炒飯
『生あるものが、この私の領域に何の用だ?』
錆びた鉄を擦り合わせたような、どこかいびつな声が廃坑に響き渡る。濃く澱む瘴気の中心には、ゆらめく輪郭の人型の『何か』がいた。闇色のマントに身を包み、深くかぶったフードの隙間から見える肌さえも闇の色をしている。ただ、その瞳だけが鮮血の如く赤く輝いていた。
『命を捧げに来たというなら殊勝な心掛けよ。領民が増えるとなれば喜ばしいこと』
それは輪郭も定かならぬ顔をにぃ、とゆがませる。セシリアが杖を強く握り、蒼白な顔でつぶやいた。
「冥、王――!」
村長の案内でトラック達は村の奥にある鉱山に入った。鉱山の中に入ると、単純な冬の寒さとは別の、ぞわりとした妙な寒気に襲われる。これが魔王の魔力の残滓、ということなのだろう。本体はすでにジンゴの体内に封じられたはずなのに、かつてここに存在していた、というだけで、残り香のように魔力が坑道内を充満している。それは魔王という存在の特異さ、恐ろしさを間接的に伝えていた。
緩やかに下る坑道をトラック達は進む。坑道には等間隔にカンテラが置かれ、進むべき道を照らしていた。途中に幾つかの分岐があるが、村長はそれらには目もくれず下へ下へと向かった。やがてトラック達の前に大きな木製の看板が現れる。その看板はずいぶんと古いものだったが、幾度となく書き直された跡があり、文字ははっきりと読むことができた。
『立ち入りを厳に禁ず』
書かれている言葉はシンプルだが、読めるように何度も書き直されているという事実が内容に迫真性を与えている。看板の向こうには黒々とした闇が重苦しく横たわっていた。村長は看板をどけると、わだかまる闇を見据えて言った。
「ここから先は魔王の魔力の影響が強く残るゆえに封鎖した場所じゃ。正直、中がどうなっておるのか見当もつかん。危険を感じたなら即座に撤退すると心得ておいてほしい」
村長はそう言うが、おそらくトラック達が撤退を選択することはない、ということは分かっているのだろう。撤退するということはミラを救う手段を失うということとイコールだ。今ここにいるメンバーの中に、それをよしとする者はいない。
ちなみに今ここにいるのは、村長、トラック、セシリア、セテスの四人で、ジンはミラとリスギツネと共に留守番をしている。魔王の魔力がジンの身体に障ることは間違いないところだろうし、ミラとリスギツネを放っておくわけにもいかない。渋るジンを何とか説得して、トラック達はここにいる。
――プァン
トラックがクラクションを鳴らし、ヘッドライトが廃坑の闇を切り裂いた。三人がトラックにうなずきを返す。はるか地底へと続く打ち棄てられた道に、トラック達は慎重にその一歩を踏み出した。
廃坑は複雑に曲がりくねり、進む者の方向感覚を失わせる。廃坑に灯りがあるはずもなく、道の先を照らすのはトラックのヘッドライトだけだ。村長の記憶を頼りにトラック達は数メートルも先の見通せない闇の中を走る。封鎖されて三十年近くが経過した廃坑には、地上では見たこともないような生物が棲息していた。巨大な蝙蝠や大ネズミ、なんてのはいいほうで、巨大ムカデに大モグラ、チョウチンアンコウとトカゲがいびつに合体したようなヤツまでいる。それらはすべて、魔王の魔力の影響を受け続けた結果なのだろうとセテスが言った。幸い、というべきか、それらの生き物はトラックの走行音とヘッドライトに驚き、こちらを襲うことなく逃げていった。
「止まってくれ」
どれほど走ったのか、ずいぶんと長いような、それほどでもないような――闇の中で変化の乏しい景色を走ると時間の感覚が少しおかしくなる――時間が過ぎ、村長はトラックに停車を指示した。トラックがブレーキを踏み、キキッと耳障りなブレーキ音が鳴る。トラックの前にはまるでドームのような広い空間が広がっていた。魔力の気配はますます濃くなり、セシリアやセテスはともかく、村長はかなり辛そうだ。あえぐように深呼吸をして、村長は三人に告げた。
「ここが、かつて魔王が封印されていた場所じゃ。ここに冥王銀はある」
ドームの壁面にはキラキラと淡い光を放つ硬質な何かが至る所に露出している。これが冥王銀、なのだろう。冥王銀という恐ろしげな名称とは裏腹に、ドームは淡い光に照らし出されて幻想な雰囲気に包まれていた。光に吸い寄せられるようにトラック達はドームに足を踏み入れる。すると――
ズン、と大気が震え、ドームの中の空気が一段重くなった。魔王の魔力とは違う、より禍々しい気配が染み出すようにトラック達の前に現れる。その気配、瘴気と言ってもいい何かは徐々に形を取り、やがて人型となった。
『生あるものが、この私の領域に何の用だ?』
錆びた鉄を擦り合わせたような、どこかいびつな声が廃坑に響き渡る。セシリアが杖を強く握り、蒼白な顔でつぶやいた。
「冥、王――!」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。セシリアは冥王と呼ばれたものから視線を外さず、少し震える声で言った。
「ええ。地獄の六王の一柱、王大人。またの名を、冥王。地獄に落ちた死者たちを統べる、地獄の第四階層『冥府』の支配者です」
なんでじゃぁーーーっ!! なんで冥王が「またの名」じゃぁーーーっ!! むしろそっちが本命やろうがぁーーーっ!!! なんで王大人が正式名称みたいになっとんじゃぁーーーっ!!!
「き、聞いたことがある」
な、なに!? 知っているのか、セテス!?
「かつて冥王は記憶を失い、一人の青年として人間界をさまよったことがあると。そして行き倒れていたところをとある大衆食堂の夫婦に拾われ、およそ一年の間、見習い料理人として働いていたらしい」
いや、それたぶん間違ってるよ。どこかの記憶喪失の青年の話と混ざっちゃってるよ。冥王が食堂で働いてたとか、いくらなんでもそんなわけないわ。
『ずいぶんと懐かしいことを思い出させてくれる』
ほんとだったーーーっ!! 冥王、かつて食堂で働いとったーーーっ!! いや、なんで!? どういうこと!? そもそも冥王って記憶喪失になんの!?
『確かに私はかつて、とある食堂で料理人として働いていた。記憶を失っていた私に、食堂を経営していた夫婦は『王皓然』の名を与え、実の息子のように接してくれたものだ。彼らは時に私をからかい、『王大人』と呼んだのだよ』
冥王の口調に、過去を懐かしむような人間臭い雰囲気が混ざる。どうやら冥王にとって『王大人』と呼ばれていた記憶はとても大切なもののようだった。つまりこれは、冗談とかじゃない、本気だ。冥王は本当に、かつて大衆食堂で働いていたのだ。前々からずっと思っていたんだけど、この世界の世界観が未だに見えん。
プァン、とトラックが問いかけるようなクラクションを鳴らす。冥王の赤い眼が怪訝そうにトラックをにらんだ。
『それを聞いてどうする。お前が我が恩人を知っているはずもあるまい』
トラックは何かを考えるかのようにカチカチとハザードを焚いた。冥王はトラックに興味を失ったのか、一行を見渡すと、嘲りと共にその輪郭をゆがませる。
『無駄口はここまでだ。我が領域に許可なく踏み込んだ愚かさを、身をもって知るがいい』
ドームに満ちる瘴気が一段と濃さを増し、村長が耐えきれなくなったように膝をついた。セシリアが村長を背に庇い、杖を軽く振った。淡い翠の光が村長を囲む。瘴気を遮る結界を張ったのだ。セシリアもセテスも無言。話してどうにかなる相手ではないことを知っているからだろう。つまりこれからトラック達は、地獄の王と呼ばれる存在と戦い、生き延びなければならないということだ。
セシリアが杖を身体の前に掲げる。セテスが周囲の精霊に呼びかけ始めた。冥王の輪郭が一回り大きくなる。セシリアの額に冷たい汗が滲んだ。冥王が焦らすようにゆっくりと右手を挙げ、今、戦いが始ま――
ぴろりんっ
緊張感を削ぐ効果音が鳴り、中空に現れたスキルウィンドウがスキルの発動を告げる。出鼻をくじかれた冥王が不快そうにスキルウィンドウを見た。セシリアとセテスも思わずスキルウィンドウを見遣る。
『アクティヴスキル(レア) 【キッチンカー】
使用すると体内に調理設備が出現する』
キッチンカー? このタイミングで? おい、トラック! いくらなんでもこの緊迫した場面でそりゃないだろう。みんな仲良くご飯でも、って雰囲気じゃないんだよ!
しかし俺の想いが届くことはなく、トラックは右のウィングを上げた。スキルの効果によって荷台は調理設備が完備されたキッチンカーへと変貌しており、そして調理台の前には腕を組んで不敵な笑みを浮かべた一人の中年女性が立っていた。髪をひっつめて無造作に後ろで結び、何だかよく分からない鳥のキャラクターがウインクしている柄のエプロンを着けているその女性は、トラックキッチンカーの中華料理担当、でもサバみそしか作らない、大衆食堂経営のおばちゃんである。
「久しぶりだね、小王」
おばちゃんの声には、懐かしさと、嬉しさと、そして少しの苦みがある。声を掛けられた冥王が信じられないというように目を見開いた。
「……おかみ、さん……」
闇と同化してゆらめく輪郭が徐々にはっきりと形を取り、やがて冥王は一人の青年の姿に変わった。おそらくこれが、彼が『王皓然』だったころの姿なのだろう。冥王はおぼつかない足取りで呆然とおばちゃんに一歩近づき、そしてハッと何かに気が付いたように足を止めた。冥王はうつむき、唇を噛む。おばちゃんの顔を見ることができないと言うように。おばちゃんは少し悲しげな瞳で冥王を見つめる。沈黙が周囲を覆った。
「……炒飯」
先に沈黙を破ったのはおばちゃんのほうだった。冥王は顔を上げ、おばちゃんの視線を受け止める。おばちゃんは表情の読めぬ、どちらかというと厳しい顔つきで冥王に言った。
「炒飯、作っとくれよ。できるだろ?」
冥王の顔に戸惑い、迷い、そして怖れのようなものが現れる。しかしおばちゃんの目は冥王に拒絶を許さなかったようだ。冥王はぎこちなくうなずき、重い足取りでトラックの荷台に向かう。セシリアとセテスの横を素通りし、冥王はおばちゃんの前に立った。おばちゃんは無言で調理台を譲る。冥王は緊張を振り払うようにふっと強く息を吐いた。
中華鍋を熱し、おたまでごま油を入れる。刻んだ長ネギを入れると、ジャっという小気味いい音がした。長ネギの焼き色が付いたところで卵を割り入れる。おたまで卵を潰すと、くつくつとくぐもった音を立てた。卵と油は相性がいい。卵が油を吸っているのだ。さらに冥王は、卵に火が通る前にご飯を投入する。おたまでご飯をほぐしながら大きく中華鍋を振ると、宙を舞うごとに米の一粒一粒が油と卵でコーティングされ、パラパラになっていくのが分かった。味付けはシンプルに塩コショウのみ。手早く無駄のない動きで造られた炒飯の香ばしい匂いが廃坑に広がる。
「焦がしネギ油の黄金炒飯です」
おたまで平皿に盛りつけ、レンゲを添えて、冥王はおばちゃんに炒飯を差し出した。おばちゃんは無言でそれを受け取ると、表情を動かすことなく、レンゲですくって口に入れた。冥王の手が緊張に震える。じっくりと味わうように咀嚼し、おばちゃんは、
「……うまい」
そう言って破顔した。
「油臭さもなく、米は一粒ずつはらりとほぐれ、卵はふんわりと甘い。しっかりと炎を制御できている証拠だ。精進を怠っていないようだね。こいつは、毎日鍋を振り続けている奴の料理だ」
おばちゃんは自らの言葉を証明するように次々に炒飯を口に運び、あっという間に平らげた。涙をこらえているだろうか、冥王が固く目をつむった。おばちゃんが満足げにレンゲを置き、「ごちそうさま」と言った時、冥王はトラックの荷台を駆け下り、地面に膝をついて額づいた。
「ずっと、謝りたいと思っていました! けれど、その勇気もなく、今まで――!」
こらえきれず溢れた涙が地面を濡らす。おばちゃんは優しい顔で冥王を見つめた。
「顔をお上げよ。あんたは謝らないといけないようなことは何もしちゃいない」
「でも!」
弾かれたように上げた冥王の顔は、涙と鼻水に塗れている。おばちゃんは小さく首を横に振った。
「あのとき、あの人は言ったはずだよ。『腕の一本くらい、安いもんだ』ってさ。あたしらは人様に誇るような大層な人生を送っちゃいないが、あんたを助けたってことだけは、胸を張って自慢できると思ってるんだよ」
冥王が唇を噛む。あふれる涙が勢いを増した。おばちゃんはトラックから降り、ゆっくりと冥王に近付く。
「今じゃ、あたしが厨房、あの人がホールで接客さ。笑っちまうだろ? あんなに無口な頑固親父だったのに、生き生きした顔して客と談笑してるんだから」
おばちゃんは苦笑しながら冥王の前に立った。冥王はおばちゃんを見上げ、おばちゃんは冥王の目をのぞきこむ。
「人間ってのはね、ずっと絶望しっぱなしでいられるようにはできちゃいないんだ。あたしも、あのひとも、とっくに次に進んでんのさ。それなのに王、あんたが立ち止まっててどうするんだい?」
そしておばちゃんは地面に膝立ちになり、冥王の身体を強く抱きしめた。
「こっちはずっと会いたかったんだ。もっと早く来い、このバカ息子め」
もはや言葉もなく、冥王はしゃくりあげ、大声で泣く。冥王の背を優しく叩くおばちゃんの目から、一粒の雫がこぼれ落ちた。幼子のような泣き声が廃坑に響き、壁面で輝く冥王銀が二人を静かに照らしていた。
えーっと。
……
……なんだこれ。
……そっか。
冥王は、毎日中華鍋を振っているのか……




