1 群
死体がある。数多くの死体だ。綺麗な者、醜い者、毀れた者、傷のある者、傾いた者……。その他、種々に形容できる死体がある。それらが市民ホールを埋め尽くしている。
殆どが溺死体だ。それなのに綺麗な死体が混ざるのを不思議に感じる。が、綺麗な死体にも死臭がある。だから死体だとわかる。
もしも、わたしが彼と彼女らに混じり、一緒に寝転んでも、誰からも死体とは思われないだろう。遺族に『不謹慎だ』と睨まれ、結果的に死体になるかもしれないが……。
市民ホールにいる生きている人間の数は多くない。家族や夫婦、子供など、その場にいた全員が皆、仲良く死んだからだ。稀に生き残った相手が泣いている。泣かずに途方に暮れている年配者もいる。
親戚、知人はまだ来ていない者が多いのだろう。わたしがすぐに来られたのが奇跡なのだ。偶々、仕事で近くまで来る。が、災害の被害に遭うほど近くではない。それで生きている。仮に、この死者たちの近くにいたら、わたしも仲間になっていたはずだ。
感慨はない。単にそう思う。
そして、わたしが探す死体は、まだ見からない。もしかしたら、ここにはいないのかもしれない。単に、まだ発見されていないだけかもしれないが……。あるいは何処かで生き延びているのだろうか。仮にそうであれば、後に自分で面白可笑しく、個人の体験として、今回の出来事を語るだろう。
が、わたしは師匠が生きているとは思えない。何故かといえば、自分で死の予言をしたからだ。どうして、そんな話を電話でしたのか、今となっては、わたしにもわからない。単なる偶然で済ませるのが常識かもしれない。
けれども、わたしの師匠の場合、本当に予言した、と思えてしまう。仮に偶然であったにせよ、自分の死をわたしに伝えたのは事実だ。
『近いうちに、おれは津波で死ぬよ。あるいは津波由来の河川の氾濫かもしれんが……』
同人誌の内容のことで師匠と電話で話したときのことだ。いつもは手紙でのんびりと遣り取りをする。が、あのとき何故か、わたしは電話をかける。わたしの方にも感じるところがあったのかもしれない。
『縁起でもないことを言わないでください』
わたしは答える。当然、師匠の言葉を真剣に捉えていない。
『身体が弱って来たから、そんなふうに思うんですよ』
『紀子ちゃんは、まだ若いからね』
『わたしも、そろそろいい年ですよ』
『おれはあと何年、生きられると思うかい』
『先生は化け物の仲間ですから何百年でも生きてください』
『酷いなあ。確かに顔は化け物かもしれないけどさ』
わたしの師匠の顔は面妖だ。が、慣れると可愛く見えたりもする。わたしが面と向かい、そう話すと照れ笑いを浮かべ、さらに可愛くなる。三十歳年下のわたしの感覚が狂っているのかもしれない。
師匠の不明情報はネットで知る。今は何でもネットだろう。わたしも含めた昔の人間たちはネットなしで、嘗て、どうやって情報を得ていたのだろう。過去を振り返っても実感がわかない。間違いなく潜り抜けて来た時間だというのに……。
市民ホールに着いてから約四十分が経つ。けれども、まだすべての死体を確認できていない。死体を並べたボランティアや関係者はさぞ大変だった、と思う。今後、死体が引き取られ、市民ホールが元の姿に戻っても、この光景が忘れられなければ再運営は難しいのではないか、と思える。いや、すべてを水に流す日本人だから、すぐに忘れてしまうかもしれない。
多くの死体を眺めながら歩いていると、ある瞬間から、全員が知り合いに思えてくる。それまでは皆他人だ。その認識が正しい。けれども死体――正確には遺体か――のすべてが同じ特徴を備えているから、全員が似たものに思えてくる。探す相手に見えてくる。
わたしは、もう師匠を探すことに飽いたのかもしれない。薄情な弟子だ。同人誌の編集を引き受けているのも単なる事務仕事の延長感覚なのかもしれない。師匠が会社の顧問を引退し、ああ、気力も衰えたな、と感じたので、わたしは『編集を引き受けましょうか』と申し出る。師匠は喜んで面倒な作業をわたしに引き継ぐ。わたしは最初DTPソフトで、後には進化したPC用ワープロ・ソフトで同人誌を作る。
わたしが手がけたモノだけでも十冊近くある。費用は、すべて持ち出しだ。わたしの金銭に多少の余裕があるからできた話だろう。が、師匠の死が確認されれば、同人誌も終わる。追悼号を最後に廃刊だ。
現時点で残っているメンバーも反対しないだろう。基本的に、師匠の作品を掲載するための雑誌なのだ。だから師匠が、この世から去れば存在意義がなくなってしまう。