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異世界

 俺はトラックの運転手をしている、ごく普通の一般市民だ。嫁と五歳になる娘が一人の三人家族だが、まあ、なんだ。もうすぐ四人家族になる。仕事柄、家族と過ごす時間は限られていて、嫁には苦労をかけっぱなし、子育てもほとんど任せきりだ。本当に済まないと思っているが、将来、夫婦で小さな喫茶店を開くという夢のため、今はとにかくがむしゃらに働いている。


 こう言っちゃなんだが、俺は仕事には真面目なタイプだ。商売道具のトラックだって整備を怠ったことはない。事故でも起こせば、路頭に迷うのは俺だけじゃないんだ。無責任な気持ちでハンドルを握ったことは一度もない。だからそのとき、俺は信じられなかったよ。急にブレーキが利かなくなるなんて、そんなことが起きるなんてさ。


 憶えているのは、道に飛び出してきた真新しいサッカーボール、を追いかける小さな男の子、を助けようと手を伸ばす若い母親、をかばう老人、を救わんと駆けるゴールデンレトリーバー、の背であくびをしているマンチカン、を撫でたい小学生、が乗っているポニー、に引きずられる中年男の姿と、慌てて踏み込んだフットブレーキの感触。スピードの落ちないトラック。中年男の驚いた顔。やけに大きな自分の心臓の音。そして、俺の意識は白く染まり、途切れた。


 気が付いたとき、俺は見知らぬ部屋でベッドに寝かされていた。やけに白い、無機質な部屋。窓が少し開いていて、白いカーテンが揺れている。あちこちに痛みがあり、身体をうまく動かせない。それに、まるで麻酔でも打たれたみたいに頭がぼんやりとしている。


 ここはどこだ?

 俺はどうしてこんなところにいる?


 何もわからないまま、俺の意識は再び闇に沈んだ。




 夢を見た。




 広大な森林を南北に切り裂くように走る早朝の街道を、目深にフードを被った二人組が歩いている。一人は長剣を佩いた剣士風、もう一人は奇妙にねじくれた木の杖を持っているところからすると、魔法使いだろうか。剣士の方は背も高くがっしりとしていて、油断なく周囲を見渡しながら歩いている。魔法使いの方は背も低く華奢で、おそらくは子供か若い女性だろう。剣士とは違い、迷いのない足取りでまっすぐに北へと向かっている。季節は夏だろうか。木々の鮮やかな緑がまぶしい。

 二人がしばらく歩いていると、やがて街道をふさぐように、ひとりのトラックが横たわっていた。気を失っているか、すでに死んでいるのか、ピクリとも動かない。

 剣士は不快そうに舌打ちをすると、大きく迂回してトラックの横を通り過ぎた。行き倒れなど珍しくもない、ということだろうか。しかし、魔法使いの方は剣士とは別の考えだったようだ。魔法使いはトラックの顔の前に回ると、フードを脱いでトラックに声を掛けた。


「もし、大丈夫ですか?」

「おい、余計なことをするな!」


 剣士が鋭い声を上げ、魔法使いを睨む。しかし魔法使いは剣士の言葉を無視して、横たわるトラックに軽く手を触れ、もう一度声を掛けた。


「もし、大丈夫ですか? どこかお加減が悪いのですか?」


 魔法使いの顔を、早朝の柔らかい太陽が照らす。おおぅ、美少女。透き通るような白い肌。腰まである栗色の髪。神秘的な光を湛えた翠の瞳。年の頃は十六、七といったところだろう。彫刻のように整った顔立ちでありながら、冷たさを感じさせないのは人徳だろうか。さりげない所作から感じられる気品はこの少女の高貴な出自を想像させるが、一方で子犬のような可愛らしさ、無防備さもまとっている。そしてなにより特筆すべきは、身にまとうローブの上からでもはっきりとわかる、その見事な体型。まあ、その、ね。出るとこ出てると言いますか、なかなかになかなかな、深みのある胸囲? いや、別に変な意味じゃなくてね? なんと言いますか、その、結構なお手前で。

 少女は心配そうにトラックをじっと見つめている。剣士はあきれたように大げさなため息を吐き、頭を振った。すると、今まで無反応だったトラックのヘッドライトが弱々しくパッシングした。これは、アレだろうか。うっすらと目を開けた、的なことだろうか。

 っていうか、トラックだよね? これ、俺が乗ってたトラックだよね? なんで剣と魔法な世界に横たわってんの? そしてさも当然のように美少女との出会いを果たしちゃってんの?


「動けますか? さ、私の肩に掴まって」


 魔法使いの少女はトラックを抱えるように手を伸ばした。いやいや、無理でしょ。二トンはあるよ。見たら大体想像つくでしょうが。二トンかは想像つかなくても、持ち上げられるかどうかはさ。


――プァン!


 少女の手が触れた瞬間、トラックが鋭くクラクションを鳴らした。少女は驚いたように手を引き、トラックを見つめる。なんだなんだ、ずいぶんな反応じゃないの。アレか、触れる者皆傷付ける十代か。いや、俺がトラックを買ったのは五年くらい前だから……反抗期? 第一次反抗期?


 剣士がほら見ろ、と言わんばかりに少女に声を掛けた。


「そいつの言うとおりだ。俺たちは他人に関わるべきじゃない」


 少女は剣士を振り返って軽く睨むと、首を横に振る。


「構うなと言われたからといって、見なかったことにすることはできません。この辺りは決して治安が良いわけではないでしょう? このままでは魔物に食べられるか、野盗に襲われるか」


 そして少女は再びトラックを見つめて言った。


「何があったかは存じませんが、自暴自棄になって何が解決するわけでもありません。さあ、まずは立って。近くに町がありますから、私たちとそこまで参りましょう」


 少女の真剣な瞳を受けて、トラックはカチカチとハザードを焚いた。何だろう。何か考え中だという意思表示だろうか。少女はしばらくトラックを見つめていたが、やがてまたトラックに手を差し伸べた。


――プァン!


 少女の手が触れる寸前、トラックはハザードを消して再びクラクションを鳴らした。さっきよりは幾分、とげとげしさが薄れている気がする。少女は差し出した手を引っ込めると、微笑んで言葉を返した。


「まあ。それではご自分で起きてくださいまし」


 少女の言葉を挑発と受け取ったのか、トラックの車体が震え始めた。エンジンをかけたのだ。低いエンジン音が朝の街道に響く。おお、なんかやる気みたいだな。でも、ご自分で、って言われても、横転したトラックを起こすなんてどうやったらできるんだ? クレーンなんてないよな? クレーンがあったとしても、誰かに操作してもらわないといけないし。俺がそんな疑問を思い浮かべた、その時。


 ぴろりんっ


 やや軽薄な効果音と共に、トラックの頭の上に電球のマークが現れた。そうかと思うと、中空に窓枠のようなものが浮かび上がり、その中に文字が描かれる。


『スキルゲット!

 パッシヴスキル(ノーマル) 【七転び八起き】

 効果:状態異常《転倒》を一ターンで回復する』


 そして次の瞬間、トラックの車体が、まるで何者かにひょいっと摘まみ上げられるように宙に浮き、空中で正しい向きに直されて地面に降り立った。どういう理屈かわからんが、つまりは横転しようがひっくり返ろうが、一ターンあればこんなふうに元に戻るということだろうか? 一ターンってどういう単位なんだろう。十秒とかそういう感じだろうか。そして空中に現れたスキルの説明は、いったい誰に対する説明なのだろう。いや、そこを深くは問うまい。この世界はそういう世界です。

 起き上がったトラックは、気恥ずかしいのか、少女の正面からは少しずれた方向を向いている。少女は可笑しそうにふふっと笑って言った。


「私の名はセシリアと申します。次の町までご一緒いたしましょう」


 トラックは助手席側のドアを開けると、短く弱めにクラクションを鳴らした。セシリアは少し驚いた顔をして、


「そんなこと。私、歩きますわ」


と言った。それに言葉を返すように、トラックは再びクラクションを鳴らす。今度はちょっとぶっきらぼうな感じ。セシリアは少し考えるような顔をしたが、やがて軽く頷いて、


「……それでは、お言葉に甘えて」


 そう言って助手席に乗り込んだ。


 ……なんか、こいつら普通にトラックと会話してるな。トラックも言葉が分かってるみたいだし。そういうもんなのか。そういうもんなんだな。うん。そういうもんだ。

 セシリアを乗せたトラックは、ゆっくりと走り出し、徐々にそのスピードを上げながら北へと街道を進む。周囲の風景がすごい速さで流れていく。セシリアは感心したように流れていく景色を眺めていた。そして、トラックのはるか後方では、


「おいっ! 待て! 俺も乗せてけ!」


 剣士が全力でトラックを追いかけていた。


「俺を置いていくなーっ!」


 清々しい朝の空気に、剣士の切実な声が響いた。


そしてその後、剣士の姿を見た者は誰もいなかった、ということです

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[一言] > 憶えているのは、道に飛び出してきた真新しいサッカーボール、を追いかける小さな男の子、を助けようと手を伸ばす若い母親、をかばう老人、を救わんと駆けるゴールデンレトリーバー、の背であくびをし…
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