表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は白猫である。  作者: 堀河竜
私は猫又である
7/63

最後の邂逅



「小向さん」「なんだい?」

  

私が尋ねると、小向さんは変わらず微笑みを浮かべて答えました。


「おじさんと今の姿、どちらが本当の姿なんですか? どちらが人間化した姿で、変化した姿なんですか?」

「さぁ、どっちだろうね」

「えぇっ、教えてくれないんですか?」

「秘密にしていた方が面白いだろう?」

「もう、意地悪です」

  

私は頬を膨らませましたが、小向さんはそれでもニコニコ笑っていました。どちらが本物の姿か気になりますが、今はそれよりも訊きたい事があります。


「じゃあ小向さん。おじさんの姿に戻らなくても大丈夫なんですか?」

「大丈夫なんじゃないかな?」

「えぇー」

  

私達はもう既にあの洞穴を出て、小向さんの家の廊下を歩いていました。今の小向さんの姿は、みんなが知る小向さんの姿ではないですし、坂井さんか誰かに見つかったら問題になってしまいま――。


「あっ……」

「あっ、坂井さん……」

  

森田さんの家に帰るため、玄関から外に出るとバッタリ坂井さんに会ってしまいました。しかも家から出てくるところもバッチリ見られて。


「あ、あれ? ミオさんの助勤って確か一日だけじゃ……それになんで知らない人が小向さんの家に……?」

  

いきなり小向さんの家から出てきた私達に、明らかに慌てている坂井さん。歩んでいる足をピタリ止めて頭の整理をしています。

  

そんな坂井さんに、小向さんは再びニッコリ笑ってズイと歩み寄り、顔と顔がくっつく寸前まで近づきました。小向さんはニコニコ笑っているのですが、坂井さんは急接近されて更に慌てています。

  

確かに慌てるのは無理もないと思います。今の小向さんの姿はモデルのように美形ですが、いくら美形の人でも、初対面の人が顔すれすれに急接近してきたら驚くと思いますし、はっきり言って不審者だと思います。

  

その小向さんが一体次に何をするのかと思っていると、彼は坂井さんをからかうように、「こんばんは、坂井さん」と言い、なんと彼女の胸を人差し指でつつきました。Tシャツの少し盛り上がっている部分をこう……ほよん、とつついたのです。

  

しかし私は、その光景がまるで自爆スイッチを押しているように見えました。セクハラと言いますか……からかっていると言いますか……とにかくその行為が地雷を踏む事と同じに思え、カチリという音が聞こえた気がしました。そして――。


「あんたどこ触ってんだよー!!」

  

小向さんは坂井さんに殴られ、遥か彼方の上空まで消えて行ってしまいました。まるで爆発によって吹き飛ばされたように。お星様になってしまったように。

  

私はただただ愕然としてその光景を見つめ、空に上がった一番星を見上げていました。

  

この神社に帰ってこられるのでしょうか。それ以前に生きていられるのでしょうかと、小向さんの事が心配になりましたが、不思議と大丈夫な気がしました。坂井さんのどこにそんな怪力があるのかという疑問も不思議と浮かんできませんでした。本当に不思議です。


「それで、ミオさん……どうして小向さんの家に居たのか説明してくれるかしら……?」

  

坂井さんは息を荒らしながら言いました。私はその姿に、少しばかりの恐怖を覚えます。


「えっと……私、今は急いでますし、詳しくは小向さんが教えてくれると思いますので、それじゃあ……!」

「あっ、ちょっとミオさん?!」

  

私は坂井さんへの返答を放り出して走り出し、逃げるようにその場を後にしました。後の事は小向さんに押しつける形になってしまいましたが、悪いのは坂井さんの胸をつついた小向さんですし、気にする必要はありませんよね……?

  

それに私はやるべき事があるのです。森田さんの家に帰って伝言を伝えないといけないのです。さぁ、早く帰りましょう。早く帰って、森田さんを励ましてあげましょう。


---------------------------------------------------------- 


葬式が終わり、僕は鬱屈した気分で家に帰っていた。帰り道はやけに暗く、母さんと父さんの葬式といっても、形だけだ。遺体は海に沈んでしまってどこにあるかわからず、肝心の二人がいないのだから。

  

だから不思議と涙は出なかった。実感がないのだ。両親が死んだという事が頭で理解できても、心では理解ができないのだ。

  

だからと言って笑えもしなかったけど、僕の心は空虚で、空っぽになってしまっていた。確実にあったはずの何かが喪失してしまっていた。

  

僕は家に帰っても電気を付けず、リビングのソファに座って頭を抱えていた。喪服から着替えようという考えや夕食を食べようという考えさえ浮かばず、ただ頭を抱えて心の整理をしている。

  

そんな時、僕はリビングの窓からぼんやりした光が入ってきているのに気付いた。月のように青白くぼんやりと輝いているのだが、月明かりにしては明るすぎる光。

  

気になってソファを立ち、庭への窓を開けてみた。サンダルを履き、家から庭へと出る。するとそこには、目を疑う光景が待っていた。そこには薄らと白色に光る母さんの姿があったのだ。


「母さん! どうしてここに?」

 

慌てて窓を開けて外に出ると、僕は言った。しかし母さんは優しい微笑みを浮かべたまま黙っていた。不思議なことに、母さんの足は地を離れ浮いている。


「母さん、どうしたんだ……? どうして何も答えてくれないんだ……?」

『それは……もうあまり想太朗と話す事ができないからよ……』

「えっ……?」

 

母さんは伏し目がちに笑い、話し始める。


『私はもう死んだ身よ。父さんも私ももう死んだのよ……』 


僕は未だ実感を持てないが、不思議と納得した。普通そう言われたら、じゃあどうしてここにいるのだという疑問が生まれると思うが、僕はそうは思わなかった。それよりも僕は、母さんが最後に会いに来たのだと察した。母さんが僕に何かを伝えに来たと感じたんだ。


『あの時はごめんなさいね、想太朗……』

 

あの時とは、きっと喧嘩してしまった時の事だろう。


『父さんは想太朗の為を思って怒ったのよ? 想太朗もわかるでしょう?』

「……うん」

 

僕は父さんが怒っていた様子を思い出しながら頷いた。そんな事はもうわかりきっていた事だけど、再び認識する。


「僕も突拍子もなく相談していたよ。僕の方も悪かった。でも僕は……父さんみたいに人を救いたくて、憧れて弁護士になりたいと思ったんだ」

『そうね……。本当の事を言うと、私も薄々感づいていた事だわ』

 

母さんは申し訳なさそうな表情をして俯いた。しかしすぐに顔を上げる。


『お父さんはここに来られないけど、お父さんも考え直しているわ。真剣になって想太朗の将来を考えていたわ。それでお父さんは答えを出したの。道を選ぶのはもう自分達じゃなく、想太朗さん自分自身なんだって……』

 

母さんは確かにそう言った。僕の頭はずっと気持ちの整理をしていて疲れてしまっていたが、この時確かに母さんはそう言ったと僕は記憶している。

 

母さんは憂いを帯びた顔で言う。


『私は今日、お父さんに代わってこの事を伝えに来たの。さよならと一緒にね。だから想太朗……このまま医者を目指すか弁護士を目指すかは、それは想太朗が決めなさい』

「母さん……」

『それと、私達がいなくなったからと言っていつまでも悲しむのはやめなさい。私達ももちろん悲しいし、周りの人達も悲しむわ』

「母さん……」

『だからこれからも頑張って生きなさい。大丈夫よ、想太朗ならできるわ』

「母さん……!」

 

僕は空へと飛んで消えていく母さんに向かって叫ぶ。消えてしまったらもうきっと会う事はできない。今ようやくそれを実感した。母さんと父さんは死んでしまうんだ。一生、もう二度と会う事ができないんだ。母さん達と過ごした、さりげない時間や日常がもう二度と戻ってこなくなってしまうのだ。


「待って母さん、もう少しこの場所にいてもいいじゃないか……母さん……!」

 

祈るように、助けを乞うように、僕は泣きながら天に叫んだが母さんは、優しく微笑みながら最期の別れを告げた。


『さようなら。想太朗、元気でね』 


母さんは白い光と共に消えていく。憂いを帯びた笑顔を浮かべながら真っ暗な空へと散っていく。僕は木々が立ち並ぶ庭の中、涙を流しながらその光に向かって叫んだ。


「母さああーん!!」

 

母さんは消えてしまった。僕は庭に膝をついて崩れ、ボロボロと涙を溢す。

 

僕の家族は、最期まで家族らしかった。父さんが僕を叱り、その後に母さんが優しく諭してくれる。


良い家族だった。最高の僕の家族だった。それを僕は亡くし、もう二度と会う事ができなくなってしまった。もう一生会う事ができなくて、話したり相談したり叱ってくれたりできなくなってしまったんだ。

 

そう思うと僕の目からボロボロと涙が溢れていった。頬を伝って顎から落ちる訳ではなく、目から溢れて庭の土へと落ちていく。

 

だけど僕は、最期に母さんが言っていた言葉を思い出す。『私達がいなくなったからと言っていつまでも悲しむのはやめなさい。私達ももちろん悲しいし、周りの人達も悲しむわ』。そう言っていた事を思い出す。

 

そうだ、悲しんではいけない……両親も周りの人達も悲しませてしまう……。それにこの前、僕はミオさんに両親に会えたらこの悲しみも忘れられると言っていたじゃないか。

 

泣いてちゃダメだ……悲しんでてもダメだ……。立ち上がろう、誰も悲しませない為に……。

 

そう思い、僕は涙を拭い、涙を堪えながら立ち上がった。鼻をすすり、ゆっくり息を吸い、空を仰いだ。空は雲が少なく、星が散りばめられた黒いスクリーンの上に月がぼんやりと輝いている。真ん丸の円が青く白く輝いていて、周囲を煌々と照らしている。

 

僕はその月を見つめながら、もう両親の死を悲しまないと決意した。涙を堪えながら家へと戻り、自分の気持ちを晴らすようにリビングの明かりを点けた。

 

そう決めたように僕はしばらく泣くことがなく、死別の悲しみは忘れられたのだが、それからは悲しみを隠すようにしながら生きる生活が始まった。そう、しばらくは――。


----------------------------------------------------------

 

猫の姿に戻った私は、お腹に巻き付けた釣糸に吊られてだらんとぶら下がっていました。妖力を大幅に使ったために、今日もまた疲れてしまったのです。変化の修行と今の演出……演出と言っても森田さんを騙して笑うつもりじゃないのですが、その演出で疲れしまったのです。

 

演出は基本的な妖術で構成されていました。木の上に隠している釣竿の不可視化と、最後に猫になった私の不可視化という二つの妖術だけです。その構成あって、演出はどうやら上手くいったみたいなので、後はこの演出で森田さんが元気になる事を祈るだけです。

 

しかし、私は一つだけ失敗をしてしまいました。私はお母さんの姿で森田さんと話している時、彼の事を「想太朗さん」と呼んでしまいました。お母さんが水臭く「さん付け」をするなんておかしいですし、下手をしてしまったら森田さんにお母さんの偽物だと気付かれてしまうところでした。

 

何故そんな失敗をしてしまったかを言い訳をすると、釣竿が糸を巻き始めるタイマーとのタイミングの事も考えていましたし、それに、私が森田さんに「道を選ぶのは想太朗さん自分自身なんだ」と伝える時に迷いが生じてしまったからです。

 

この言葉は森田さんの両親に直接聞いた訳ではなく私の心に残っていたもので、言わば感情が干渉した時の残滓です。だから森田さんに伝えていいのか自信がなく、私は不安を覚えて迷ってしまったのです。

 

その失敗の事も含め、私は落ち込んで疲れてしまっていました。森田さんのあの様子だときっと気付いてはいないと思いますけど、自責の念で落ち込んでしまいます。

 

しかしこのまま釣竿に吊られている訳にはいけません。この釣竿は森田さんの家の倉庫から引っ張り出してきたものです。元に戻しておかないといけません。

 

そう思い、私はお腹に巻き付けてある釣糸をなんとか爪で切り、残りの妖力を使いつつ道具を倉庫へ戻しに行きました。

 

戻した後は明かりがついたリビングを一瞥し、その事に満足して床に着きました。森田さんが元気を取り戻してくれただろうと、微笑みながら眠りに着くのでした。


----------------------------------------------------------


「こんにちは、小向さん」

「おぉ、こんにちはミオさん」

 

次の日私は、再び人間化して神社で小向さんに会いました。また日が傾き始めるまで眠っていたのですけど、妖力を回復する為です。仕方がありません。


「それで、結果はどうだったんだい? 森田さんは元気になってくれたかい?」

「たぶん大丈夫だと思います。朝は寝ていたので会えませんでしたけど」 


「そうか」と小向さんは笑ってくれました。本当は今からでも森田さんに会いに行って話をしたいのですけど、しばらくは人間の姿で会う事は避けた方がいいのかもしれません。なぜなら、昨日の今日で私に会うと、昨日の出来事が私の仕業だと気付いてしまうかもしれません。証拠を残している訳ではありませんし、気付かれる事はまずないと思いますが、自分が尻尾を出してしまいそうで恐いのです。だから残念ですが、森田さんと会う事は避けた方がいいでしょう。

 

そう考えながら、ふと小向さんを見ると、私は所々に怪我をしている事に気が付きました。


「あれ? 森田さん、その傷とたんこぶ、どうしたんですか?」 


改めて見てみると、森田さんの頭にはたんこぶ、頬や腕に絆創膏が貼ってあり、痛々しい姿をしていました。


「いやぁ、神社に帰ってきた時に坂田さんに『あの長身の変態野郎は誰なのよ?!』って問い詰められたから、『こんな感じの変態かい?』って胸をつついたら殴られちゃって……」

「またつついたんですか……」

 

呆れました。心配して損をした気分です。昨日も坂井さんにセクハラをして殴れ飛ばされたというのに、懲りない人ですね。


「じゃあ私はこれで。結果を伝えに来ただけですから」

「あれ、もう帰っちゃうのか。お茶でも飲んで行けばいいのに」

「いえ、今日は早く森田さんに会いたいので」

「そうか。ミオさんはそんなに森田さんが好きか」

 

私は思わず足を止めました。小向さんが言った言葉が私の頭の中で反芻します。

 

小向さんが言った「好き」とは一体何の事でしょうか。確かに私は森田さんの事が好きですが、小向さんが言っている「好き」とは、また別の「好き」のような気がします。

 

もしかして、以前電気屋さんのテレビで見ていた時に放送していた、ドラマで言っていたような、あの「好き」の事なのでしょうか? 恋愛においての「好き」の事なのでしょうか? そうだとすると、つまり小向さんは、私が森田さんの事を愛していると言っているのですか?!


「はは、そんなに顔を赤くするって事はよっぽど好きなんだな。上手くいくといいな、ミオさん。それじゃあ」

 

森田さんはそうニヤニヤ笑いながら去っていきます。残された私は、小向さんの言った通りに顔を真っ赤にして立ち尽くしていました。火が出そうな程に顔が熱くなっています。

 

私はまだ冷静にはなれませんでしたが、それでも小向さんに言われた事を考えていました。小向さんにからかわれただけと言ってしまえばそれまでですが、どうも自分に関係がない事ではないように感じるのです。

 

この時、私はすぐに気付けませんでしたが、そのままぼーっと惚けて考えた後に気付くと、小向さんに言われた事は事実でした。考え難く認め難い事ですが、小向さんが言っていた通りに私は森田さんの事が好きだったのです。

 

いや、もしかしたら認めようとしなかっただけで、私は以前からこの気持ちに気付いていたのかもしれません。一緒に喫茶店に行って、森田さんとクリームシチューを食べた時はいつもより胸が弾みましたし、ホテル街で襲われ、森田さんが助けに来てくれた時は本当に嬉しかったのです。

 

更に、私はいつも森田さんの事を想っていましたし、一日に何回も森田さんの事を思い出していました。私は森田さんに執着していて、森田さんを愛していたのです。

 

そう気付くと、私は再び顔を赤くしながら森田さんの家に帰り始めました。小向さんが言った事と森田さんの事を考えずにはいられず、火照りによる軽い目眩さえも感じながら、ふらふらと帰り始めました。

 

そうしてなんとか公園で猫の姿に戻り、森田さんの家に帰ってくると、私は家の玄関の前に座って森田さんの帰りを待つ事にしました。

 

しかし、森田さんに会いたくなった訳ではなく、私が本当に森田さんの事を好きになってしまったのかどうか、ただ確かめようと思っただけです。猫又である私が人間である森田さんに恋をしているという事は、やはり俄かには信じ難い話ですから、実際にあって確かめてみようとしているだけなのです。

 

そうと決めて待ち始めたのは良かったのですが、森田さんが帰ってくるには、如何せん早い時間でした。長い間そこで待つ事になったのですが、私はそれでも構いませんでした。元より私はあまりする事がないのです。今日小向さんに会いに行った事だって、計画の結果を報告する意味もありましたが、暇つぶしの意味もあったのです。ですから森田さんの帰りを待つ事だって、暇つぶしの為でもあるのです。決して長い時間待ってまで、森田さんに会いたいからではありません。

 

それにしても、最近も私は森田さんを待つ事がありました。森田さんとクリームシチューを食べながらお話する時も、こうして長い間待っていたはずです。今は猫の姿なので、こうして地面に座って体を丸くする事ができるのですが、あの時は立ちっぱなしで大変でした。

 

そんな事を思い出しながら、私は太陽が傾きかけてきた頃から待ち始め、その太陽が地平線の向こうへ落ちて空が黒に染まるまで私は待ち続けました。何匹かのカラスが鳴きながら飛んでいき、気温も下がって寒くなってきます。

 

そうして私は待ち続けて、すっかり辺りが暗くなった頃、ようやく森田さんは帰ってきました。門から入って、庭を通ってこちらへ歩いてきます。

 

いつもより一時間ほど遅い帰宅ですが、私がニャーと鳴くと、森田さんはすぐに気付いてくれました。

 

しかし、いつものように笑って来はせず、しばらく私を見つめて立ち止まっていました。一体どうしたのかと疑問に思いながら、私も森田さんを見つめて待ちます。

 

森田さんは何か思い詰めた様子でした。悩んでいるとも、怪しんでいるとも取れないような表情で私を見ていました。しかし何かを決めたように微笑むと、ゆっくり歩み寄ってしゃがみ、私を抱き上げました。


「白猫。僕の飼い猫になってくれないか?」

 

私を両手で抱え、私の目を真っ直ぐに見て訊く森田さん。顔が近くて少しドキドキしました。思わず目を反らしてしまいそうでしたが、森田さんが重要な質問をしていたので堪えます。

 

森田さんの問いについて考えてみましたが、やはり答えは決まっていました。もう一度自分の頭の中で考えてみましたが、答えは変わりません。

 

私は森田さんの問いに答えるように、ニャーと鳴きました。


「……よかった。なってくれるんだね」

 

森田さんはそう言って、優しく、本当に優しく笑いました。思わず私の胸がドキンと揺れ動いてしまうほどの、甘い表情で。

 

その笑顔の所為か、私の胸はドキドキ高鳴り始めました。それだけでなく、ポーッと惚けながら森田さんの顔を見つめてしまっています。猫の顔でも赤く照ってしまいそうです。

 

これ以上森田さんの顔を見ていたら、私はきっとどうにかなってしまう。そう思って目を反らそうとした時、森田さんは言いました。


「じゃあ、今日からお前はミオだ。美しい尾っぽと書いて美尾。どうだ?」

 

その名前は私が人間化した時と同じ名前でしたが、惚けていたからか、私は話の内容も理解していないまま「ニャー」と答えてしまいました。

 

続けて森田さんは言います。


「よし。じゃあ次はお風呂入れなきゃね」 


その言葉に私はようやく目が覚めました。お風呂が嫌いな訳ではないのですが、この場合、男である森田さんが女である私をお風呂に入れるという事に問題がありました。勿論、私の羞恥心の問題もありますし、森田さんの色々なところが見えてしまう事も問題なのです。

 

いや、猫の姿だから裸を見られても大丈夫ですし、それどころか猫はいつも裸ですし、問題はないのかもしれません。それでも、お風呂の中では何をするのかと言えば体を洗う事で、森田さんが私の体を洗う訳ですから、やはり問題はあります。私の羞恥心は許してくれそうにはありません。

 

はっきり言って、私は慌てていました。どうにかお風呂場に連れて行かれる事を逃れられないかと考えていました。しかし、森田さんは「大丈夫大丈夫。恐くないし、優しく洗うからね」と私を抱えて家の中へと連れていくのです。

 

私は運命を受け入れるしかありませんでした。いくら恥ずかしいと言っても、お風呂が苦手だったとしても、飼い猫になるには、お風呂は必須の儀式、その宿命を乗り越えなければいけません。綺麗に身を整えている猫又に、そのような儀式が必要ないとしても、それを甘じなければいけないのです。

 

そう自分に言い聞かせましたが、すぐに恥ずかしいという気持ちで打ち消されてしまいました。やはりどうにかして逃げれないかと考えてしまいます。

 

暴れて逃げ出す事はしたくなかったので、無言で森田さんの目を見詰めて訴えてみましたが、彼はそれに気付きもせず、遂には私をお風呂場に下ろしてしまいました。警告を知らせるアラームのような音を立ててお風呂場のドアは閉まります。

 

そして、私は森田さんによってお風呂を入れられてしまいました。逃げ出す事もできず、抗う事もできず、ただただ、私は森田さんにされるがままに体を洗われてしまいました。

 

誰か助けて! 私は森田さんに体を洗われている間、そう心の中で嘆いていました。お風呂という恥ずかしさに堪え、飼い猫になる儀式を終え、ようやく私は無事に森田さんの飼い猫になったのでした。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ