3 知
窓の外を見ると白いものが降っている。雪が降るには時期が早い気もしたが、死体見分を中断し、窓に寄る。すると振っていたのは虫だ。わたしが知っている虫だとシミに似ているが、大きさが違う。何百倍もある。
ああ、わたしは、こういうふうに狂うのか。
虫は見えたままだが、冷静になり、考える。実際に、わたしが目にしているものは何だろうか。雪なのか、雨なのか、それとも何も降ってはいないのか。
窓を開け、腕を外まで伸ばすと感触がある。白い虫がわたしの掌や腕に当たる。気持ちが悪いという気はしない。虫も死体だからだ。動かない虫が、わたしはそれほど怖くない。それでも中には生きているものがいるかもしれないと思い、先ず腕を振り、腕を引っ込め、窓硝子を閉め、そして、また腕を振る。すると窓を開けたときには感じなかった死臭が強まる。が、それにも、すぐに慣れるだろう。
閉めた窓から外を覗くと数人の男女が市民ホールに近づいて来る。亡くなった家族を確認しに来たのだろうか。
わたしは溜息を吐き、死体検分に戻ることにする。すると急に、わたしの頭が元に戻る。が、今度は、わたしの脚が硝子になっている。昔見た映画を思い出しながら、わたしが硝子の脚で歩き始める。けれども足の感覚がないのでバランスが取れない。それでよろけると、さっきのビー玉男に助けられる。
「大丈夫ですか」
男が喋った瞬間、ビー玉に口ができる。わたしの気の触れ方は合理的なようだ。理系の大学院になどに進まなければ良かったのかもしれない。
「ええと、足が突っ張ってしまって……」
「遺体の間を歩くのは気が張るから疲れたのでしょう」
「そうかもしれません」
耳は……と、わたしが思うとビー玉に耳が現れる。
「椅子のある場所まで、ご案内しましょうか」
「ええ、その方が良いみたいですね。ご厄介になります」
ビー玉男がわたしを庇うように長椅子のある廊下まで連れて行こうと行動を始める。男と一緒に移動するうち、わたしの狂気が面倒になったのか、男の顔が人間のものに戻る。
「ご親戚の方をお探しですか」
長椅子まで無事に辿り着いたわたしに男が問う。
「いえ、単なる知り合いです」
「そうですか」
「あなたの方は……」
「父ですよ」
「それはお気の毒に……」
「まだ見つけてはいませんが……」
「それならば、生き延びていらっしゃるかもしれません」
「そうであれば良いですが、たぶん無理でしょう」
「お気を落とさないで……」
「いや、覚悟はしています。まあ、葬式になったら泣くかもしれませんが……」
「優しいお父様だったのですね」
「そうでもありませんよ。家を出てからは疎遠でした」
「じゃ、お住まいも、ここから遠いのですか」
「それだと、ここには来られません」
「でも津波の被害は受けられなかった」
「そういう場所ではありませんでしたね」
「じゃ、その点は幸いでしたか。……というのも困った物言いですが」
「確かに……」
男がわたしに笑顔を見せる。
「この顔も不謹慎だな」
「場所が場所ですから……」
「申し遅れましたが、一応名乗っておきます。わたしは藤森といいます」
「わたしは岸田です。それで……」
まさか、と思ったが、わたしは男の苗字に心当たりがあり、聞いてみる。
「藤森さんのお父様って、まさか、晴信さんではありませんよね」
「えっ」
すると藤森氏が驚いた顔をする。
「まさか、父の知り合いの方ですか」
「そうであれば、わたしは先生の不詳の弟子です」
「ああ、同人誌の……。ええと、お名前は……」
「下の名前は紀子です。岸田紀子。ペンネームも同じです」
「じゃ、あなたが『紀子ちゃん』なんだ。父が良く口にしていた」
「ちゃん、って呼ばれる年でもありませんが……」
「しかし父は気に入っていた」
「ありがたいことです」
「『おれが若ければ結婚したい』とも言っていました。失礼ですが……」
「正式に申し込まれたら結婚していたかもしれませんよ。そうしたら、わたしが藤森さんの義理の母……」
「いや、いくら何でも……」
「わたしたち不謹慎ですよね。まだ死体を確認してもいないのに……」
「そういえば、そうだ」
「藤森さん、本当は見つけたくないのでしょう」
「わざとゆっくり探していたのは認めますよ」
「では再開しましょうか。わたしの脚の調子も元に戻ったようですから……」