望まぬ英雄の名を
「フハハハッ!! ひれ伏せ! 命を乞え! 我が力に恐怖し震えるがいい!!」
初夏の朝に相応しからぬ哄笑がケテルの中央広場に響き渡る。地獄の炎が建物を包み、人々は怯え逃げ惑っている。そして広場の中心には、どこか見慣れた面差しの美しい青年が宙に浮かんで人々を睥睨している。
「おのれ魔王め! 俺たちを騙していたのか!」
マスターが青年をにらみ、憤りを叩きつける。マスターの隣にはジンゴとシェスカさんが並び、冒険者ギルドのAランカーたちが青年の周りを囲んだ。Bランク以下のギルドメンバーたちは住民たちを守るために走る。青年はバカにしたようにせせら笑った。
「そうとも! お前たちのお陰ですっかり力を取り戻せたわ! 幼い外見に惑わされた己の愚かさをこそ恨むがいい!」
マスターはギリリと奥歯を噛む。ジンゴとシェスカさんも厳しい視線で青年を見据えている。Aランカーたちが武器を構え、一斉に青年に襲い掛かった! しかし青年が何事か唱えると、彼を中心に闇色の波動が広がり、Aランカーたちを吹き飛ばす。歴戦の強者たちが呻き声を上げて地面に転がる。魔力の余波を受けてマスターたち三人も地面に膝をついた。あっさりと冒険者たちが無力化され、人々から絶望の悲鳴が上がる。
――プァン!
騒ぎを聞きつけたのだろう、トラックが広場に駆け付けてマスターの横に並んだ。傍らにはセシリア、剣士、イヌカ、ルーグ、そしてミラの姿もある。
「いったい何が起きてる!?」
剣士がそう言いながら剣を抜いた。イヌカとルーグもそれぞれ武器を構える。セシリアが呆然と青年を見上げ、かすれた声でつぶやいた。
「……ハ…ル……?」
剣士たちが驚きに目を見開き、剣の切っ先を下げる。青年がにやりと嫌な笑みを浮かべた。
ロウソクのか細い灯りに、マスターの苦悩が照らされている。執務室の椅子に座り、腕を組んで、マスターは独り難しい顔をしていた。おそらく評議会議長ルゼの要求への対応に苦慮しているのだろう。その表情は、ルゼの要求がマスターにとって受け入れがたいものであったことを示している。
「――グレゴリ」
不意に呼びかけられ、マスターは驚いたように顔を上げた。さっきまでは気配もなかったのに、ハルが今、執務机の前に立っている。
「いつ、入って来た?」
扉を開ける音も、足音さえなく姿を現わしたハルをマスターは見つめる。ハルはかすかに笑った。
「いつでも、どこへでも、入ることはできる。今の私なら」
その瞳はどこか、そうである自分を哀しんでいる。マスターは唾を飲んだ。
「……力を、取り戻したのか?」
マスターの声はかすれている。ハルは小さく首を横に振った。
「取り戻していたんだ。名をもらった、そのときに。でも認めたくなかった。ただの無力な子供でいたいと望んでしまった。私は魔王ではなく、優しいあの人たちの家族なのだと」
いつの間にかハルは自分を『私』と呼んでいる。トラック達には決して見せない大人びた口調は、六歳の見た目にまるで似合っていなかった。
ハルは大きく息を吸うと、ふっと強く短く吐き出しながら右手を突き出した。その瞳が赤く光り、執務室の床が青白く光を放つ。光はすぐに消え、代わりにそこに現れたのはシェスカさんとジンゴだった。二人は痛ましげな顔でハルを見つめる。
「呼び出してしまってごめんなさい」
謝るハルに二人は驚くふうもない。おそらく呼び出す前に何らかの方法で話を通していたのだろう。ハルは顔を上げ、三人を見渡した。
「お願いが、あるんだ」
悲痛なまでの祈りがハルの言葉に宿っている。それはマスターたちに異論を差し挟むことを許さぬように広がり、部屋を支配する。
「トラックを英雄にする。手を、貸してほしい」
言葉の意味を察したのか、マスターは思わずといった様子で腰を浮かせた。ギギギ、という、椅子の足が床を擦る音が部屋に響いた。
「さすがはセシリアちゃん。外見が変わってもすぐに気付いたか」
小ばかにしたように青年――ハルはセシリアを見下ろす。クククと喉を鳴らし、冷酷な金の瞳がセシリアを見据える。
「だがお前も紛うことなき愚か者よ。封じられ力を失っていた我を、わざわざ力を取り戻すまで匿い、世話までしてくれたのだからな!」
ハルは心底可笑しそうに笑うと、天に向かって右手を突き出した。無数の雷がケテルに降り注ぎ、地面を穿つ。人々の悲鳴があちこちで聞こえる。
「なぜだ!」
剣士が信じられぬと言葉をぶつける。しかしハルは冷笑を以てそれに応えた。
「我は魔王ゆえに。神を殺し、神の作った世界を滅ぼさんがために!!」
シェスカさんは目を伏せ、悲しげにつぶやく。
「他に、方法はないの? トラックさんたちがどれほど――」
「ない」
ハルはピシャリとシェスカさんの言葉を遮った。その顔に迷いは無い。
「トラックは私を庇う姿を大勢に見られている。たとえ私がケテルを去っても、人々は己の不安を憎悪という形でトラックに向け続けるだろう。冒険者ギルドに対しても同じだ。人々は分かり易い生贄を求めている」
魔物の咆哮が夜に響くことも、通り魔も、フクロウが真昼に飛ぶことも、ハルがケテルにいることとは無関係だ。だからハルがケテルを去ってもそれらは解決しない。ならば人々は『魔王』以外の原因を求めるだろう。『魔王を庇った者』はその恰好の標的になる。ハルはそう言った。
「人々の意識を塗り替える必要がある。魔王に騙され、魔王と知らずに魔王を庇った被害者。そして、騙されたことに気付き、自らの手で過ちを清算した者。今、トラックに必要なのは――」
ハルは表情を動かすことなく、淡々と告げた。
「――魔王殺しの英雄の名だ」
『魔王』の放つ漆黒の炎は広場に隣接する建物を呑み込み、広がっていく。広場の騒ぎを聞きつけた住人が外に出て、自分のいる建物が炎に包まれていることに驚き、慌てて逃げ出す様子が見えた。どうすればよいのか、どこに逃げれば助かるのか、人々の混乱は極限に達している。だから何も気づかない。
「やめなさい、ハル! 今すぐに!」
ミラがキッとハルをにらんだ。ハルはくだらないと鼻を鳴らす。
「不遜だな、ハイエルフの元王女よ。お前如きがこの魔王に何を命ずる?」
「私はあなたの姉よ!」
ミラの言葉には彼女の願いがあり、祈りがある。まだ私たちは家族だ、どうかそれを否定しないで。しかしハルは、その想いを打ち砕くように嘲笑う。
「まだ愚かしい妄想を信じるか。下らぬ! 我は魔王! 我は神を殺す者! 我が名は『ハル』に非ず! 我は――」
ハルがわずかに言葉に詰まる。憎らしげに嗤う瞳の奥で光が揺れる。殊更に声を大きくして、ハルは叫んだ。
「――お前たちの家族では、ない!!」
ハッとミラが息を飲む。それは終わりを導く言葉、約束を断ち切る言葉だった。私たちは家族だと、その約束だけがトラック達を繋いでいた。もはやハルとトラック達の間に関係を証しするものは何もない。
ハルの右の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……トラック達が、納得するとは思えん」
マスターが翻意を促すようにハルを見つめる。
「たとえ芝居であっても、お前と戦い、まして殺すなんざ、あの男が承服する姿を想像できねぇよ。そんなことをするくらいなら死んだ方がましだと、きっとそう言うだろうぜ」
世界を敵に回してもお前を守ると、二度とお前に『さみしい』なんて言わせないと、トラックなら言うだろう。マスターは確信を込めてハルにそう告げる。ハルは嬉しそうに、寂しそうに笑った。
「わかってる。だから君たちの助けが必要なんだ。トラック達には何も言うつもりはない」
トラック達に小芝居なんて無理だろうしね、とハルは目を細める。すでに心を決めたハルには、どんな言葉もその決断を揺るがす力は無いようだった。
「魔王が現れ町を襲う。冒険者ギルドの上位ランカーと、かつて魔王と戦った英雄が戦いを挑むが、為す術もなく敗れる。そこにトラック達が駆けつけ、魔王を倒す。単純な筋書きだ。でもその単純さが重要なんだ。誰もが一瞬で理解できる英雄譚でなければ、ケテルは鎮まらない」
「だが――!」
納得できないと言葉を重ねようとするマスターを制し、ハルは努めて穏やかに問う。
「議長に何を言われた?」
ぐっ、と呻き、マスターが言葉に詰まった。やはり、とハルは微笑む。マスターは迷いを振り切るように声を上げる。
「突っぱねりゃいい! 何でもケテルの命令に従う義務はねぇんだ!」
「ダメだ」
ハルがその金の瞳に湛えた真摯な想いがマスターの言葉を封じる。
「トラックがケテルに現れ、セシリアたちと出会い、冒険者ギルドに所属したことにはすべて意味がある。トラックはケテルにいなければならないし、セシリアたちと共にいなければならない。冒険者ギルドもまた、このケテルに必要なんだ。それらは世界の、未来の姿を左右する重要なカギだ」
ハルはどこか遠くを見つめる。マスターは眉を寄せ、不可解そうに問う。
「何を、言ってる?」
薄く苦笑いしてハルは答えた。
「少しだけ未来が視えるんだ。そして、その未来に私は、必要ないんだよ」
「てめぇ、本気で言ってんのか!」
慌てて頬を拭うハルに、ルーグは怒りを込めて叫ぶ。ほころびを繕うようにハルは冷笑を浮かべる。
「偽る理由がどこにある? 力を取り戻した今、貴様らなどもはや羽虫に過ぎぬわ」
「てんめぇ!」
ルーグがハルをにらみつける。ハルは不快そうに顔を歪めた。
「貴様の声は耳障りだ。最初に死んでみるか?」
ハルが右手の人差し指をルーグに向ける。赤黒い光が凝集し、おぞましい気配が大気を震わせる。ルーグは目を見開いた。イヌカは、動かない。おそらく気付いている。
「死ね」
糸のように細い光がルーグの心臓を貫く。ハッと何かに気付き、ルーグは呆然とつぶやいた。
「おまえ……」
ハルもまた、一瞬だけ信じられないように呆けた表情になり、そして取り繕うように言った。
「そ、そう言えばお前は【無敵防御】を持っているのだったな。この魔王の攻撃を防ぐとは、大したものだと褒めてやろう」
ルーグは【無敵防御】を発動していない。スキルウィンドウも姿を現わしてはいない。しかしルーグは無傷だった。ルーグはサッと周囲を見渡す。そして、ようやく気付いたようだった。ハルが何をしているのか。何をしようとしているのか。
ハルが呼び出した地獄の業火は、建物を包みながら焦げ跡一つ付けてはいない。ハルが落とした無数の雷は、轟音と閃光によって人々を襲いながら、誰一人傷付けてはいなかった。ハルの魔法に影のように寄り添い、無数の【手加減】が人々と町を守っている。誰にも見えぬように、誰にも悟られぬように。
トラックのキャビンの上に【手加減】が姿を現わし、腕を組んで厳しい視線をハルの【手加減】たちに向ける。「お前たちはそれでいいのか」と、その目が問うていた。ハルの【手加減】のひとりが一瞬だけ動きを止め、トラックの【手加減】を見つめ返す。「我らは主命を果たすのみ」とその瞳が告げていた。スキルが使用者の願いを無視して発動されることはない。しかし、それでも――やりきれなさを押し殺すように、トラックの【手加減】は唇をかんだ。
「お前は、どうなる?」
ずっと沈黙を守ってきたジンゴが口を開いた。
「トラックが英雄になり、ギルドは名誉を回復する。だが、お前はどうなる? お前だけが犠牲になるのか!? お前が犠牲にならなければならない理由はない!!」
三十年前の過ちが、今、再び繰り返されようとしていることに、ジンゴは我慢ならないようだった。ハルは諭すように優しく告げる。
「いいんだ。犠牲にならなければならない理由なんて誰にもない。だから、その運命を背負えるものが背負えばいい」
「しかし、俺は――!」
ジンゴはハルに近付き、その肩を掴む。必ず守るとジンゴはハルに約束したのだ。ハルはジンゴの手にそっと触れ、「ありがとう」とつぶやく。
「……何もかもがうまくいく、そんなことはあり得ない。だから――」
そしてハルは、ジンゴの目をまっすぐに見つめ、透明に微笑んだ。
「私が望むのは、トラック達の幸せだけだ」
――プァン
トラックがハルを見つめ、静かなクラクションを鳴らす。ハルは吹き出すように嗤った。
「まだそんなことを。話を聞いていなかったのか? 我は――」
ハルの言葉を遮り、トラックは再びクラクションを鳴らす。少し強めたクラクションに、ハルは気分を害したような表情を作った。
「黙れ。貴様がどう思おうが、貴様が我に騙され、利用されていたことに変わりはない。貴様と我の間には、最初から絆などなかったのだ!」
ハルは必死に、トラック達が騙されていたのだと、魔王に利用されていたのだと強調している。トラックがさらにクラクションを鳴らした。ハルは苛立ちと共にトラックを強くにらみつける。
「いい加減に理解しろ! 真実は一つしかない! 我は魔王! ハルという名でも貴様らの家族でも――」
――プァン!!
ハルの言う『真実』をトラックは否定する。小さく呻き、ハルは目を固く閉じた。
「……話にならぬ。もはや言葉に意味はない! せめて苦しまぬよう一撃で葬ってやろう!」
ハルがトラックに手をかざし、呪文を唱える。ケテルが、大地が震え、風が悲鳴のような音を立てる。
「虚無の右手、沈黙の声、星喰らう蛇の毒を杯に満たせ」
太陽が怯えるように雲に隠れ、広場の温度が一気に下がる。逃れ得ぬ滅びの運命が重々しく『死』を宣告する。
「巨人の咆哮は始まりの鐘にして運命の予言」
広場を取り巻いていた人々が呆然と空を見上げる。どこに逃げても無駄なのだと理解し、膝をついて座り込む。世界が、終わる。そう確信させるだけの純粋な力がハルの手に集まり、暗紫色の球体を形作った。
「歪み、閉ざし、崩れ、滅びよ! 我が求めるは終焉なり!」
具現化された破滅は放電するように魔力を弾けさせながらトラックに襲い掛かる。トラックはただ、ハルを見つめているだけだった。着弾した魔法はトラックを中心に爆発し、中央広場が漆黒の光に包まれる。爆風が木々を揺らし、建物が傾ぎ、軋む。数秒の後に光は晴れ、そして、広場には何の変化もなかった。当然だ。ハルの【手加減】は完璧に仕事をこなしている。
「ば、ばかな!? この魔王の最強魔法を、完全に抑え込んだだと!?」
わざとらしい驚きの声が広場に響く。狼狽を演じるハルに、呆然としていた人々が目を向けた。突き付けられた『死』を逃れ、わずかな希望が目に灯る。トラックのクラクションをかき消し、ハルは叫んだ。
「だが、我が魔力は無尽。貴様を滅ぼす手段などいくらでもある!」
ハルの右手から炎が生まれ、トラックを包む。左手から氷の槍が飛び出してトラックを襲う。頭上から巨岩が降り、足元から溶岩が噴き出す。死神が大鎌を振るい、邪龍が硫酸の吐息を放った。しかしそれらはトラックに傷一つ付けることはない。ハルがトラックを傷付けることはないから。
「そ、そんなばかな……ありえぬ……」
つぶやきにしては大きいハルの声は、人々の希望を大きく育てる。魔王の攻撃をものともしないトラックという存在が人々を勇気付ける。もうやめてくれと、トラックが苦しげにクラクションを鳴らした。ハルは首を横に振る。
「こうなれば、この世のあらゆるものを引き裂く我が魔剣で、貴様を切り刻んでやる!」
ハルが右手を振ると、空間から染み出すように一振りの長剣が現れる。演出過剰な歪な刃を持ち、実用性を無視した装飾は玩具に近い。分かり易く『悪』を表現する小道具。魔王の剣を誇示するように掲げ、ハルはトラックに斬りかかった。
――ガキンッ!
重い金属音がこだまする。キャビンが魔王の剣を弾く。ハルは構うことなく剣を振りまわし、トラックに叩きつける。
「どうした、そうやっていつまでも防ぎ続けるつもりか? 少しは反撃でもしたらどうだ?」
侮蔑と挑発をトラックに浴びせ、ハルは剣を突き出す。人々の目には、トラックが防戦一方だと映っているのだろうか。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ハルは、答えない。
「……がんばれ」
広場の周囲で様子を窺っていた人々の中から、ぽつりとそう声が上がった。それはさざ波のように広がり、伝わっていく。
「がんばれ!」
「負けないで!」
「魔王を倒して!!」
人々から口々にそう声が上がる。勇気を振り絞って、無力な人々がトラックを応援している。トラックは戸惑うようにクラクションを鳴らした。ハルが安堵の笑みを浮かべる。人々の声が地鳴りのように響く。
「どれほど声を枯らそうと、それが力になるわけではない! 世界の希望が潰える様をその目に焼き付けるがいい!!」
人々にそう宣言し、ハルはなぜか剣を捨て、トラックに体当たりした。剣を捨てる理由も、体当たりを選択する合理性もない。しかしそのことに気付く者はいない。人々は何も気付かない。
「ぐわぁぁぁーーーっ!!」
棒立ちのトラックにぶつかったにしてはあり得ぬ勢いでハルは後方に吹き飛ぶ。人々から歓声が上がり、トラックは意味が分からぬとクラクションを鳴らす。よろよろと立ち上がり、ハルは憎らしげにトラックをにらんだ。
「……こ、この我が、魔王が、敗れるというのか。貴様がいる限り世界は滅びぬというのか! おのれ、おのれぇ!!」
人々のトラックを応援する声が熱を帯びる。高揚の熱気が広場を支配していく。学芸会のような陳腐なセリフを人々は容易く受け入れている。
「認めねばなるまい。貴様はこの魔王よりも強いと。貴様がいる限り、我はケテルに傷一つ付けることはできまい。だが心せよケテルの民よ! この男とて不死にあらず! 世界がこの男を失った時、我は再びこの地に現れ、世界廃滅の口火を切ることになろうぞ!」
ケテル中に響き渡る声でハルは叫び、その身体が青白い光に包まれる。それは転移魔法の光だった。トラックが慌てたようなクラクションを鳴らし、アクセルを踏む。しかしマスターとジンゴに進路をふさがれ、トラックはほとんどハルに近付くことなくブレーキを踏んだ。キャビンに手をかけてジンゴが鋭く囁く。
「こらえろトラック! これは、ハルの選択だ!」
理解したくないと、トラックはエンジン音を鳴らす。マスターがキャビンに両手を当ててトラックの前進を押し止める。
「望まぬ英雄の名を背負わねばならん時がある! お前が今、ハルの言葉を否定すれば、ギルドは『魔王討伐』を引き受けにゃならなくなるんだ!!」
ジンゴとマスターの筋肉がミシミシと音を立ててトラックを阻み、前輪が石畳を削って空転する。ハルを包む光が強さを増した。トラックが強くクラクションを鳴らす。ハルの唇が音にならない一つの言葉を形作る。
――さよなら
硬直したようにトラックが動きを止める。ほんのわずか、涙に濡れた笑顔をトラック達に向けて、光と共にハルは姿を消した。
シン、とした静寂が中央広場に降る。目の前の出来事が信じられないと、人々は呆然と立ち尽くしている。建物を包む炎は消え、雲は払われて太陽が姿を現わした。日差しが呪縛を解くように、人々が小さく喜びの声を上げる。
「たす、かった……?」
「魔王を、退けた!」
徐々に体に満ちる生の実感が、人々を喜びへと駆り立てる。互いの無事を喜び、人々は口々に魔王を退けた英雄を讃え始めた。トラック達を置き去りにして。
「……きっと、見透かされていた――」
崩れ落ちるように膝をつき、セシリアはあふれる涙を拭いもせず、ハルが消えた場所を見つめる。
「……私は、ハルを失うことよりも、トラックさんを失うことを怖れた」
ミラがセシリアに抱き着き、剣士がうつむく。ルーグが「どうして、こんな」と吐き捨て、イヌカは空を仰いだ。トラックは天に向かって「なぜ」と問うようなクラクションを鳴らす。しかしそれは、トラック自身を讃える人々の声にかき消され、どこにも届くことはなかった。いつの間にか教会の鐘楼から広場を見下ろしていたフクロウが、満足そうに一声鳴いて、どこかへと飛び去って行くのが見えた。
魔王が去り、すべての不安を魔王に押し付けて、ケテルは平静を取り戻した。誰も、何も気付かない。魔王が誰一人傷付けていないことも、地獄の炎が何も焼くことはなかったことも、三十年前には歴戦の勇士が魔王の前で意識を保つことさえできなかったというのに、今は何の力もない人々さえ魔王を見ることができた理由も、魔王が涙を流したことも。気付く必要がないのだ。あらゆる矛盾から目を背けて、人々は「悪い魔王が正義の英雄に追い払われた」という物語に身を委ねた。自らの平穏以外、人々は何も求めてはいないのだ。
初夏の爽やかな風がケテルを渡る。魔王はすでに過去となり、人々は笑顔で日常を送っている。残酷なその風はトラックに苦い敗北を刻み、そして、春の訪れと共に生まれた『家族』を、奪い去っていった。
けれど、負けっぱなしじゃいられない。
負けたままでいいはずがない。




