幕間~問答~
暗闇に沈む洞窟で、六歳くらいだろうか、男の子が独り、目を閉じて座っている。初夏の陽気は中に届かず、心まで凍えてしまいそうな冷気が洞窟を支配していた。男の子の吐く息が白く煙る。痛いほどの無音。
「邪魔するぜ」
不意に声を掛けられ、男の子――ハルは身を硬くして入り口を見遣る。そこには見覚えのある男の姿があった。ピンクのモヒカン頭にトゲの付いたジャケット姿のその男は、気配なく佇んでいる。
「……イヌカのことは、計算に入れていなかったな」
苦笑いを浮かべ、ハルは独り言ちる。
「【隠形鬼】にはまだ見せていない能力があったということか」
「オレのとっておきなんでね。全部バラしたりはしねぇよ」
ハルのつぶやきに応え、イヌカと呼ばれた男は洞窟に足を踏み入れる。硬い靴音が洞窟内に反響する。
「どうやってここが?」
ハルは身体の力を抜き、落ち着いた様子でイヌカに問う。ここにはこの男しかいない、そのことを確信しているからだろう。一番会いたくない男は、ここにはいない。
「これでも調査部じゃ腕利きで通ってんのさ」
冗談めかした調子でそう言いながら、イヌカはハルの前に立った。その表情が真剣なものに変わる。見た目に反し、この男は誠実で情が深い。
「何の用?」
内心を見せぬ無表情でハルはイヌカを見上げた。イヌカはじっとハルの金の瞳を覗き込んだ。
「……人を、恨んでるか?」
思わず、といった様子でハルは吹き出した。
「そんなことを聞くために、わざわざ?」
「答えてくれ」
イヌカの真摯な声音に、ハルは微笑みを返した。イヌカが何を知りたいのか、ハルにはよくわかった。この男もまた、ある一人の男を案じている。
「……ハル、って名前」
ハルはイヌカから視線を逸らせ、どこか――今でない時、ここでない場所を見つめた。イヌカは意図を測るように黙ってハルの言葉を聞いている。
「聞いたんだ。どういう意味? って」
幸せな記憶を手繰るようにハルは目を細める。
「ハルは、春のことなんだって。春は命が生まれ、命を育む季節なんだって。だから春には、壊すことも、殺すことも、似合わないんだって」
そしてハルは再びイヌカに視線を戻し、透き通るような微笑みを浮かべる。
「僕は、ハルだよ」
イヌカは安堵の息を吐いた。ハルの答えが求めていたものと同じだったのだろう。イヌカは再び真剣な表情に戻り、ハルに告げる。
「トラック達は、お前を捜してる」
そう、と言ってハルはイヌカから目を逸らした。知っている、知りたくない、無関心な言葉の向こうに複雑な感情が見える。
「……ここを教える?」
イヌカの次の言葉を遮るように、ハルは意味のない質問をする。イヌカは小さくため息を吐き、首を横に振った。
「オレが帰ったらすぐ、ここを引き払うだろ?」
わかってるじゃないか、というようにハルは感心した顔を作った。イヌカは不快そうに鼻を鳴らす。ハルはくすくすと笑った。
「予言をあげるよ、イヌカ」
ハルが中空を見つめる。イヌカは首を傾げて眉を寄せた。
「これからケテルは大きな試練に直面することになる。その試練は世界のこれからの在り方を問うものになるだろう。秩序は揺らぎ、誰もが自ら決断を迫られ、世界は大きく二分される。両者は『セフィロトの娘』を巡って争い、山河を血に染め、嘆きの声が世界を覆うだろう」
ハルの言葉はどこか神聖さを帯び、イヌカは我知らず唾を飲む。ハルはイヌカの目を覗き込んだ。
「トラックを、守って。トラックの存在だけが世界を血塗れの未来から救うんだ。トラックを失えば、待っているのは色を失った『ひとつ』の世界だから」
ぽりぽりと頭を掻き、イヌカは「なんだかよくわからねぇが」とつぶやく。
「そう思うならお前が守ればいいだろう。お前ならどんな相手からでもトラックを守れる」
イヌカの言いたいことを察してハルは苦笑いを浮かべた。
「……『魔王』に守られていたら、人々はトラックを信用しない。トラックは統合の象徴にならなければいけないんだ。僕の存在は邪魔なだけだよ」
ハルがわずかに目を伏せる。イヌカの声に怒りの色が混じった。
「トラックはそんなこと気にしねぇぞ」
「トラック以外がどう思うかが問題なんだ」
頑ななハルの態度に、イヌカは大きく息を吐く。気分を変えるように首を振ると、イヌカはどこか人を喰ったような笑みを浮かべた。
「オレも一つ、予言をやるよ。未来なんざ視えねぇが、これだけは確実に言える」
何を言い出すのかと、ハルは訝るような視線をイヌカに向けた。
「トラックは必ず、お前に追いつく」
人を喰った笑みは消え、イヌカが自分の言葉を信じていることを伝える。ハルは静かに首を横に振った。
「ありえない」
「お前はあの男を甘く見てる」
ハルの言葉の終わりを待たず、被せるようにイヌカは語気を強めた。
「あいつは誰かを犠牲にすることを認めない。犠牲の上に成り立つ幸せなんざねぇってことを知ってるからだ。あいつがお前を犠牲にしたままにしておいてくれると思ったら大間違いだぜ?」
イヌカに言われずとも、ハルはトラックがどうしようとしているかなど理解している。だからこそハルはトラックから離れたのだ。もろともに不幸に沈まぬために。
「誰しも役割を持っている。その役割の中で、それぞれが皆、多かれ少なかれ自分を犠牲にするんだ。みんな幸せ、なんてありえない」
「トラックはそれを成し遂げる男だ!!」
イヌカは叩きつけるように叫ぶ。信じろ、逃げるな、帰ってきていいんだ。イヌカの真摯な目がそう告げている。
――本当に、そうならいいのに。
ハルはうつむき、寂しげに笑った。
「定命の者が『魔王』に追いつくなんて、そんなことは絶対にないんだよ、イヌカ」
諦観に満ちたハルの声が、肌寒い洞窟の中に響き渡った。
初登場時のイヌカとこのイヌカは本当に同一人物なのだろうか?




