思わぬ客人
森田美尾さんが去ってから、空虚な時間が始まった。
朝起きてもまだ眠っているみたいに世界が霞んでいて、夜の月を見ても雲が掛かっているみたいにくすんでいる。
彼女が居なくなってから見るもの全てが醜く感じ、どこか中身の抜けている時間を過ごしていた。
理由は言うまでもない。
美尾さんは僕の中でとても大きな存在になっていて、その美尾さんがいなければ、僕は何もかもがつまらないと感じるからだ。
食事をしていても彼女がいなければつまらない。
テレビを見ていても彼女がいなければつまらない。
何をしても美尾さんが居なくなった事実が頭から離れず、僕は次第に世の中を諦観するようになっていた。
学校の講義に出席するも、内容が全く入ってこなかった。
席についてノートを広げても、集中などできやせず、やはり美尾さんの事を思い出してしまう。
「想太朗、最近顔色が悪いが大丈夫か?」
友人にも心情を悟られ、心配されるほどに悲しみは深かった。
最早、僕の荒れ果てた心情は誰の目から見ても明らかだった。
それでも僕は誰にも相談できず、何とか自分で解決しようとしていた。
相談すれば、美尾さんの事を悪く言われる可能性がある。
美尾さんと関わった僕でもどうして美尾さんが去ってしまったのかよくわからず、他人から見ると、この件に関しては彼女を責めるのではないか と思うのだ。
しかし、それは違うと僕は思っていて、美尾さんを責める事は間違っていると思っていた。
きっと僕にも彼女に手を尽くせた事が沢山あって、美尾さんが僕の前からいなくなる事を防げたかもしれない。
僕は、夕暮れの水族館で、美尾さんが泣きながら 抱きしめてほしいと懇願した事を思い出してそう考えていた。
ならば、あの夕暮れの水族館で、美尾さんは何を 思っていたのだろう。
何を悩み、何が彼女を失踪させたのだろう。
今、僕が最も疑問に思っていて、求めている事は この答えであった。
しかし、そんな謎は簡単に解けるものではない。
美尾さんがいなくなった今となっては、当たり前だが、彼女を問い詰める事なんてできない。
彼女と親しかった人に尋ねて手掛かりを探したいが、その親しかった人を僕は知らない。
何より、彼女を失った悲しみに心を打ち砕かれてしまった僕には、まだこの謎を解こうとする力が残っていなかった。
そのまま謎を残したまま一週間が過ぎた。
彼女が去ってから数えると二週間になる。
僕は相変わらず彼女が最後に残したメモ紙を片手にリビングの机に突っ伏していた。
この世界で言うと今日は休日で、家の外では商店街などが家族やカップルで賑わう日である。
そんな日でも僕は何かをしようという気は起こらず、眠れずとも昼までベッドで寝続け、朝食兼用の昼食にカップ麺を作り、伸びた麺を無気力にすすって一日の半分を過ごしていた。
せめて飼い猫のミオが傍に居てくれれば心は晴れるのに。
美尾さんが居なくなると同時に姿を消してしまった白猫に願っても、未だ帰ってくる事はなかった。
猫は突然行方不明になって突然帰ってくると聞くけれど、今はタイミングが悪すぎた。
しかも帰ってくる事自体もわからないのであれば、気が気でない。
これでは大切なものを二つ失ったも同然だ。
どうしてこうも上手くいかないのだろう。
僕はどこで選択を誤り、このような結果を引き起こしてしまったのだろう。
この二週間、何度も繰り返してきた問いを自分に投げ、これまでの記憶を辿る。
何度も繰り返して無駄な事だとわかっているはずなのに、繰り返し続けてしまう自分までもが嫌になっていた。
少し、外に出て気を紛らわそう。
この二週間、過去の事を考えて悲しみに明け暮れていた僕は、少しだけ生産的な事に考えを向けた。
それでもやはり顔色が悪く、目は虚ろだが、構わず服を着替えて玄関に向かった。
靴を履いて扉を開け、外の世界へ再び足を踏み出した。
ところがその前に、丁度インターホンが鳴った。
扉を開けようとしていたところを阻まれたが、気にせず応対する。
「小鳥遊 美鈴というものだ。森田想太朗は在宅だろうか」
この名前はどこかで聞いた覚えがあった。
胡散臭いと思って記憶に留めていた名前。
飼い猫であるミオに用があると言って、突然訪ねてきた人の名前だ。
本当の目的が何なのかは知らないが、警戒しておく必要がある人物である。
「何の用ですか」
「君と話をしたい。家に邪魔させてはくれないだろうか」
ほぼ面識がなく、全くと言っていいほど情報がない人物が申し込んできた。
僕はその小鳥遊という人に呆気に取られ、カメラが映す彼女の顔を見ながら立ち尽くしてしまう。
「あのですね……初対面にも等しい人をいきなり家にあげる事なんてできませんよ」
セールスマンならまだ考える余地があるだろうが、この人はそれよりも胡散臭った。
「ふむ。それではファミレスにでも足を運ぼうではないか。それなら話ができるだろう」
どうしてそこまで僕と話がしたいのだろうか。
僕は再び驚いて呆気に取られる。
僕と小鳥遊さんとやらはほぼ接点がないというのに。
「一体何の話をしようって言うんですか」
僕は、邪険にあしらっているのが見て取れる尋ね方をした。
失礼な対応だが、この人には早く帰ってほしいし、何かよからぬ犯罪を防ぐ為には必要な事。
それに今は面倒事を寛容に受け入れる精神を持ち合わせてはいないのだ。
ところが、次の返答で僕の心は一変する。
「森田 美尾の話だ」
途端に僕の表情は変わり、目を見開いて切羽詰まった顔付きになった。
全く聞く耳を持たなかった僕は、この人と話してみる気になっていた。
この人は美尾さんの事を知っている。
それだけで、僕はこの人との話はとても重要だった。
美尾さんは何を悩んでいたのか。
美尾さんはどうして失踪してしまったのか。
沢山の質問が浮かんできて、この人にそれを問い詰めたい衝動に駆られる。
二週間の間、ずっと疑問に思っていた事への答えを、渇望せずにはいられなかった。
「聞かせてくれ。場所なんてどこでもいい。今すぐ美尾さんの話を聞きたいんだ」
そう言って僕は家の門を開けるボタンを押した。
赤の他人を家にあげている事も構わず、小鳥遊さんを家に招き入れていた。




