ごめんなさい。
……庭から雀の声が聞こえる。その声は数羽に重なって大きくなり、耳障りなものとなった。
もう少し寝ていたいが、居間からテレビの音と人の声が聞こえてくる。時計を見ると8時36分。いつもならとうに起きている時間だった。
「……はよー」
重いまぶたを無理矢理開けながら居間へと向かう。家族は朝から園芸番組を見ていた。
窓の方に目をやる。そこは小さな庭でガーデニング専用らしい。赤い花が緑の葉の中でぽつりと咲いていた。ここは庭のある玄関と直結している。昔、従姉と窓を全開にして鬼ごっこをした。もちろん、怒られた。
……いつになく、くすんだ朝だった。
暖かいご飯と味噌汁をゆっくり食べた。ばあちゃんが言った。
「今晩、バスで帰ってくるらしいよ。休みがとれたんだって」
母さんが応えた。
「まー、よかったわね。もう何年も顔見てないし……」
自分はすぐ従姉の事だと直感した。本当に帰ってくるのか。もう従姉の顔は記憶の中から消え去ろうとしていた頃だった。
「蒼真。今日は墓参り行くよ。早く準備してー」
いやいや、もうちょっと待ってくれ。まだ半分も食べてないから。
日中、太陽が照りつける前に墓掃除を兼ねてお参りを済ませておこうという事だった。
坂道を下ったところにそれはあった。一列に並ぶ墓に一つ一つ水をかけた。線香の灰を落とし、花を入れ替えた。
供え物をして手を合わせたあと、ふとある事を思い出した。従姉と二人だけで行った墓参り。行かなければならない。別に理由なんて無かった。ただ、毎年のように行っていたので、このまま帰るには落ち着かなかった。
ーー細い道を……ここを右に曲がって……あの錆びた看板を左に……。
あの頃とずいぶん道が変わっていた。獣道のような所だっただろうか。昔とはずいぶん違う。草丈は膝まであり、木々が覆い被さるように生えていた。
パッと視界が開けた。点々とある墓の中に新しいと思われるものがあった。
ーーこれだ、従姉と一緒に参ったのは。自分の記憶がそう言った。
その墓の正面に立って思った。今の今まで名前を知らずに参っていた。いや、あのときはまだ幼稚園児だったはずだ。漢字すら読めない年齢だった。
『小川家ノ墓』
そう刻まれていた。
ーー『ここはね、いっちゃんのお墓。いっちゃんは私のお友達だったの』
あの時のーー自分と共に墓参りに来たときの従姉の声が聞こえてきた。
ーー『お約束したんだ。いっちゃんとまた会うって。でもいっちゃんったら…………』
そこから声は途切れた。しばらくして、弱々しく震える声で従姉はこう付け足した。
ーー『蒼真とつばめちゃんは、大丈夫よね』
あの続き、『でもいっちゃんったら……』。一体何を言おうとしていたのだろう。幼心には想像できなかったが、今なら分かるような気がする。
従姉に手を引かれこの場所を去るとき、チラリと後ろを見たことがあった。そのとき見えた影。少年の影。悲しそうにこちらを見ていた少年。
……少年はこの世に存在する人ではなかった。幽霊だったのだ。そしてあの時祠で見た幽霊とーー。
「わっ?」
ヒヤリとした水滴がほほを濡らした。雨が降りだしてきたのだ。ザザッと大きな音を伴い、勢いを増した。……のは一瞬の出来事で、今はパラパラと小雨になった。短い夕立のようだ。
立ち上がった蒼真の全身を、木々の間から漏れてくる冷気が包んだ。ゾッとする空気が背中を撫ぜた。
ーーこの感覚は。
ふと空気が動いたような気がした。次の瞬間、目の前に少年がいた。祠で車座をしていた少年だ。足元は見えないが、『小川家ノ墓』と書かれた墓石の向こう側に立っていた。
墓石を見つめたまま、少年は言った。
「どうしてこの墓に手を合わせていたの?」
「従姉に言われたんだよ。毎年墓参りをするって」
……まぁ、5年前から来れなくなったが。
「これ、僕のお墓なんだ。小川太一……これが僕の名前」
……耳を疑った。まさかと思った。
「君の従姉さん、僕の事知ってるんだ……」
少年は足元を見たままポツリと呟いた。
従姉が『いっちゃん』と呼んでいた人物は目の前にいた。あの古い祠の中に、振り返った墓の後ろに。
『でもいっちゃんったら……』
あの時従姉は泣いていた。悲しくて、悲しくて泣いていたんだ。いっちゃんという人物ーー小川太一は死んでしまったから。
『約束したんだ。いっちゃんとまた会おうって』『蒼真とつばめちゃんは大丈夫よね』
10年前の夏祭り。自分とつばめが出会った時。あの時従姉は一緒にいた。二人を見て、自分自身と重ねていたんだ。
……でも、大丈夫じゃなかった。だから夏祭りに行かなかった。『次も会おう』という約束は守られなかった。
つばめは5年前、あの祠の前の石段で、眠るように死んでいたから。