懐かしの日常、渋めのお茶
月見里神社の本殿を掃除するのは久しぶりでした。
森上町に去る時には、もうこの町に戻る事もないと思っていたので、とても感慨深いです。
この場所から見える景色や木の葉が散る様子が懐かしく、ちょっとした板の塗装が剥げている場所までもが心に訴えかけてきます。
神社の他にもこの町には懐かしい景色がとても多く、商店街や喫茶店の「ひだまり」など、思い出を彷彿させる場所がいくつもありました。
巫女の仕事を再開する前に、想太朗くんと町を回ってみましたが、何度も「懐かしい」という言葉を口にしていました。
それでも、坂井さんや美鈴さんと再会した時はもっと感動しました。
美鈴さんは涙を流してくれて、坂井さんは会った途端、意外にも私に抱き着いてきました。
私の中で坂井さんはクールなお姉さんのイメージがあったので、涙を流しながら飛びついてくるとは思っていませんでした。
しかし、それほど私の事を心配していたんだと感慨深い気持ちになり、私も一緒になって泣いてしまいました。
美鈴さんには想太朗くんに力を貸してくれましたし、「ありがとう」という感謝の言葉だけでは伝えきれない想いがあって堪え切れなかったのです。
なので私が坂井さんと美鈴さんに会った時は、人目も気にせず存分に泣き合いました。
その後は沢山の事を質問されて、引っ越し先の町でどうしていたのか、私の想太朗くんへの想いが晴れて叶った事など、色々な事を話しました。
そうして私は元通りの日常に戻り、再びこの月見里神社の巫女として境内を掃除していたのです。
「それにしても、美尾さんがまたこうして境内を掃除するのも、なんだか感慨深いね」
坂井さんも私と同じ事を思っていたようで、隣で竹箒を動かしながら言いました。
「でも美尾さんは向こうの町でも巫女をやってたから、それほど懐かしいなんて思わないのかな」
「いや、やっぱり私も懐かしいですよ。巫女をやっていても、この本殿からの景色は向こうにもなかったですから」
他愛ない会話をしながら本殿のごみを掃きます。
神社の灯篭ではすずめがさえずっていましたが、仲間の姿を見つけたのか、さえずりながら飛んでいきました。
とても平和です。
「そういえば美尾、この町へ無事に戻ってこれたが、一度また森上町へ行くらしいな」
少し離れていたところを掃除していた美鈴さんが言いました。
「でも、引っ越す訳ではないのだろう?」
「はい、一日で帰りますよ。森上町でお世話になった人に改めて挨拶したかっただけですから」
置いてきた荷物を取りに行く用事もありましたが、やはり私はもう一度大向さんと話をしておきたいと思っていました。
妖力の結晶帯である瑠璃色の石も与えてくださいましたし、沢山話を聞いてもらいましたし、お礼を言わなければ私の気が済まないのです。
「そうか。それなら私は荷物持ちを手伝おう。一人で行くのは辛いだろうからな」
「大丈夫ですよ美鈴さん。荷物は少ないですし、想太朗くんも付いてきてくれますから」
私の為に気を使ってくれて有り難いのですが、私は丁寧に断りました。
しかし、私が「想太朗くんも付いてきてくれる」と言った途端、坂井さんがからかうように、にやにやと笑い始めます。
「想太朗くんと仲が良いのね」とまで言うので、私は恥ずかしくなって顔を赤くしてしまいました。
「ほお、森上町に行くのか」
頬を紅潮させていると、突然私の背後で男の人の声が聞こえました。
驚いて振り向くと、そこには禿げ頭が目立ついつも通りの小向さんが立っていました。
私の顔が映りそうな頭がきらきらと光を反射して輝いています。
「ところで美尾さん、その件について後で少し話があるんだ。掃除が終わったら事務室に来てくれ」
「話ですか? わかりました」
私を呼び出してまで話す事っていったいどういう話なのか、私は疑問に思いながら了承します。
私と想太朗くんの話なら向井さんにもちゃんと話さなければいけないと思っていましたが、その話についてではなさそうです。
「何の話だろう。気になるな」
坂井さんも気になったのか、眉をひそめて呟きます。
しかしその時、突然向井さんが坂井さんの背後に現れ、彼女の耳元で囁くように言いました。
「君が気にする事じゃないよ」
その言葉とほぼ同時に、私の見えない角度で小向さんにセクハラされたのか、坂井さんがいきなり「キャアッ!」と声をあげました。
男勝りの坂井さんが普段出さないような、とても可愛らしい声で私も驚いてしまいます。
「向井、またセクハラか!」
「わはははは!」
坂井さんは怒りを露わにして拳を振り上げながら、逃げる小向さんを追っていきました。
二人とも全力で走っているのであっという間に境内の向こう側まで行ってしまいます。
小向さんの笑い声と坂井さんの怒号が段々と小さくなっていき、やがて二人の姿は建物の影に消えていってしまいました。
その二人を遠くで見ていて、私は苦し紛れに笑っていました。
小向さんも向井さんも坂井さんにセクハラをするので、二人が追いかけっこをしている光景はこの神社の名物のようなものになっていて、それさえも私は「懐かしい」と感じてしまうのです。
なので、坂井さんには申し訳ありませんが、私はまたこの日常に戻れてよかったと思いました。
「相変わらずだなあ」と呆れる気持ちで複雑になりながらも、私の心は安心感で満たされていました。
境内の掃除が終わって一段落して、私は小向さんに言われた通り、事務室に向かいました。
私が森上町に出掛ける事についての話と言っていましたが、いったいどんな話なんでしょうか。
私は疑問に思いながら廊下を歩きます。
わざわざ私を呼び出してまで話す事なら少し込み入った話のはずですから、ますます私の疑問は大きくなっていました。
「失礼します」
私はその疑問を胸に抱えながら襖を開けました。
小向さんは机に付いていて、何やら事務の仕事をしています。
「よく来たな。とりあえずそこに座るといい」
私は言われた通り、小向さんと向かい側の座布団の上に座りました。
なんだか、予想していたよりも真面目な話をする雰囲気です。
「あぁ、そう身構える事はないぞ。ちょっとしたプライベートの話だ。真面目な話をするならいつもの地下室を使うはずだろう?」
「そうですね。少し緊張してしまいました」
真面目な話をすると思っていた私はその言葉で肩の荷を下ろせました。
余計な心配だったと苦笑します。
「それでは、どんな話ですか?」
先程と違って、軽い気持ちで小向さんに尋ねます。
「まずは君と想太朗との事に言っておくが、よかったじゃないか。素直に私も嬉しいよ、おめでとう」
「えっ」
私はこの件についてはきっと小向さんに怒られると思っていたので、まさか喜ばれるとは思いませんでした。
「怒らないんですか? 私は猫叉の掟を破ってしまったようなものなのですよ?」
「確かに、森田想太朗に猫叉の存在を知られてしまう事になってしまったが……君が秘密を話してしまった訳ではないだろう? どちらかといえば、咎められるのは私だ。想太朗に秘密を話したのはこの私なんだからね」
「えっ!」
私は驚いて目を丸くしました。
想太朗くんは何故か猫叉の存在を知っていましたが、彼にその秘密を明かしたのは小向さんだったのです。
しかし猫叉の秘密を守っていたのはこの小向さんのはずでした。
以前美鈴さんが琢磨さんに猫叉である事を明かしてしまった時も、厳重に注意していたのも小向さんですし、何より小向さんはこの町に住む猫叉の長です。
それにも関わらず、想太朗くんに秘密を明かしてくれたのは、私の為でした。
想太朗くんへの想いが叶わず苦しんでいた私を見て、秘密を明かす決断をしてくれたのです。
「あ、有り難うございます……私の願いを叶えてくれたのは小向さんだったのですね」
「いや、感謝すべき人はやっぱり美鈴さんだろう。私は美鈴さんに説得されたにすぎない。
それよりも君を呼んだのは別の件なんだ」
私は森上町に行く話で小向さんに呼ばれた事を思い出します。
何を話されるのか、ずっと気になっていた事です。
「荷物を取りに森上町に行く件について話そうと思ったんだが、実は……」
小向さんは何故か突然口をつぐみました。
話しにくい事を躊躇して言えないかのように、妙に間を作ります。
私は小向さんが何を告げようとしているのか益々気になり、思わずごくりと喉を鳴らしました。
「実は、兄の大向が既に荷物を持ってきてくれたんだ」
「えぇっ!」
小向さんの言葉と共に、突然背後の襖が開いて大向さんが現れました。
「やぁ、どうも美尾さん」と言いながら私の荷物を掲げる大向さんに、私は素直に驚愕します。
「持ってきてくれたんですか! そんな、有り難いのですが申し訳ないですよ」
「いいんだ。どうせ私は暇だったし、荷物も軽かったからね」
そう言いながら大向さんは私の荷物であるバッグを一つ渡してくれました。
しかし荷物が少ないと言っても森上町からこの町に来るにはお金も時間も掛かります。
大向さんがいいと言っていても私は申し訳なく、渡されたバッグを抱えて項垂れました。
「ごめんなさい……大向さんには沢山相談にも乗ってもらいましたし、この間は妖力の結晶帯まで譲って頂きましたし、お世話になってばかりですね」
悲しみが混じる眼差しで胸のバッグを見つめる私を見て、大向さんと小向さんは互いに目を合わせました。
自分の不甲斐なさで落ち込んでしまいそうな私に、大向さんが優しく言います。
「全く、わかっていないな美尾さん。君は相談に乗ってもらったと思っているが、私はただ君に話を聞いてもらっていただけなんだよ」
「でもあの瑠璃色の石も頂きましたし――」
「あれは神社の仕事を頑張ってくれたお礼と思っていい。伝えていなかったんだが、君がよく働いてくれたおかげで実はとても助かっていたんだよ」
大向さんは、項垂れる私と違って笑顔を浮かべて言います。
大向さんの言葉のおかげで、少しだけ気分が楽になりました。
「それでも申し訳ないと思うなら、この町を案内してくれないか? 想太朗くんともゆっくり話をしたいし、みんなで観光しよう」
「そうですね……。わかりました、それなら想太朗くんを呼んできますね!」
そう言うと、私は事務室を出て想太朗くんの家へと向かい始めました。
沢山お世話になった大向さんに恩を返すかのような想いで足を動かし、慌ただしく歩いていきました。
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美尾さんが事務室を出ていった後で、私は弟の小向に淹れてもらったお茶を飲んだ。
緑茶の葉のちょうどよい渋みととろりとした甘味が私の喉が癒す。
渇いていた喉が少しだけ楽になった。
「それにしても兄さん、森上町から出てくるなんて随分と久しぶりだね」
確かに久しぶりだった。
この上伝馬町を訪れるのは向井が小向として神主になった時、以来だった。
あれから小向に手紙をもらってこちらの出来事を耳にしているが、その頃から考えると、確かもう十年が経つはずだった。
「こうして兄弟で顔を合わせるのも久しぶりだな。だから今は小向じゃなくて向井の顔でいたらどうだ?」
私に言われると小向は「そうだな」と言って顔を両手で隠す。
手を離すとあっという間に顔は向井の顔に変わっており、気付けば体型や服のサイズも変わっていた。
「しかし兄さん、今回は荷物を届けにきたと言っていたが、本当にそれだけの理由だったのかな」
向井へと姿を変えた弟が言う。
「どういう意味かな」
「滅多に森上町から出てこない兄さんが美尾さんの為に来てるんだ。何か他にも理由があるんじゃないかと思ってね。そう、例えば――」
向井は私を見てにやりと笑ってから言った。
「美尾さんの事が好きになったからとか」
にやにやとからかうように向井は笑うが、私は冷静に微笑みを見せる。
伏し目がちの眼差しで向井の顔を見つめた。
「どうだと思うかい? 向井の目にはそう見えるかい?」
「見えるよ。兄さんが美尾さんと話す時、特別な雰囲気を感じたんだ。他人と話す時にはないものが」
向井の言う、特別な雰囲気というものは、なかなか言葉にもし難いものだが、私にも何となくわかった。
かつて見てきた恋人同士が話す様子は、友人達が話し合うような距離感よりもずっと近いものがあって、さらに率直で真っ直ぐな会話があった。
それらのものが私の雰囲気となって現れてしまっている事に、私は少しの羞恥を感じる。
「そうだな……。私はきっと美尾さんに惹かれかけていたのかもしれないな」
私を見つめる向井に、私は独り言を呟くように感慨深く告げた。
そんな向井は、ため息をついて何も答えずに笑みだけ浮かべる。
「でも気付くのが遅くてよかったと言うべきかな。結果的に美尾さんは今、想いが叶って幸せになれたんだからね」
私は自分を省みずにそう言った。
しかしそれは私の本心だった。
美尾さんが幸せなら自分は今の現状で構わない、と思っていた。
私はこの現状にとても満足していた。
そんな私を見て、向井はもう何も語るまいと口を閉ざしていた。
部屋の時間がゆっくりと長く流れる。
その静かな時間で、私は向井が淹れてくれたお茶を茶柱ごと飲み干した。
茶柱まで飲んでしまった所為か、お茶が少しだけ苦く感じた。




