だいすき
日が沈み、ケテルはひと時の平穏に包まれて眠っている。ハルとミラとリスギツネはセシリアと一緒に宿に泊まっていた。トラックはひとり、定位置である馬小屋の横に停車し、時折ハザードを焚いて悩むようにエンジンを震わせる。葛藤しているのだろう。自分のしようとしたことの意味を自覚してしまったから。
「この先、あなたがもっと強い力を手に入れた時、あなたの意に染まぬ者たちが無価値に見えるかもしれない。力もないのに逆らう者たちを許せないと思うかもしれない。あなたはその者たちを簡単に踏み潰すことができるかもしれない」
いつか、シェスカさんはトラックにそう言った。力のままに他者を蹂躙することは、心を、大切な中心を失うことだと。トラックはあのときよりずっと強くなり、今、守るべきものができた。『家族』が、できた。
トラックは人殺しの道具ではない。それはトラックの矜持だった。トラックは荷物と幸せを運ぶのが仕事、だから【手加減】を極めた。たとえ力で相手を制する必要がある時でも、決して相手を死なせぬように。殺すとは悲しみを生むこと。殺すとは苦しみを生むこと。殺すことが幸せを導くことはない。そう信じて。
けれどトラックは、ハルが、『家族』が責め苛まれる状況を目の前にして、自らの中心を、己の矜持を手放した。広場に満ちる罵声を消し去るためにトラックが選んだのは、声を上げる者ことごとく物言わぬ骸に変えること。トラックにはそれを為す力があり、ゆえにそれを為そうとしたのだ。ハルが止めてくれなければ、トラックは間違いなく誰かを轢き殺していた。
重苦しい思いを吐き出すように、トラックはエンジンを鳴らす。空は雲に覆われ、道を示してくれるはずの星の光を遮っていた。月の光も星の輝きも届かない真の闇の中、トラックはなすすべもなく立ち尽くしていた。
中央広場での出来事から一週間が経ち、冒険者ギルドは重苦しい雰囲気に包まれていた。ハルはもはや一歩も外に出ることかなわず、冒険者ギルド内で息をひそめるように過ごしている。トラックもまた、外に出れば見知らぬ他人に石を投げられ罵られるため、ギルド内でハルと共に過ごしていた。正気を失ったかと疑いたくなるほどに、人々は教会の言葉を素直に信じている。
被害は冒険者ギルドそのものにも及び、ガラスを割られたり落書きをされたりと、嫌がらせは徐々に陰湿さを増している。そして何より問題なのは、ギルドへの仕事の依頼が激減したことだった。特に低ランクの仕事の減少ぶりは顕著で、Cランク以下の冒険者の生活を圧迫している。トラック達とあまり関わりのない者たちは現状に強い不満を抱いており、ギルド内が分断されかねない事態に陥っていた。マスターや上位ランカーが味方になってくれているため直接的な嫌がらせはないものの、トラック達への視線は日に日に厳しさを増していく。そして――
執務室からマスターと、商人風の中年男が並んで姿を現わす。商人風の中年男は「くれぐれも遅れぬように」と念を押すと、一刻も早く立ち去りたいと言うように足早にギルドを出て行った。その背を見送ったマスターが大きくため息を吐く。その顔は苦渋に満ちていた。
――プァン
トラックがマスターにクラクションを鳴らす。トラックの横ではハルが不安げな様子で立っており、セシリアが安心させるようにハルと手を繋いでいる。ミラとリスギツネ、そして剣士も、ハルを周囲の視線から守るように傍に控えている。
ハッとした様子でトラックを振り返り、マスターは苦笑いと共に頭を掻いた。ため息をトラックに見られたことを後悔しているようだ。ということは、商人風の中年男がここに来た理由はトラック絡み、ということなのだろう。
「……議長室に呼ばれっちまったんだよ。この事態について説明しろってな」
この事態、とはもちろん、冒険者ギルドが『魔王』をかばったことを指している。あの日以来教会は冒険者ギルドを『悪魔の手先』と激しく糾弾しており、それを信じた町の人々の冒険者ギルドへの感情は急速に悪化していた。通り魔は未だ捕まらず、ケテルの町に届く魔物の咆哮は徐々に近づいているとの噂が広がっている。そこに来て魔王復活を突然告げられ、さらに三十年前に魔王を滅ぼしたはずの冒険者ギルドが魔王を庇っているとなれば、人々の混乱はますます深まるだろう。最悪、暴動が起きかねないと危惧した評議会議長ルゼは、事態の収拾を図るためにマスターを呼び出したのだ。
「そんな顔しなさんな。うまくやるさ。こんなときのためのギルドマスターなんだぜ?」
マスターはそう言ってガハハと笑った。しかしそれを鵜呑みにすることはできまい。ルゼにとってハルが『魔王』であるかどうかは問題ではない。ハルが『魔王』と人々に認識されていることが問題なのだ。そしてケテルの動揺を収めるために、ルゼが情愛を基準に対処方法を決めることはない。ルゼのマスターへの要求が厳しいものになるということは明白だった。セシリアがハルの手を握る手に力を込める。
――プァン
トラックが静かにクラクションを鳴らした。マスターが驚きに目を見開き、ハルはどこかでそれを予想していたように身を震わせた。ミラと剣士がトラックを見つめる。そしてセシリアは、思わずといったふうに身を乗り出して叫んだ。
「いけません!」
その叫びは半ば悲鳴のようにロビーに響く。思いがけぬ大きな声は皆の視線をセシリアに集めた。セシリアは一瞬だけ逡巡すると、わずかに目を伏せて言葉を続ける。
「……あなたがケテルを離れたからといって事態が好転するわけではありません。それにそんなことをすれば、ハルが危険な存在だと認めたことになる。理不尽に屈してはなりません」
セシリアの言葉を受けて、剣士が大きくうなずいた。
「お前とハルが一緒に逃げたところで、待っているのは寄る辺ない流れ者の生活だろう。それはハルにとっていい環境とは言えない。そうじゃないか?」
トラックはカチカチとハザードを焚く。確かに人目を避けて生きるような生がハルにとって望ましいはずもなく、ケテルに留まることができればそれに越したことはないだろう。しかし事態を打開できなければ、ハルにとってケテルは針のむしろだ。それならいっそケテルを出る、という選択は決して間違いではないような気はするけど。
「……トラックは、ここに、いるのがいい」
ハルが少し震える声で言った。セシリアはハルの身体をそっと引き寄せる。
「方法はきっとあります。ハルは危険な存在ではないと分かってもらう方法は、きっと――」
悲壮な雰囲気を振り払うように、マスターはどこか無理をした笑顔を作る。
「世界の終わりみたいなツラしなさんな。冒険者ギルドは商人ギルドの下部組織じゃねぇんだ。飲めねぇモンは突っぱねりゃいい」
トラックはプォンと気遣うクラクションを鳴らす。ひらひらと手を振り、真剣な顔に戻ってマスターはハルを見つめた。
「責任はとるさ」
行ってくるわ、と身を翻し、マスターはギルドを出て行った。ハルはその背をじっと見つめ、セシリアが深く頭を下げた。
どれほど人々が不安に苛まれようと、今日も太陽は沈み、夜が来る。月は大きく欠け、星々はどこか息苦しさにあえぐように弱々しい光を放っていた。夜闇の支配を受け入れたケテルの町は静寂に満たされ、ひとときの平穏を享受していた。
トラックは定位置である馬小屋の横に停車し、ハルがトラックのキャビンの上に座って足をブラブラさせている。夜は人の目からハルとトラックを隠し、わずかな間の日常を与えてくれたようだ。日中とは違い、ハルは穏やかな表情をしていた。
マスターがルゼのところから帰ってきたのは夕刻だった。マスターの表情は険しく、議長との会談が厳しいものであったことを伝える。トラック達はマスターに声を掛け、何が起きたのかを聞こうとしたのだが、マスターは「大丈夫だ」としか答えず、足早に執務室へと入っていって鍵を閉めた。具体的なものは何も伝えてもらえず、トラック達は焦燥の面持ちで執務室の扉を見つめた。
ハルは無言で空を見つめている。トラックも何も言わない。夜の風が町を渡る。もう夏が近い季節だというのに、風は少し冷たかった。
「……ねぇ、トラック」
ハルが空を見上げたまま、つぶやくように言った。
「遠足、楽しかったねぇ」
剣士とチャンバラをしたのが楽しかった。イヌカと剣士の対決が面白かった。セシリアの卵サンドがおいしかった。かくれんぼが楽しかった。丘の上から見たケテルが、きれいだった。愛おしいものを数えるように、ハルは思い出を語る。トラックがプァンと返事をした。ハルが、うなずく。
「……うん。また、行こうね」
ハルは顔をほころばせる。
「……ねぇ、トラック」
ハルは再びトラックに呼びかけた。トラックはプァン? と返す。視線をさまよわせて迷いを示し、照れたように笑って、意を決したようにハルは言った。
「――だいすき」
自分で言ったセリフにはにかみ、ハルはトラックのキャビンからぴょんと飛び降りた。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ハルは振り向かず、
「グレゴリと遊んでくる!」
そう言って駆け出した。え? ちょっと、こんな時間に? 戸惑うトラックのクラクションを振り切り、ハルはトラックの視界から消えた。
ハルはギルドの建物まで走り、入り口の前で止まった。すでにギルドの営業時間は過ぎており、建物内の灯りは落とされている。ただ併設された酒場は営業中のため、入り口からの出入りは自由にできるようだ。
ハルは大きく息を吐く。建物の奥、マスターの執務室から弱々しい灯りが漏れ出ているのが見えた。マスターはまだ執務室にいるのだろう。ハルは執務室の扉を見据える。
「……誰かのために、勝つことも、負けることも――」
ハルが小さくつぶやく。その表情はふだん見せるハルの姿には無い、悲しいほどの大人びた決意で満たされていた。風が吹き、ギルドの扉がカタカタと鳴る。そしてハルは、背を伸ばして、ギルドの中へと足を踏み入れた。
執務室の椅子に座るマスターの、ロウソクの灯りに照らされた横顔は苦悩に満ちていました。
「このクソ忙しいときに、議長にイーリィの幼少期の可愛かった仕草ベスト百を延々と聞かされた……」




