7 哲
それから約十数後、その体育館並みに広い部屋の死体見分がやっと終わる。藤森氏の予想通り、彼の父親は、この部屋にはいない。
「次の部屋に進みますか。それとも休憩しますか」
藤森氏がそっとわたしに問う。
「一々休憩していたら終わりませんよ」
「それはそうですが、お疲れでしょう」
言われて気づくが、わたしは自分が疲れているのか、いないのか、わからない。心が何処かで麻痺しているようだ。
「では五分間だけ……」
「長椅子に座りましょうか」
藤森氏と一緒に部屋を出、廊下にあった長椅子に腰掛ける。
「父はUの集会に行くとき、あなたと会うことを、とても愉しみにしていました」
「わたしは皆勤賞ではありません」
「そうでしたか。父の話では、いつも、あなたに会っていたように思えましたが……」
「まあ、殆どそうだといって良いかもしれません」
ここで、わたしが正直に、あなたのお父さんと逢引をしていた、と告白したら、藤森氏はどう感じるだろうか。あからさまではなくても、わたしの行為を詰るだろうか。それとも自分の父親の行為を認めるだろうか。
わたしが師匠に最後に抱かれたのは約一月前だ。しんどい、とは口にしながらも、師匠は行為の中止を頑なに拒む。男としてのメンツがあったのかもしれない。が、気力の衰えは誤魔化せない。だから結局、わたしが積極的に動くしかない。
『わたしが先生の生命力を奪っているみたいです』
行為後の睦言だ。わたしが精を放出させているのは事実だから……。
『いや、紀子ちゃんとこうしていられるから、おれはまだ生きている実感があるんだよ』
師匠がそう感じていたのは事実だろう。しかし果たして師匠はわたしを愛していたのだろうか。好いていたのは間違いないと思うが、愛かどうかは、わたしにはわからない。何故かと言えば、わたしの気持ちも同じだったからだ。自分が師匠を愛していたとは思えない。が、確実に好いてはいたのだ。師匠がわたしを愛していれば、わたしにもそれがわかるはず。けれどもわからなかったのだから、愛していたわけではないのだろう、と判断するしかない。それに師匠がわたしのことを愛していたなら、わたしに求婚したはずだ。それがなかったのだから、わたしに思い入れがあったにせよ、その程度。わたしは、それが悲しいとは思わない。少し淋しくはあるが、それだけのこと、と感じるだけだ。
「今度は何を考えていますか」
藤森氏の、わたしへの質問タイミングはパーフェクトだ。考えの切れ間にすっと入ってくる。
「さっきと同じですよ。藤森さんの御父上……というより、自分の師匠についてです」
「そうですか」
「考えていた内容は少し異なりますが……」
「わたしの方は同じ思い出が何度も浮かびます」
「伺っても構いませんか」
「構いませんが、陳腐ですよ」
「陳腐ですか」
「母の葬儀のときの父の泣き顔が浮かぶのです」
「それならば、少しも陳腐ではありません」
「死に死を重ねているのに……」
「まあ、わざわざ辛い思い出を重ねなくても、とは思います」
「しかし浮かんでくるものは仕方がない」
「子供の頃のキャッチボールとかの思い出はありませんか」
「そっちの方が正しい陳腐ですね」
「陳腐に正しい、正しくないが、あるのかな。まあ、愉しかった過去を思い出すと余計に今を辛く感じるかもしれませんが……」
「喜びが悲しさを呼び覚ますから……」
「昔見た映画によると、悲しみと喜び、は同じものだそうです」
「哲学的ですね」
「一を徹底的に否定すると他となる、とかみたいに……」
「何ですか、それは……」
「いえ、何でもありません。映画の内容自体は、両親の離婚と収入危機で転校を余儀なくされた高校生がバンドを組む話です」
「日本の……」
「いえ、イギリス映画です。最後は恋人を得て、すでに亡くなっている祖父のボートでスコットランドからウェールズ――最終目的はロンドンですが――を目指す話です」
「でも高校生でしょう」
「夢物語に思えますか」
「映画の一部は、そういう役割を果たすものですから……」
「わたしには勇気がなくてできなかった物語が、そこにはありました」
「何歳からだって、人は何でもできますよ」
「それは認めます。けれども努力し続けることができるのは、わたしには選ばれた人間としか思えません」
「ならば岸田さんが、その選ばれた人間になればいい」
「簡単に仰いますね」
「簡単には言いません」
「でも、わたしには簡単に聞こえます」
「何処から見ても、それができない人間に、わたしは声をかけません。優しい人間ではないのです」
「わたしには、そうは思えませんが……。単に、お世辞や煽てを仰らないだけでしょう」
「世間では、そういうのが、冷たい人間、と呼ばれます」
「困った世間ですね」
「しかし悪いばかりでもない」
「おや、話が、悲しみと喜び、とは同じだ……に繋がったようです」




