ぬいぐるみ
どうやら私は、辿り着いた喫茶店で眠り落ちてしまったようでした。
昨夜、眠れずに疲労が溜まっていた事もあり、気が付けば眠っていて、随分な時間を店の中で過ごしてしまったようです。
目が覚めると窓の外は暗くなっていて、もう夕焼けの空すらも見えません。
約束の時間は疾うに過ぎ、持て余していた時間はあっと言う間に経っていました。
私は寝惚け眼を擦って頭を目覚めさせ、状況を把握します。
まだ眠たくて目も腫れて痛みますが、構わずテーブルに突っ伏していた体を起こします。
すると、肩に掛かっていた毛布がするりと椅子の上に落ちました。
体が冷えないように、私が眠っている間に店の人が掛けてくれたのでしょう。
そこで私は気付きました。
自分が今まで眠っていた場所は決して自分の部屋などではなく、営業中の店の中であり、私が席で居座っている間に店の迷惑になっていた事を。
途端に私は申し訳なさでいっぱいになり、慌てて自分の荷物をまとめて席を立ちました。
掛けてくれた毛布を返しながらお礼を言い、店主のおばあさんに謝ります。
ところが、おばあさんは別段気にしているはおらず、むしろ謝る私を可笑しそうに笑いました。
それでも申し訳なさを拭いきれないまま、料理の代金を払い、喫茶店を後にします。
すっかり暗くなってしまった道を歩いて、神社に向かい始めました。
店で眠ってしまったのは、きっと昨夜眠れなかった事だけが理由ではないでしょう。
あの喫茶店には、他の店にはない安心感や癒しがあります。
メニューの良さ、悪さ――つまり、美味しいのか、高級なのです。
その何かは、きっと想太朗くんの影だったのでしょう。
あの店の雰囲気が上伝馬町の喫茶店「日だまり」に似ていて、想太朗くんとシチューを食べているように感じられるのでしょう。
その感覚が、私の荒んだ心を少しでも癒し安息させ、気付けば眠ってしまったのではないかと思いました。
昨夜、想太朗くんの事を考えて眠れなかったのに、あの場所で休む事ができた理由はそれだと思っていたのです。
しかし、本当にそれが理由なら、もうあの喫茶店に行く事は避けた方がいいように思えました。
私は想太朗くんと会わない事を選び、別れて忘れてしまう事を決めたのですから。
既に私は想太朗くんの約束を拒み、彼はもう諦めて森上町に帰っているはずでした。
私の事をまだ想ってくれていて、この森上町にも迎えに来てくれたにも関わらず、その好意を無為にしなければならなかったのは、やはりとても辛い決断でした。
想いを寄せる人を拒み続けなければならない悲しみは至極胸を締め付け、私の身も心も衰弱させていました。
神社に帰った頃には既に月が南の空に浮かんでいました。
夜は刻々と更けて闇を深め、冷たい風が私の体を冷やします。
境内の電灯が一つ消えかかっていて、道を照らしていた光が何度も点滅を繰り返していました。
その暗闇を一人歩く孤独感に当てられてた所為か、私はまるで雨でびしょぬれになったような重く暗い気分で歩いていました。
遂に想太朗くんが上伝馬町に帰ってしまったと思うと、暗然とした気持ちにならざるをえません。
自分で選択して覚悟していたというのに、私は悲しみを堪えきれず、目には涙まで滲んでいました。
先程あの喫茶店のシチューを食べて休んでいたにも関わらず、私の心が泣き叫んでいます。
最早、上伝馬町を旅立つ時よりも悲しみは大きく、少し力を抜いてしまえば、すぐに泣き崩れてしまう程に心は荒れ果てていました。
そうしてふらふらと歩いていると、境内で大向さんを見掛けました。
どうやら私を待っていたようで、私を見かけるなりに声を掛けられました。
「美尾さん、おかえり」
私は彼を涙が滲む瞳で静かに彼を見つめます。
「美尾さんに手紙を届いているよ」
そう言って大向さんは袴の袖から手紙を一通取り出して手渡しました。
怪訝に手紙の送り主を探してみますが、どこにも表記されておらずわかりません。
「それと、彼はもう一つ君に残していったよ」
さらに大向さんは袖から何かを取り出します。
どこかで見た覚えのある、可愛らしい白猫のぬいぐるみが手渡されました。
「部屋でゆっくりと読むといい」
大向さんはそれだけ言い残して背を向けました。
このぬいぐるみと手紙が誰からなのか、何も伝えずに去っていってしまいます。
一人残された私は、しばらくその場で考えていましたが、すぐにはっと気が付きました。
このぬいぐるみは、いつの日か、私が想太朗くんを励ます為に渡したものであり、彼の家に飾ってあったぬいぐるみだったのです。
だとすれば、この手紙は想太朗くんからの手紙です。
上伝馬町に帰る前に私に伝えておきたい事が記された手紙という事です。
しかし、どうしてこの白猫のぬいぐるみまで私に残したのでしょうか。
私は部屋へと足を急がせながら気になりました。
このぬいぐるみにどういう意図が込められているのか、私は彼からの手紙に高揚する胸を抑えながら考えていました。




