お願い事
二月があっという間に過ぎていき、ケテルはいよいよ本格的な春を迎えつつある。朝夕の空気はまだ冷たいが、昼の日差しは穏やかに降り注ぎ、厳しい季節の終わりと新たな目芽吹きの季節の訪れを言祝いでいるようだった。こんな日はすごく昼寝がしたいけど、さすがにまだ風邪ひくかなぁ。怠惰な俺をよそに、子供たちは今日も勉学に勤しんでいる。
春の始めの青空教室は、今、奇妙な緊張感に包まれていた。
「……えーっと」
先生が教卓から非常に困った顔で子供たちを――正確にはある子が座る椅子の辺りを眺めている。その子、というのはミラのことで、トラックはミラに友達ができるようにと考えて青空教室への参加を先生に打診して快諾されていたのだが、先生の戸惑いの原因はそこではない。トラックが教室の後方でハザードを焚いていることも、アネットが妬ましそうな目で震えていることも特に問題ではないし、レアンやガートン、それにジンが珍しいものを見る目をしていることも、他の子供たちが何が起きているのか分からないという顔をしていてまったく授業に身が入らないことも仕方がないことだ。すべての問題の原因は――
「……どうしてここにいらっしゃるのですか、陛下」
「まあ、陛下だなんて他人行儀な。『母様』と呼んでちょうだい」
ミラの席で、ミラを膝に抱えて座っている、自ら淡い光輝を放つハイエルフの女王であることは間違いなかった。
……なんでこんなとこにおるんじゃぁーーーーっ!!!
ちょっと前にミラと心引き裂くような別れのシーンあったやろうがぁーーーーっ!!!
あの涙なんだったんじゃぁーーーーっ!!!
母様、という言葉に教室の子供たちがざわめく。「あのひと、あの子の母ちゃんなんだ」などとひそひそ交わされる会話に、ミラは少々居たたまれない表情を浮かべた。
「公務がおありのはずでは?」
母様、と呼んでくれなかったことに若干ムッとしながら、女王は「あんなもの」と鼻で笑った。
「私は女王でもあるけれど、同時にあなたの母でもある。女王としての私はあなたを都に受け入れることを許さなかったけれど、母としての私はあなたと一緒にいたいと望んでいた。私、悩んだわ。そして気付いたの。だったら――」
女王は空を見上げ、闇の中に光明を見たような希望を顔に浮かべた。
「――分身すればいいじゃない、って」
中空にスッとスキルウィンドウが現れ、女王の言葉を証明する。
『アクティブスキル(レア) 【影分身】
自らの持つチャクラを分有する実体を伴った分身を作り出す』
なんだかすっごい忍者が使いそうなスキル憶えちゃったってばよ。チャクラなんて設定今まで一回も出てきてないからね? 説明もなくしれっと設定増やすんじゃねぇよ。
『チャクラについての説明を表示しますか?(およそ十万字)』
いらんわっ! なんでこれから関わるかどうかも分からん設定の説明を十万字も読まにゃならんのだ! チャクラについてはスルーするから結構です。
『しょぼん』
上辺の角を若干落としてスキルウィンドウは出てきた時と同様にスッと消えた。女王はどこか勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「今、都の執務室では私の姿をした抜け殻がひたすら書類に印を押しているわ。その内容が重要であるかどうかに関わらず、ひたすらにね」
ダメじゃねぇか。吟味しろよ、書類の内容を。
「あんな書類の束より、母様はあなたのほうがずっと大事なの。とりあえず三百年ほどここであなたと過ごそうと思ってこうしてやってきたのよ。ああ、ミラ。会えて本当に良かった。母様、とても嬉しい」
女王はミラの身体をぎゅっと抱きしめて放さない。ミラは若干呆れたように微笑み、女王に言った。
「帰ってくださいますか?」
「そんな!?」
「皆さんの邪魔になりますので」
驚愕の表情を浮かべる女王を、ミラは穏やかに切り捨てた。ミラ、意外とドライなのな。女王は勢いよく首を横に振る。
「や~だ~」
駄々っ子か。どっちが親なのか分からんわ。足をバタバタさせる女王にミラはため息を吐く。すると女王が動きを止め、はっと何かに気付いたように顔色を変えた。
「いけない、宰相に気付かれた!? あだだだ! ちょ、いくら宰相と言えど、女王のこめかみをこぶしでグリグリするのは不敬であだだだだちょっとやめてほんとやめて」
女王は両手で頭を押さえ、コントのようにひとりでのたうち回った。その腕から解放されたミラが女王の膝から降りて残念な表情を浮かべる。女王は苦渋に満ちた顔でミラに叫んだ。
「ごめんなさい、母様ちょっと戻るわね。でもすぐ帰ってくるから! 必ず帰ってくるから! 待っててね、絶対よ!」
ミラにそう何度も念押しし、そして女王は一瞬だけトラックに視線を向けた。トラックがハザードを止める。ほんのわずかの時間だけ女王はトラックを見つめ、そしてぽふんと間の抜けた音を残して姿を消した。教室の誰もが我知らず大きく息を吐く。嵐は、去ったのだ。
「それじゃ、始めようか。紹介が遅れてしまったけれど、今日からこの教室に新しい仲間が加わることになりました。ミラさん、自己紹介をお願いします」
先生に促され、ミラがみんなを振り返る。子供たちの視線がミラに集まった。ミラは少々気まずそうに、みんなに頭を下げた。
「ミラです。先ほどは母がご迷惑をお掛けしました」
なかなか頭を上げないミラに、誰からともなく拍手が起こる。拍手はやがて全員に伝播した。ミラが顔を上げる。みんながミラを見つめる視線は、同情と労りに満ちていた。ミラはもう一度、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
その日、青空教室のみんなは、最初から最後まで、ミラに優しかった。
授業が終わり、ミラは女子たちに囲まれておしゃべりをしている。ミラの隣にはアネットがさりげなく控えているし、他の女子たちもミラのことに興味津々という感じなので、とりあえずミラの青空教室初日としては上々だろう。問題があるとすれば、みんなが不自然なほどにミラの母親の話題を避けているためにかえってミラが申し訳なさそうなことだろうか。でもまあ、そこはミラのせいでも子供たちのせいでもない。言うなれば天災なので、もう切り替えて気にしないようにするしかないな。
本来全体の指揮を執るアネットがミラと話しているので片付けが一向に進まない中、トラックはジンにプァンと声を掛けた。ジンは級友との会話を中断してトラックを振り返った。
「例の件、ですよね?」
ちょっと含みのある笑みを浮かべ、ジンは楽しそうに言った。例の件、というと大仰なのだけれど、ジンたちがミラを助けてくれた後、ケテルに戻ってから、トラックはジンに一つの頼みごとをしていた。
「頂いた『核』は、残念だけどすべて壊れていました」
ジンが少し目を伏せる。頂いた『核』というのは、トラックがジンに渡したゴーレムの『核』のことだ。ミラが人形師の魔法使いにさらわれ、トラックたちがミラを奪還に向かった屋敷の地下で、トラックと戦ったニ十体のゴーレムたち。ミラの悲痛な叫びを受けて主を見限り、自壊することを選んだゴーレムたちの『核』を、トラックはすべて回収していたのだ。そしてそれらをジンに託し、どうにか復活させられないかとお願いしたのである。ジンは「でも」と言って顔を上げた。その顔は決して希望を捨てないという決意に満ちていた。
「『核』の中に、わずかですが魔力の欠片が残っていました。ひとつひとつは小さい力ですが、全てを集めて新たな『核』に移植すれば、彼らの想いを継ぐことはできると思っています」
ジンの力強い言葉はトラックを安心させてくれたようだ。頼もしくなったなぁ、と感心するようにトラックは小さくクラクションを鳴らした。
「彼らは、ミラのために自分を犠牲にしてくれたんですよね?」
笑顔を収め、ジンは真剣な表情をトラックに向けた。うなずきの代わりにトラックはクラクションを返す。ゴーレムは本来意思も感情もない、主の命令を忠実に実行するだけの存在だ。これは、まあ俺の想像なんだけど、あのゴーレムたちには主の命令に反する行動ができなかったのだろう。でも、彼らはあの時、命令に従いたくないと思った。心のないはずのゴーレムに心が宿ったのだ。しかし彼らの身体は主の命令の通りにしか動けない。だから彼らは、『トラックを破壊する』という主の命令と矛盾せずに命令に従わない方法、つまり『戦闘の結果真理の文字を傷付けて自壊する』ことを、選んだのだ。自らの意思で、自らの心に従って、自らのできることをした。きっと、そういうことなのだろう。
「彼らが心を持つ存在なら、誰かのために命を懸けてくれたのなら、彼らを救うのは、僕の使命です」
セテスがジンに言っていた、『君は信頼に足る』という言葉の意味が、何となく分かった気がする。ジンならきっと、最善を尽くしてくれる。妥協もあきらめもない。ジンがもし救えなかったとしたら、それはこの世の誰にも救えなかったのだ。そう信じることができる強い光が、ジンの目に宿っていた。よろしくお願いします、と言うように、トラックはプァンとクラクションを鳴らした。
女子たちに囲まれていたミラも先生の「そろそろ帰りますよ」の声で解放され、アネットの采配であっという間に片付けが終わる。「ありがとうございました」と挨拶をして子供たちが次々に広場を後にした。その後ろ姿を見送るトラックに小さな一つの影が近づく。
「あのね、お母さんがトラックさんに、お願いがあるって言ってた」
その影はふさふさの冬毛に身を包んだ犬人の仔、レアンだった。レアンのお母さん、ってことはエバラか。エバラがトラックにお願いっていったい何だろう。何かの荷物の配送だろうか? トラックはプァンとクラクションを鳴らし、助手席の扉を開ける。助手席で丸くなっていたリスギツネが身を起こした。
「あっ! かわいい!」
レアンがリスギツネに近付き、おそるおそる頭を撫でた。リスギツネは怯える様子も嫌がる様子もなく目を細めている。レアンがうれしそうに笑った。うむ、仔犬がリスギツネを撫でておる。眼福である。
トラックは荷台に青空教室の備品を積み、運転席に先生を、助手席にジンを、席の後ろにある仮眠スペースにミラ、レアン、ガートンを乗せて発進した。エバラ家と先生の家は同じ道沿いにあるので、備品を運ぶついでにエバラ家に寄ろうということになったのだ。仮眠スペースに三人は子供とはいえかなり狭いんだけど、ぎゅうぎゅうの感じが子供たちには楽しいようで、三人は楽しそうに笑い声を上げていた。先生はエバラの『お願い』を何となく察しているようで、トラックに「力を貸してあげてください」と言った。トラックは気楽な調子でクラクションを返した。
ガタガタと小さく振動しながら、トラックは西部街区の道を走る。冬を乗り越えた安堵なのか、通りをすれ違う住人たちは一様に明るい顔をしていた。時折吹く風にも鋭い冷たさはなく、春の訪れの実感を運ぶ。季節の移ろいを楽しむように、トラックはゆっくりと走った。トラックにとっては何度も通った慣れた道、でも今日見える景色は、昨日とも明日とも違うのだ。
やがてトラックの視界にエバラ家の姿が入り、トラックは――思わず、といった風情で強くブレーキを踏んだ。地面の土を抉り、ザリザリと音を立ててトラックが急停車する。がくんとキャビンが揺れ、車内に「うわっ」と悲鳴が上がった。
エバラ家の玄関の前にはエバラ夫妻とニヨがいて、何か悩み事でもあるように腕を組んでうなっていた。ブレーキ音に気付いたエバラがトラックを振り向く。
「すまないねぇ、トラックさん。わざわざ来てもらって」
プォン、とクラクションを返し、トラックはそろりそろりとエバラに近付く。エバラ家はその傍らに立つ巨大な物体の影に包まれている。ミラはその姿を見て目を丸くし、唖然とした様子でその名をつぶやいた。
「……ドラムカンガー7号」
ミラのつぶやきを聞き取ったのか、それともただの偶然か、ドラムカンガー7号はトラックのほうに身体を向けると、
「ま゛っ」
と元気よくうなりを上げた。
この日、ハイエルフの女王様は正座させられ、宰相に三時間説教されたそうです。




