幕間~蠢く者~
イヌカが去り、洞窟は無音に戻る。ハルは再び目を閉じた。この洞窟もすぐに引き払わねばならない。イヌカに見つかった以上、トラックにだけ見つからないはずはないのだ。しかしハルには、この場所でどうしても会っておかねばならない相手がいた。
「……ようやく来たか」
ハルが目を開け虚空をにらみつける。ひどく禍々しい気配が膨れ上がり、捻じれ、寄り集まって、ほのかに青白く光を放つ門を形作る。音もなく門は開き、そこから姿を現わしたのは、きらびやかな装飾に身を包んだ一人の青年だった。宝石を散りばめた眼鏡を品を失わないままに着こなしている、異様なほどに肌の青白いその青年は、満面の笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。
「御無沙汰しております、兄上。忌々しき神の封印から解き放たれた由、まことに祝着の極み」
ハルは青年を冷淡な瞳で見つめる。青年の白々しい物言いはハルを苛立たせているようだ。そして青年は、それを承知でそのような物言いをしているのだろう。青年の顔は笑みの形を取っているが、その目は凍えるように冷たい。
「今は、奢侈王を名乗っているのだったな」
ハルの言葉に青年――奢侈王はうなずく。魔王が神に敗れ名を奪われて後、魔王の六柱の弟たちは皆、自ら真の名を秘して別名を名乗っている。それは長兄たる魔王に敬意を示すためであったという。ハルはどこか白けたような顔で鼻を鳴らした。
「気付くべきだったな。お前が関与している可能性を」
「本来ならばすぐにでもお気づきになられたはず。永き眠りにて少々腑抜けられたのでは?」
悪びれる様子もない奢侈王にハルは顔をしかめた。地獄の六王の一柱であるこの男は、緻密に計算された絡繰りのごとき謀を愛でる。周到に準備を行い、達成するまでの過程を眺めて楽しむのだ。奢侈王の名はただ財貨を惜しまぬことが理由ではない。時間、労力、資源――どんな目的にも惜しむことなくそれらをつぎ込むからこその『奢侈王』なのだ。
シンとした冷たさが洞窟を支配している。この場所は世界にいくつか存在する、地獄に繋がる場所の一つだ。この世界に地獄との空間的な連続性はないが、地形や霊的な状態が相似すると二つの世界が共鳴し、『重なって』しまうことがある。重なった場所は世界の境界があいまいになり、わずかな力を掛けてやれば容易に繋がる。ハルはここにいることで地獄に自らの存在を示し、奢侈王が訪ねてくるのを待っていたのだ。
「なぜ私を呼び覚ました?」
「兄上をこのまま朽ち果てさせるわけには参りません」
芝居がかった口調の奢侈王をハルはにらむ。建前はいい、とその表情が告げていた。いささか心外そうに奢侈王は言葉を続ける。
「偶然、ですよ。私の配下の者が偶然に『セフィロトの娘』の髪を手に入れたのです。それを使うことで、異空間に封じられたあなたに干渉することができた」
「答えになっていないな」
ハルの金の瞳が冷酷な光を帯びる。ふむ、と唸り、奢侈王は柔和な笑みを浮かべた。
「私の望みは一つですよ。神と戦ったあの時から、ずっとね」
ハルはハッと何かに気付いたように息を飲み、そして苦々しい表情を浮かべた。
「……なるほど。『神託』の正体はお前だったか。三十年前も、今回も」
奢侈王は慇懃に、芝居がかった一礼を返した。
三十年前、預言者に魔王復活の神託を与えたのは神ではなく奢侈王だった。当時、神の封印は綻びかけており、放置すれば程なく力を持つ者が魔王復活の兆候に気付くだろうことは明白だった。兆候に気付けば、賢明な者であれば復活前に封印を強化する、あるいは再封印するという手段を選ぶ可能性があった。ゆえに奢侈王は神託を装って「目覚めを待って滅ぼせ」と告げ、人々の行動を誘導したのだ。その企みは見事に図に当たり、ひとびとはみすみす魔王の復活を許した。
もっとも誤算もあっただろう。復活した魔王がすぐに、よりによって人間によって再び封じられたのだ。人間ごときに封印を許すほど魔王が力を失っているなど、奢侈王は想像していなかったに違いない。この三十年、奢侈王は再び魔王をこの世に解き放つ機会を窺い、そして今回、それを成し遂げた。人と共に歩もうとしていたハルを人から切り離したことも、この男の描いた絵図の通りだったということだ。
「何をするつもりだ」
ハルは再び奢侈王に問う。奢侈王は楽しげに答えた。
「『セフィロトの娘』が現れたということは、古き世が新しき世に駆逐されるということ。だが新しき世は未だ形定かならず。ならばそれを我らの望むままにしたいと願うのは自然ではありませんか?」
「人の世に干渉するつもりか?」
ハルの表情が険しさを増す。奢侈王は笑顔を崩さない。
「まさか。我らが本気で地上に干渉すれば、あの駄女神の介入をも招きかねない。今はまだ、あれと事を構えるのは得策ではない」
駄女神、という言葉がハルに苦い記憶を思い起こさせる。かつて神と魔王が戦った時、世界は神の陣営と魔王の陣営に二分されたが、ごく少数の者がどちらの陣営にも属さず日和見を決め込んだ。彼らは争いを好まぬ穏やかな気性の下級神であり、そのうちには周囲から駄女神と謗られていた者もいたのだが、彼らの動向が戦いに影響するとは到底考えられず放置された。しかしそれは誤りだった。最終決戦、神と互角の戦いを繰り広げていた魔王は、思わぬ方向から放たれた矢に右腕を貫かれた。その矢を放った者こそが駄女神であったのだ。矢傷を受けた一瞬の動揺が隙を生み、魔王は神に名を奪われ、地中深くに封印されることとなった。封印の闇に沈みゆく意識の中で、ハルは確かに聞いたのだ。駄女神の『ご苦労様。あなたは役に立った』という言葉を。
封印されて後のことは朧げにしか知らないが、魔王との戦いで力の大半を使い果たしていた神は六柱の弟――今は地獄の六王と呼ばれる者たち――の力で異界へと封じられ、さらにはその六王も駄女神によって地獄へと追放されたようだ。おそらく最初から、駄女神はこのシナリオを描いていたに違いない。自らの力を秘し、神と魔王を相討たせ、その勝者を封じる。駄女神自身も世界から身を隠し、今、世界は神の存在を失っているが、なぜそんなことを望んだのか、駄女神の意図は分からなかった。
「セフィロトの娘の祈りに応えて、生命の樹は実を結ぶ。生命の実はこの世の理を塗り替える力の結晶だ。その力はあらゆる願いを叶える。そう、神に奪われた名を取り戻すこともね」
奢侈王の顔が陶酔したように熱を帯びた。大げさな身振りを交えて奢侈王は言葉を続ける。
「私は世の憎悪と混乱を少しばかり煽るだけですよ。無数の嘆きと骸の上に生命の樹は姿を現わす。そして生命の樹が実を付けた時、それを手に入れるのは私だ」
奢侈王の恍惚と対照的に、ハルは冷めた態度を向ける。
「そう思い通りにいくかな? 現れるのは生命の樹ではなく邪悪の樹かもしれんぞ?」
ハルの冷笑にも奢侈王は余裕の表情で答えた。
「それならばそれで構わないのです。邪悪の樹にセフィロトの娘の命を捧げれば邪悪の実が生る。邪悪の実はこの世の理を破壊する力だ。神の干渉を破壊すればあなたの名を取り戻すことはできる」
ハルはつまらなさそうに顔をしかめた。どこか勝ち誇ったように奢侈王は叫ぶ。
「神は永遠の牢獄に囚われた。あなたが真の名を取り戻せば、もはや駄女神も物の数ではない。古き秩序を破壊し、あなたが新たな世界の神となるのです!」
奢侈王の演説はしかし、ハルの心を動かすことはなかった。ハルは迷惑そうな顔で奢侈王をにらみつける。
「今さら神になり替わろうとは思わぬ。世界は今のままでよい」
「なんと惰弱な! 本当に腑抜けてしまわれたか!?」
嘆かわしい、と奢侈王は額に手を当てて天を仰ぐ。いちいち大げさな動作にハルは苛立ちを募らせた。奢侈王は天を仰いだまま、大きめな声でつぶやく。
「……あの、トラックなどという者に、ほだされたか?」
ピクリ、とハルの眉が動き、その顔から表情が消えた。奢侈王が思案げな顔を作る。
「『ハル』などという仮の名を与えられて、定命の者と『家族』になれると惑うているのか? だとすれば愚かなこと。至高の存在に対等な他者など不要! あなたは貴き孤独を歩まねばならぬ!」
奢侈王はにやりと笑みを浮かべ、ハルを見つめた。
「ならば私が、トラックとその郎党どもを皆殺しにして未練を絶って差し上げましょう。そうすればあなたは心置きなく世を壊し、新たな世界を作ることが――」
「奢侈王とやら」
言葉を遮り、ハルが何の感情もない目を奢侈王に向けた。肌を刺す滅びの気配が洞窟に満ちる。奢侈王の瞳孔が収縮し、呼吸が浅く早くなった。ハルはむしろ穏やかな口調で奢侈王に告げる。
「お前、いつから私に意見できるようになった?」
息苦しそうに奢侈王は呻き、胸に手を当てた。目が見開かれ、充血する。淡々とハルは言った。
「私が『ハル』であることに感謝することだ。そうでなければお前は、存在の痕跡すら残さず消滅していた」
ふっ、と洞窟内の滅びの気配が消える。全身から汗が吹き出し、がっくりと膝をついて奢侈王は空気を貪った。激しくせき込む奢侈王をハルの冷酷な視線が射抜く。その目にははっきりとした殺意があった。
「もしトラック達にわずかでも傷を付けたなら、それがお前の消滅の日と心せよ。私の言葉に二言はない。お前がどれほど謀を巡らせようと、それを全て打ち砕くだけの力が私にはあるのだから」
ぜぇぜぇと息を乱しながら、奢侈王は壊れた人形のように何度もうなずいた。侮蔑を金の瞳に湛え、ハルの姿が闇に溶けるように消える。ハルは目的を果たしたのだ。奢侈王に警告を与える、という目的を。
ひとり取り残された奢侈王は、地面に膝をついたまま息を乱していた。しかし、やがて息が整うと、うつむき、そして笑い始めた。
「……帰ってきた。神に匹敵する力を持つ『魔王』が、帰ってきた!」
胸を反らし、涙を流して奢侈王は笑う。これ以上愉快なことはない、と言わんばかりに。
「焦る必要はない。時間をかけて、ゆっくりと、望む世界を作って見せよう。まずは生命の実を手に入れねばな。魔王と生命の実が揃えば、できぬことは何もない!」
暗く澱む洞窟の中で、奢侈王の笑い声だけが、いつまでも響き渡っていた。
地獄の六王のうち、奢侈王と王大人が登場しましたね。
実はもうひとり、すでに登場しています。
それは誰なのか、他の王が登場することはあるのか、
トラック無双のこれからにご期待ください!




