優しい、正しい
立ち尽くすセシリアを置き去りにして、ハルは当てもなく西部街区をさまよっている。ときおり鼻をすすり、泣きそうになっては立ち止まり、ぎゅっと目をつむった。その顔は怖れと後悔に満ちている。セシリアを傷付けた、そのことにハル自身がひどく傷付いているようだった。
どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ。今日の朝まであんなに遠足楽しみにしててさ。うれしそうにおやつを見せびらかしてさ。遠足楽しみって言ってたじゃんか。なのにどうして、遠足に行かないで、独りでこんなところ歩いてるんだよ。世界の終わりみたいな顔してさ。もう帰れないって、そう言ってるみたいに。
ハルは裏道を通り、人気のない方へない方へと歩いていく。徐々に日は傾き、やがて夕日が赤く町を染める時間になった。細く曲がりくねった裏道を出ると、不意に視界が広がる。西部街区の外れ、民家もまばらな未開発区域に出たのだ。刺すような夕日の光にハルは手をかざし、目を細めた。
――プァン
クラクションの音にハルがハッと息を飲んだ。まるで待っていたみたいにトラックが姿を現す。いや、もしかしたら本当に待っていたのかもしれない。ミラのときだってトラックは、スキルも使わずに居場所を探し当てていたもんなぁ。助手席と運転席の扉が開き、ミラとセシリアがトラックから降りてくる。ミラに抱かれていたリスギツネがその腕を飛び出し、ハルに駆け寄って足元に身を寄せた。ハルはきゅっと口を引き結び、トラック達をにらんだ。
「……何しに、来たの?」
針を逆立てるヤマアラシのように、ハルはとげとげしい口調で言った。
「迎えに来ました」
夕日を背にするセシリアの表情はよく見えない。でもその声には怒りも悲しみもないように思える。
「どうして!」
「家族だから」
今度はミラが答える。リスギツネがハルの顔を見上げてクルルと鳴いた。
「僕は――」
「家族なの。私たちは」
ハルに否定させないために、ミラはハルの言葉を遮った。家族なのだと、そう言うことでトラック達は家族になる。もう一度ミラは「家族なの」とつぶやいた。ハルが言葉に詰まる。
――プァン
トラックが穏やかなクラクションを鳴らす。しかしハルは身体を強張らせた。怖れているのだ。家族になること、いや、独りでなくなることを。
「大丈夫」
セシリアがハルに向かって一歩踏み出した。ハルがますます身体を固くしてうつむく。それでも逃げないのは、ハルの中にわずかでも希望があるからだろう。揺れているのだ。信じると信じないとのはざまで。
セシリアがハルの前に立つ。ミラもその隣に並んだ。セシリアが地面に膝をつき、ハルの手を取る。ハルがセシリアの目を、おそるおそる覗き込んだ。セシリアは、微笑んでいる。
「ハルは、優しいね」
ゆっくりと、はっきりと、セシリアはそう言った。ハルは小さく首を横に振る。セシリアはハルの手を握る力を少し強くした。
「聞いたよ。全部聞いた。あなたは優しい。あなたは、正しい」
ハルはわずかに目を見開いた。
今朝、ミラを置いて先にギルドを出たハルは、抑えきれないワクワクに急かされて集合場所まで走って向かっていた。他の子はどんなおやつを持ってくるのだろう、おやつとバナナをどちらも持ってくるのは僕だけかな、他の子のおやつがおいしそうだったら交換してもらおう、きっとそんなことを考えながら走っていたのだろう。時間帯としてはまだ早く、集合場所に向かっている子供たちの姿は他にない。一番乗り、という言葉が頭をよぎったとき、ハルの目は一人の女の子の姿を捉えた。その女の子は集合場所から死角になる、路地に入った壁際に隠れるようにして立っていた。悲しそうに、うつむいて。
「どう、したの?」
ハルは思わず彼女に声を掛けた。楽しい遠足の朝に、彼女のまとう空気があまりにも似合わなかったからだ。遠足が嫌なのだろうか? 行きたくない理由が、何かあるのだろうか?
急に声を掛けられ、女の子はびっくりした顔をすると、慌てたように「何でもない」と言って首を振った。しかしハルはすぐに違和感に気付いた。その女の子は手ぶらだった。お弁当も、おやつも、何も持っていなかった。それを指摘すると、女の子の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
女の子の両親は西部街区で小さな細工物を売って生計を立てているという。父親が細工職人で、母親がそれを売り歩く。だが生活必需品でもなく、有名でも何でもない者の作品が飛ぶように売れるはずもなく、生活は厳しい。そして生活が厳しいということを、女の子は充分過ぎるほど理解していた。
「……教室に、通うだけで、充分、だから」
今日は遠足だから、おべんとうとおやつを用意して。彼女は両親にそう言いだすことができなかった。言えば必ず両親は無理をする。昼夜を問わず働く両親に、物理的にも経済的にもこれ以上負担を掛けたくなかった。でも、それでも――
「遠足、行きた、かった――」
手ぶらで遠足には参加できない。そんなことをすれば、必ず誰かに「おべんとうは?」と聞かれる。だがその理由を説明するわけにはいかないのだ。自分の両親が「子供の遠足のおべんとうも用意できない」と言われるなど耐えられない。幼いプライドがそれを許さない。だから彼女はここに、集合場所から見えないこの場所に、立っていたのだろう。両親が突然現れて、「知っていたよ」と笑いながらおべんとうを渡してくれる、そんな奇跡を少しだけ期待しながら。でも、そんな奇跡など起きないことを、彼女は誰よりも理解していた。
遠足に行きたかったという言葉は、ハルの中に重く響いたようだ。遠足を楽しみにしていたのはハルも同じ。じゃあ、急に行けなくなったら? きっと悲しい。きっと、さびしい。青空教室に参加して日が浅い自分でさえそうなのだから、長く教室に通うこの子の辛さは比ではないだろう。『さびしい』がどれほど心を蝕むか、ハルは良く知っていた。
「あげる」
ハルは背負っていたリュックを女の子に押し付け、返事も聞かないまま背を向けて走り出した。さびしいはダメだ。さびしいは誰もが背負わなければならないものではない。さびしいは、自分のような者が背負えばよいのだ。だって、さびしいは、慣れている。
神と戦い、神に敗れ、遥か長い刻を独りでいた。いまさらさびしいが増えたところでたかが知れている。小さなコップに落とした涙と、海に落とした涙は違う。海に涙を落としたところで、塩辛さは変わらないのだ。
きゅっと口を閉ざし、集合場所ともギルドとも違う方向に、ハルは去っていった。
あ、あれ? なにこの光景? 俺、その場にいなかったのに、なんか目の前にいたような感じ。幻覚? もしかして俺、ちょっとヤバい?
ぴろりん♪
うお、誰かスキル覚えた。このタイミングで? 誰が?
『スキルゲット!
パッシブスキル(ユニーク) 【追憶】
他者の過去の記憶を
あたかもその場にいるかのように追体験する』
……えっ? もしかして、スキル覚えたの、俺!? 俺もスキル使えんの!? そしてこのスキル、ちょっと都合良すぎない? いや、誰に都合がいいかって言われるとアレなんだけど。
「キライに、なった?」
ハルがセシリアに、小さな声で問う。セシリアは揺れるハルの瞳をまっすぐに見つめている。
「どうして?」
「だって、ひどいこと、言った」
ハルは鼻をすする。セシリアは首を横に振った。
「ならないよ、キライになんて」
「ウソだ!」
大きな声を上げてハルはセシリアの言葉を否定する。リュックはどうしたのかと言われ、あんなもの捨てたと答えた、その言葉は、セシリアに嫌われるための言葉だったのだ。ひどいことを言えば嫌われる。それは当たり前のことで、だからハルはセシリアに嫌われたかったのだ。セシリアに「お前なんかキライだ」と言われる前に。ひどいことを言ったから嫌われたのだと、そう思うことができるように。
「だって、いっしょうけんめい、練習して、おべんとう、作ってくれて、なのに、あげちゃって、僕、食べなくて」
ハルの中にはきっと、遠足のおべんとうに対する自分の行動のあるべき姿というものがあるのだろう。全部残さず平らげて、空のランチボックスをセシリアに見せて、「おいしかった!」と言う。そうすればきっとセシリアは笑ってくれる。でもそれは、自分の行動によって不可能になった。女の子におべんとうをあげてしまったから、おべんとうを食べることも感想を言うこともできなくなった。正解ができなくなった。正しい『家族』の振る舞いができないということは、ハルにとって世界が終わるのと同じくらい重大なことだったのだと思う。嫌われる、独りになる、そしてその独りは、トラック達に出会う前の独りとは意味が違う。拒絶される前に、ハルはトラック達から逃げたのだ。
「それがいいと思ったのでしょう? 誰かが悲しいことが嫌だったのでしょう? どうにかしたくて、自分ができることをしたのでしょう?」
セシリアは落ち着いた声でゆっくりと話す。ハルが小さくうなずいた。
「あなたは、正しい。正しいことをしたあなたを、私は、嫌いになったりしない」
ハルはじっとセシリアの目を覗き込む。その奥にある真意を確かめるように。やがてハルの目からぽろぽろと涙があふれだした。大きな声を上げてハルが泣き始める。セシリアはハルを抱き寄せた。
「大好きよ、ハル」
セシリアは何度もそう繰り返した。ハルが泣き止むまで。ハルの背を撫でながら、何度も、何度も。
きっとこれから、ハルとトラック達はこういうことを何度も繰り返すのだろう。ハルの心は信頼と不信の間を常に揺れ動いている。本当に信じてよいのか、裏切られるのではないか、心を寄せたとたんに見捨てられるのではないか、ハルはいつも疑っていて、わずかでも不安があればトラック達を試すのだ。トラック達はハルの投げかける試練の全てに応えなければならない。ハルの心が「きっと裏切るに違いない」から「裏切るだろう」「裏切るよね?」「裏切るかな?」「もしかして裏切らない?」「信じてもいい?」「信じてみてもいいかも」「信じてみよう」に変わるまで、何度でも。ハルの心を、孤独を受け止めるには、それ以外に方法はないのだ。
西部街区の外れを夕日が照らし、トラック達の影を地面に描く。ハルの影もまた、セシリアの影と一体となって、長く地面に伸びていた。
ちなみにハルの用意したバナナの遠足の朝時点での糖度は17.9度。
見事おかずと認められ、お菓子を没収されずに済んだとのことです。




