母の味はクリームシチュー
私は無事に森田さんにぬいぐるみを渡せましたけど、どこか心にしこりが残っていました。モヤモヤした気持ちが残っていて、満足いかないのです。それはきっと、昨日森田さんに助けてもらった後、妖力切れで仕方なく走り去ったからです。お礼をちゃんとして、もっとお話したいと思っていたのに、妖力切れで帰らざるを得なくなり、走り去ってしまったからです。
だから私は、もう一度森田さんに会おうと決めました。妖力を回復する為に一日のほとんどを寝て過ごしてしまい、もう陽は落ち始めていますが、私は再び公衆トイレのある公園へと向かう事にします。そして昨日と同じようにトイレの個室に入りました。
肩までの長さで癖のないストレートの白髪、平均的で特徴のない身長……そして、腰が細くて引き締まった脚を持つ人間の外見。私の人間の姿である森田 ミオに変化します。
そして、昨日森田さんとぶつかった場所に行き、そこで森田さんを待ち始めました。 いつ会えるかわかりませんでしたし、今日会えるのかもわかりませんでした。情報が足りず、あまりに無計画な行動をしていたと自分でも思います。それでも私は森田さんに会って話がしたいと思っていたのです。
私が待ち始めてどれくらい経ったでしょうか。待ち始めた時間を見ていないのでわかりませんが、空を飛ぶ飛行機が何機か飛んで行ったのを見ました。時計の長い針が一周して、更に一周し、二時間以上が経っていました。
そこまでくるとさすがに足が疲れてきて、棒のようになってきてしまいました。猫の姿なら地べたに寝転んだりして休むのですが、人間の姿なのでそうする訳にはいけません。たまにコンビニの前などで地面に座り込む人を見掛けますが、女優の美生さんの姿でそんなお行儀の悪い事はできません。
そうして更に、立ったまま待っていると、ようやく森田さんは現れました。今日会えるかどうかもわからなかったので、無事に会えたと言ったところなのですが、とにかく私は森田さんと会う事ができたのです。森田さんを見た瞬間、私は自然に笑顔を浮かべて話し掛けていました。
「森田さん、待ってましたよ」
「あっ、君は昨日の……えっと、名前、聞いてなかったな……」
そこで私は森田さんに名乗る名前を考えていなかった事に気が付きました。月見里神社での失敗と同じ事をしていると気付き、成長していない事を実感させられます。
それよりも早く森田さんに名前を名乗らなくてはいけません。焦りながら思い付いた名前はやはりこの名前でした。
「……ミ、ミオです」
「へぇ、ミオかぁ。名字は?」
「……も、森田です」
「あっ、僕と同じ名字なんだ。偶然だなぁ」
神社で名乗ったものと同じ、森田ミオという名前でした。偽名を使わず、同じ名前を使っていると、後々都合が悪くなってしまうかと不安になりますが、私の場合、逆に都合が良い事にすぐ気が付きました。矛盾に繋がって私の正体が知られてしまうかもしれませんし、そもそも私は偽名を使う必要がないと気付きました。森田さんと同じ姓を勝手に使ってしまっている名前ですが、これからはこの名前を使う事にしましょう。
「それで、ミオさんはどうして僕を待ってたの?」
「えっと……昨日、私はお礼もろくにせずに帰ってしまいましたから、森田さんにお礼をしたいなぁと思っていたんです。だから時間があればどこかでお茶でもしたいと待っていたのですが、森田さんは今、お暇ですか?」
「そうだな、えっと……」
森田さんは腕の時計を見ます。
「まぁまだ夜も早いし、いいかな。それに、僕も君と話をしたかったんだよ」
「ホントですか? 良かったです」
私はなんだか嬉しくて、気付けば満面の笑顔を浮かべていました。私は人と話すときはできるだけ笑っているように心掛けていますが、そんな笑顔とは訳が違って、心の奥から感情が表れているような笑顔でした。
「お茶するなら、どこか座れる場所に行こうよ。この辺りの喫茶店とかでさ」
「そ、そうですね。じゃあ行きましょうか」
私はどうしてそれほどまでに笑っているのかわからず、戸惑いながら森田さんに着いていきました。しかし、戸惑っているにも関わらず、私はこの時を楽しいと感じていました。戸惑ったり不安に思うよりも、今は森田さんとの会話を楽しみたいと思っていたのです。
おしゃべりしながら10分ほど歩くと、古めかしい喫茶店を見つけました。そのお店に入ると、私達は木製のテーブルとイスの席に座ります。 その店は、私も森田さんも初めて入ったところで、近くにあったので試しに入ってみようという話になり、気まぐれで入店した知らないお店でした。 しかしどうやらお店はあまり繁盛してはいないようで、店内には三席しかなく、肝心のお客さんも私達だけでした。それは人気がないお店という事を表していますが、もしかしたら穴場かもしれません。それに、静かに話をできますから、都合は良いはずです。
「お客様、ご注文はどうなさいますか?」
店員でしょうか、店長でしょうか、とにかくこの店の者がメモ紙とボールペンを持って訊いてきました。目が細くて、白髪と口髭が特徴的で、正にマスターという風貌をした人です。
「店のお勧めはなんですか?」
「クリームシチューでございます」
「それじゃあクリームシチューをお願いします」
クリームシチューは以前に一度食べたきりです。私はお魚やミルクといったものばかり食べて飲んでいましたから、料理されたものを食べるのは久しぶりです。
「あなたは?」
店員は森田さんに訊きます。
「僕は……アイスコーヒーで」
「えっ、何か食べないんですか?」
「なんか、食欲ないんだ」
食欲がないという事は、やはり両親の死を悲しんでいるからでしょうか。しかし、その気持ちは私にもわかります。私は親と兄弟との別れを覚えていませんが、少しだけなら共感できます。
「それではクリームシチューとアイスコーヒーのご注文でよろしいでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました。それでは少々お待ちください」
マスターさんはそう言って、メモを持ってキッチンの中へと入っていきました。
私は再び森田さんが心配になり、弾んでいた気持ちが落ち込んでしまいました。少しでも元気が出たらとぬいぐるみを贈ったのですが、あまり元気になってくれていないのですね。
でも、私はどうしたら森田さんがもっと元気になってくれるかわかりませんでした。森田さんに助けてもらってばかりだという考えさえも頭に浮かんできて、気分が落ち込んできました。
「ど、どうしたんだい? 元気がないみたいだけど……」
「い、いえ……気の所為ですよ、森田さん」
私は笑って、自分の気持ちを誤魔化しました。森田さんは私が何を心配しているのか、わかるはずありません。森田さんは、私が森田さんの食欲がない理由を知らないと思っているのですから。
「それならいいけど……。でもお礼なんて、わざわざしなくても良かったのに」
森田さんは口元を少し緩めて言いました。
「いえいえ、私は本当に感謝しているんです。だからお礼をして当然ですよ。でも、森田さんは迷惑でしたか……?」
「いや、それはないよ。僕も君と話したかったと言ったじゃないか」
「あはは、そうでしたね」
私はその言葉を聞いて嬉しくて笑いましたが、やっぱり森田さんが心配でした。楽しそうに雑談していましたが、やっぱり森田さんが心配で、心は少し落ち込んでいました。
それからしばらく森田さんと話をしていると、マスターがクリームシチューとアイスコーヒーを運んできました。クリームシチューは大きく刻まれている野菜やお肉がごろごろと入っていて、いい匂いが漂ってきて、なかなか美味しそうです。
スプーンを取って、白いスープを口に運んでみると、ホワイトソースとバターとミルクの絶妙な味が広がってきました。息で冷ましてから口に入れたのですが、少し熱いくらいに温かくて、飲み込むとお腹の中まで落ちていき、そこから体が温まっていくのがわかりました。
うん……美味しいです……。私の舌は、料理の味を見るには情報不足なのですが、それでも美味しいという事だけはわかります。口に運べば、それだけで自然と笑顔になる。そんなクリームシチューなのです。
「森田さん……」
「なに?」
「このクリームシチュー……すごく美味しいんですが、食べてみませんか?」
私は気付くと、自然と笑ってしまいそうな口を抑えてそう勧めていました。森田さんは少し驚いて私を見ましたけど、でも私は、森田さんにこのクリームシチューを食べて欲しかったのです。行儀の悪い事をしているかもしれませんけど、森田さんに笑って欲しかったのです。
「ホ、ホントにもらっていいのかな……?」
「いいですよ。それともやっぱり……食欲がありませんか?」
「いやぁ、そういう事じゃないんだけど、う~ん……」
森田さんは何かを悩んでいるのか、すぐには答えませんでした。やはり食べかけを分ける事は、行儀の悪い事だと考えているのでしょうか。そう思って私は少し反省します。
「わかった、食べてみるよ」
私がそう思っていると、森田さんはスプーンを取りながら言いました。私は森田さんに無理矢理食べさせてしまったでしょうか。少し、気まずくなります。
「なんか、すいません……でも、本当に美味しいですから」
「いいんだ。僕も食べてみたくなったから」
そう言うと、森田さんはクリームシチューにスプーンを沈ませ、スープを口の中へ運び入れました。よく味わって、ゴクリと飲み込みます。
しかし森田さんは、美味しいとも不味いとも言わずにジッとシチューの方を向いて黙っていました。味を診ているのかと思えば、どうやらそれは違うようで、そういう事を考えている表情などはしていませんでした。頑に口を閉じて、憂いを帯びている、そんな表情をしていました。
どうしてそんな表情をしているのでしょう。私はそう気になりましたけど、そのまま森田さんの表情を窺っていると、遂に目から涙が溢れてきました。一滴の涙が、森田さんの頬を伝います。
「ど、どうして泣いているのですか……?」
ドキリとして慌てながら森田さんに訊ねると、涙を流しながら答えます。
「このクリームシチューの味が、僕の母親の味に似てたんだ……」
私は森田さんの言葉を聞いた途端、ハッとしました。本当ならその言葉を聞いただけでは訳がわからないけど、私は森田さんの両親が亡くなった事を知っているので、ハッと気付きました。
「実は僕、最近両親を亡くしてるんだ……飛行機の事故で父さんも母さんも死んでしまったんだ……。だからこのクリームシチューを食べて母さんを思い出して……」
「そうだったんですか……」
私は、このクリームシチューを食べさせて良かったのか、今更ながら疑問に思えてきてしまいました。お母さんの味を思い出させる事、お母さんの死を思い出させる事。シチューを食べさせる事はそういう事だったんだと気付き、私は自分の行動が正しかったのかと不安になりました。私は森田さんを心配しながら訊きます。
「どんな人だったんですか……?」
「そうだなぁ……父さんは厳しい人だったけど、人を守ろうとする格好いい弁護士で憧れる人だったなぁ」
森田さんは、両親を思い出しているのか、涙を拭って微笑みながら話します。私も森田さんの両親がよくミルクをくれた事を思い出しながら聞きます。
「僕の家は結構裕福な家だったんだ。家は大きいし、庭も家をすっかり囲んでしまうほどある。だから本当なら、僕は甘やかされてわがままに育っていたかもしれないんだ。経済的に裕福だから、なんでもできて自由だったからね。でも父さんは、僕に世の中の厳しさを教えてくれた。甘やかしたり放ったりなんかせずに厳しく叱ってくれたんだ。それでときどき僕は泣いてしまったりしたけど、その時はいつも母さんが居てくれて、父さんが叱った意味を母さんは優しく教えてくれたんだよ」
「……いい両親だったんですね」
「そうだね……父さんはあまり僕を認めてくれなかったけど、第1志望の大学に合格した時とか、照れた顔を隠しながら褒めてくれたんだよ……」
私は、微笑みながら話す森田さんに釣られて、自分も微笑んでいました。微笑んでいる森田さんを見られて、なんだか心まで温かくなってきます。
「でも……」
森田さんは微笑み止め、突然悲しそうな表情をします。「両親が飛行機に乗る日、両親を最後に見た日、僕は両親と喧嘩してしまったんだ……」
「え……」
森田さんの初めて聞く話に、私は驚いて目を丸くしました。猫の姿の私には、話してくれなかった話です。
「僕は父さんの言い付けで医者になる事を目指していたんだけど、本当は父さんみたいに弁護士になって善良な人を悪から救いたかったんだ」
私は真剣な表情をして森田さんの話に耳を傾けます。
「だけど僕はずっと父さんに相談できないで、理系のまま学校に通ってきた。ずっと悩みを抱えて学校に通っていたんだ。だから僕は勇気を持って両親に相談し、そして喧嘩したまま両親は死んでしまったんだよ」
「……」
私は森田さんが可哀想で、森田さんに掛けてあげる言葉をなくしてしまいました。さよならも言えず、更には喧嘩したまま両親と別れてしまった森田さんは、不幸で可哀想だと思いました。
どうして森田さんの両親が亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。こんな良い家族だったのに、喧嘩したまま死を迎えてしまうなんて、残酷すぎる。理に適っていないと私は思いました。死は突然来るものだとしても、これはあんまりだと思ったのです。
「もう亡くなってしまったから会えないけど、せめてもう一度だけでも会えたらって思うよ。そうしたら両親と仲直りもできるし、この悲しみも忘れられるかなって思うんだ……」
「そうですね……そうすればきっと森田さんは元気になりますよね……」
私は森田さんの言葉で気付くと、まるで独り言を呟くようにそう言っていました。自分に言い聞かせるように、"やはりその方法しかないのか"と言う風に。
森田さんはその私を少し不思議そうに見ていましたけど、反対に私は意気込んでいました。私は森田さんが悲しみを忘れられるなら、なんでもしてあげたい……森田さんに元気になってほしいという想いに駆り立てられていたのです。
「で、でも死んだ人に会う事なんてできないだろう?」
「そ、そうでしたね……」
私はそう言われて、がっかりと落胆していましたけど、それは私の演技でした。本当の私は、森田さんを元気付ける方法を見付けて、「やるぞ」と意気込んでいたのです。
それから私は早めにクリームシチューを食べ終え、また会う事を森田さんと約束して彼と別れました。妖術を学ぶ為に、神社に行くと決めたのです。