが訪れる。それはエルフの村との米の取引だった。
「当時のケテルにはウォーヌマとの直接的な取引がなくて、質のいい米を安く手に入れるのが難しかったの。でも、商売を通じて知り合った顧客がウォーヌマの米農家を紹介してくれて」
それは、ケテル商人の勢力図を大きく塗り替える可能性を秘めた大事件だった。その当時、エルフとの米の取引を牛耳っていたのは別の商会で、その商会は決して質の良くない米を割高な値段でエルフに売って多額の利益を得ていたのだという。エルフにしてみればケテル以外に取引相手はないため、不満はあっても従うしかない。しかし質のいい米をより安い値段で売ってくれる商会が現れたら、エルフたちは雪崩を打って取引先を変えるだろう。そしてルゼたちの手の中には、まさに質が良くて安い米がある。
「正直な商売が実を結んだんだって、みんなすごく喜んでた。私もよく理解はしていなかったけど、とても嬉しかった」
エルフの村を訪れては売り込みをかける日々。ウォーヌマ産の米のポテンシャルは徐々にエルフたちを虜にし、信頼を得たルゼはついに本命――『真緑の樹』に住まうエルフの女王への謁見を許される。『真緑の樹』はエルフ最大の都市。そこで流通する全ての米の取引を独占できれば、バーラハ商会は一気に北部街区の壁を飛び越えることができるだろう。未来への高揚と共に彼らは仕事にまい進する。しかし――
「母様が、倒れたの」
無理がたたったのか、イーリィの母親はある日突然に倒れたのだという。高熱にうなされ、身体には赤黒い斑点がいくつも浮かぶ奇病。原因も病の正体も分からぬ中、母は徐々に衰弱していった。しかしルゼは自分の妻をまったく顧みようとせず、ひたすらに仕事に打ち込んだ。床に臥す妻の見舞いにさえ、ルゼは一度も来ることはなかった。
「見舞いに行けば感染るとでも思っていたのかしらね?」
少しずつやつれていく母の姿。それを見ていることしかできない恐怖。母の手を握り、イーリィはひたすらに祈っていた。父様、母様を助けて。しかしその祈りが届くことはなかった。母はイーリィとコメルに看取られて亡くなった。母が亡くなった時、ルゼは評議会館の一室にいたという。そこで彼は、エルフとの米の取引に成功した手腕を認められ、評議会議員となった。
「ああ、そうか、って、思ったわ」
ルゼにとって家族などどうでもいいのだ。あの男が大切に思っているのは金と権力なのだ。イーリィの中で何かが不可逆的に壊れた。そしてルゼは、彼女にとって『父様』から『あの男』になった。
「娘が男親を嫌うなんて、よくある話でしょう? 私も例外でなかったって、それだけの話よ」
話は終わり、と言わんばかりに、イーリィはグラスの酒を一気に飲み干した。トラックはややためらいがちにクラクションを鳴らす。イーリィは険しい顔で振り返り、トラックをにらみつけた。
「やめて。どうでもいいのよ。事情とか、理由とか、もうどうでもいい」
乱暴にグラスをカウンターに置き、イーリィはおぞましげに吐き捨てた。深い絶望に彩られたその顔は苦しそうにゆがんでいる。トラックは再びクラクションを鳴らした。イーリィの顔にほの暗い笑みが浮かぶ。
「さあ? あの男の面目を潰すために、当日になって逃げだしちゃうのもいいかもね」
くすくすと笑い、そして、急に表情を失って、イーリィは席を立った。
「飲み過ぎたのかしらね? どうしてあなたに、こんなことをしゃべってしまったのか。ごめんなさいね、忘れてちょうだい」
わずかにふらつく足取りで、イーリィは酒場を後にする。その背を見送りながら、トラックは何かを考えるようにハザードを焚いた。
ルゼって娘に嫌われることばっかりしてるけど、バカなのかな?




