見えない夕日
想太朗くんのいる場所に戻ると、ショーはもう終盤でした。
「またいつか会いましょう」という言葉でショーは締め括られ、動物達は舞台裏へと帰っていきます。
観客達もぱらぱらと帰り始めたので、私達も席を立つ事にしました。
「少し喉が渇いたな。自販機を探していいかな?」
歩き始めると想太朗くんがそう言ったので、私達は自動販売機を探す事にしました。
水族館の案内表示を頼りに水族館を歩いていきます。
販売機は案外すぐに見付けられました。
目立たない通路を行って屋外に出ると、自販機の他にベンチもあり、海が見えるほど景色が良い場所にありました。
お日様もちょうど水平線の向こうへ沈もうとしているところで、海が西日に照らされて輝いていて、とても綺麗な景色が見られます。
「うわぁ、綺麗ですね」
「そうだね」
私達はフェンスに手を付き、その光り輝く光景に見惚れていました。
空も夕焼け色に染まっていて、オレンジとブルーのグラデーションがとても綺麗だったのです。
「もしかして、ここが例に聞く水族館の岬って場所なのかな」
「水族館の岬?」
「実は幼なじみに水族館の話を聞いていてね。場所までは知らなかったんだけど、水族館に綺麗な夕焼けを見れる、水族館の岬って呼ばれてる場所があるらしいんだ」
「それならきっとこの場所が水族館の岬ですよ。これほど綺麗な光景を見れる場所はきっと他にありません」
そうだね、と想太朗くんは笑って答えました。
飲み物を買う事も忘れて、黄昏の海を見つめます。
まるで映画のワンシーンでした。
恋人と一緒に綺麗な景色を見て、素敵な時間を過ごせて、映画のヒロインになったみたいに思えました。
このまま時間が止まったらいいのにと、映画の台詞がありますが、その台詞を実感する事ができたのです。
しかし、私はこんな素敵な時間を過ごしていいのか迷ってしまいました。
想太朗くんを貶めてきた私は、この時間を過ごす権利はないと思ったのです。
「美尾さん。一つだけ訊いていいかな」
「……なんですか?」
質問する想太朗くんは、真剣な表情でした。
物事を正面から見つめる顔でしたが、どこか悲しげで、誰かの心配をするような感情を孕んでいました。
「どうして美尾さんは、悲しんでるの?」
私ははっと目を丸くしました。
想太朗くんに心臓を掴まれたみたいに、大きな鼓動を打ちました。
隠していた私の悲しみを、想太朗くんは気付いていたのです。
私は項垂れながらも笑みを見せました。
涙してしまいそうな目を隠して、口元だけ緩めました。
「どうしてそう思ったのですか?」
想太朗くんは眉をひそめて笑います。
「遊園地に行った時、君も僕が悲しんでる事に気付いてくれたよね。それと一緒だよ」
理由を聞いて、私は悲しみを隠して笑う事を止めました。
もう隠しきれないと悟った私は、ただ項垂れている事しかできませんでした。
これ以上想太朗くんに迷惑を掛けてはいけないと思っていたのですが、それも叶わなかったのです。
「教えてくれないか、どうして君が悲しんでいるのかを」
想太朗くんは私の悲しみを振り解こうとしてくれていますが、私は話す訳にはいきませんでした。
想太朗くんには、想太朗くんだけには話してはいけなかったのです。
「ごめんなさい。話せません」
「それはどうして? 僕じゃ役不足だから?」
「違います。想太朗くんには話せないだけです」
「それじゃ答えになってないよ。お願いだから、教えてくれ。君を助けたいんだ」
想太朗くんは珍しく強気でした。
私の事を本当に助けようとしてくれていて、表情まで必死になっていました。
しかし私は彼の気持ちを断らなければなりません。
私も必死になる事が必要でした。
「想太朗くんには話せない事なんです。放っておいてください」
私にしては少々強気の言葉でした。
想太朗くんを傷付けるかもしれないと不安でしたが、今ここで断っておかなければ、もっと傷付ける事になるのです。
想太朗くんは私の言葉を聞いて身動ぎました。
私にここまで拒否されるとは思っていなかったのでしょう。
「あなたは良い人です。それは今まで一緒にいて、よくわかっています。だからこの話には構わないでくれますか?」
想太朗くんは、悲しそうに目線を落として引き下がりました。
どうやらわかってくれたみたいで、何も言わずに立ちすくんでいます。
しかし、私の胸はやけに痛んでいました。
胸焼けをしたみたいに、ひりひりと疼いていました。
きっと、本当は想太朗くんに助けてもらいたかったのです。
ほんの少しでも悲しみを和らげてほしかったのです。
「想太朗くん、中に入りましょう。気分を変えて、ご飯でも食べにいきましょう」
そんな想いとは裏腹に、私は笑顔を作って想太朗くんに言いました。
項垂れて黙っている彼を連れ出そうと思い、手を取って水族館の中へ入っていきました。
ところが、私はそれを止められてしまいました。
あまりに急な事で足が止まり、何が起こったのかわからずに、思考も少しばかり停止してしまいます。
「やっぱりだめだ、放っておけないよ」
耳元で声が聴こえた時、私は想太朗くんに後から抱き締められている事に気付きました。
背中からじんわりと彼の体温が伝わってきます。
「美尾さん、僕の話を聞いてくれ。君の事を放っておけない理由が一つあるんだ」
私は返事もできない程に緊張していました。
心臓が今までにないほどに高鳴っていて、呼吸も荒れてしまっているのです。
「僕は君に良い人だと思ってほしくて心配している訳ではないんだ。本当に君の事が心配で、助けを求めてる君を黙って見ているなんてできないんだよ」
どうしていいのかわからず、私は抱かれたまま立ち尽くしていました。
想太朗くんの話を聞いてしまっていました。
「それでも君は放っておいてほしいと思うかもしれない。でもこれだけはわかっておいてほしい。君は僕にとってとても大切な人で、好きだと思う人なんだ」
耳元で囁かれた告白はとても甘いもので、私には有り余る程に優しい言葉でした。
想太朗くんが私に好意を抱いてもらっていた事は知っていたというのに、胸の奥をくすぐられるような、心をくすぐられるような感覚があったのです。
私は返事もできず、やはり想太朗くんに抱かれている事しかできませんでした。
緊張が止まらず、手も震えています。
しかし、こうして想太朗くんに抱かれていて、私は幸福を感じていました。
今までこうやって抱き締められる事を求め、夢見てきた私は、幸せに思わない訳がないのです。
想太朗くんを突き放して、彼の想いを無為にするなんて、私にはできなかったのです。
その幸福を味わってしまった私は、もう自分の想いを抑える事はできなくなってしまいました。
今は少しでもこうして想太朗くんに抱かれていたい。
そう思ってしまったのです。
「私を助けたいと思うなら、想太朗くんは私を抱き締めていてください。それだけで私は、今は救われますから」
私の頬に溢れた涙は、罪悪に対する感情の断末魔でした。
今まで抱えていた悲しみを晴らすように涙を流し、想太朗くんの胸で嗚咽します。
せめて今日だけは、今日だけはこうしていたい。
私の心にはそんな想いがありました。
仲間である猫叉達を忘れ、自分が猫叉である事を忘れ、想太朗くんを抱いて涙します。
その姿はどこから見ても人間でした。
人間に他なる生き物とはかけ離れていたのです。
人として感情を露にした私は、それにも気付かず、ただ想太朗くんの胸でむせび泣いていました。
水平線の向こうへ沈んだ太陽を背に、互いに抱き合っていました。




