心の内側
「それは楽しみだね。実は君と美鈴さん以外にも、人間に恋心を抱いている猫又がいるんだ。正体を明かしても危険がない方法があるとすれば、喜んで教えてもらうだろうよ」
「そうなんですか」
それは初耳でした。 私や美鈴さんのように人を好きになる事は可笑しな事だと思っていましたが、案外そうではな いのかもしれません。
いや、もしかしたら人がそれだけ魅力的な生き物なのかもしれませんね。 人はアリよりもハチよりも働き者で、努力して 生きていますから。
「それで、その案は一体どんなものなんだ?」
「はい。案は二つあるので、説得させる自信がない案から話しますね」
私は向井さんの顔を真っ直ぐに見つめました。
向井さんの表情は相変わらず堅く、鋭い目をぎんぎんに光らせていました。
私にしたたかなプレッシャーが掛かりますが、その圧力による緊張を乗り越えて口を開きま す。
「一つ目は、人として接している時に猫のような素振りを見せる事です。ここでは人に猫かもしれないと疑問に思わせる事が目的であって、 正体を明かした時に驚きが少なく、パニックに 陥られるのを防ぐ事ができます」
二つ、と言って私は話を続けます。
「この案も事前に危険を防ぐもので、私達猫又 がどういう生き物なのかを教えて、決して恐ろ しい存在で はない事を知ってもらいます。そして一つ目の 案と同じく、パニックを防ぐのです」
おお、と向井さんは驚きました。
「なるほど、よく考えたじゃないか。美尾さんなりに努力したんだね。それにしても、美尾さ んでも人間のような事を言うんだね」
「この際ですから、なれればいいですけどね」
私は冗談めかして笑いましたが、本当になれればいいなと思っていました。
猫又の妖力はなくなって術も使えなくなってしまいますが、人間なら想太朗くんと結ばれるのです。
しかし、向井さんの反応を見ていると、私の案 を受け入れてくれそうです。
もしかすると正体を明かす事を許されて、人間になる必要はなくなるかもしれません。
「でもね、美尾さん――」
ところが、向井さんは反論を始めました。
「どの案も過去に試したものだ。そして失敗して、僕達の存在を世に知らしめてしまった結果 があるんだ」
私はまさかと思いました。
自信はなくとも私の案を実行したならきっと上手くいくと思っていましたし、そもそも世に知られていたのならもっと猫又の認知度があると 思いました。
しかし、私は猫又が現代だけを生きている訳ではない事を思い出しました。
私達猫又は人と共に生きる前から歴史があるのです。
「この結果は江戸時代から代々受け継がれてきた歴史だ。この結果から猫又は人間との距離を広める事となり、隠伏せざるをえなくなった」
「で、でも……向井さんも知っての通り、美鈴さんがその例を覆しました」
そうです。人間である琢磨さんにとって、猫又の私達は妖怪とも感じられる存在でしたが、怖 がったりはせず、逆に美鈴さんを信頼してくれたのです。
「確かに覆しているけど、その件も一例に過ぎない。想太朗が琢磨と同じような考えを持つと 思うには早すぎるよ」
「わかっています。だからこうして慎重に事を進めるつもりなのです」
「なるほど……それならリスクを背負って失敗した時の事も考えているはずだ」
私は言葉に詰まりました。
失敗して仲間達に迷惑を掛けた時、何と言って詫びるのか見当も付かなかったのです。
その事を悟った向井さんは、目を伏せて静かに言いました。
「考えていなければ、了承する事はできないよ」
私は何とか向井さんを説得しようと言葉を探しましたが、何も見つかりませんでした。
ただ考えが浅かった事をしみじみと実感し、唇 を噛み締める事しかできなかったのです。
交渉失敗。
やがてその四文字が私の中で浮かび上がりまし た。
絶望という感覚を実感し、居ても立っても居られない心持ちになります。
時間が欲しい、と私は思いました。
どうしても私は向井さんを説得したくて、想太朗くんの事を許してもらいたくて、想太朗くんの事が大好きで、我慢ができなかったのです。
目を瞑り、スカートの裾をくしゃくしゃに握り締め、その想いを噛み締めます。
次第に目に涙まで浮かび始め、眉間にシワを寄せながら静かに泣き始めてしまいました。
「気持ちは僕にもよくわかるよ」
この時、私は向井さんの事を恨めしいと思ってしまいました。
私の立場にもなっていないというのに、どうしてそのような事が言えるのかと反発したい気持ちにさえなりました。
それでも向井さんは目を伏せて静かに座ってい ます。
「以前、美鈴さんを叱った時の事を覚えているかい?」
向井さんは突然全く別の話を始めました。
私は眉をひそめながら、はいと答えます。
「正体を明かしたいと思っているのは君だけ じゃないと、僕は美鈴さんに言っていたね?」
「確かに言っていましたが、その事がどうしたのですか?」
関係ないじゃないですか。
私はそう切り捨てて訊ねました。
ところが向井さんは驚く事を口にしました。
「正体を明かしたいと思っているのは、まだ君の他にいるんだよ」
「えっ……?」
「僕も君と同じように、人を好きになってしまった猫又なのさ」
私は電撃が走ったように驚愕しました。
涙も引っ込み、口元を押さえながら目を丸くします。
そして同時に閃きました。
私の中で坂井さんが浮かび上がったのです。
「相手は君が考えている通りの人間さ。この神社の神主になって、彼女が訪ねてきた時からだ。いけないと知りつつも心は惹かれていったのさ」
私はもう向井さんの事を恨めしいとは思いませんでした。 私の気持ちがわかると言っていた言葉の真意を理解して、申し訳ない気持ちにもなりました。
そして、人間と結ばれた美鈴さんや、想太朗くんに恋する私を見て、どんな事を感じていたのかと考えると、恐ろしく思いました。
猫又の長を務める彼は、私よりも誰よりも堪えてきたのかもしれないのです。
「勿論この事は彼女には内緒だ。誰にも知られないように、内密に頼む」
「はい……わかっています」
「このまま君は僕のように堪えろとは言わな い。君は恋人を忘れるという道もある。猫又らしく生きて、幸福に生きなさい」
「……はい」
私はもう向井さんを説得しようとは思いませんでした。
ただ、今まで堪えてきた向井さんを労わなければいけないと思い、彼の言う事を素直に聞き入れる事にしたのです。
勿論、私が想太朗くんを想う気持ちは変わりませんでした。 想太朗くんの事を考えると、胸が張り裂けそうなほどに痛みます。
しかし、向井さんも堪えているのだから、私も堪えなければいけない。
そう思うようになったのです。
それでも想太朗くんと約束した日は、既に目前へと迫っていました。 向井さんを説得して、想太朗くんへの想いを遂げるはずだった日が、私を急かすように迫ってきていました。




