初めて会ったのは、あの石段だったね。ほら……覚えてる?
小学校一年生の事だ。
熱気がふわりと頬を撫でた。
ついと顔をあげれば星の欠片が散りばめられた天の川が見える。
夜の風が吹き抜けた。
暑い風を吹き飛ばし、どこかの家の風鈴を鳴らす。
昨日の雨はどこかへ消え去ったようだ。
ぼんぼりの明かりがゆらゆらにじみ、その中をたくさんの人が歩いて行く。
屋台からの呼び込みの声。
祭り囃子の賑やかな音色。
地に響く大太鼓の音楽。
その側で小さく鳴いている鈴虫の声。
ーーどれもこれも、鮮明に思い出される。
カステラの甘い香りに誘われて、繋がれていた手を引っ張った。
買って欲しいとねだったけれど、今はりんご飴を食べているでしょ、と言われ、また今度ね、と流されたっけ。
ーー懐かしい匂いはまた、鼻をくすぐるだろうか。
母親の実家へ帰省した際、田舎の小さな神社の近くで毎年行われていたこの祭りは、自分の育った都会とは違うゆったりとした、どこか寂しげな独特の雰囲気を漂わせていた。
迷子にならないようにと手を繋いでくれていたのはいつも従姉だった。
小さい頃、「お姉ちゃん」と呼んで慕っていた従姉は、今、何処で何をしているのだろう。
ーーもう、顔も思い出せなくなっている。
神社の石段に腰かけて、食べ物をねだった自分のために焼きそばを買いに行った従姉を待っていた。
上から眺める景色はふわりふわりと音色にのって移り変わり、飽きることはなかった。
カラン。カラン。
下駄の音だ。
音のした方を見ると、階段を上がってくる小さな影が見えた。
カラン。カラン。
青い浴衣を着た女の子だった。
癖毛なのだろうか、外に向かって跳ねている短いパサパサの髪の毛が段を踏むごとに揺れた。
カラン。
横で立ち止まった女の子はにっこりと目を細めて笑うと、浴衣の裾を直して冷たい石段に座った。
深い青色の浴衣には淡い桃色の花が描かれていて、真っ赤な帯が全体を引き締めていた。
短く切り揃えられた前髪を小さな星の髪飾りで留めていたので、ちいさな額が見えた。
再びこちらを振り返って女の子は微笑んだ。
恥ずかしがりやの自分は目の前の屋台の列に目をそらしてしまった。
「ね、ここら辺の子?」
とても可愛らしい声だった。優しい鈴の音を思い出させた。
自分は視線を別の方に向けたまま首を振った。
そっかぁー、と少し残念そうな声が聞こえた。ああ、でも、と女の子は付け加えて口を開いた。
「このお祭り、いつも来てたよね」
自分はビックリして女の子の方を見た。確かにその通りだったけれど、こちらがわは女の子の事は初めて見たからだ。
「いつもカステラ、食べてるでしょ。私のお母さん、そこでカステラのお店してるから分かるんだよ」
そう言って、自分が先ほどカステラをねだった屋台の方向を指差した。
へぇ、と頷くと、女の子は続けてあそこの店は私の隣の家の人が出しているとか、この射的の店は景品が良いものばかりだとか色々話をしてくれた。
「わたし、つばめっていうの。酒井つばめ。君は?」
「……そ、そうま。伊藤そうま」
後で思えばぎこちない自己紹介だった。
あの子は祭りの光を反射し、キラキラした目で真っ直ぐ見つめる。自分も、今度は目をそらさないように見つめ返す。
「……ね、そうま君。来年もこの町に来る? この祭りに来る?」
首を傾げると、女の子は黙ってうつむいてしまった。なんとか彼女らしい笑みを取り戻すため慌てて答えた。
「うん、来年も来る。絶対来る」
「本当?!」
瞬間、女の子のまわりに花が咲いた。がばりと上げた顔は満面の笑みだった。自分はそれが嬉しくて、何度も何度も頷いていた。
「約束ね、指きりしよう」
女の子の細くて白い小指に自分の小指を絡め、声を重ねて約束を交わした。
程なくして、従姉が焼きそばを両手に戻ってきた。
隣に座っている女の子に気付き、こんばんは、と声をかけていた。それから少し言葉を交わしたあと、女の子は従姉の焼きそばを食べていた。
とても幸せそうに食べる女の子の顔を見て、従姉は終始ニコニコしていた。自分もその二人を見て自然と笑っていた。焼そばがいつもより美味しかった。
都会に戻り、学校でその時の約束を話すと随分と笑われた。どうせ忘れてるだろうさ、と。でも、あの女の子は待っていた。つばめはあの約束を交わした石段のところで自分を待っていた。だから来年も、再来年もこの町のこの祭りに来ようと決めた。
ーー5年目の夏、約束は破られた。
つばめは待っているかもしれない。今でも、約束の場所で待っているかもしれない。
だけど、自分はもう行かないと決めた。
自分は、約束を破った。