遠足
セシリアがゴクリと唾を飲む。その手には鈍く光を反射する刃物が握られていた。両手で柄を握り、その先端をじっと見つめる。そして、しばし。
「……参ります」
覚悟を決めたように、セシリアは刃物を振り上げた。
「はい、というわけで、今日から一緒にお勉強する新しいお友達を紹介します。ミラさんの弟のハル君です。みんな、仲良くしてくださいね」
はーい、と子供たちが返事をするなか、アネットはふおぉ、という感じでハルを見つめている。ハルは美少年だからなぁ。可愛いもの好きのアネゴとしてはハートをワシ掴まれよう。先生は嬉しそうに教室を見渡している。獣人、ゴブリン、ドワーフ、エルフでゴーレム、そして人間が同じように机に向かっていることが感慨深いのだろう。ほんの一年前にはなかったこの光景が、これからは当たり前になる。そう予感してしまうほどに子供たちは互いの絆を育んでいる。
春の青空教室は穏やかな雰囲気に包まれていた。
ハルはビジュアルが人間に近いため迎えられるにあたって大きな混乱もなく、ミラの隣の席に座って授業を受けた。ハルが魔王だということは当然ながらみんなには秘密にしてある。誰かと一緒に何かする、ということが新鮮なのか、ハルは何だか楽しそうだった。そして何より、名前を呼んでもらうことが、名前を呼んでくれる相手がいるということが嬉しいようだった。
授業はつつがなく終わり、アネットの掛け声で子供たちが先生に「ありがとうございました」と挨拶をする。先生はうなずくと、「ああ」と何かを思い出したように声を漏らし、帰り支度を始めた生徒たちに呼びかけた。
「今度の授業は遠足ですよ。お弁当、忘れないようにね」
みんなが「はーい」と返事をした。おお、この世界にも遠足はあるのか。先生、おやつはいくらまでオーケーですか?
「バナナはおやつに入りますか?」
クラスの男の子の中心、だけどアネゴに隠れて影が薄い大将が、シュビッと右手を挙げて先生に質問する。あ、この世界にもバナナあるんだっけ。そういえば前になんとかって魔神がバナナ好きだった気がするな。先生はクイッとメガネを上げ、真剣な声音で言った。
「糖度によります」
えーっ、と子供たちから不満の声が上がる。糖度次第でバナナがおやつかどうか分かれるとはなかなかに厳しいルールだ。そもそもどうやって糖度を測るんだろうか。
「基準は?」
アネットが冷静に先生を問い質す。先生は懐からバナナを取り出し、みんなに見えるように掲げた。先生のメガネがキラリと光る。
『アクティブスキル(ジョブ) 【糖度測定】
あらゆるものの糖度を数値化する。
ただし、五秒以上まばたきをせずに見つめる必要がある』
スキルウィンドウがスキルの発動を宣言し、解析中の文字が空中に踊る。ちーんと音がして、解析されたバナナの糖度がホログラムのように浮かび上がった。
『糖度:18.0』
「これがバナナのおやつとおかずの境界線です。18.0度以上がおやつ、それ未満ならおかずと考えてください。判定は当日の朝に行います。購入時には基準値未満でも、バナナは時間を置くと熟しますから、その辺りも考えに入れておくようにね」
にこやかに厳しいこと言うなぁ。生徒の一人がおずおずと手を挙げて質問する。
「……基準値を超えていたら?」
「おやつは銅貨三枚分まで、は我が教室の鉄の掟。超過分は没収してご近所さんに配ります」
やっぱり、というため息が教室中に漏れる。先生は宣言したルールをうやむやにしない、ということをみんな分かっているのだろう。没収すると言えば間違いなく没収する。だからこれは、子供たちに一つの選択を迫るものなのだろう。
「品物の見極めも大切な技術の一つですよ。このバナナの糖度はどれくらいか、自分の目利きを試したいと思うなら、ぜひ挑戦してみてください」
銅貨三枚分のおやつとは別にバナナを持っていくということは、バナナの糖度を見極め、さらに熟す過程で増す糖度を読み切る必要があるということだ。それは子供たちが大人になった時、『今』と『未来』を同時に考えて決断を下すための力になる、かもしれない。しかしあいまいな未来の予測から決断を下すことはリスクが高すぎるということもあるだろう。先生はきっと、リスクとメリットの両方に目を配れと言っているのだ。つまり、バナナを持っていかない、リスクを最初から排除するという選択もあるよ、さあ、どちらを選ぶ? と言っているのだ。
むむむ、と悩む子供たちを先生は楽しそうに見ている。自分で考えること、自分で決断をすること、そしてその結果を引き受けること。遠足のおやつによって先生が伝えたいのは、きっとそういうことだ。バナナはあきらめよう、いやこうすれば大丈夫なんじゃないか、教室のあちこちで聞こえる子供たちの声は、真剣そのものだった。
青空教室が終わり、ミラとハルの手を握って名残を惜しむアネットの手を鮮やかに振り切って別れの挨拶をして、ミラとハルとトラックは並んで歩いて帰った。トラックに乗ればいいような気もするんだけど、まあ歩いて丈夫な子に育ってください。ミラに手を引かれ、ハルはにやにやと笑っている。ミラが「どうしたの?」とハルの顔を覗き込んだ。
「遠足、たのしみ」
ちょっと照れたように「えへへ」と笑って、ハルはそう答えた。ミラもうなずいて「私も楽しみ」と笑った。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。二人は弾かれるようにトラックに顔を向けた。
「おべんとう!」
二人はやや興奮気味にそう叫んだ。トラックが再びクラクションを鳴らす。二人は顔を見合わせ、笑い合って、そしてもう待ちきれないというように駆け出した。
「早く戻ろう、トラック!」
振り向いてそう呼びかけるハルにクラクションを返し、トラックは少しだけ速度を上げた。
「ちょっと待って!」
慌てたようなイーリィの声に、思わずセシリアは振り返る。同時に手に持った刃物は振り下ろされ、イーリィの鼻先をかすめた。小さく悲鳴を上げて後ずさり、イーリィはセシリアに怒鳴る。
「殺す気!?」
「ご、ごめんなさい! 急に呼びかけるから……」
もごもごと言い訳を口にするセシリアを軽くにらみ、ため息を一つ吐いて、イーリィは諭すように言った。
「包丁を振りかぶらないで。まな板まで叩き割るつもり?」
えっ? と意外な表情を浮かべ、セシリアが手許の包丁を見つめる。ここは冒険者ギルドの酒場の厨房で、今はイーリィとセシリアが料理をしている。正確に言うと、セシリアがイーリィに料理を教わっている。で、おそらくセシリアの実力を見るためだろう、「とりあえずキュウリを輪切りにしてみて」とイーリィがオーダーし、それに応えたセシリアが大きく包丁を振りかぶって、あやうくイーリィを斬りつけそうになって現在に至る。セシリアは忙しなく視線をさまよわせると、何とかイーリィに対する回答を搾りだした。
「い、一撃で仕留めないと、と思って」
「何と戦ってるのよあなたは」
若干の疲労感を漂わせてイーリィは再びため息を吐いた。「すみません」と消え入りそうな声でセシリアは答える。
「……本当に、したことないのね、料理」
気まずそうにセシリアはうなずき、包丁の柄を両手でぎゅっと握った。
青空教室からギルドに帰ってきたトラック達は、その足で受付のイーリィを訪ねた。ちょうど暇な時間帯だったらしく、ギルドのロビーは閑散としていて、イーリィは受付でセシリアと世間話をしていたようだ。ハルはパタパタと二人に駆け寄り、興奮気味に遠足のことを話した。「甘くないバナナはおかずなんだよ」と話すハルの姿にセシリアが目を細める。
「遠足におべんとうを持って行かないといけないの。イーリィお姉さん、ギルドでおべんとうを頼めますか?」
ちょっとかしこまってお願いをするミラがおかしかったのだろう、イーリィはふふっと笑って、そして背を伸ばし、自分の胸に手を当てた。
「お弁当くらい私が作ってあげるわ。まかせて――」
「わ、私が作ります!」
イーリィの言葉を遮り、セシリアが突然大声を上げた。イーリィもミラもハルも、急に大声を出したセシリアに目を丸くする。ハッと周囲を見渡し、少し身を小さくして、声のトーンを落としながらセシリアはもう一度「私が作ります」と言った。
「それは、構わないけど……作れるの?」
イーリィが疑惑の目をセシリアに向けた。
「セシリアちゃん、作れるの!?」
「お姉ちゃん、すごい!」
イーリィとは違い、ハルとミラは期待と尊敬の瞳でセシリアを見る。無垢な瞳に若干気圧されながら、セシリアは虚勢気味に胸を張った。
「作れます。やったことは、ない、けれど……」
言葉の後半がほぼ聞き取れないくらいに小さい声になっていることが、全ての真実を物語っている。しかし子供たちは素直に喜んでいるようで、「楽しみだね」と言い合っている。ちょっと、セシリアさん大丈夫? 墓穴掘ってない? お弁当箱開けたら中にダークマター入ってました、なんてなったら結構取り返しつかない奴だよコレ。チベットスナギツネみたいな目で見られることになる奴だよコレ。
何かいろいろと察したらしいイーリィが、セシリアを酒場の厨房に誘う。今は酒場にも客はほとんどなく、言えば厨房を貸してくれるだろうとのことだった。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。どうやらミラとハルを連れておやつを買いに行こうと言っているようだ。ミラとハルが元気よく「うんっ」と返事をして、トラックはふたりを連れてギルドを出て行った。イーリィが真剣な顔つきでセシリアに言った。
「できませんでした、じゃ済まない雰囲気よ。覚悟はいい?」
緊張を顔に表し、セシリアはぎこちなくうなずいた。
「素人が料理に失敗する理由って、なんだと思う?」
教師の口調でイーリィが問う。セシリアはむぅ、としばし考え込み、そして答えた。
「作り手の未熟さ、でしょうか?」
「いいえ、違うわ」
イーリィは首を横に振り、即座にセシリアの回答を否定する。
「レシピ通りに作らないからよ」
明快なお答え。イーリィは真剣にセシリアに語り掛ける。
「料理には材料があり、分量があり、手順がある。そして料理に運と偶然はないわ。同じ材料、同じ分量、同じ手順で料理を作れば、同じ味になる。まったく新しい料理を模索しなければならない職業料理人ならともかく、私たち素人のレベルで料理に失敗するのは、勝手に材料を変えたり、分量を守らなかったり、手順を無視したりするから。きちんとレシピ通りに作れば、少なくとも食べられないものができることはないわ」
イーリィの眼差しに少々怯みながら、しかしセシリアは反論を試みる。
「で、でも、こうしたらもっと美味しくなるのでは、という創意工夫は必要なのではありませんか?」
「そういうことは、自分の中に基準ができてからすることよ。『もっと』美味しいかどうかを判断するためには、レシピ通りの味がどんなものかをまず知る必要がある」
おおう、ばっさり斬られた。ぐぅの音も出ずセシリアは押し黙る。イーリィは冷酷にさえ聞こえる声音で言った。
「まずは私の言う通りに作りなさい。子供たちに幻滅されたくないのなら、ね」
少しかすれた声で、セシリアはかろうじて「はい」と返事をした。
イーリィが教えてくれたのは、ピクニックのおべんとうの定番、卵のサンドウィッチだった。ちなみにサンドウィッチというのは、大陸のとある砂漠に住む一人の魔女が考案したファストフードのことなんだって。その魔女は魔法の研究が三度の飯より好きで、研究が食事のためにいちいち中断することにひどく不満を持っていた。研究の手を止めずに、そう、たとえば片手で持って食べられるような食べ物はないだろうか。そんなことを日々考えていた魔女は、ある日、パンでサラダを挟んで一度に食べるというアイデアを思い付いた。実際にやってみると思いのほか美味しく、魔女は本業の研究そっちのけでパンにはさむ具材の開発にのめり込み、やがてその集大成として、『砂の魔女のお手軽ランチ』という本にまとめた。その本は各地で評判となり、人々の間に一気に広がって、やがて『パンの間に具材を挟んで手で食べる料理』のことをサンドウィッチと呼ぶようになった、ということだ。へぇ。異世界には異世界なりのサンドウィッチの謂れがあるんだねぇ。まあ、極めてどうでもいい情報だけども。
耳を落とした食パンにバターとマヨネーズを塗る。あ、ちなみにマヨネーズというのはとある町に住んでいたマヨネ姉妹が(中略)というわけで一気に広まった、ということだ。異世界には異世界の(以下略)。
セシリアは慣れない手つきで懸命にサンドウィッチと格闘している。イーリィはなかなかのスパルタぶりで、口は出すが手出しは一切しなかった。セシリアは、なんというか、ちょっと意外なことに、こういうことには不器用な子らしい。それなりの数の失敗作を生み出しながら、それでも彼女はあきらめなかった。ジンゴやマスターに、ハルを育てる、と言った、その言葉を裏切らないように、彼女なりに一生懸命なのだろう。練習開始から数時間が経ち、そろそろ厨房使わせてくれないかな、という酒場の調理スタッフの視線を無視して、セシリアはもう幾つめかもわからない試作の卵サンドを口にした。
「……おいしい!」
信じられない、という顔でセシリアはイーリィを見る。イーリィはセシリアから卵サンドを受け取り、ひと口大にちぎって口の中に放り込んだ。
「うん。立派なものだわ」
微笑むイーリィを見て、セシリアはグッと拳を握り、喜びを全身で表した。努力がついに実を結びましたな。いやぁ、よかった。ミラとハルがランチボックスのふたを開けたら謎の物質が入っていました、ってことにならなくて。
「……喜んでくれるでしょうか?」
ふと、セシリアが不安げな顔をする。ミラもハルも、実は食事を摂る必要はない身体だ。だが食べる機能は持っている。普段は食べないので食費も掛からないのだが、遠足でみんなと一緒にご飯が食べられないというのは寂しいから、そういう機能があるのは幸いだ。食事の楽しさは食べる物の美味しさだけではない。いつ、どこで、誰と食べるか。そういう楽しさを二人には知ってもらいたいと、セシリアは思っているのだろう。
「喜ぶに決まってるわ」
残りの卵サンドを食べ終え、イーリィが太鼓判を押す。セシリアは嬉しそうに笑って、イーリィに頭を下げた。
『グレートミランガーだいずかん:ミランガーかいぼうず』
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