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魔王

 セシリアから手鏡を奪い取った魔王は、信じられぬものを見るように手鏡を凝視している。魔王を腹から取り出されたジンゴがベッドから起き上がった。顔色も若干よくなり、呼吸も落ち着いている。ジンゴは複雑そうな顔で魔王を見ていた。


「……聖水の、効果、なの?」


 シェスカさんがぽつりとつぶやく。三十年間ずっと聖水を飲み続け、ジンゴは魔王の力を少しずつ少しずつ削っていった。その努力が今、結実したのだ。魔王は本来の姿を維持する力すら失い、こんなちんみりした姿を晒している。


「え、ええい! 姿形などどうでもよい! この魔王の魔力を以て、貴様ら全員、等しく葬り去ってくれるわ!」


 言葉こそ厳めしいが、体形が変われば当然声も変わるわけで、何だか小学生が学芸会で魔王役を演じているような微笑ましさがある。優しい周囲の視線を振り払うように、魔王は一生懸命悪そうな顔を作って呪文を唱え始めた。


「追憶の砂、怨嗟の旅路、三日月の杯を受けて太陽を呑む者よ。嘆きの声を響かせよ。高らかに大空を渡り、世を真白に染め上げよ!」


 くわっ、と目を見開き、魔王が両手を突き出す。室内にもかかわらず凍てつくような風が吹き、そして――


――ぽふっ


 魔王の手のひらから小さな雪だるまが現れ、床に落ちた。大人の握りこぶし二つ分くらいの大きさのその雪だるまは、案外丈夫なのか、床に落ちても壊れてはいなかった。魔王はぼうぜんと雪だるまを見つめる。しかしすぐに首を横に振って気持ちを立て直し、若干早口で再び呪文を唱え始めた。


「炎獄の鎖、幻日の揺らぎ、火炎樹の花を食み魔女の心臓を喰らう者よ。赤き牙を突き立てよ。赤熱する爪を以てすべてを引き裂け!」


 くわっ、と目を見開き、魔王が両手を突き出す。室内の温度が急激に上がり、雪だるまが溶けて消えた。そして――


――にゃー


 魔王の手のひらから仔猫が現れ、たすんと器用に床に降りた。仔猫は魔王の足元に近付くと、その身体をこすりつける。魔王はぼうぜんと仔猫を見つめた。ミラが思わず口を開く。


「がんばれ」

「はげますな!」


 魔王は怒りの眼差しでミラをにらんだ。怒鳴り声に怯えた仔猫が家を飛び出す。セシリアはやさしく微笑んだ。


「次はきっとうまくいきます」

「なぐさめるな!」


 魔王はキッと鋭い視線をセシリアに向ける。シェスカさんがポケットから小さな包みを取り出し、魔王に差し出した。


「クッキー食べる?」

「やさしくするなぁ!」


 魔王は地団太を踏んで苛立ちを表している。やがて魔王は半べそになりながら腕を大きく振った。


「こうなれば、我が最大最強の奥義でこの町ごと吹き飛ばしてくれるわっ!」


 天を仰ぎ、右手を掲げ、左手で右手首を支えて、魔王は呪文の詠唱を始める。足元から風が逆巻き、魔王のサラサラの髪を躍らせる。


「虚無の右手、沈黙の声、星喰らう蛇の毒を杯に満たせ! 巨人の咆哮は始まりの鐘にして運命の予言。歪み、閉ざし、崩れ、滅びよ! 我が求めるは終焉なり!」


 その瞳に妖しい光を宿し、魔王が掲げていた腕を正面に向けた。その先にはトラックの姿がある。突き出した手のひらの前に、パリパリと音を立てて闇が凝集していく。


「はぁっ!」


 気合と共に魔王は闇を押し出した。球形の闇はトラックに向かって飛び――届くことなくへにょんと床に落下し、シャボン玉のようにはじけて消えた。


 しくしくしくしく


 魔王はしゃがみ込み、手の甲であふれる涙をぬぐった。


「……ちがうの。もっと、ほんとは、こう、ばぁん、って、なるの」

「うん。わかる。わかってるよ」


 ミラが魔王に駆け寄り、頭を撫でる。リスギツネが心配そうにクルルと鳴いて、魔王の足元に身を寄せた。魔王は鼻をすすると、リスギツネの鼻の前に手を差し出す。リスギツネがスンスンとにおいを嗅ぎ、魔王の手を舐めた。魔王はくすぐったそうに「えへへ」と笑った。


「……本当に、魔王、なのか?」


 剣士がもっともな疑問を口にする。セシリアは魔王に視線を向けたままうなずいた。


「魔力の気配は間違いなく、ドワーフ村で感じたものと相違ありません。ただ、言わば大量の水で毒を希釈したようなもので、この子は実質的にほぼ無害だと思います」


 封印された場所に残っていた魔力の残滓のほうが魔王本体の魔力より強いってのも変な話な気がするけど、それもジンゴがひたすら聖水を飲み続けた結果ということだろうか? ほとんど何も無いに等しいこの家の中に染み付いた聖水の、ハッカのような清涼な匂いが、三十年という時間の重みを伝えている。

 実はしっかり受け取っていたクッキーの包みを広げ、魔王はその一つを口に運んだ。「おいしい」と顔をほころばせる魔王をシェスカさんはやさしく見つめる。なんつーか、ウチの女性陣は魔王にめろめろですなぁ。まあ確かに美少年ではあるけども。そしてこのくらいの子供が食べてる姿ってかわいいよね。あと寝てる姿ね。ちょうかわいい。


「……いい加減にしろ!」


 我慢できないと言わんばかりのジンゴの怒声が、緩んでしまった空気を一掃する。皆がハッとした様子でジンゴに顔を向けた。ジンゴは厳しく魔王をにらんでいる。


「子供の姿をしていようと、今は魔力を失っていようとも、お前が魔王であることに変わりはない! 神に挑み、神に敗れた世界の敵であることに変わりはない!」


 ジンゴはベッドから降り、魔王の正面に立つ。魔王はどこかおびえた目でジンゴを見上げた。ジンゴは冷酷な眼差しで魔王を見下ろした。


「俺の腹に戻るんだ。この世界にお前の居場所はない」


 魔王はぶんぶんと首を横に振る。ジンゴは感情を乗せない声で言った。


「ヒヨッコども。魔王を押さえてろ」


 剣士とセシリアは戸惑ったように顔を見合わせた。冷静になればジンゴの言うことはもっともなことではある。しかし目の前のこの子供に対して、二人はそれほど冷淡になれないようだった。リスギツネがジンゴに向かって牙を剥き、ウーッと唸る。ミラもまたジンゴをにらみ上げた。

 動かぬセシリアたちに舌打ちをして、ジンゴは魔王に手を伸ばす。その手が触れれば彼のユニークスキル【うわばみ】が発動し、魔王は再び異空間に封じられる。魔王は弾かれたように立ち上がり、床を蹴って逃げ出した。しかし動揺しているのか足はもつれ、床に転がる酒瓶に突っ込んで派手な音を立てる。ジンゴは冷静に部屋の入り口に回り、外への逃げ道を塞いだ。シェスカさんが複雑な表情でジンゴを見る。

 ジンゴにとって魔王は、自らの冒険者としての人生と引き換えにして封じた『絶対悪』だ。魔王を封じなければ、彼にはもっと華やかな冒険者としての未来があった。それだけの実力を彼は持っていた。だから彼には、魔王が実は封じる必要のない存在だった、という結論は受け入れられない。それは彼にとって、彼の三十年が無意味だと、そう言われているに等しいことなのだろう。魔王は彼の三十年を、華々しいキャリアを犠牲にするにふさわしい存在でなければならない。だから魔王は封じ、滅ぼさねばならないのだ。

 魔王は起き上がり、逃げ道を探す。しかし凄腕の冒険者であるジンゴは巧みに魔王の行く手を阻み、移動先をコントロールし、あっという間に壁際に追い込んだ。壁を背に魔王が引きつった顔で震える。魔王の封印に人生の全てを費やしてきた男の鬼気迫る様子に、セシリアたちは動けずにいるようだ。ジンゴは死刑宣告のように厳かに告げた。


「お前はこの世にいてはいけない存在だ。異空間で静かに滅びの時を待て」

「い、いやだ!」


 魔王は激しく首を横に振り、拒絶を示した。ジンゴは表情を変えず、魔王に手を伸ばす。魔王が目を大きく見開き、そして、かすれ、消え入るような声で、言った。


「……さみしい――!」


 その言葉は波紋のように広がり、そして一瞬、ジンゴの動きを止めた。




 魔王は遥か古の時代、神に反逆し、地中深く封じられた。気の遠くなるような時間を独りで過ごしてきた。三十年前に封印は綻び、目を覚ましたと思った矢先に、今度はジンゴのスキルで異空間に閉じ込められた。今日、トラックが異空間から引っ張り出すまでずっと、独りだった。魔王の『さみしい』には、ただの言葉ではない重みがあった。だからジンゴは伸ばした手を、ほんの一瞬だけ止めた。ためらったのだ。そこに確かな心を感じたから。

 ジンゴはすぐに止めた手を再び伸ばした。ベテランの冒険者は個人的な感情で目的を見誤ったりはしない。だが彼がためらった一瞬は、トラックに【念動力】を発動する隙を与えていた。瞬時に魔王はトラックの前に引き寄せられ、ジンゴの手が空を切る。魔王が信じられぬという顔でトラックを見上げた。ジンゴはトラックを振り返り、鋭くにらみつける。視線からトラックを庇うように、剣士とセシリアが二人の間に割って入った。


「……自分のしていることが、分かってるのか?」


 押し殺した怒りの声が部屋の空気を振動させる。剣士とセシリアは同時にうなずいた。


「魔王を解き放てば世界が滅ぶかもしれん! 罪なき者が死ぬかもしれん! そのことを本当に、分かっているのか!」


 元Aランク冒険者の、すさまじいまでの重圧が部屋に広がる。常人であれば息をするのも難しい圧迫感の中、剣士は苦笑いを浮かべてうなずいた。


「そうなんだよ」


 ジンゴが意味を捉えかねたように眉を寄せる。トラックはプァンと静かにクラクションを鳴らした。それを追認するようにセシリアが微笑む。


「世界は滅ぶかもしれない(・・・・・・)。罪なき者が死ぬかもしれない(・・・・・・)。すべて可能性なのです。事実ではない。まだ、誰も死んではいない」

「屁理屈を並べるな! 誰かが死んでからでは遅い!」


 揺らがぬジンゴの怒りを正面から見据え、剣士は表情を正した。


「あんたの言い分は正しい。だが俺たちは、決めつけや思い込みで誰かを裁くようなことはしないんだ」


 セシリアは視線をミラに向け、穏やかに言う。


「可能性で罪を問う愚かさを、私はついこの間知りました。それを知らなければ、私はミラを失っていた」


 ミラがセシリアを振り返って微笑む。ミラに微笑みを返し、セシリアは決然と顔を上げ、ジンゴをまっすぐに見つめた。


「この子には誰も殺させません。何も壊させはしません。それで納得いただけませんか?」


 ジンゴは激しい感情を乗せてセシリアをにらみつけている。セシリアはジンゴから目を逸らさなかった。しばらくの時間が過ぎ、先に目を逸らせたのはジンゴのほうだった。


「……必ず後悔するぞ。魔王が力を取り戻せば、誰にも止められん」

「ありがとうございます」


 ジンゴの言葉を了承と受け取り、セシリアは深く頭を下げた。剣士が軽く安堵の息を吐く。パチパチとまばたきをする魔王の手をミラが握った。


「あなた、名前は?」


 ミラに問われ、魔王はちょっとびっくりした顔をすると、視線を落とし、もごもごと不明瞭な返事をした。


「……名前なんか、ない」


 かつて神と戦い、敗れた魔王は、封印に際してその名を神に奪われたのだという。名を奪われるとは自らが何者であるかを奪われること。名を奪われることで魔王はその力の大半を失ったのだとか。と、いうことは、名を奪われて力の大半を失った状態でも、マスター達三人は魔王に歯が立たなかったということなのか。魔王の真の力というのは途方もないものなんだろうな。


――プァン


 トラックが優しいクラクションを鳴らした。魔王が勢いよくトラックを振り返る。その顔は驚き、戸惑い、そしてわずかな期待を示していた。再びトラックがクラクションを鳴らす。魔王はぼうぜんと口を開いた。


「……ハ…ル……?」


 ミラがうなずき、魔王に話しかける。


「今日から、あなたの名前は、ハルね」


 ハル、と名付けられた魔王が、ミラを振り返り、もう一度小さく「……ハル」とつぶやいた。セシリアと剣士がうなずきを返す。


「とても良い響きの名ですね」

「短くて憶えやすいな」


 ハルは顔を上げ、剣士とセシリアを見る。そして、自分の中に沁み込ませるように、何度も何度も「ハル」と繰り返した。何度も繰り返しながら、ハルの顔が徐々に上気していく。そしてハルは、もう一度自分の名を読んで、照れたように「えへへ」と笑った。


 今から五年前、いや、もうすぐ六年になるのか、俺はトラックを買った。そのとき俺の嫁のお腹の中には赤ちゃんがいてさ、名前を考えてた。二人で話し合ってさ、男の子だったらハル、女の子だったらサクラにしようって決めたんだ。生まれてきたのは女の子だったから、サクラって名付けた。

 もしかしてさ。お前、そのこと覚えてたのかな? だからハルって名前にしたのかな? もしそうだったらさ、嬉しいよ。ありがとな、トラック。

ちなみに魔王は長男です。七人兄弟の。

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― 新着の感想 ―
[一言] 呪文カッケエエエエ!!!! 結果はアレだけどw >もしかしてさ。お前、そのこと覚えてたのかな? だからハルって名前にしたのかな? もしそうだったらさ、嬉しいよ。ありがとな、トラック。 たま…
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