強さ
ジンゴが泣き止むまで、トラック達はじっとその場に留まっていた。ハルはジンゴに手を伸ばし、触れることなく手を降ろした。掛ける言葉が見つからない。どんななぐさめもジンゴに届くとは思えなかった。やがて嗚咽は小さくなり、ジンゴは顔を上げる。今日はもう帰ってくれ、そう言ったジンゴの弱々しい声は、トラック達を無言のまま帰路に就かせた。
トラックの運転席で、セシリアはしょんぼりとうつむくハルを膝に抱いていた。助手席のミラは心配そうにハルを見つめながらその手を握っていた。リスギツネはハルの膝の上で丸まっている。トラックの走行音だけが響く。
誰が悪いわけでもないのだろう。神託が誤りだと気付くには魔王の気配は禍々しすぎた。数多の勇者がその前に立つことさえできなかった魔王が実は無害だったと、誰が予想できるというのか。ジンゴが決死の思いで魔王を封じたことはあの時、あの状況の正解だった。しかしそれでも、ジンゴは自分を許せないのだ。
いやね、はっきり言うとさ、誰が悪いってんなら悪いのは明らかに神託だよ。神様の言葉だっちゅうのに間違ってんじゃん。神託なんてもんがなければ魔王と戦う必要はなかったかもしれないし、人々が魔王復活に怯えることもなかったし、マスターたちが偽りの英雄を演じることもなかった。神託が人々に恐怖を与え、その恐怖を治めるために魔王は滅びたというストーリーが必要になったのだ。ロクでもねぇな神託。そもそもハルが世界を滅ぼすとか言う時点でパチモンですよ。パチモン神ですよ絶対。
苦い思いを抱えながらトラック達は西部街区を走る。太陽は彼方に姿を隠し、星がちらちらと瞬き始めていた。
翌日になり、トラック達は心のどこかに重苦しい気分を抱えたまま、日常をこなすことになった。セシリアは施療院のバイトに向かい、トラックも荷物の配送に出かける。ミラとハルもトラックを手伝い、少なくとも表面上は、普段と変わらない様子で働いている。ミラとハルが仕事を手伝う様子は下町の住人たちの保護欲のようなものを呼び覚ますらしく、二人はちょくちょくお客さんからお菓子をもらって顔をほころばせていた。甘いものを食べるとちょっぴり元気が出るものだ。お礼のクラクションを鳴らすトラックに、お客さんは一様に「いいから」と笑った。
配送を終え、トラック達はギルドへと戻ってくる。日の傾きかけた中央広場に今日も人だかりができていた。教会の前に置かれた説教壇の上で今日も神父だか司祭だか説教師だかが演説をしている。何だか前よりも人数が増えている気がするな。話題は今日も三十年前の魔王退治。他にネタがないのかよと思うが、人々は結構熱心に耳を傾けている。教会の鉄板ネタ、ということなのだろうか。でも、求められているからといって同じネタばっかりやってると、飽きられた時に一気にみんな離れていっちゃうよ。鉄板ネタを絡めつつ新しいネタもやってかないと、一発屋って呼ばれて終わりなんだ。笑いの道は修羅の道だぞ。瞬間芸がウケて、そればっかりやってたらいつの間にか消えていた、そんな芸人を、俺は嫌と言うほど見てきた。そしてその中には、才能のある奴らもいっぱいいたんだ。
「おや、トラックさん」
聞き覚えのある呼びかけの声に、トラックは車体の向きを変えた。そこにはどこか疲れた様子の青年――衛士隊副隊長リェフがいた。エバラの引っ越しの時に会って以来か。何だかあんまり寝てなさそうな顔してるけど、大丈夫? トラックが心配そうなクラクションを鳴らすと、リェフは顔に苦笑いを浮かべた。
「大丈夫、と言いたいところですが、正直このところ立て込んでましてね。ほら」
リェフは教会の前に集まる人々を視線で示した。
「このところ教会に集まる人が多いでしょう? みんな不安なんですよ」
リェフによると、ここ最近、北東街区で商人が襲われる事件が多発しているそうだ。それも、金目当てや怨恨ではなく、理由の分からない事件ばかり。被害者は商人であること以外に共通点はなく、通り魔なのではないかと噂が広がっている。自分や自分の家族、友人たちがいつ被害に遭うか分からないと、不安から信仰に縋る者が増えているんだって。その機を捉えて、ということなのか、教会も人々への働きかけを強めており、今こうして行っている演説もその一環なのだろう。
「それに――」
何か言いかけたリェフは、遠くからかすかに聞こえるうなり声に口を閉ざし、耳を澄ませた。教会前に集まる人々はうなり声に動揺し、きょろきょろと周囲を見渡している。説教師は大きな声で「落ち着いて」と呼びかけた。
「――今まであまり聞いたことなかった魔物の声が聞こえるようになったり、真昼に町中をフクロウが飛んでいたり、どうにもおかしなことが続いてる。皆の不安を少しでも解消せよと、上から通達がありましてね。通り魔捜査は不眠不休ですよ」
ふう、とリェフは疲れを吐き出すように息を吐いた。疲れがたまってんだねぇ。身体が資本の商売なんだから、責任も義務感もあるとは思うけど、あんまり無理しないようにね。
「おじさん、だあれ?」
立ち止まって動かないトラックに業を煮やしたのか、ハルが運転席から外に出てきてリェフを見上げた。リェフは驚きを顔に表し、ハルをまじまじと見つめる。
「浮いた話も聞かないと思ってましたが、こんなに大きなお子さんがいらっしゃるとは。あんたもなかなか罪作りだ」
何か変な誤解をしていそうな雰囲気だが、トラックは特に気にした風もない。リェフはしゃがんでハルと目線の高さを合わせた。
「お名前は?」
「ハルだよ!」
ハルは嬉しそうに自分の名前をリェフに話す。少し目を細め、リェフはハルの頭を撫でた。初めて会う相手に緊張していた様子がほぐれ、ハルは無邪気にリェフに言った。
「おじさんはイヌカよりつよい?」
「イヌカさん? どうして?」
ああ、衛士隊はギルドの調査部とつながりがあるから、イヌカのこともある程度知っているのか。首を傾げるリェフに、ハルは元気よく答える。
「だってイヌカ、さいじゃくじゃん!」
ハルは遠足以来、イヌカ最弱説を気に入ったらしく、ことあるごとに「イヌカさいじゃく」と言いふらしている。誰に言ってもある程度の共感と笑いを取ることができるため、もはやハルの鉄板ネタと化している。リェフは「ははは」と笑うと、うーん、と少し思案げな表情を作り、誠実な瞳でハルの質問に答えた。
「何でもないときに戦えば、たぶん俺が勝つよ」
やっぱり、とハルは満足そうにうなずく。やはりイヌカは最弱、その確信が深まったようだ。しかしリェフの言葉はそれで終わりではなかった。
「でも、たとえば、俺が君を傷付けようとしたら、俺はあっという間にイヌカさんに斬られるだろう。きっと手も足も出ない。俺だけじゃない、イヌカさんに勝てるヤツはそうそういない」
ハルはいまいち理解できないように首を傾げた。
「イヌカ、さいじゃくじゃないの?」
リェフは大きくうなずいてみせた。
「イヌカさんは力の使い時を知っている人なんだよ。普段最弱なのは、力を振りかざして誰かを怖がらせたくないから。本当に強い人は、本当に大切な時にしか力を振るわない」
むぅ、と不満げに、ハルは口を尖らせる。イヌカ最弱説という鉄板ネタを初めて否定された、ハルはたいそうご不満らしい。リェフは再びハルの頭を撫でた。
「力を振りかざして相手を無理やり黙らせようとするのは、弱くて臆病なヤツだよ。相手を信じる勇気がないから、威嚇して、牙を剥いて、攻撃してきたらひどい目にあうぞって脅しておかないと安心できない。イヌカさんはそういうヤツらとは違う。普段最弱でいられるのは、最弱であっても他人を怖がる必要がないからだよ。誰かのために勝つことも、誰かのために負けることもできる。そういうひとを『強い』って言うんだと、俺は思う」
リェフはゆっくりと、真摯に、優しい声音でハルに語り掛ける。へぇ、この人、こんな顔もできるんだなぁ。子供だからと侮ることのないその態度は、ハルに何か大切なものを感じさせたようだ。ハルはリェフの目をじっと見つめながら、彼の言葉の意味を自分なりに一生懸命考えているようだった。リェフはポンポンとハルの頭を叩き、立ち上がってトラックを見る。トラックがプァンとクラクションを鳴らすと、リェフは小さく首を横に振った。
「親父の受け売りですよ。まあ、俺もそんなに間違っちゃいないと思ってますが」
迷うように視線をさまよわせ、リェフは少し考えるような仕草をする。しかしすぐに再びトラックを見据え、口を開いた。
「俺の親父は俺が十歳の時に死にました。母も父の後を追うように、ね。俺は叔父の家に預けられたんだが、折り合いが悪くてね。三年で家を出た」
そ、そうなんだ。それは苦労なさったねぇ。でもなんで急にそんなことを? トラックが少し戸惑い気味にクラクションを鳴らす。リェフは真剣な顔でトラックに言った。
「子供にとって自分を守ってくれる大人はとても重要だ。大人に守られなかった子供は目に見えない大きな傷を負う。あんたはこの子を守らなきゃならない。あんたは――」
リェフの声は祈りにも似て、染み入るようにトラックへと放たれる。
「――死ねなくなったぞ、トラックさん」
その祈りに応えるトラックのクラクションに、リェフは安心したようにうなずいた。
長話を申し訳ない、と言って、リェフは仕事に戻っていった。しかし通り魔事件だなんて、北東街区も物騒だなぁ。西部街区も南東街区も最近は目立った事件なんて起こってないから油断してた。トラックはあんまり北東街区と縁がないから、そっちの情報は良く知らないんだよね。大変だろうけど、早く事件を解決してね。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ハルが「はぁい」と言って運転席に乗り込んだ。助手席ではミラがリスギツネを抱いたまま眠っている。ああ、ごめんね。退屈だったね。ミラを起こさぬようにか、トラックはゆっくりとアクセルを踏み、静かにギルドへと向かった。と言ってもギルドは広場を挟んだ教会の向こう側だから、すぐにでも着くんだけど。運転席に座り、ハルは難しい顔をして腕を組んでいた。
ギルドに帰ると、何やら受付が騒がしい。何事かと見てみると、カウンターでイーリィとイヌカがぎゃあぎゃあと言い争いをしていた。
「つべこべ言わずにさっさと行け!」
「いや、トイレットペーパーくらい自分で行きゃいいだろうが! なんで毎回毎回オレが行かにゃならねぇんだ!」
……どうやらイーリィにトイレットペーパーを買ってこいと言われたイヌカが抵抗しているようだ。しかしイーリィはイヌカの抗議を全く意に介さない。なおも抵抗を続けるイヌカに、ジュイチが近付いて角で突いた。
「いて! こらジュイチてめぇ何のつもりだいてて痛い痛い痛いっつってんだろうが! だからやめろって、わかった! わかったから! トイレットペーパー買ってきますから!」
あっさり屈したイヌカをイーリィが勝ち誇ったように見下ろし、ジュイチが満足げに「モー」と鳴いた。ルーグは呆れたようにイヌカを見ている。納得できないような表情でブツブツ言いながらイヌカはギルドを出て行く。その一部始終を見終わって、ハルはイヌカの後ろ姿を見送りながら、ぽつりとつぶやいた。
「……さいじゃく」
なんだかすごくガッカリしたようなハルの声は、ギルド内の喧騒に紛れて消えた。
な、なんだかリェフのイヌカへの評価が怖ろしく高いけど、ご飯でも奢ってもらったの?




