10 許
探す相手とは関係のない話を延々としながら、わたしと藤森氏の死体見分が続く。が、最後に残す部屋に入っても師匠の姿は見つからない。
「まさか、見落したのでしょうか」
「それはないでしょう」
「しかし、いないわけがありません」
「まだ屋上に至る階段がありますよ」
「昇るのが怖いです」
「でも、これで最後ですから……」
わたしが藤森氏を勇気づけ、階段の一段目の端に脚を乗せさせる。ついで息を止めるようにし、二人で階段の死体を探る。
けれども結果的に師匠は見つからない。
「まさか、本当に運ばれていなかったとは……」
「わたしも吃驚しました」
「この先、どうしたら良いと思いますか」
「それについては屋上に出てから考えましょう」
わたしがドアを開け、藤森氏と人気のない屋上に出る。次の瞬間、わたしが呆気に取られる。
「藤森さん、奥にもう一つ市民ホールが見えます」
「ああ、何てことだ」
わたしと藤森氏が瞬時、息を止める。が、二人とも死体ではないので、すぐに息を取り戻す。
「幸い、この建物よりは小さいようです」
「いつまで続くのでしょうか」
「いずれ終わりますよ」
「わたしは気力が萎えました」
「逆に、わたしは気力が沸いてきました」
「あなたは強い人だ」
「そんなことはありません」
「しかし……」
「藤森さん、カロリーメイトをいかがですか」
「カロリーメイトですか。用意が良いですね」
「取材の友ですよ」
「しかし岸田さんの分は……」
「ご心配されなくても、ちゃんともう一つ持っています」
屋上でベンチを探し、腰掛け、わたしと藤森氏がそれぞれのカロリーメイトを頬張り始める。
「口の中が乾きますね」
「間接キスでも良ければ、飲み物もありますよ」
わたしが鉄錆色の鞄からペットボトル入りの緑茶を取り出す。まず自分で一口飲み、藤森氏に差し出す。
「いいんですか」
「構いませんよ」
「でも、やはり……」
「わたしと間接キスをするのはお厭ですか」
「そういった問題ではありません」
「では、ご遠慮せずに……」
「わかりました。いただきます」
藤森氏が観念し、緑茶を飲む。その姿を確認し終えた後で、わたしが言う。
「わたし、子供の頃には、そういうのが苦手でした」
「今の子供は友だちのお母さんが握ったおにぎりが食べられないそうです」
「わたしも昔はそうでしたから気持ちはわかります」
「キスはできるみたいなのに矛盾していませんか」
「わたしは好きだった祖母からのキスが苦手でした」
「家にはキスをする習慣はなかったですね」
「わたしのところも祖母だけですよ」
「岸田さんのことを気に入っていたのでしょう」
「そうかもしれませんが、玩具だったんです」
「玩具ですか」
「わたしが三歳になるまでは、わたしの母が祖母の玩具でした」
「よくわかりませんね」
「祖母は人を連れまわすのが好きな人だったんです。それで母はお茶を、わたしは踊りを習わせられた」
「踊りですか」
「続けなかったので今はできませんが日本舞踊です」
「見たかったですね」
「テレビのニュースになりましたから、もしかしたらご覧になられているかもしれません」
「放送記者に取材されたのですか」
「その他大勢の中の一人ですよ」
「日本舞踊を大人数で……」
「ああ、そういった意味では一人です」
「度胸がありますね」
「済みません。当時の記憶がないんです」
「どういうことです」
「わたし、微妙に記憶回路に欠陥があるらしくて欠けることがあるんです」
「では、他にも……」
「ええ、小学生のときの記憶の大半が消えています。小説を書いていたこと以外は……」
「ああ、何と言ったら……」
「大丈夫です。慣れました」
「しかし……」
「言訳ですけど、わたしが東大を目指さなかったのも、それが原因……。頭の悪さを別にしてですが……」
「わたしにも写真記憶はありません」
「さて、藤森さん、そろそろ探索を再開しましょう。カロリーメイトを食べたから元気も出たでしょ」
「岸田さんには敵いませんね」
「だいぶ親しくなったし、藤森さんには、紀子ちゃん、と呼ぶことも許しましょう」
「いきなり、そう言われても……」
「いいじゃないですか。それで、わたしの方は何と呼べば良いですか」
「困ったな」
「さっきのご親友さんは藤森さんのことを何と……」
「名前の信一で呼びます」
「では、わたしもそれでいきます。ただし、さん、は付けますが……」
「では、こちらも、ちゃん、ではなく、紀子さん、にします」