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妻が上司と不倫した日、私はドアを封鎖して祝賀会を開いた

作者: 熾星
掲載日:2026/07/05




 今日は、俺と莉奈の結婚三周年記念日だった。


 そして、彼女が会社で四半期の営業成績トップに選ばれた日でもあった。


 俺は仕事を早めに切り上げ、花束を抱えて、彼女が勤める会社へ向かった。莉奈は東京・品川にある広告代理店で営業をしている。結婚後、戸籍上は俺の姓になったが、会社では旧姓のまま「白石莉奈」として働いていた。


 エレベーターの扉が開いたとき、俺はまだ、どんな顔で花を渡そうか考えていた。


 その瞬間、視界に赤い文字が流れた。


【これは刺激が強すぎる。四半期トップの営業と営業本部長が、電気設備室で何をしているんだ】


【黒川部長、あの年でずいぶん元気だな。白石さん、立っているのもやっとじゃないか】


【夫は花束を抱えて迎えに来ているのに、裏切られているとも知らない】


 俺はエレベーターの前で立ち止まり、指先に力を込めた。


 廊下の突き当たり、給湯室のそばに電気設備室がある。ビルの電気設備や配線が収められている場所で、普段は鍵がかかっている。鍵を持っているのは、ビルの管理会社、防災センター、そして会社の総務部だけだった。


 扉の隙間から、女の声が聞こえた。


 三年間、何度も聞いてきた声だった。


「黒川さん……もう少し、優しく……」


 男の荒い息が混じる。


「莉奈、こういう場所のほうが燃えるんだろ?」


「早くして……直人、今日迎えに来るって言ってたから……」


 俺は腕の中の花束を見下ろした。包装紙はまだきれいで、カードにはこう書いてあった。


 結婚三周年おめでとう。いつもお疲れさま、莉奈。


 俺は扉を叩かなかった。


 踏み込むこともしなかった。


 振り返って、廊下の端に置かれていたコピー機を押した。予備の段ボールが載った重いコピー機は、電気設備室の扉の前でぴたりと止まった。


 それから、近くのケータリング業者に電話をかけた。


「すみません。先ほど会社の祝賀会用に予約した者です。今から届けていただけますか」


 電話の向こうで、住所の確認が入る。俺は閉ざされた扉を見ながら、静かな声で答えた。


「はい。三階までお願いします。こちらの廊下で受け取ります」


 電話を切ると、俺は営業部のオフィスへ向かった。笑顔を作り、軽く手を叩く。中にいた社員たちが、俺の花束と顔を見比べるようにこちらを向いた。


「皆さん、莉奈が今日、営業成績トップに選ばれたと聞きました。ささやかですが、食事を用意しました。よかったら一緒に祝ってください」


 オフィスは数秒だけ静まり返った。


 すぐに、歓声が上がった。


「え、本当ですか? 白石さんのご主人、優しすぎません?」


「高瀬さん、サプライズ上手ですね」


「莉奈、幸せ者だなあ」


 俺は莉奈のデスクに花を置き、彼女のマグカップを手に取って、何人かの先輩社員に水を注いだ。その動きは、どこから見ても妻を心から祝う夫のものだった。


「いつも莉奈がお世話になっています。今日は遠慮なく召し上がってください」


 三浦真由が隣の席から顔を出した。莉奈と特に親しく、俺の前でもよく彼女の努力を褒めていた同僚だ。


「高瀬さん、莉奈は? さっき給湯室のほうへ行くのを見た気がするんですけど」


 俺は廊下の奥へ視線を向けた。


「重要な設備確認があると言っていました。黒川部長が直接連れていったそうです」


 真由が目を瞬かせた。


「設備確認? 莉奈は営業ですよね。何の設備を確認するんですか?」


 俺は肩をすくめた。


「俺にも分かりません。大事なことだから、邪魔しないでほしいと言われました」


 周囲の空気が少し変わった。さっきまでの明るさが引き、微妙な沈黙が落ちる。


「黒川部長が直接?」


「最近、白石さんの数字が伸びていたのって、そういうこと?」


「今回のトップ成績、部長がずいぶん手厚く見ていたんだな」


 赤い文字が、また視界を流れた。


【ここで踏み込まないのか】


【こいつ、扉の前を裁判所にする気だ】


【中の二人、身動きもできないだろうな。外では会社の人間が祝賀会を始めようとしている】


 電気設備室の中から、ごく小さな鈍い音がした。


 誰かが慌てて金属ラックにぶつかったような音だった。


 俺は莉奈の番号に電話をかけた。


 静かな廊下に着信音が響く。


 音は、あの扉の向こうから聞こえていた。


 全員の視線が、ゆっくりと廊下の奥へ向かう。着信音は十数秒鳴り続け、そこで途切れた。誰かが切ったのだ。


 俺はスマホをしまった。


「おかしいな。莉奈、出ないですね」


 真由の顔がこわばった。


「たぶん……デスクにスマホを置いたままなんじゃないでしょうか」


 俺はうなずいた。


「そうですね。今は設備確認中でしょうし」


 誰も続けなかった。


 廊下の突き当たりにある扉は、何事もなかったかのように静まり返っていた。



 1



 それから二十分ほどして、ケータリング業者がワゴンを押してやって来た。寿司桶、ローストビーフ、唐揚げ、焼き鳥、サラダ、デザート。それに、よく冷えたビールとノンアルコール飲料が次々と折りたたみテーブルに並べられていく。


 俺は会議用の長机を数台借りてきて、電気設備室の前を囲むように置いた。中の人間は出られない。外の人間も、そう簡単にはその場を離れない。


 俺は缶ビールを開け、軽く掲げた。


「では、莉奈のさらなる活躍を願って」


 同僚たちが声を上げる。


「白石さん、営業トップおめでとう!」


「出てきたら本人にも飲ませましょう!」


「今日はしっかり祝わないと!」


 俺は笑顔のまま、ひとりずつ缶やグラスを合わせた。扉の向こうからは何も聞こえない。だが、あの二人にはすべて聞こえているはずだった。


 ローストビーフの香りも、氷がグラスに当たる音も、皆が口にする「白石さん」や「部長」という言葉も、はっきり届いているはずだ。


 そのどれもが、尋問よりずっと堪えるだろう。


 赤い文字が次々と流れた。


【これは祝賀会じゃない。公開処刑の前座だ】


【中で声を出した瞬間に終わる】


【皮肉なサプライズだな】


 俺はローストビーフを一切れ口に運び、ゆっくり噛んだ。


 味は悪くなかった。


 莉奈。


 黒川。


 焦らなくていい。


 この祝賀会は、まだ始まったばかりだ。


 酒が少し入ると、同僚たちは次第に肩の力を抜いていった。顧客の話、営業成績の話、そしてやがて、莉奈と黒川の話が小声で交わされるようになった。


「白石さんの大口案件って、黒川部長の紹介だったんですよね?」


「相手、かなり難しい会社だったって聞きましたよ。前任の人たちも落としていたはずです」


「部長が何度も同行していたなら、取れても不思議じゃないか」


「でも、白石さんへの目のかけ方、少し特別でしたよね」


 その一言一言が耳に刺さった。


 俺は表情を変えず、隣の人間に飲み物を注いだ。


 真由が俺の隣に座った。紙コップを握る指に力が入っている。何度か廊下の奥を見て、最後に声を潜めた。


「高瀬さん、もう一度莉奈に連絡してみませんか。中に入ってから、もう一時間近くたっています」


 俺はテーブルの上のデザート箱を見た。


「大丈夫です。邪魔しないでほしいと言われていますから」


「でも……」


 俺は抹茶ティラミスを一つ取り、電気設備室の扉の正面に置いた。


「彼女の好物なんです。出てきたら食べさせます」


 真由はうつむき、それ以上何も言わなかった。


 そのとき、俺のスマホが鳴った。画面には「白石恵子」と表示されている。莉奈の母だ。


 俺はスピーカーに切り替えた。


「お義母さん」


 電話の向こうから、鋭い声が飛んできた。


「直人さん、莉奈と一緒にいるの? 何度電話しても出ないんだけど」


「莉奈は会社で仕事中です。重要な案件で、黒川部長が直接確認しているそうです」


「仕事、仕事って。今日は表彰された日でしょう? 銀座で真珠のネックレスを見たいって言ってあったのに、連絡ひとつ寄こさないのよ」


 俺はあの扉を見た。


「落ち着いたら、すぐに連絡させます」


「忘れていたら、あなたが付き合ってちょうだい。娘の夫なんだから、それくらいしてくれてもいいでしょう」


 周りの社員たちの視線が、少し変わった。


 俺は笑みを崩さず、声だけ穏やかにした。


「分かりました。こちらが終わったらご連絡します」


 通話が切れると、オフィスは一瞬だけ静かになった。誰かが紙コップを持ったまま、軽く咳払いをする。


「高瀬さん、本当にいいご主人ですね」


「お義母さんのことまで気にかけるなんて、大変ですね」


 赤い文字が浮かぶ。


【この家、ずいぶん前から彼を都合よく使っていたんだな】


【妻は上司と不倫中。母親は銀座のネックレスか】


【この結婚、最初から腐っていたのかもしれない】


 俺は何も説明しなかった。


 説明など必要ない。


 全員に、自分の目で見てもらえばいい。


 さらに三十分が過ぎた。テーブルの料理はかなり減っていた。真由の顔色はどんどん悪くなり、何度も電気設備室のほうを見ては言葉を飲み込んでいる。


 俺は時間を確認し、立ち上がった。


「しょっぱいものばかりでは飽きますよね。デザートとアイスも頼んであります」


 同僚たちがまた声を上げた。


「豪華すぎません?」


「白石さん、これ見たら泣きますよ」


「高瀬さん、会社より祝う気がありますね」


 真由が俺の袖をつかんだ。


「高瀬さん、もう十分じゃないですか」


 俺は彼女の手を見下ろした。真由はゆっくりと手を離した。顔からは、さっきまで無理に作っていた笑みが消えている。


 俺は声を落とした。


「三浦さん、電気設備室は普通の部屋ではありません。素人が勝手に開けて、何かあったら誰が責任を取るんですか」


 真由の顔が青ざめた。


 俺はデザートを受け取りに行った。バニラアイスの大きな容器、いちごのケーキ、そして莉奈が好きだった抹茶の菓子が、冷めたローストビーフの皿のそばに置かれる。


 アイスの容器から冷気が漂う。


 電気設備室は、変わらず沈黙していた。


 そのとき、また着信音が鳴った。


 俺のものではない。


 そこにいる誰のものでもない。


 音は扉の向こうから聞こえていた。


 今度は、男のスマホだった。


 酔いの回った男性社員が顔を上げる。


「あれ……黒川部長のスマホじゃないですか?」


 別の社員が俺を見る。


「部長、今日は外出って聞いていましたけど」


 俺は何も言わなかった。着信音が一回、また一回と鳴り続ける。


 それが、全員の神経を叩いているようだった。


 誰かが小さく言った。


「まさか、本当に中にいるんじゃ……」


「誰が?」


「誰って……」


 言い終わる前に、扉の向こうから激しい音がした。


「ドン!」


 その場が凍りついた。


 真由が勢いよく立ち上がる。顔色は真っ白だった。


「莉奈? 莉奈、中にいるの?」


 彼女が駆け寄ろうとした瞬間、俺は腕を伸ばして止めた。


「触らないでください」


 真由の目が潤む。


「高瀬さん!」


 俺は周囲を見渡した。


「ここは電気設備室です。今、中から異常な音がしました。設備の問題かもしれません。防災センターと警備主任を呼びましょう」


 俺は近くにいた男性社員へ視線を向けた。


「すみません。防災センターへ行って、三階の電気設備室から異音がした、扉の前に人が集まっている、と伝えてください。すぐ来てもらうように」


 男は酔いが覚めたようにうなずき、エレベーターのほうへ走っていった。


 赤い文字が流れる。


【勝手に開ければ夫婦の揉め事で終わる】


【防災センターに開けさせれば、ビルの安全管理の問題になる】


【証人も記録も管理会社もそろった】


 俺は人垣の後ろに立ち、あの扉を見つめた。


 莉奈。


 黒川。


 舞台の幕が上がる。



 2



 数分後、防災センターの警備主任がやって来た。田島という五十代の男で、紺色の制服を着て、鍵と工具箱を手にしていた。


 廊下に並んだテーブル、飲み物、そして人だかりを見た瞬間、田島さんは眉をひそめた。ここは本来、消防通路だ。そこを祝賀会で半分ふさいでいるのだから、機嫌が悪くなるのも当然だった。


「ここは消防通路ですよ。こんなところで飲食なんて、何を考えているんですか」


 俺はすぐに前へ出た。


「申し訳ありません、田島さん。妻の祝いで集まっていたのですが、すぐ片づけます。それより、この電気設備室からさっき大きな音がしました。中に人がいるのか、設備の異常なのか分かりません」


 田島さんの表情が変わった。


「人が?」


「断言はできません」


 俺は扉の前のコピー機を指した。


「さっき机を動かしたとき、これを押してしまったようで、扉をふさいでいたかもしれません。勝手に開けるのは危険だと思いまして」


 男性社員たちが前に出て、コピー機をどかした。田島さんは扉に耳を近づけ、軽く叩いた。


「中に誰かいますか」


 返事はなかった。


 彼はもう一度、扉を叩く。


「防災センターです。開けますよ」


 中は死んだように静かだった。


 田島さんは鍵束から一本を選び、鍵穴に差し込んだ。


「カチリ」


 鍵が開いた。


 その場にいた全員が息をのむ。田島さんがドアノブを握り、力を込めて引いた。


 むっとした熱気が、一気に流れ出した。


 汗と酒と、長く閉ざされた空気のにおいが混じっている。最前列にいた数人が思わず後ずさった。


 そして、中の光景が見えた。


 狭い電気設備室の中で、黒川雅彦と莉奈がケーブルラックのそばに座り込んでいた。二人とも服が乱れ、顔色は真っ白で、限界まで追い詰められていたことは一目で分かった。


 黒川は汗だくで、シャツのボタンが大きく外れ、スラックスはひどくしわになっていた。莉奈のスーツのスカートはずれ、髪が顔に貼りつき、胸が大きく上下している。


 彼女は扉の外にいる人だかりを見て、目を見開いた。


 廊下は、最初の数秒だけ完全に静まり返った。


 やがて、誰かが低く吐き捨てる。


「何だよ、これ……」


 その一言が合図になった。


 女性社員たちが顔をそむけ、男性社員たちはその場に立ち尽くす。真由は口元を押さえ、莉奈を見つめたまま、目から色を失っていった。


 田島さんも数秒固まったが、すぐに無線を取った。


「三階電気設備室で、二名が体調不良。総務と救急対応をお願いします。管理会社の責任者にも連絡を」


 俺は人垣の後ろでスマホを取り出した。


 近づきはしなかった。


 不必要な部分を撮ることもしなかった。


 撮ったのは、扉の表示、現場の位置、田島さんが開錠した場面、そして二人が発見された状態だけだった。これはネットに流すためのものではない。


 弁護士に渡すための記録だ。


 黒川が少し意識を取り戻したらしい。俺のスマホに気づいた瞬間、顔から血の気が引いた。


「高瀬……お前……」


 莉奈も俺に気づいた。口を開いたが、声にはならなかった。


 俺は彼女を見ていた。


 その顔に、俺は結婚式でキスをしたことがある。何度も夜を越えながら、心から信じていたことがある。


 今、その女は会社の電気設備室に座り込み、隣には上司がいた。


 赤い文字が視界を埋める。


【公開処刑だ】


【社員、防災センター、管理会社。全員が目撃者になった】


【もう清白だとは言えない】


 救急車はすぐに到着した。救急隊員が二人を担架に乗せる。廊下の祝賀会も完全に終わった。


 テーブルの上には、半分残ったアイスがあった。


 俺は花束を手に取った。包装紙には酒のしみがついていた。


 それをゴミ箱へ捨てる。


 そして、病院へ向かった。



 3



 救急外来の前は混乱していた。黒川の妻、美佐子が駆けつけたとき、その声は廊下中に響いた。


「夫は会社に出勤していたんです。どうして救急車で運ばれることになるんですか。会社はいったいどういう管理をしているんですか」


 会社の人事マネージャーは、額に汗を浮かべていた。


「黒川様、詳しい事情は現在確認中です。コンプライアンス室も入り、社内手続きに沿って調査します」


 莉奈の両親も来た。白石恵子は俺を見るなり、手を振り上げて向かってきた。


 俺は身を引いた。彼女の手は空を切り、体がよろめく。


「高瀬直人! 全部あなたのせいよ! どうして会社であんな騒ぎを起こしたの!」


 俺は彼女を見返した。


「莉奈は会社の電気設備室で見つかったんです。俺が連れていったわけではありません」


 恵子の顔がゆがんだ。


「でたらめを言わないで! 莉奈がそんなことをするはずないでしょう。きっとあの上司に無理やり連れ込まれたのよ!」


 黒川の妻が振り向いた。


「どういう意味ですか。責任を全部うちの夫に押しつけるつもりですか」


 二人が言い争いになりかけたところで、救急室の扉が開き、医師が出てきた。


「お二人とも命に別状はありません。軽い脱水と酸欠です。今夜は念のため経過観察になります」


 周囲がほっと息をついた。


 俺は違った。


 病室に入ると、黒川はベッドに上体を預けていた。まだ顔色は悪い。美佐子がその横に立ち、鋭い目で彼を見下ろしている。


「雅彦、今ここで説明して」


 黒川は俺を見た。救いを見つけたような顔をした。


「事故だ。俺たちは予備のヒューズを取りに電気設備室へ行っただけだ。ドアがいつの間にかふさがれていた。高瀬は、俺たちが中にいると知っていて、わざと閉じ込めたんだ」


 莉奈もすぐに体を起こした。目元は赤く、声は小さかった。


「直人、どうしてこんなことをしたの? 私と黒川部長は設備を確認していただけなの。足を滑らせて、二人とも倒れてしまって……目が覚めたら、扉が開かなくなっていたの」


 彼女は両親と真由を見る。


「信じて。私は直人を裏切ってなんかいない」


 真由は病室の入り口に立ったまま、険しい顔をしていた。白石恵子がすぐに俺を指さす。


「ほら、聞いたでしょう! 妻が表彰されたのが悔しくて、こんなことをしたんだわ!」


 美佐子の表情にも迷いが浮かんだ。


 病室の視線が、すべて俺に集まる。


 赤い文字が激しく流れた。


【お決まりの責任転嫁だ】


【設備の事故にして、不倫を仕事にすり替える気だ】


【証拠を出さなければ、逆に責任を押しつけられる】


 俺は莉奈を見た。


 彼女はまだ演じている。


 傷ついたふりをして、無実を装って、俺がかつて信じていた妻の顔をしている。


 俺はスマホを取り出し、届いたばかりのメールを開いた。送信者は会社の人事マネージャーだった。添付されているのは、証拠保全の仮報告だ。


 防災センターは異常報告を受けたあと、三階廊下の防犯カメラ映像と電気設備室の入退室記録を保全していた。


 俺は画面を彼らに向けた。


「これは廊下の防犯カメラ映像です」


 画質は鮮明とは言えない。それでも時刻と人影は十分に分かった。黒川が先に電気設備室の前へ行き、自分の管理権限カードで扉を開ける。莉奈はその後ろについていた。


 入る直前、彼女は廊下を一度振り返った。


 誰もいないことを確認してから、中へ入った。


 扉が閉まる。


 その後、誰も入室していない。


 ヒューズを取りに行ったわけではない。


 足を滑らせたわけでもない。


 大人二人が、自分の意思で入ってはいけない場所へ入っただけだった。


 莉奈の顔から血の気が引いた。黒川の唇も小さく震えている。


 白石恵子だけが食い下がった。


「これだけで何が分かるのよ。仕事で入っただけでしょう!」


 俺は次の記録を開いた。


「こちらが入退室記録です。黒川部長の権限カードで電気設備室に入室。その後、通常の退出記録はありません。防災センターが開錠したときに、二人は中で発見されています」


 美佐子が黒川を見る。


「まだ何か言うことがある?」


 黒川は目をそらした。


 俺はスマホをしまい、淡々と続けた。


「現場写真もあります。公開はしません。無関係の人間にも渡しません。すでに弁護士へ送りました。離婚と慰謝料請求の証拠として保全します」


 莉奈が勢いよく顔を上げた。


「離婚?」


 俺は彼女を見た。


「君があの電気設備室に入った瞬間に、この結婚は終わった」


 彼女の声が尖った。


「直人、そんなのだめだよ。私たち、三年も夫婦だったんだよ!」


「だから三年間、君を信じていた」


 俺は指から結婚指輪を外し、上着のポケットに入れた。


「これから先、君は妻じゃない。離婚協議の相手だ」


 病室が、恐ろしいほど静かになった。


 数秒後、美佐子が黒川の病衣の襟元をつかんだ。


「あなた、有夫の女性と会社の設備室で何をしていたの」


 黒川が慌てて押し返そうとする。


「待ってくれ、説明を――」


 美佐子の手が振り上がり、病室は一気に騒然となった。白石恵子も莉奈のベッドに駆け寄り、怒りと焦りをむき出しにする。


「親の顔まで潰す気なの!」


 莉奈はベッドの上で身を縮めた。


「お母さん……」


 真由が止めに入ろうとしたが、看護師に制止された。すぐに看護師と当直医が駆けつけ、混乱を抑える。


「ここは病室です。お静かにお願いします」


 俺は入口に立ち、そのすべてを見ていた。


 すっきりもしなかった。


 悲しくもなかった。


 ただ、汚いと思った。


 病院を出る直前、黒川が最後の力を振り絞るように俺を呼んだ。


「高瀬……もしこれを外に流したら、東京で仕事ができないようにしてやる」


 俺は振り返った。


「黒川部長。まずは明日、コンプライアンス室に何を聞かれるか心配したほうがいいですよ」


 彼の顔は、完全に青ざめた。



 4



 翌朝、俺はスマホの振動で目を覚ました。着信は数十件、メッセージは百件を超えていた。同僚、友人、莉奈の両親からのものもある。


 俺は返さなかった。


 会社の社内チャットは、その話題で持ちきりだった。


 三階の電気設備室の件は、どこかの社員の口から広まったらしい。露骨な写真はない。実名も完全には出ていない。それでも「営業本部長と既婚の女性部下が、防災センターによって電気設備室から救出された」という言葉だけで、社内は十分に騒然としていた。


 午前十時、会社から社内通知が出た。


【三階電気設備室に関する重大な服務規律違反の調査について】


【営業本部長・黒川雅彦、営業部・白石莉奈は、勤務時間中に会社所在ビルの設備スペースを不適切に使用し、ビル管理会社、防災センターおよび当社の信用を損なった疑いがあります。本日付で調査完了まで自宅待機および出勤停止とし、人事部ならびにコンプライアンス室が事実確認を行います】


 文面は冷たい。


 しかし二人の逃げ場を奪うには十分だった。


 赤い文字が流れる。


【会社の正式な調査が始まった】


【自宅待機のうえ、記録に残る】


【即日解雇より厄介だ。もうごまかせない】


 その日の昼、真由からメッセージが届いた。


「高瀬さん、すみません。昨日、病院で莉奈の言葉を信じそうになりました」


 俺はすぐには返さなかった。


 過去のチャット履歴を開き、莉奈が真由のことを「先輩に取り入ることしかできない」「頭が悪い」と陰で罵っていたスクリーンショットを送った。


 そして、真由をブロックした。


 復讐ではない。


 自分がかばっていた相手がどういう人間だったのか、知るべきだと思っただけだ。


 次に、俺はこの二年間、白石家に使った金の記録を整理した。恵子に頼まれて買った真珠のネックレス。義父の入院時に立て替えた費用。年末年始のギフト券。家計が苦しいと言われて送った生活費。


 一つずつ明細にしていく。


 合計は百八十万円を超えていた。


 俺はその一覧を莉奈に送り、短い一文を添えた。


「三日以内に返済案を出してください。応じない場合、弁護士を通じて内容証明郵便を送付し、離婚協議の中で併せて請求します」


 送信後、彼女もブロックした。


 午後、俺は上司に退職願を送った。


「部長、退職を希望します」


 返事はすぐに来た。


「高瀬、事情は理解している。会社としても君の状況には大変遺憾に思っている。手続きはできるだけ早く進める。君は優秀な企画担当だった。今後の活躍を祈っている」


 俺はスマホを閉じ、窓際に立った。東京の空は淡く、高架を走る電車の音が遠く聞こえる。


 世界が、少しだけ静かになった気がした。


 三日後、会社から二通目の通知が出た。


【調査の結果、黒川雅彦は職務上の権限を利用し、勤務時間中に部下である白石莉奈と不適切な接触を重ね、ビル設備スペースを無断で使用したことが確認されました。これは服務規律および職業倫理に著しく反する行為であり、当社は黒川雅彦を懲戒解雇処分とします】


【白石莉奈についても、就業規則に重大な違反があり、当社の信用を著しく毀損したため、諭旨退職とします。本人が応じない場合、懲戒手続きへ移行します】


 莉奈は受け入れた。


 抵抗する余地などなかった。


 防犯カメラ映像、入退室記録、防災センターの報告書、社員の証言、人事調査の記録。


 すべてがそろっていた。


 どれだけ演じても、証拠には勝てない。



 5



 俺は弁護士に依頼した。


 離婚協議は、最初から温かさのかけらもなかった。


 莉奈が初めて弁護士事務所の会議室に来たとき、彼女は少し痩せていた。化粧はしておらず、目の下には濃い影がある。俺を見た瞬間、反射的に手を伸ばしかけた。


 俺の弁護士が、書類を彼女の前へ差し出す。


「白石さん、まず離婚協議書と慰謝料請求書をご確認ください」


 莉奈の手が止まった。


「直人、二人だけで話せない?」


 俺は机の上の書類を見たまま答えた。


「無理だ」


 彼女の目元が赤くなっていく。


「本当に反省しているの。あの日は黒川部長に言われたの。逆らったら、大口案件を取れなくなるって……」


 俺の弁護士が顔を上げた。


「職場での権限利用や強要の問題があるのであれば、労働局や弁護士へご相談ください。ただし、それは高瀬さんが配偶者の不貞行為を理由に離婚および慰謝料請求を行うことを妨げるものではありません」


 莉奈は何も言えなくなった。


 俺は彼女を見なかった。


 薄い協議書だけを見ていた。


 しばらくして、黒川のもとにも弁護士から書面が届いた。彼の妻である美佐子の動きは、俺より早かった。離婚協議、慰謝料、財産分与、住宅ローンの清算。次から次へと彼にのしかかっていった。


 黒川は、自分が会社の幹部なら何とか押さえ込めると思っていたのだろう。


 だが、すでに会社のコンプライアンス記録に残り、業界にも話は広まっていた。


 広告代理店の世界は狭い。いくつかの取引先は、黒川が関わる案件をすぐに取り消した。


 懲戒解雇されたあと、彼が同じ規模の会社に戻ることはなかった。


 一か月後、俺と莉奈の離婚が成立した。子どもがいなかったため、手続きは思っていたよりも淡々と進んだ。


 彼女は慰謝料を支払い、不当に求めたと判断された一部の援助金についても返還することになった。白石恵子は電話で俺を罵ったらしいが、俺は出なかった。


 弁護士から注意を受けたあと、彼女が直接連絡してくることはなくなった。


 離婚が成立した日、俺は結婚指輪を弁護士に預けた。事務所を出ると、小雨が降っていた。


 傘は差さなかった。


 肩に落ちる雨が、ちょうどよく冷たかった。


 赤い文字が、少しずつ薄くなる。


【きれいに清算した】


【ようやく、この結婚から抜け出した】


【失ったのではない。切り離したんだ】


 俺は灰色の空を見上げた。


 今日から、俺は誰かの夫ではない。


 高瀬直人だ。


 自分のために生きる、高瀬直人だ。



 6



 退職後、俺は二人のその後を耳にした。


 黒川は離婚した。美佐子は相応の慰謝料を受け取ったらしい。


 彼ら名義のマンションにはまだ住宅ローンが残っており、財産分与はかなり揉めたという。黒川は職を失い、信用も失った。


 その後、彼は地方の小さな営業会社に入った。役職は低く、給料も少なく、元同僚や取引先の冷たい視線にさらされることになった。


 彼が何より大事にしていた体面は、あの電気設備室の扉に挟まれて砕けた。


 莉奈のほうは、さらに厳しかった。


 彼女は「電気設備室の白石」というあだ名を背負い、履歴書を送ってもほとんど返事が来なかった。


 東京の営業職は、信用と人脈を重んじる。あの噂だけで、人事担当が面接前に彼女を落とすには十分だった。


 彼女は俺たちが住んでいたマンションを出た。


 のちに聞いた話では、埼玉郊外の古い木造アパートに移ったらしい。六畳ほどのワンルーム。壁は薄く、冬はすきま風が入り、洗濯機は一階の共用スペースに置かれている。


 コンビニの夜勤と短期のアルバイトで、どうにか生活していた。


 以前は、俺が買って帰ったスーパーの弁当に文句を言っていた。


 今では夜十時を過ぎてから、半額シールの貼られた弁当を待つようになったという。


 赤い文字が、ぽつぽつと流れた。


【近道のつもりが、崖だった】


【上司にすがれば上へ行けると思って、普通の生活すら失った】


【営業トップの肩書きも、今ではただの笑い話だ】


 それから一か月ほどして、知らない番号から電話がかかってきた。向こうはしばらく黙っていた。


 やがて、莉奈の声が聞こえた。


「直人……私」


 俺は切らなかった。彼女は息を吸い、ようやく声を絞り出した。


「私、もう何もないの。仕事も見つからないし、家賃も払えなくなりそうで……黒川は全部私のせいにして、一円も出してくれない」


 俺は新しく借りた小さな事務所に立ち、窓の外の高架を見ていた。


「それで?」


「やり直せないかな」


 俺は目を閉じた。


「莉奈」


 彼女の声が少し早くなる。


「本当に反省してる。あのときは、とにかく結果を出したかったの。直人に、できない女だと思われたくなかった」


 俺は遮らなかった。


 彼女が言い終えるのを待ってから、静かに言った。


「君が欲しいのは許しじゃない。逃げ道だ」


 電話の向こうが黙った。


 俺は続ける。


「そんなもの、俺のところにはない」


 そして通話を切り、番号をブロックした。


 さらにしばらくして、元同僚から二人の最後の話を聞いた。行き詰まった莉奈は、黒川に金を求めて会いに行ったらしい。


 二人は安い居酒屋で会った。すぐに口論になった。


 黒川は、自分の人生が崩れた原因をすべて莉奈に押しつけていた。争いの中で、彼はテーブルの酒瓶を手に取り、莉奈に振り下ろした。


 莉奈はその場に倒れ、店員が呼んだ救急車で病院へ運ばれた。命は助かったが、頭部に重い後遺症が残り、日常生活にも支障が出た。


 黒川は起訴され、実刑判決を受けた。判決の日、彼は法廷でずっと下を向いていたという。


 誰も彼のために口を開かなかった。


 莉奈の両親は、彼女の存在を恥だと言い、長期の介護費用も負担できなかった。最終的に、彼女は地方の精神科病棟を併設した療養型病院に入れられた。


 その話を聞いたとき、俺は新しい企画書を書いていた。


 怒りはなかった。


 痛快さもなかった。


 同情もなかった。


 二人はもう、俺の人生から消えていた。


 靴底についた泥のようなものだ。


 拭き取って、前へ進むだけだった。


 赤い文字が視界にちらついた。


 少しずつ薄くなっていく。


 そして、完全に消えた。


 騒がしかった世界が、ようやく静かになった。



 7



 一年後、俺は志の合う友人二人と、小さな広告会社を立ち上げた。


 最初は苦しかった。固定の顧客もなく、安定した売上もなく、大企業のような立派な会議室もない。


 目黒に借りた小さな事務所には、十数台の机がぎゅうぎゅうに並んでいた。窓の外には電車の線路が見える。


 一番厳しいとき、会社の口座には二十数万円しか残っていなかった。翌月の家賃、外注デザイン費、税理士への支払いが一気に迫っていた。


 それでも、俺は諦めなかった。


 あの結婚が残したものは、傷だけではない。


 冷静さ。


 決断力。


 関わるべきではない人間を人生から排除し、もう一度秩序を作り直す力。


 会社は少しずつ軌道に乗った。小さな飲食店のチラシ制作から、地方ブランドのSNS運用、全国チェーンの広告企画へと仕事が広がっていく。


 そして、初めて一千万円規模の案件を獲得した。


 その夜、チームで事務所の中に祝賀会を開いた。寿司、唐揚げ、シャンパン、ノンアルコール飲料が会議机に並ぶ。


 同じ祝賀会でも、あの日とは違った。


 計算も悪臭も、扉の向こうに隠れている人間もいない。


 そこにいる全員の目には、光があった。


 仕事のため。


 生活のため。


 そして、自分自身のための光だった。


 会が終わり、俺は外の空気を吸いに下りた。


 会社の前に、人が立っていた。


 三浦真由だった。


 一年前よりずっと疲れて見える。ベージュのコートを着て、バッグの持ち手を握りしめていた。


「高瀬さん」


 俺は足を止めた。


「久しぶりですね」


 彼女はぎこちなく笑った。


「会社、うまくいっているって聞きました。おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 通りを風が抜けていく。


 真由はしばらく地面を見つめ、それから低い声で言った。


「この前、あの療養病院に行きました」


 俺は答えなかった。


 彼女が顔を上げる。


「莉奈に会いました。状態はよくありませんでした。人を見ると笑って、ときどきあなたの名前を呼ぶんです」


 俺は彼女を見ていた。


 真由の声が、さらに小さくなる。


「私にこんなことを言う資格がないのは分かっています。でも、あのとき……やりすぎだったんじゃないですか」


 俺は少し笑った。


「やりすぎ?」


 真由の顔がこわばる。


 俺は一歩だけ前に出て、彼女をまっすぐ見た。


「莉奈が営業成績のために黒川のいる電気設備室へ入ったとき、俺にはやりすぎじゃなかったのか」


「彼女と母親が俺を都合のいい財布みたいに扱い、病院で責任まで押しつけようとしたとき、それはやりすぎじゃなかったのか」


「俺が全部を見ていると分かっていながら、三年の結婚生活を盾にして許しを迫ったとき、それはやりすぎじゃなかったのか」


 真由は何も言えなかった。


 俺は彼女の目を見る。


「三浦さん、安い同情はしまっておいてください。あなたは俺じゃない。俺の代わりに誰かを許す資格なんてない」


 彼女の顔が赤くなり、そして青ざめた。


 俺はもう見なかった。


 背を向けて歩き出す。


 そのとき、スマホが鳴った。新しい取引先の担当者からだった。


「高瀬社長、企画書を拝見しました。非常に面白い内容でした。これからのご一緒を楽しみにしています」


 俺は前を向いたまま答えた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 初夏の夜風が吹き抜け、東京の街灯が一つずつ灯っていく。


 人混みの中を歩く足取りは軽かった。


 俺はもう、誰かの脇役ではない。


 誰かの夫でもない。


 俺は高瀬直人だ。


 これから先、俺の人生は俺のために使う。


 俺の道は、ここから始まる。





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