氷の女王
「レイン、レインはやくきて」
「なんだよ、どうした?」
「はやくはやく」
「なに…わっ」
「ひっかかったひっかかったー」
「フェイ」
「え、きゃっ」
4歳の少女が作ったその落とし穴は少年の背の高さほどの深さしかなく、少年が手を伸ばすと少女をその落とし穴へと引っ張ることができた。落とされた少女は少年を睨んで言った。
「いつかぜったいレインがてをのばしてもとどかないくらいおおきなおとしあなをつくってやるんだからね」
そう頬を膨らませる少女に少年は物騒なこと言うなよと苦笑いして軽々と落とし穴から抜け出した。
「ほら、フェイ」
そして少年は少女に手を差し伸べた。少女は悔しそうにその手を取った。帰り道2人は手を繋いだまま。
「ぜったいだからね」
「はいはい」
「そしたらこんどはわたしがレインをたすけるの」
「わかったよ。たよりにしてるよ、おひめさま」
「むーっ。ばかにしてるでしょ」
「まあね」
小鳥の囀る静かな朝。フェイネルは目を覚ましてこめかみを押さえた。
「小さい時の私、馬鹿…」
たった今夢に見た16年前の彼女はあまりにも単純で馬鹿馬鹿しくて物騒なことを口にしていた。ベッドから降りてふと呟いた。
「あの落とし穴はそのままにしてよかったのかしら…」
その呟きへはレインの家の執事が元に戻した、と応えたい。しかしフェイネルが知る由もない。
とそこへ静寂な朝に相応しくない慌ただしい足音が聞こえてきた。それはフェイネルの部屋の前で止まりノックもせずにその足音の主は部屋へ入ってきた。
「フェイネル様!!」
「朝から騒がしいわよ、ダリア。どうしたの?」
「旦那様がお呼びです」
「わかったわ。そんなことでいちいち慌てなくていいのよ」
「し、失礼しました」
ダリアはブレイン侯爵家に雇われて5年になる侍女だ。そそっかしさは当時とまったく変わらず、フェイネルは度々注意をするが今ではそれも彼女の良さかもしれないと思っている。
フェイネルは支度をして父親で王家の主治医をしているヘンリー=ターナー=ブレインの元へと向かった。
「お父様、フェイネルです」
扉の向こうから返事が聞こえてフェイネルは部屋へ入った。父親のなにか企んでいるような顔を訝しげに見ながらフェイネルは歩く。
「どうなさったのですか」
「お前は結婚――」
「またその話ですか?」
「まあ落ち着け。結婚がダメなら王宮に行かないか?」
「…側室に?」
「そうではない。侍女としてだ」
「侍女、ですか?わかりました」
「いいのか」
「お父様が行けと仰ったのではありませんか」
「そうなのだが…。まあよい。では準備をしてすぐに向かってくれ」
「はい」
話が終わって部屋を出るフェイネルにダリアが泣きついてきた。それはそれは涙をぼろぼろと流して。
「あなた聞いていたの?」
「はいっ…」
「そうなの。お別れね。まあすぐに戻ると思うけど」
妹のようなダリアが自分との別れに悲しんでくれるのを嬉しく思いながらフェイネルは彼女の背中を擦る。ブレインの話は、セリーヌ王女につく侍女になってほしいとのことだった。セリーヌ王女と言えば侍女を次々に辞めさせる我が儘王女だ。これまで様々な侍女を雇って貴族の娘も何人かその役目を仰せつかっていたが彼女たちも3日と経たず解雇されていた。そして今度白羽の矢が立ったのがフェイネルだというのだ。
フェイネルは少ない荷物を纏めてすぐに屋敷を出発した。
数時間後、フェイネルは王宮に着いた。警備をしている騎士に名乗ると王女の部屋へと案内してくれた。その間すれ違った騎士や侍女たちはみんなフェイネルを二度見、三度目していた。服装は飾り気のない簡素なものだったが彼女の容姿は他を魅了するものがあった。
フェイネル=ターナー=ブレインはその艶やかな銀髪をなびかせ、猫のようにきりっとした目の中央には大きなスカイブルーの瞳が真っ直ぐに前を見据えていた。
彼女を見て心を奪われぬ者はいない。彼女と言葉を交わして知性を感じられないと言う者はいない。才色兼備とは彼女のことをいう。だが彼女には愛想がなかった。興味のない者は特に冷酷である。彼女の容姿に惹かれた殿方たちのしつこい求婚などで気分を害した時彼女の理性はぷつんと途切れるのだった。彼女の纏う空気は氷点下まで下がり無言の圧力が他を凍り付かせる、と言われている。
それでも求婚者はあとを絶たない。彼女が受けるとしたらたった一人、もう10年姿を見ることのなかった幼馴染みだけだろう。今現在彼女が彼のことをどう思っているのかは彼女にしかわからないが。ブレイン卿は彼女を王女の侍女につけて上手いこと彼と再会して願わくば結婚をしてくれないかと考えていたのだった。
10年もの間、心から笑うことのなくなった氷の女王がなにを思い、なにを感じ、これからの王宮侍女生活を送っていくのか。是非とも温かい目で見守っていきたい。