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第1章 深夜のルーティン
これは僕が実際に体験した話だ。
信じるか信じないかは任せる。ただ、これを読んだ人には一つだけお願いがある。
午前2時44分には、コンビニに行かないでほしい。
特に——練馬区の、あの店には。
僕は今年の春に高校を卒業して、そのまま夜勤のバイトを始めた。
場所は練馬区の某コンビニ。チェーン名は一応伏せる。特定されるとたぶん、いろいろまずいから。
住宅街の外れにある店で、幹線道路から一本入った通り沿いに建っている。
周りは古い一軒家とか、築年数のわかんないアパートとか。
街灯が少なくて、駐車場の端っこなんか、夜になると完全に闇に溶ける。
なんでそんな店を選んだかって言うと、理由は単純だ。
家から近かったのと、深夜帯は時給がよかったから。
僕には家族がいない。親戚もいない。
別に悲劇ぶるつもりはないけど、高校を出たら誰も養ってくれる人はいないわけで、自分で稼がなきゃ生きていけなかった。
だから深夜のコンビニはちょうどよかった。
夜の22時に入って、朝の6時に上がる。
それだけの生活。
深夜のコンビニって、昼間とはまるで別の場所になる。
蛍光灯の白い光だけが煌々と灯っていて、外は真っ暗で、自動ドアの向こうに何があるのか見えない。
BGMは一応流れてるけど、客がいないと静かすぎて、冷蔵庫のブーンっていう低い音だけがずっと鳴ってる。
慣れると、それが逆に落ち着くようになった。
僕にとっては、あの蛍光灯の下だけが世界みたいなものだった。
深夜に来る客は大体決まっている。
終電を逃したサラリーマン。タクシーの運転手さん。近所に住んでるっぽい、いつもジャージのおじさん。
たまに酔っ払いが来て面倒なこともあるけど、基本的には静かなもんだ。
品出しして、床をモップで拭いて、レジに戻って、ぼうっと立っている。
その繰り返し。
正直、退屈だった。
でも、退屈なくらいがちょうどいいと思ってた。
異変に気づいたのは、バイトを始めて二ヶ月くらい経った頃だった。
六月の終わり。梅雨の真っ最中で、深夜になると雨の音だけがやけに大きく聞こえる時期。
その日も特に変わったことのない夜だった。
品出しを終えて、レジの後ろで突っ立っていた。時計を見たら、午前2時を過ぎたところだった。
このくらいの時間になると、客はほとんど来ない。
来るとしても、一時間に一人いるかいないか。
だから僕は、なんとなくカウンターの下に置いてある雑誌をぱらぱらめくっていた。
その時だった。
ピンポーン。
自動ドアが開いた音がした。
顔を上げると、一人の男が入ってきた。
三十代くらいだろうか。黒いジャケットを着ていて、髪は短い。顔は——うまく言えないけど、特徴がなかった。
見た瞬間の印象が、何も残らないタイプの顔。
男はまっすぐ飲料のコーナーに行って、缶コーヒーのブラックを一本取った。
それからおにぎりの棚に移動して、梅を一つ。
レジに来て、カウンターに商品を置いた。
「二百八十円です」
僕がそう言うと、男は無言で小銭を出した。
ぴったりだった。一円の過不足もなく。
袋は要らないらしい。商品をそのまま手に取って、男は店を出た。
それだけ。
何も変わったことはない、ただの深夜の客。
そのはずだった。
でもその時、ふと違和感を覚えた。
——あれ、この人、昨日も来なかったか?
同じ時間に。同じ格好で。同じものを買って。
いや、気のせいかもしれない。深夜にコーヒーとおにぎりを買う客なんて珍しくもない。
僕はそう思って、それ以上考えなかった。
でも、その翌日も。
そのまた翌日も。
男は来た。
同じ時間に。
時計をちらっと見る癖がついた。
午前2時44分。
毎晩、必ず2時44分ちょうどに、自動ドアが開く。
そしてブラックコーヒーと、おにぎりの梅。
小銭ぴったり。無言。表情なし。
最初の一週間は、たまたまだと思っていた。
近所に住んでいる人で、生活のリズムが決まっているだけだろう、と。
でも——二週間を過ぎた頃から、僕の中で何かが引っかかり始めた。
毎晩同じ時間というのは、まあいい。
毎晩同じ商品というのも、好みが決まっているならわかる。
でも。
毎晩、小銭がぴったりなのは、なぜだ?
二百八十円。
一円玉と五円玉と十円玉を組み合わせて、毎回ぴったり出してくる。
お釣りが発生したことが、一度もない。
しかも——これは考えすぎかもしれないけど。
男の服が、毎晩まったく同じなのだ。
黒いジャケット。同じジャケットじゃなくて、「まったく同じ状態」のジャケット。
シワの位置まで同じに見えた。
ある夜、僕はバイトの同僚に聞いてみた。
夕方のシフトから引き継ぎで残っていた、大学生の先輩だ。
「あの——2時過ぎに来る客って、知ってます? 黒いジャケットの、三十くらいの男の人」
先輩はきょとんとした顔で言った。
「いや、知らないけど。つーか俺、その時間にはもう上がってるし」
「ですよね。……いや、なんでもないです」
「なんだよ気になるな。変な客?」
「いえ、ただ毎晩同じ時間に来るなって思っただけで」
「あー、常連ってやつじゃね? 深夜はそういうの多いって聞くよ」
先輩はそう言って笑った。
たぶん、そうなんだろう。
常連。ただの常連だ。
僕はそう自分に言い聞かせた。
でも、その夜もやっぱり、2時44分に自動ドアは開いた。
男が入ってきた。
いつもと同じ動線。同じ商品。同じ金額。
レジを打ちながら、僕はなるべく自然に男の顔を見た。
——表情が、ない。
笑っていないとか、怒っていないとか、そういうことじゃない。
なんというか、顔の筋肉が動いていなかった。
まるで、人の顔の形をした何かが、そこにあるだけみたいに。
男は商品を持って店を出た。
自動ドアが閉まる。
僕は時計を見た。
2時45分。
滞在時間、きっかり一分。
その瞬間、レジの上の蛍光灯がチカッと一回だけ瞬いた。
僕は天井を見上げた。
蛍光灯はもう普通に点いている。
ただの接触不良だろう。
そう思った。
そう思うことにした。
でも——今になって振り返ると、あの瞬間から何かが始まっていたのだと思う。
毎晩、2時44分に自動ドアが開く。
それだけの話が、「それだけの話」じゃなくなるまで、あとほんの少しだった。
第2章 午前2時44分
それから僕は、意識してその客を観察するようになった。
観察、というと大げさかもしれない。
ただ、2時44分が近づくとそわそわして、時計をちらちら見てしまう。それだけのことだ。
でも「それだけのこと」が、毎晩続くと妙に神経を削る。
改めて書いておく。その客の特徴を。
年齢は三十代くらい。たぶん。正直、見るたびに「三十代くらいかな」と思い直している感じで、確信が持てない。
身長は170センチあるかないか。中肉中背。
黒いジャケット。中に白っぽいシャツ。暗い色のパンツ。靴は——覚えていない。何度見ても、靴のことだけ記憶に残らなかった。
顔は、さっきも書いたけど、特徴がない。
これは悪口じゃなくて、本当に「特徴がない」のだ。
目鼻立ちがどうとか、輪郭がどうとか、あとから思い出そうとしても何も浮かんでこない。
見ている瞬間は確かに「人の顔」なのに、目を離した途端に霧みたいに消える。
そういう顔だった。
ある夜のこと。
2時44分。自動ドアが開いた。
男が入ってくる。
飲料のコーナー。缶コーヒーのブラック。おにぎりの棚。梅。
レジに来る。カウンターに商品を置く。
「二百八十円です」
小銭が出てくる。ぴったり。
ここまではいつもと同じ。
でもその夜、僕は一つだけ違うことをした。
「袋、お付けしますか」
聞いてみたのだ。
普段は聞かない。最初の数回で、この客は袋を要らないタイプだとわかっていたから。
でも、その夜はなぜか聞いてみたくなった。反応が見たかったのかもしれない。
男は——何も言わなかった。
僕の声が聞こえていないみたいだった。
視線はカウンターの上の商品に向いていて、僕の方を見ない。
数秒の沈黙のあと、男はいつもと同じように商品を手に取って、店を出た。
自動ドアが閉まる。
僕は立ったまま、しばらく動けなかった。
聞こえていなかった?
いや、距離は一メートルもなかった。普通の声で言った。聞こえないはずがない。
じゃあ、無視?
それとも——そもそも、僕の「声」が届く相手じゃなかった?
考えすぎだ。
僕はレジの中で頭を振った。考えすぎだ。疲れてるんだ。
次の日。
今度は別のことを試した。
男がレジに来た時、わざと金額を変えて言ってみた。
「二百九十円です」
本当は二百八十円だ。十円多く言った。
男はいつもと同じように小銭を出した。
カウンターに置かれた硬貨を数えた。
——二百八十円。
正しい金額ぴったり。
僕が言った金額じゃない。本来の金額だった。
つまり、この男は僕の声を聞いて金を出しているわけじゃない。
最初から「二百八十円を出す」という行為だけが決まっているかのように、毎晩同じ硬貨を並べている。
背筋がうすら寒くなった。
もう一つ、気づいたことがある。
男が店に来ている間、店内のBGMが聞こえなくなる。
正確に言うと、音量が下がるとか途切れるとかじゃない。
「最初から鳴っていなかったような気がしてくる」のだ。
男が入ってきて、レジを済ませて、出て行く。その一分間だけ、世界が無音になる。
冷蔵庫のブーンという音も、エアコンの風の音も、全部消える。
自動ドアの開閉音だけが、やけにはっきり聞こえる。
男が出て行ったあと、ふっと音が戻ってくる。
BGMの有線が途中から流れ出す。冷蔵庫が低く唸る。
まるで、一分間だけ世界が止まっていたみたいに。
さすがに気持ち悪くなって、僕はある日、防犯カメラの映像を確認してみることにした。
うちの店の防犯カメラはレジの裏にモニターがあって、録画は事務所のパソコンで見られる。
バイトが勝手に見ていいものかどうか微妙だったけど、深夜は店長もいないし、僕一人のシフトだ。誰にも咎められることはない。
事務所に入って、パソコンを立ち上げた。
録画データは日付と時間で検索できるようになっている。
昨夜の2時44分。
映像を再生した。
画面にはレジのカウンターと、入り口の自動ドアが映っている。
2時43分。僕がレジの中に立っている。
2時44分——。
映像にノイズが走った。
画面全体がざらついて、砂嵐みたいになる。
一瞬じゃない。たぶん三十秒くらい。
ノイズが収まった時、時刻は2時45分になっていた。
僕はレジに立っている。いつもと同じ姿勢で。
でも、客の姿は映っていなかった。
その一分間だけが、きれいに潰れていた。
念のため、他の日の映像も見た。
一昨日。その前。そのまた前。
全部同じだった。
2時44分から2時45分までの一分間だけ、映像にノイズが入って何も映らない。
毎晩。例外なく。
僕はパソコンの前で、しばらく固まっていた。
機械の故障だろうか。
毎晩同じ時間に一分間だけ?
そんな都合のいい故障があるか?
じゃあ、あの客は何なのだ。
僕にはレジ越しに見えている。触れられそうなくらいの距離にいる。小銭を受け取っている。
でもカメラには映らない。
僕は事務所を出て、レジに戻った。
時計を見た。
午前3時12分。
店内にはBGMが流れている。蛍光灯が白く光っている。冷蔵庫が唸っている。
何もかもがいつも通りだった。
でも、カウンターの上に、さっきの客が出した二百八十円がある。
硬貨は確かにそこにあった。
触ると、冷たかった。
普通の硬貨よりも、ずっと冷たかった。
その夜、帰り道に僕は初めて店の裏手を回ってみた。
コンビニの裏側は小さな駐車場になっていて、その先にブロック塀がある。
塀の向こうに何があるかなんて、今まで気にしたこともなかった。
でもその夜、ふと足が向いた。
駐車場の端まで歩いて、塀の隙間から向こう側を覗いた。
墓地だった。
古い、小さな共同墓地。
墓石が十基くらい、暗闇の中に並んでいた。
手入れされている感じはなかった。雑草が伸びて、いくつかの墓石は傾いている。
こんなところに墓地があったのか。
二ヶ月も働いていて、一度も気づかなかった。
いや——気づかないようにしていたのかもしれない。
僕は塀から離れて、足早にアパートへ帰った。
その夜は、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、あの男の顔が浮かぶ。
特徴のない顔。表情のない顔。
それが、じっと僕を見ている。
——いや、今まで一度もこっちを見なかったはずだ。
なのに、まぶたの裏に浮かぶ男の顔は、真っ直ぐ僕を見ていた。
明け方、ようやくうとうとした時、短い夢を見た。
内容は覚えていない。
ただ一つだけ、起きた時に残っていた感覚がある。
夢の中で、僕は自動ドアの向こう側に立っていた。
外から、コンビニの中を見ていた。
レジの中には——誰かが立っていた。
第3章 数えてしまった
数え始めたのは、カメラの映像を確認した翌日からだった。
レジの下に小さなメモ帳を置いて、男が来るたびに正の字を書くことにした。
別に大した理由はない。ただ、記録しておかないと自分の感覚が信じられなくなりそうだったから。
毎晩同じ時間に来ている——本当にそうなのか? たまに来ない日もあるんじゃないか? 僕が思い込んでいるだけなんじゃないか?
そういう疑念を潰すために、メモを取った。
結果は——二十七日連続。
僕がカウントを始めてからの数字じゃない。記憶を遡って、「あの客に初めて気づいた日」から数えた数字だ。
六月の終わりに気づいて、今は七月の下旬。
二十七日。一日も休まず、午前2時44分にあの男は来ていた。
二十七日連続で深夜のコンビニに来る客。
冷静に考えれば、それだけなら異常とは言い切れない。
毎日同じ時間にコンビニに寄る人なんて、いくらでもいるだろう。
でも、防犯カメラに映らない客が二十七日連続で来ているとなると、話は違う。
僕は考えないようにしていた。
考えると怖いから。
メモ帳に正の字を書いて、それ以上のことはしない。そう決めていた。
でも、二十八日目の夜に、それは壊れた。
その夜も、2時44分に自動ドアが開いた。
男が入ってくる。いつもの動線。飲料コーナー。おにぎりの棚。レジ。
僕は淡々とバーコードを読み取った。
「二百八十円です」
小銭が置かれる。ぴったり。
男が商品を手に取る。
ここまでは、いつもと同じ。
男が身体の向きを変えて、出口に向かおうとした。
その瞬間だった。
男が——止まった。
出口に向かいかけた姿勢のまま、ぴたりと動きを止めた。
一秒。二秒。三秒。
僕は息を止めていた。
男がゆっくりと首を回した。
こっちを向いた。
目が合った。
今まで一度も、この客は僕を見なかった。
僕の声も聞こえていないようだったし、僕の存在を認識しているのかすら怪しかった。
でも、その夜、男は確かに僕を見た。
僕の目を、真っ直ぐに。
男の目は黒かった。
瞳の色が黒い、という意味じゃない。
白目の部分がなかった。
目の全体が、均一な黒だった。
奥行きのない、光を反射しない黒。穴。そう、穴が二つ開いているみたいだった。
見つめられている、というよりも——覗かれている。
僕の中を、何かが覗いている。
金縛りにあったみたいに身体が動かなかった。声も出ない。ただ立ったまま、その黒い目に見つめられていた。
何秒くらいそうしていたのか、わからない。
体感では一分くらいだった気がするけど、実際にはもっと短かったのかもしれない。
ぶつん。
店内の蛍光灯が、全部消えた。
全部。一斉に。
真っ暗になった。
レジのモニターの微かな光だけが、カウンターの周りをぼんやり照らしている。
暗闇の中に、男のシルエットがあった。
動かない。
僕も動けない。
五秒、いや、十秒か。
蛍光灯がパッと点いた。全部同時に。
男はもういなかった。
自動ドアは閉まっている。開閉音は聞こえなかった。
いつ出て行った?
暗闇の、あの数秒の間に?
音もなく?
僕はカウンターに両手をついた。手が震えていた。
心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
レジの下のメモ帳を引き出して、震える手で正の字を書き足した。
二十八日目。
ペンを置いた時、指先が異様に冷たいことに気づいた。
さっき、小銭を受け取った方の手だ。
その夜、帰宅してからも手の冷たさは取れなかった。
右手だけが氷みたいに冷えている。左手は普通なのに。
湯を沸かして、マグカップを両手で包んで温めた。左手は熱く感じるのに、右手はぬるいとしか思えない。
気持ち悪かった。
でも、それ以上に気持ち悪かったのは、目を閉じると男の顔が浮かぶことだった。
特徴のない顔。
なのに、あの目だけは鮮明に思い出せる。
黒くて、深くて、底のない目。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
明け方近くにようやく意識が落ちて、夢を見た。
夢の内容は、ほとんど覚えていない。
断片だけが残っている。
暗い場所にいた。
狭くて、冷たくて、土の匂いがした。
誰かが泣いていた。
いや——泣いていたのは僕だったかもしれない。
周りは土だった。上も下も横も全部。
何かを探していた気がする。出口を。光を。
でも、どこにもなかった。
目が覚めた時、枕が濡れていた。
泣いていたらしい。
時計を見ると、午後二時を過ぎていた。いつもより長く眠ってしまっていた。
身体が重い。頭がぼんやりする。
右手はまだ冷たかった。
その日の夜、バイトに行く前にふと思い立って、昨夜の小銭を確認してみることにした。
レジの中の硬貨は毎日の精算で混ざってしまうから、普通は特定できない。
でも僕は昨夜、あの客の小銭を受け取った時に妙に冷たかったのが気になって、一つだけ別にしておいたのだ。
ジーンズのポケットの中。百円玉を一枚。
取り出して、手のひらに乗せた。
まだ冷たい。丸一日経っているのに。ポケットの中にあったのに。
体温が移らないのはおかしい。
硬貨を蛍光灯の下で見た。
最初は普通に見えた。表も裏も、よくある百円玉だ。
でも、ふちのギザギザに沿って目を動かしていって——製造年に目が止まった。
令和十九年。
僕は何度も見直した。
令和十九年。
今年は令和八年だ。
十九年なんて、まだ来ていない。
硬貨の摩耗具合からして、新品じゃない。使い込まれた百円玉だ。
まだ来ていない年に製造されて、使い込まれた硬貨。
僕はその百円玉を、そっとテーブルの上に置いた。
触っていたくなかった。
硬貨はテーブルの上で、蛍光灯の光を鈍く反射していた。
冷たい光だった。
あの客は、どこから来ているのだ。
「いつ」から来ているのだ。
僕はその夜、バイトに向かう足取りが重かった。
行きたくなかった。
でも、行かないわけにはいかない。
僕にはここしかないのだ。
この仕事を失ったら、家賃も払えない。食べていけない。
天涯孤独の十八歳には、怖いからって逃げ出す余裕なんてなかった。
アパートを出て、夜道を歩く。
街灯の少ない住宅街。自分の足音だけが響く。
コンビニの明かりが見えてきた。
蛍光灯の白い光が、闇の中に浮かんでいる。
あの光の下に、今夜も立つ。
そして、2時44分を待つ。
メモ帳を開いた。正の字の列を見た。
二十八。
今夜で二十九になる。
僕は知りたくなかった。
でも、数えることをやめられなかった。
一度数え始めたら、もう止められないのだ。
それが怖かった。
あの客のことよりも、数えることをやめられない自分自身が、何よりも怖かった。
第4章 調べ始める
バイトの休みの日に、僕はスマホでネットを漁り始めた。
アパートの狭いワンルームで、布団の上に座って、ひたすら検索をかけた。
最初は「コンビニ 深夜 幽霊」とか「コンビニ 心霊 体験談」みたいな、ざっくりしたキーワードで。
当然、似たような話はいくらでも出てくる。
深夜のコンビニで変な客が来た、みたいな話はネットの怪談では定番中の定番だ。
でも、どれも僕が体験していることとは微妙に違う。
大体の話は「一回きりの遭遇」で終わっている。
毎晩同じ時間に、同じ客が、同じ行動を繰り返す——そういう話は見つからなかった。
検索のキーワードを変えた。
「練馬区」「深夜」「2時44分」。
ヒットしたのは、天気予報と地域のイベント情報だけだった。
「練馬区」「コンビニ」「心霊」。
いくつか古い掲示板のスレッドが引っかかった。でも中身は、どこにでもある都市伝説の焼き直しばかりだった。
「練馬区」「墓地」「コンビニ」。
ここで、一つだけ妙なスレッドを見つけた。
それは、もう十年以上前に立てられた掲示板のスレッドだった。
オカルト系の匿名掲示板。洒落怖をまとめたり、体験談を投稿したりするタイプの場所。
スレッドのタイトルは、こうだった。
「練馬の某所について知ってる人いる?」
スレ主の投稿はシンプルだった。
「練馬区のとある場所に最近引っ越したんだけど、近所の人に『あそこには夜近づくな』って言われた。あそこって何を指してるのか誰か知らない?」
レスは少なかった。全部で十五件くらい。
最初の数件は「もっと詳しく書け」「場所を特定できる情報がないとわからん」みたいな、ありがちな反応。
でも、五件目のレスで空気が変わった。
五件目のレスには、こう書いてあった。
「それが墓地の近くなら、マジでやめとけ。夜は外に出るな。特に44分には絶対に外にいるな」
「44分」。
僕の背中に冷たいものが走った。
スレ主が反応している。
「44分ってどういう意味? なんで44分なの?」
五件目の投稿者は、こう返していた。
「詳しくは書けない。書いたらまずい。ただ、あの辺りは昔から『通り道』って呼ばれてる場所がある。夜中のある時間に、そこを何かが通る。それだけ」
「通り道」。
僕はスマホを持つ手に力が入った。
スレ主が食い下がっている。
「通り道って何の通り道? 幽霊? 何かが通るって、具体的にはどういうこと?」
五件目の投稿者の最後のレスは、短かった。
「あの場所には近づくな。それだけ守れ。いいな」
それ以降、五件目の投稿者は書き込みをしていなかった。
スレッドはその後も少しだけ続いていた。
八件目のレスに、別の人が書き込んでいた。
「俺もあの辺に住んでたことがある。もう引っ越したけど。夜中に変なもん見た。詳しくは言えない。あの場所の上に今何が建ってるか知らないけど、関わるな」
「あの場所の上に今何が建ってるか知らないけど」。
十年以上前のスレッドだ。
当時はまだコンビニが建つ前だったのかもしれない。
じゃあ、あの場所には以前、何があった?
僕はスレッドを最後まで読んだ。
十二件目のレスに、こんな書き込みがあった。
「昔あそこに古い家があった。戦前からあったらしい。取り壊されてしばらく空き地だった。その空き地がずっと放置されてたのは、誰も買い手がつかなかったから。理由は——まあ、察しろ」
それ以降は雑談めいたレスが数件あって、スレッドは落ちていた。
僕は投稿者たちのアカウントを確認してみた。
匿名掲示板だからアカウントというほどのものはないけど、IDは表示されている。
五件目のレス。八件目のレス。十二件目のレス。
核心に触れた投稿をしている三人。
そのIDを掲示板内で検索してみた。
五件目——該当するIDの投稿は、このスレッドのレス以外に存在しなかった。
八件目——同じく、このスレッドだけ。
十二件目——これも同じ。
三人とも、このスレッドにだけ書き込みをして、それ以降は一度も投稿していない。
それ自体は珍しいことじゃないかもしれない。捨てIDで書き込む人なんていくらでもいる。
でも。
僕はもう一つ気になることに気づいた。
三つの投稿の日時を確認した。
五件目。2013年7月18日、午前2時44分。
八件目。2013年7月18日、午前2時44分。
十二件目。2013年7月18日、午前2時44分。
全員が、同じ日の同じ時刻に投稿していた。
午前2時44分に。
三人の別々の人間が、同じ日の同じ分に書き込む確率はどのくらいだろう。
いや、そもそも——これは本当に三人の別々の人間なのか?
それとも。
スマホの画面を見つめたまま、僕はしばらく動けなかった。
その日の夜、僕はバイトに行く前に、少しだけ早く店に着いた。
店長がまだ事務所にいる時間帯だ。
店長は五十代の男の人で、穏やかだけどあまり多くを語らないタイプだった。僕が黙々と仕事をするのを気に入っているらしく、シフトの融通はきかせてくれていた。
「店長、ちょっと聞いてもいいですか」
事務所のドアを開けて、僕はできるだけ軽い調子で切り出した。
「ん? なに?」
「この店って、建つ前は何があったか知ってます?」
店長の手が止まった。
パソコンのキーボードを打っていた手が、一瞬だけ止まって、すぐにまた動き出した。
「さあ、知らないなあ。なんで?」
「いえ、ちょっと気になっただけです。裏に墓地があるじゃないですか。昔からあるのかなって」
店長は画面を見たまま答えた。
「墓地? ああ、あるね。まあ練馬は昔は畑ばっかりだったから、ああいう古い墓地はあちこちにあるよ」
声のトーンは平坦だった。でも、僕を見なかった。
普段はちゃんと目を見て話す人なのに。
「深夜って、変な客が来たりしたことないですか。前の人とかから聞いたことないかなって」
「変な客? 深夜はまあ、色んな人が来るからね。酔っ払いとかは気をつけなよ」
話を逸らされた。
僕の質問には答えず、一般的な注意に置き換えられた。
「あ、はい。気をつけます」
それ以上は聞けなかった。
店長の態度には、「これ以上聞くな」という壁があった。怒っているとか不機嫌とかじゃない。もっと静かな、でも確実な拒絶。
事務所を出る時、僕はふと振り返った。
店長はキーボードを打つ手を止めて、じっとパソコンの画面を見つめていた。
でも、画面にはスクリーンセーバーが映っていた。
何も操作していなかった。
僕が質問している間、ずっとキーボードを打つふりをしていただけだったのだ。
その夜のシフト中、僕はもう一度あのスレッドを開いた。
レジに客がいない時間帯に、スマホでこっそり。
もう一度、あの三つのレスを読み返した。
「通り道」。
「44分には絶対に外にいるな」。
「あの場所の上に今何が建ってるか知らないけど」。
そして、三つの投稿がすべて同じ日の同じ時刻に書き込まれているという事実。
僕はふと思いついて、スレ主のIDも検索してみた。
スレ主は「練馬の某所について知ってる人いる?」というスレッドを立てた後、二、三回レスをしている。
最後のレスは、五件目の投稿者に返信した「44分ってどういう意味?」という書き込み。
それ以降、スレ主も投稿していなかった。
スレ主の最後の書き込みの日時を見た。
2013年7月18日、午前2時43分。
他の三人よりも一分だけ早い。
一分だけ早く、最後の書き込みをして、消えている。
僕はスマホをポケットにしまった。
考えてはいけない気がした。
でも、頭の中で一つの想像が膨らんでいくのを止められなかった。
スレ主は「近所に引っ越してきた」と書いていた。
そして、あの場所について聞き回っていた。
僕と同じように。
スレ主は、その後どうなったのだろう。
引っ越した? 無事に暮らしている?
それとも——。
時計が目に入った。
午前2時40分。
あと四分。
僕はレジの中で、自動ドアの方を見た。
ガラスの向こうは真っ暗で、何も見えない。
駐車場の端の闇が、少しだけこちらに近づいているように見えた。
あと四分で、あの自動ドアが開く。
あの男が入ってくる。
今夜で二十九日目だ。
メモ帳を開いて、ペンを握った。
手は震えていなかった。
不思議と、覚悟みたいなものが据わり始めていた。
怖い。でも、もう引き返せない。
僕は知りたかった。
あの男が何なのか。
この場所で何が起きているのか。
そして——なぜ、僕なのか。
第5章 先輩の話
先輩バイトの存在を知ったのは、シフト表がきっかけだった。
事務所にあるファイルに、過去のシフト表が綴じられている。僕が入る前の分も残っていた。
深夜帯のシフトに、僕の前に入っていた人がいた。
名前は「ミウラ」とだけ書いてある。苗字だけで、下の名前はわからない。
シフト表を遡ると、ミウラさんは約一年間、僕と同じ22時から翌6時のシフトに入っていた。
そして今年の三月——僕がバイトを始める二ヶ月前に、突然シフトから名前が消えている。
辞めたのだ。
引き継ぎも何もなかった。僕が面接を受けた時、店長は「前の深夜の子が急に辞めちゃってね」と言っていた。
急に。
その言い方が、今になって引っかかった。
ミウラさんの連絡先は、事務所の緊急連絡網に残っていた。
本当は勝手に見ちゃいけないんだろうけど、深夜のワンオペ中に事務所に入る権限は僕にもある。ファイルを開いて、携帯番号を控えた。
連絡を取るかどうか、二日くらい迷った。
見ず知らずの元バイトにいきなり電話して、「深夜に来る変な客を知ってますか」なんて聞いたら、頭のおかしい奴だと思われるだろう。
でも、掲示板のスレッドを読んで以来、僕の中にはどうしても消えない疑問があった。
あのスレッドの投稿者たちは、何を知っていたのか。
そして、僕の前にこの場所にいたミウラさんは——何を見たのか。
三十日目の夜が過ぎた後、僕は意を決してミウラさんに電話をかけた。
昼過ぎに電話した。
呼び出し音が五回鳴って、留守電に切り替わった。
僕は短くメッセージを残した。
「あの、某コンビニの深夜のバイトをしている者です。ミウラさんの後に入りました。ちょっと聞きたいことがあるんですが、折り返してもらえると助かります」
正直、返事は来ないだろうと思っていた。
でも、三時間後に着信があった。
「……もしもし」
低い声だった。男の声。二十代半ばくらいだろうか。
「あ、電話ありがとうございます。僕、今あの店の深夜に入ってて——」
「わかってる」
遮るように、ミウラさんが言った。
「留守電聞いた。あの店の深夜の後任だろ。用件はわかる」
わかる?
「あの客のことだろ」
僕は息を呑んだ。
「……はい」
電話の向こうで、ミウラさんが長く息を吐くのが聞こえた。
「やっぱりな。……おまえにも見えてるんだな」
ミウラさんは、最初はなかなか話してくれなかった。
「俺はもうあの店とは関わりたくない」
「わかります。でも、僕、どうしていいかわからなくて」
「辞めろ。それが一番いい。俺みたいにさっさと辞めろ」
「辞めたいです。でも、他にバイト先もないし、辞めたら家賃が——」
「そういう問題じゃないんだよ」
ミウラさんの声に、苛立ちとは違う何かが混じった。焦り、に近い何か。
「あのな、俺はおまえに余計なことを言うつもりはない。言ったら余計にまずくなる。だから一つだけ。あの客には絶対に関わるな」
「関わるなって……もう毎晩レジで会ってるんですけど」
「レジで会ってるだけならまだいい。会ってるだけなら、まだ大丈夫なんだ。やばいのは——」
ミウラさんが言葉を切った。
沈黙。
「やばいのは?」
「……話しかけたか?」
「え?」
「あの客に、話しかけたか。声をかけたか」
「レジの会計で……金額は言いましたけど」
「それは違う。そうじゃなくて。会計以外で——あいつに向かって何か言葉をかけたか」
袋をお付けしますか。
僕は一回だけ、聞いた。反応はなかったけど。
「……一回だけ、袋いりますかって」
電話の向こうで、ミウラさんが黙った。
長い沈黙だった。
「……そうか」
「まずいですか」
「まずい、というか……段階が一つ進んだかもしれない」
「段階?」
「いいか、よく聞け。あの客には三つのルールがある。俺が一年かけて学んだことだ」
ミウラさんの声が低く、硬くなった。
「一つ。話しかけるな。声をかけるな。こちらから音を出すな」
「二つ。名前を呼ぶな。あいつの名前を知っても、絶対に口に出すな」
「三つ。目を合わせ続けるな。一瞬ならいい。でも、三秒以上見つめるな」
僕は黙って聞いていた。
「一を破ると、あいつがこっちを認識し始める。二を破ると、あいつがこっちに近づいてくる。三を破ると——」
ミウラさんが言葉を止めた。
「三を破ると?」
「わからない。俺は三だけは破らなかった。破った奴がどうなるか、俺は知らない。知りたくもない」
僕は恐る恐る聞いた。
「ミウラさんは、一を破ったんですか」
「ああ。俺も最初はただの客だと思ってた。ある夜、雑談みたいに声をかけた。『毎度どうも』って。それだけだった」
「それで?」
「次の夜から、あいつが俺を見るようになった。今まで俺なんか存在しないみたいだったのに、急にこっちを見るようになった」
僕と同じだ。
「見られるようになってからが地獄だった。夢を見るようになった。毎晩、変な夢。暗い場所にいる夢。土の中にいる夢」
土の中。
僕も見た。あの夢。
「それから——部屋に物が置かれるようになった」
「物?」
「缶コーヒーとおにぎり。あいつがいつも買うやつ。朝帰ってくると、テーブルの上に置いてある」
僕の手が震えた。
それは第6章のプロットで——いや、まだ僕の身には起きていない。まだ。
「鍵はかけてた。窓も閉めてた。でも置いてある。毎朝、必ず」
「それで辞めたんですか」
「それだけじゃない」
ミウラさんの声がさらに低くなった。
「ある夜、俺が二を破りかけたんだ」
「名前を……?」
「あいつの名前を知った。調べてしまった。墓地を調べて、墓石の文字を読んで。読んだ瞬間に——やばい、と思った。口に出しそうになった。名前を知ると、なぜか口に出したくなるんだ。引っ張られるみたいに」
「でも、言わなかった?」
「ぎりぎりで踏みとどまった。その晩のうちに荷物をまとめて、バイトは無断で辞めた。店長にも連絡しなかった。後から電話が何回か来たけど、全部無視した」
「今は大丈夫なんですか」
沈黙。
「……大丈夫かどうかはわからない。ただ、見なくなった。あの店を離れてから、夢も見なくなった。たぶん、距離の問題なんだと思う。あの場所から離れれば——」
ミウラさんが急に黙った。
「ミウラさん?」
「……おまえ、今どこにいる」
「え? 自分のアパートですけど」
「あの店の近くか」
「はい。歩いて五分くらいの——」
「引っ越せ」
「は?」
「金がないとか、バイトがどうとか、そういうことを言ってる場合じゃない。あの場所の近くに住んでるなら、今すぐ引っ越せ。できるだけ遠くに」
ミウラさんの声は本気だった。震えてすらいた。
「あいつはな——あの客は、客じゃないんだ」
「じゃあ、何なんですか」
長い沈黙。
「あれは——ここに戻ってきてるんだ」
「戻ってきてる? どこに?」
「『ここ』に。あの場所に。何度も、何度も。あの通り道を使って、毎晩戻ってきてる。でも通り抜けられない。だから繰り返してる。同じ行動を。同じ時間に。ずっと——」
プツ。
通話が切れた。
突然だった。回線が途切れる音もなく、ぶつりと無音になった。
「ミウラさん?」
僕はすぐにかけ直した。
呼び出し音。一回。二回。三回。
繋がらない。
五回。六回。
留守電にも切り替わらない。ただ呼び出し音が鳴り続ける。
僕はもう一度かけた。
今度は——「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」。
使われていない?
さっきまで話していたのに?
もう一度。同じアナウンス。
もう一度。同じ。
僕はスマホを耳から離して、画面を見た。
通話履歴にはミウラさんの番号がちゃんと残っている。通話時間も表示されている。十四分三十二秒。
確かに話していた。声を聞いた。内容も覚えている。
なのに、その番号はもう存在しない。
僕は布団の上に座ったまま、スマホを握りしめていた。
ミウラさんが言った三つのルール。
一、話しかけるな。
二、名前を呼ぶな。
三、目を合わせ続けるな。
僕は既に一を破っている。
そして三日前の夜、僕はあの男と目を合わせた。何秒間だったか正確にはわからない。でも、三秒は超えていたかもしれない。
一も三も破った。
まだ破っていないのは、二だけ。
名前。
あの男の名前。
ミウラさんは墓地で知ったと言っていた。
裏の墓地。あの、古い共同墓地。
知りたい、と思った。
同時に、絶対に知ってはいけない、とも思った。
二つの気持ちが同じ強さで引っ張り合っていた。
でも——ミウラさんの最後の言葉が頭から離れなかった。
「あれはここに戻ってきてるんだ」
戻ってきている。
どこから?
何のために?
そして——通り抜けられないとは、どういう意味だ?
僕はスマホをテーブルに置いて、部屋の窓の外を見た。
夕暮れの空。もうすぐ夜が来る。
今夜もバイトに行く。あの蛍光灯の下に立つ。
そして、三十一日目の正の字を書く。
窓の外で、カラスが一羽鳴いた。
それだけのことなのに、やけに不吉に聞こえた。
第6章 接近
ミウラさんとの電話の後、僕は二つのことを決めた。
一つは、あの客にこれ以上関わらないこと。
もう一つは、それでもバイトは続けること。
矛盾しているのはわかっている。でも、どうしようもなかった。
引っ越す金なんてない。バイトを辞めたら来月の家賃が払えない。ミウラさんは「金の問題じゃない」と言ったけど、金の問題なのだ。天涯孤独の十八歳にとっては。
だから僕は、ルールを守ることにした。
話しかけない。名前を知らない。目を合わせない。
これさえ守っていれば、大丈夫なはずだ。
たぶん。
三十二日目の夜。
2時44分。自動ドアが開く。
男が入ってくる。
僕はレジの中で、視線を落とした。カウンターの上を見る。男の顔を見ない。
飲料コーナーに向かう足音。冷蔵庫の扉を開ける音。閉める音。
おにぎりの棚の前で止まる気配。
レジに来る。
商品がカウンターに置かれる。
缶コーヒーのブラック。おにぎりの梅。
いつもと同じ。
僕はバーコードを読み取った。視線はレジのモニターに固定したまま。
「二百八十円です」
小銭が置かれる。
僕は硬貨を数えた。目は硬貨だけを見た。
二百八十円。ぴったり。
商品が持ち上げられる気配。足音。
自動ドアの音。
男が出て行った。
僕は顔を上げた。
ガラスの向こうに、もう誰もいなかった。
大丈夫だった。
目を合わせなければ、大丈夫だ。
三十三日目も、同じようにやり過ごした。
三十四日目も。三十五日目も。
視線を落とす。顔を見ない。声は会計の金額だけ。
メモ帳に正の字を書き足していく。機械的に。
これなら大丈夫だ。
そう思い始めた矢先だった。
三十六日目。
2時44分。自動ドアが開く。
いつもの流れ。飲料コーナー。おにぎりの棚。
レジに商品が置かれる。
——三つ。
僕は一瞬、手が止まった。
カウンターの上にあったのは、缶コーヒーのブラックと、おにぎりの梅。
そして、サンドイッチが一つ。
たまごサンド。
今まで二十八日連続で、この男が買ったのはコーヒーとおにぎりだけだった。
一度も例外はなかった。
なのに、今夜はサンドイッチが加わっている。
僕は動揺を押し殺してバーコードを読み取った。
「四百三十円です」
小銭が置かれる。
四百三十円。ぴったり。
金額が変わっても、ぴったりなのだ。
男が商品を持って出て行く。
僕は息を吐いた。
たまたまだ。たまには違うものを買うこともあるだろう。
そう思おうとした。
三十七日目。
コーヒー。おにぎり。サンドイッチ。それから——カップ味噌汁。
四つ。
三十八日目。
コーヒー。おにぎり。サンドイッチ。カップ味噌汁。バナナ。
五つ。
商品が、一日に一つずつ増えていた。
僕は気づいてしまった。
これは——食事だ。
コーヒーとおにぎりだけだったものが、少しずつ人間の食事一回分に近づいていっている。
まるで、何かが「人間の食事」を学習しているみたいに。
一つずつ。少しずつ。
いつもぴったりの小銭を出すその手で、一品ずつ追加していく。
三十九日目。
この夜、僕はもう一つの変化に気づいた。
男がレジの前に立っている時間が、長くなっていた。
以前は、商品を置いて、小銭を出して、受け取って、すぐに出て行っていた。滞在時間はきっかり一分。
でもこの夜、男は会計が終わった後、すぐに立ち去らなかった。
商品を手に取った後、数秒間、レジの前に立っていた。
動かない。
僕は視線を落としたまま、カウンターの上を見ていた。
男の手が見えた。商品を持っている手。
その手が、微かに震えていた。
いや——震えていたのではないかもしれない。
動こうとしていた。
商品を持っていない方の手が、ゆっくりと上がりかけていた。
何かに伸ばそうとしているように。
僕に向かって。
僕は身体を硬くした。
三秒。五秒。
男の手が止まった。下がった。
足音。自動ドアの音。
出て行った。
僕は膝が震えていた。
あの手は何をしようとしていた?
触ろうとしていたのか?
僕に?
四十日目。
この夜が、一番怖かった。
2時44分。自動ドアが開く。
男が入ってくる。いつもの動線。でも商品はさらに増えている。コーヒー、おにぎり、サンドイッチ、味噌汁、バナナ、ヨーグルト。六品。
レジに並べられる。僕はバーコードを読み取る。視線は商品とモニターだけ。
「七百二十円です」
小銭が置かれる。ぴったり。
男が商品を手に取る。
また、立ち止まった。
レジの前に、じっと立っている。
僕はカウンターを見ていた。顔は上げない。絶対に上げない。
沈黙。
店内のBGMが消えている。冷蔵庫の音も消えている。あの一分間の無音。
その静寂の中で。
音が聞こえた。
音、というか——空気の震え。
誰かが、何かを言おうとしている。
声にならない声。唇が動いている気配。空気が形を持とうとして、でもなれない。そんな音。
僕は見るなと自分に言い聞かせた。
見るな。顔を上げるな。
でも——聞こえてしまった。
音にならない音の中に、一つだけ聞き取れたものがあった。
母音。
「あ」と「う」。
二音節。
短い言葉。
僕は考えてはいけないと思いながら、考えてしまった。
「あ」と「う」で構成される二音節の言葉。
名前だ。
誰かの名前を呼んでいる。
僕の名前ではない。僕の名前は二音節じゃない。
じゃあ——誰を呼んでいる?
ミウラさんの言葉が蘇った。「名前を知ると、口に出したくなる」。
あの客は、誰かの名前を呼ぼうとしている?
それとも——自分の名前を、言おうとしている?
名前を、伝えようとしている?
僕に?
自動ドアの音。
男が出て行った。
BGMが戻ってくる。冷蔵庫が唸り始める。
僕はレジの中にしゃがみ込んだ。
膝が笑っていた。手が震えていた。
メモ帳に四十と書こうとして、ペンを取り落とした。
その夜、帰宅した。
午前6時過ぎ。朝日が昇り始めている。
アパートの階段を上がって、部屋のドアの前に立った。
鍵を差し込んだ。
回した。
ドアを開けた。
玄関に靴を脱いで、部屋に入る。
ワンルームの狭い部屋。ベッドと小さなテーブルと、ミニキッチン。
テーブルの上に、何かが置いてあった。
缶コーヒーのブラック。
おにぎり。梅。
僕は、ドアの鍵を確認した。
閉まっていた。確かに閉まっていた。朝出る前にも閉めたし、帰ってきた時も鍵は回した。
窓。閉まっている。鍵もかかっている。二階だから外から入るのは容易じゃない。
でも、テーブルの上にある。
缶コーヒーとおにぎり。
あの店で売っている商品だった。パッケージに見覚えがある。値札のシールの色まで同じ。
僕は近づいて、缶コーヒーに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、引っ込めた。
冷たかった。
冷蔵庫に入っていたような冷たさじゃない。もっと深い冷たさ。あの硬貨と同じ。土の中にずっと埋まっていたものみたいな冷たさ。
缶の表面に、うっすらと水滴がついていた。
結露だろうか。
いや、違う。
水滴は缶の上半分にだけついていた。下半分は乾いている。
まるで、誰かが上半分だけを握っていたかのように。
僕はテーブルから一歩下がった。
おにぎりのパッケージを見た。消費期限のシールが貼ってある。
日付を読んだ。
今日の日付だった。
今夜のシフト中に、棚に並んでいたものと同じロットのおにぎり。
あの男が今夜買ったのと、同じものだ。
僕はテーブルの上のそれらに触れないまま、部屋の隅に座った。
壁に背中をつけて、膝を抱えた。
ミウラさんも同じだと言っていた。
朝帰ると、テーブルに置いてあると。
始まってしまった。
あの客は——もう、店の中だけの存在じゃなくなっている。
僕の部屋にまで来ている。
鍵も窓も関係なく。
僕が眠っている間に——いや、僕がバイトに行っている間に?——この部屋に入り、テーブルの上に商品を置いていく。
なぜ?
何のために?
これは脅し? 警告?
それとも——。
ふと、別の可能性が頭をよぎった。
あの男がいつも買うのは、コーヒーとおにぎり。
まるで、誰かへの差し入れみたいに。
深夜に働いている人間への、差し入れ。
僕への?
まさか。
でも、テーブルの上のコーヒーとおにぎりは、そう見えなくもなかった。
置き方が丁寧だったのだ。
缶は真っ直ぐ立っていて、おにぎりはその隣にきちんと並べられていた。
投げ置かれたのではない。
丁寧に、そっと、置かれていた。
僕はその朝、何も食べずに布団に入った。
テーブルの上のコーヒーとおにぎりはそのままにした。
触りたくなかった。でも、捨てることもできなかった。
目を閉じると、あの空気の震えが耳の奥に蘇った。
「あ」と「う」。
二音節。
あの男は、何を伝えようとしている。
考えるな。
名前を知るな。
でも——もう遅いのかもしれないと、僕はうっすら感じ始めていた。
あの男の方から、僕に近づいてきている。
ルールを守っても、守らなくても、もう関係ないのかもしれない。
だって、もうここまで来てしまっているのだから。
第7章 裏の墓地
四十二日目の昼間、僕は店の裏手の墓地に行った。
行くつもりはなかった。
ミウラさんのルールを守るなら、名前を知ってはいけない。墓地を調べてはいけない。
わかっていた。
でも、毎朝テーブルの上にコーヒーとおにぎりが置かれる生活を三日続けたら、「わかっている」だけでは保たなくなった。
恐怖には二種類ある。
目の前にあるものへの恐怖と、わからないことへの恐怖。
僕を壊しかけていたのは、後者だった。
何も知らないまま、毎晩あの客と向き合い続けることに、もう耐えられなかった。
知れば、もっと怖くなるかもしれない。
でも、知らないまま壊れるよりはましだと思った。
七月の昼下がり。蝉が鳴いていた。
コンビニの駐車場を通り抜けて、裏手のブロック塀に沿って歩いた。
塀には一箇所だけ、古びた金属の扉がついていた。墓地の入り口らしい。前に来た時は気づかなかった。
扉には鍵がかかっていなかった。押すと、錆びた蝶番がぎいっと鳴った。
中に入った。
思っていたよりも狭い墓地だった。
塀に囲まれた長方形の敷地に、墓石が十二基。
古いものばかりだった。石の表面が風化して、文字が読みにくくなっているものがほとんどだ。
雑草が好き放題に伸びている。手入れをしている人間がいないのは明らかだった。
無縁仏。
この墓に手を合わせる人は、もういないのだろう。
僕はゆっくりと墓石の間を歩いた。
一基ずつ、表面の文字を確認していく。
苗字だけのもの。「○○家之墓」と刻まれたもの。戒名が並んでいるもの。
どれも古い。明治や大正の年号が読み取れるものもあった。
十基目を過ぎた頃、僕は足を止めた。
奥から二番目の墓石の前に、花が供えられていた。
白い菊。
まだ新しかった。萎れていない。昨日か今日、供えられたばかりに見えた。
手入れされていない墓地の中で、その一基だけが異質だった。
墓石そのものは他と同じように古びていたけれど、周りの雑草が刈られていた。誰かが定期的に手入れをしている。
僕は墓石の正面にしゃがみ込んだ。
文字を読もうとした。
石の表面は風化が進んでいて、彫られた文字の溝が浅くなっていた。指でなぞらないと読めないくらいに。
僕は指先で文字をなぞった。
苗字。二文字。
一文字目は——読み取れなかった。溝が潰れていて、形がわからない。
二文字目も不明瞭だったけど、偏の部分だけかろうじて残っていた。
その下に、名前。
一文字目。指でなぞる。横画が多い。でも確信が持てない。
二文字目。
ここだけ、妙にはっきりと残っていた。
他の文字がすべて風化しているのに、この一文字だけが深く、鮮明に刻まれていた。
まるで、最近彫り直されたかのように。
読めた。
読めてしまった。
僕はその文字を、ここには書かない。
書けない、というべきか。
ミウラさんが言っていた通りだった。名前を知ると、口に出したくなる。
文字を読んだ瞬間、喉の奥がうずいた。
舌が勝手に動こうとした。
口の中で、その音が形になりかけた。
僕は慌てて口を手で押さえた。
声にはならなかった。ぎりぎりで止めた。
でも——唇は動いていた。
「あ」と「う」。
あの夜、客が発しようとしていた二音節と、同じ音だった。
僕が読み取った名前の読みが、「あ」と「う」の二音節で構成されていたのか。
それとも、客が発していた音が僕の中に残っていて、それがこの墓の名前に結びついただけなのか。
わからない。
わからないけど、僕の中で何かが繋がった感覚があった。
あの客と、この墓が、同じものだという確信。
僕は墓石の下の方に目を移した。
没年月日が刻まれているはずの場所。
ここも風化が進んでいたけど、指でなぞると読み取れた。
令和——。
令和。
この墓石は明らかに古い。戦前からあるように見える。
なのに、没年月日には「令和」と刻まれていた。
彫り直されている。古い石に、新しい文字が。
年。月。日。
指でなぞりながら、一つずつ読んだ。
全部読み終えた時、僕は腰が抜けそうになった。
没年月日は——今年の五月だった。
僕がバイトを始める一ヶ月前。
ミウラさんが辞めた二ヶ月後。
ちょうど二ヶ月前に、この人は死んだ。
いや——「死んだ」という言い方が正しいのかどうか、もうわからなかった。
だって、死んだはずの人が、毎晩コンビニに来ているのだから。
僕は墓地を出た。
扉を閉めて、ブロック塀に背中をつけた。
真夏の昼間なのに、身体の芯が冷えていた。
蝉の声が遠くに聞こえた。現実の音のはずなのに、どこか作り物めいて聞こえた。
考えを整理しようとした。
あの客は二ヶ月前に死んだ人間——だったもの。
毎晩2時44分に、コンビニに来る。生前の習慣を繰り返すように。
同じ時間に、同じ商品を買う。
でも最近、行動が変わり始めた。商品が増えた。立ち止まるようになった。声を出そうとしている。
そして——僕の部屋にまで来ている。
ミウラさんは言っていた。「あれは戻ってきてるんだ」「通り道を使って」「通り抜けられない」と。
通り抜けられない。
つまり、あの客は目的地に辿り着けていない。
毎晩同じ行動を繰り返しているのは、通り抜けようとして、失敗しているからだ。
何かに引っかかって、先に進めない。
だから同じ場所に戻ってきて、最初からやり直す。
テープが同じところでループするみたいに。
でも、最近は変化が出ている。
ループが少しずつ崩れている。
商品が増える。僕を認識する。声を出そうとする。
これは——良いことなのか、悪いことなのか。
通り抜けようとしている何かが、少しずつ力を取り戻しているということなのか。
それとも、通り抜けることを諦めて、こちら側に留まろうとしているということなのか。
僕は壁から背中を離して、歩き始めた。
アパートに帰ろうとして、ふと足を止めた。
後ろから、足音がした。
コツ。コツ。コツ。
アスファルトの上を、硬い靴底が叩く音。
振り返った。
誰もいなかった。
昼間の住宅街。陽射しが道路を白く照らしている。電柱の影。ブロック塀。植え込みの緑。
人の姿はなかった。
足音が止まっていた。
僕が止まったから?
三秒待った。
コツ。
鳴った。
僕は動いていない。立ち止まったまま。
なのに、足音が一つだけ鳴った。
僕の後ろ、五メートルくらいの距離から。
心臓が跳ねた。
僕はゆっくりと前を向いた。振り返ってはいけない気がした。もう一度振り返ったら、今度は何かが見えてしまう気がした。
歩き出した。
足音が着いてくる。
コツ。コツ。コツ。
僕の歩調と同じリズムで。同じ速さで。
走りたかった。でも走ったら、向こうも走る気がした。
だから僕は、努めて普通の速度で歩いた。
アパートまでの五分間が、人生で一番長い五分だった。
アパートの階段を上がった。足音は階段の下で止まった。
部屋のドアを開けて、中に入って、鍵を閉めた。
背中をドアに預けて、ずるずると座り込んだ。
息が上がっていた。
しばらくして、ドアの向こうの気配が消えた。
でも——テーブルの上を見た。
今朝もあった。
缶コーヒーのブラック。おにぎりの梅。
そして今日は、もう一つ増えていた。
サンドイッチ。たまごサンド。
店で増えた商品と、同じものが。
僕はテーブルの前に座った。
しばらく、並べられた商品を見つめていた。
缶コーヒー。おにぎり。サンドイッチ。
丁寧に、等間隔で置かれている。
怖かった。怖かったけど、同時に別の感情が湧いていた。
悲しい、に近い何か。
この「何か」は——僕に食事を届けようとしているのだろうか。
毎晩コンビニで買って、僕の部屋に届ける。
生きていた頃の習慣を繰り返しながら、少しずつ、差し入れの品を増やしていく。
死んだ人間が、生きている人間に食事を届ける。
それは祟りなのか。呪いなのか。
それとも——もっと別の、名前のつけられない何かなのか。
僕は名前を知ってしまった。
口には出していない。まだ。
でも、頭の中にある。喉の奥にある。舌の上にある。
いつ口から溢れてもおかしくない場所に、その名前はもう座っている。
ミウラさんが言った二つ目のルール。
名前を呼ぶな。
僕はまだ、破っていない。
まだ。
第8章 44分目の真実
四十三日目。
僕はバイトを休んだ。
体調不良、とだけ店長にメッセージを送った。嘘じゃない。実際、体調は最悪だった。右手の冷たさは取れないし、眠れば土の中にいる夢を見るし、起きている間は喉の奥であの名前がうずいている。
でも、休んだ本当の理由は体調じゃない。
調べたかったのだ。
「通り道」について。「2時44分」について。あの土地に何があったのかについて。
ネットの掲示板だけでは限界がある。もっと古い情報が必要だった。
練馬区には区立の図書館がいくつかある。
僕は一番大きな図書館に行った。郷土資料のコーナーがあると聞いたからだ。
平日の昼間の図書館は空いていた。閲覧席に座っているのは年配の人ばかりで、十八歳の僕は少し浮いていた。
郷土資料のコーナーは、二階の奥まった場所にあった。
棚に並んでいるのは、練馬区の歴史や地名の由来についての本、古い地図のコピー、地域の民俗調査の報告書。
僕はその中から、手当たり次第に引き抜いては目を通していった。
最初の二時間は、何も見つからなかった。
練馬区の歴史は農村の歴史だ。江戸時代は大根の産地で、明治以降も畑が広がっていて、住宅地として開発されたのは戦後になってから。
墓地が多いのは、昔から農家が自分の土地の一角に墓を作る習慣があったからだ。宅地化が進む中で、農家の墓だけが取り残されて、共同墓地として管理されるようになった。あるいは管理する人もいなくなって、無縁仏になった。
あのコンビニの裏の墓地も、そうした経緯のものだろう。
それ自体は、何も不思議なことはない。
でも——「通り道」の話は、どこにも出てこなかった。
三時間目に入った頃、僕は一冊の薄い冊子を見つけた。
それは、昭和五十年代に地元の郷土研究会が発行した調査報告書だった。
B5サイズの、ホチキスで綴じられた手作りの冊子。表紙には「練馬区西部地域における民間伝承の記録」と手書きの文字があった。
百ページくらいのその冊子を、僕は最初からめくっていった。
農作業にまつわる言い伝え。天候を占うおまじない。子供の病気を治す民間療法。
どれも古い農村社会の記録で、怪談とは関係なさそうだった。
七十ページを過ぎた辺りで、僕の目が止まった。
節のタイトルに、こう書かれていた。
「寄り道の儀について(断片的記録)」
記述は短かった。ほんの二ページ。
報告者自身も「断片的な聞き取りに基づくもので、全容は不明」と前置きしていた。
要約すると、こういうことだった。
この地域には古くから、死者の魂が現世を「通過」するという信仰があった。
死者はあの世に行く前に、生前縁のあった場所を通る。それを「寄り道」と呼んだ。
通常、寄り道は一度きりで、死者は縁の深い場所を通り過ぎて、そのまま向こう側へ行く。
だが、稀に「通り過ぎることができない」死者がいる。
生前の未練が強すぎる者。突然の死で自分が死んだことを理解していない者。あるいは——現世に強く結びつく相手がいる者。
そうした死者は、同じ場所を何度も通ろうとする。通り過ぎようとして、失敗して、最初に戻る。それを繰り返す。
この現象を、地元の古老たちは「寄り道の儀」と呼んだ。
冊子の記述には、もう一つ重要なことが書かれていた。
「寄り道」が起きる場所には条件がある。
死者が生前、日常的に訪れていた場所であること。
そしてその場所が、古い墓地の近くにあること。
墓地は「あちら側」と「こちら側」の境界だ。その境界に近い場所で、死者が生前の行動を繰り返す。それが「寄り道の儀」。
報告者はこう補足していた。
「聞き取りを行った古老(当時八十七歳)は、『寄り道をしている者には関わるな。名を呼ぶな。呼べばこちらに引き寄せてしまう。寄り道の者は通り過ぎるに任せるのが一番よい』と語った」
名を呼ぶな。
ミウラさんが言った二つ目のルールと、同じだった。
古老は続けてこう語ったと記録されていた。
「寄り道は丑三つ時に起きる。ただし、時の流れはあちら側とこちら側で違うから、時計の針がどこを指すかはわからん。同じ場所でも、年によって寄り道の時刻は変わると聞いた」
丑三つ時は午前二時から二時半頃。
でも、「時刻は変わる」。
今は——午前2時44分。
僕は冊子をテーブルに置いて、天井を見た。
図書館の蛍光灯が白く光っている。コンビニの蛍光灯と同じ光だった。
頭の中で、情報が繋がっていく。
あの客は——「寄り道」をしている。
二ヶ月前に死んだ人間が、生前通っていたコンビニを、毎晩通り過ぎようとしている。
でも通り過ぎることができない。
だから同じ行動を繰り返している。同じ時間に入って、同じ商品を買って、出ていく。
けれど最近、ループが崩れ始めた。
商品が増えた。僕を認識し始めた。声を出そうとしている。部屋にまで来ている。
これは何を意味する?
通り過ぎようとする力が弱まっているのか。
それとも——こちら側に留まろうとする力が強まっているのか。
古老は言った。「通り過ぎるに任せるのが一番よい」と。
つまり、本来なら放っておけば通り過ぎていくはずだった。
なのに通り過ぎられないのは、何かがそれを妨げているから。
何が?
僕が声をかけたから?
僕があの客を認識して、観察して、数えて、調べて——関わってしまったから?
僕が、あの客をこちら側に引き留めてしまっているのか。
冊子のページを戻して、もう一度読んだ。
最後の段落に、こう書かれていた。
「なお、寄り道の儀にまつわる禁忌について古老は多くを語らなかった。ただ一つ、『寄り道をしている者の名を呼べば、その者は道を見失う。道を見失った者は、名を呼んだ者のそばに留まる。永久に』とだけ述べた。この点については、さらなる調査が必要であるが、古老が翌年に他界したため、追加の聞き取りは叶わなかった」
名を呼べば、道を見失う。
道を見失った者は、名を呼んだ者のそばに留まる。
永久に。
僕は冊子を閉じた。
手が冷たかった。右手だけじゃない。今度は両手とも。
図書館を出て、外に立った。
夏の夕方の空。西の空がオレンジ色に染まっている。
あの客がなぜ僕を認識し始めたのか、わかった。
僕が声をかけたからだ。ルールの一を破ったからだ。
そして、僕が目を合わせたから——あの客は、通り道の途中で立ち止まってしまった。
今まで機械的に繰り返していたループが、僕という存在によって乱された。
あの客は通り過ぎようとしている。でも僕のせいで、通り過ぎられない。
だから僕の方に近づいてくる。声をかけようとする。名前を伝えようとする。
それは悪意じゃないのかもしれない。
「通してくれ」と言おうとしているのかもしれない。
「邪魔をしないでくれ」と。
あるいは——「助けてくれ」と。
でも、僕にはどうすればいいかわからない。
通り道を空ければいいのか。この店を辞めて、この場所から離れればいいのか。
それとも、もっと別の何かが必要なのか。
一つだけ確かなことがある。
名前を呼んではいけない。
名前を呼んだら、あの客は道を見失う。そして僕のそばに永久に留まる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
喉の奥で、名前がうずいている。
口の中で、音が形を作ろうとしている。
僕は唇を噛んだ。
まだだ。
まだ呼んでいない。
夕暮れの空を見上げながら、僕はアパートへの道を歩き始めた。
今夜は——バイトに行かなければならない。
四十三日。
あと何回、正の字を書くことになるのだろう。
そして——いつまで、名前を呼ばずにいられるのだろう。
第9章 最後の夜
四十四日目。
その数字に気づいたのは、バイトに行く前だった。
メモ帳を開いて、今夜の分を数えた。
四十四。
四と四。
死が重なる数。
偶然なのか、必然なのか。どちらにしても、僕はこの夜を境に決着をつけようと思っていた。
今夜を最後のシフトにする。
店長にはまだ言っていない。言ったところで引き留められるだろうし、無断で辞めたミウラさんの気持ちが今ならわかる。
ただ、ミウラさんと僕では、最後の夜の過ごし方が違う。
ミウラさんは逃げた。
僕は——見送る。
正気じゃないと思う。自分でもそう思う。
ミウラさんが聞いたら怒るだろう。「ルールを破るな」と言っただろう。
でも、僕にはミウラさんのように逃げる場所がなかった。
それに——四十四日間、毎晩あの客を見てきて、わかったことがある。
あの客は、害を与えようとしていない。
怖い。異質だ。この世のものじゃない。
でも、攻撃的なものは何も感じなかった。
部屋に置かれたコーヒーとおにぎりも、追いかけてくる足音も、声にならない声も。
全部——伝えようとしていたのだ。
何かを。
通り抜けられないまま、毎晩同じ場所に戻ってきて、同じ一分間を繰り返して。
それでも諦められなくて、少しずつ行動を変えて、僕に気づいてもらおうとしていた。
見てほしかったのだ。
認めてほしかったのだ。
「ここにいる」と。
午後十時。店に入った。
いつもと同じ手順で引き継ぎを済ませた。夕方のシフトの人が帰っていく。店長はもう上がっていた。
一人になった。
蛍光灯の白い光。BGMの有線。冷蔵庫の低い唸り。
いつもと同じ夜。
でも、今夜が最後だ。
僕は品出しをして、床を拭いて、レジに戻った。
時計を見た。午後十一時半。
まだ三時間以上ある。
深夜零時を過ぎた。
客が二人来て、二人とも帰った。缶ビールとつまみの酔っ払いと、タバコを買いに来たタクシーの運転手。
いつもの深夜。
午前一時。
客が来ない時間帯に入った。店内は僕一人。
午前二時。
静まり返っている。BGMの音楽がやけにはっきり聞こえる。
僕はレジの中に立って、自動ドアの方を見ていた。
ガラスの向こうは真っ暗だ。駐車場の端に、闇がわだかまっている。
午前二時三十分。
あと十四分。
心臓が速くなっていた。
僕はカウンターの上に、あるものを用意していた。
缶コーヒーのブラック。おにぎりの梅。
自分の金で買った。レジを通して、きちんと精算した。
それをカウンターの上に並べた。
供物だ。
寄り道の儀。生きている人間が、通り過ぎる死者に供物を捧げて、見送る。
形式なんてわからない。正しいやり方なんて知らない。
でも、四十四日間ずっと同じものを買い続けた客に、今夜は僕の方から差し出す。
それだけのことだ。
午前二時四十分。
あと四分。
僕は深呼吸した。
今夜は視線を落とさない。顔を上げて、真っ直ぐ見る。
話しかける。名前を——。
喉の奥で、あの二音節がうずいた。
口に出したら何が起きるかわからない。
でも、口に出さなければ、あの客は永遠に通り抜けられない。
午前二時四十二分。
あと二分。
蛍光灯がチカッと瞬いた。
一回。
始まりの合図みたいだった。
午前二時四十三分。
あと一分。
BGMの音量が下がり始めた。冷蔵庫の唸りが遠くなっていく。
世界が静かになっていく。
僕はカウンターの上のコーヒーとおにぎりに手を添えた。
午前二時四十四分。
自動ドアが開いた。
男が入ってきた。
黒いジャケット。白いシャツ。特徴のない顔。
いつもと同じ——いや。
違った。
今夜は、男が一人じゃなかった。
男の後ろに、もう一人いた。
二人目の客が、自動ドアをくぐった。
男より少し背が高い。やせ型。髪が長めで、頬がこけている。
服装は——パーカーにジーンズ。ラフな格好。
顔を見た瞬間、僕の中で何かが引っかかった。
見覚えがある。
いや、見覚えがあるはずがない。会ったことはない。
でも——知っている。
事務所のシフト表に書かれていた名前。電話で話した声。
ミウラさん。
二人目の客は、ミウラさんに似ていた。
似ている、というのが正確かどうかわからない。あの客と同じで、顔の印象が定着しない。見ているのに、特徴が掴めない。
でも、輪郭が。背格好が。雰囲気が。
ミウラさんだ。
電話が切れた後、番号が使えなくなったミウラさん。
あの人も——「こちら側」に来てしまったのか。
逃げたはずなのに。距離を取ったはずなのに。
それでも、引き戻されたのか。
二人の客が、並んで店内を歩いた。
最初の客はいつもの動線。飲料コーナー。おにぎりの棚。
二人目——ミウラさんに似た客は、最初の客の後ろについて歩いていた。自分では何も手に取らない。ただ、ついていく。
最初の客がレジに来た。
カウンターに商品を置いた。
缶コーヒーのブラック。おにぎりの梅。
今夜はそれだけだった。
増えていた商品が、最初の二品に戻っていた。
最初に戻った。
リセットされたみたいに。
僕は顔を上げた。
男の顔を、真っ直ぐ見た。
目が合った。
黒い目。白目のない、底のない黒。
でも、今夜はそこに何かが見えた気がした。
光ではない。深さだ。
底のない黒だと思っていたものの奥に、何かがある。
悲しみ、とも違う。もっと静かなもの。
諦めと、祈りの中間みたいなもの。
僕は三つのルールを全部破ることを覚悟した。
「あの」
僕は声を出した。
店内の無音の中に、自分の声だけが響いた。
男が僕を見ていた。微動だにしない。
二人目の客は、少し離れた場所に立っていた。こちらを見ているのか見ていないのか、わからなかった。
僕はカウンターの上に並べておいたコーヒーとおにぎりに手を添えた。
「これ——あなたに」
男は動かなかった。
僕は商品を少し前に押し出した。男の方へ。
「毎晩、来てくれてたんですよね」
声が震えた。
「僕、ずっと怖かった。でも——わかったんです。あなたが何をしようとしてるか。通り抜けたいんですよね。ここを」
男の口が、微かに動いた。
空気の震え。声にならない声。
「あ」と「う」。
僕は息を吸った。
喉の奥にある名前が、せり上がってくる。
言ったらどうなるかわからない。
言わなかったら、この人は永遠にここをループし続ける。
僕は口を開いた。
男の名前を——呼んだ。
二音節。
「あ」と「う」で構成される、短い名前。
声にした瞬間、世界が変わった。
蛍光灯が全部消えた。
でも、暗闇にはならなかった。
レジの周りだけが、淡い光に包まれていた。蛍光灯の光じゃない。もっと柔らかくて、もっと冷たい光。
月明かりに似ていた。でも、天井の向こうに月があるはずがない。
男が——初めて、表情を見せた。
あの特徴のない顔に、何かが浮かんだ。
笑みではなかった。
泣き顔でもなかった。
安堵、に一番近かったと思う。
長い間探していたものを見つけた時の、あの表情。
男の口が動いた。
今度は声が出た。
声、と呼んでいいのかわからない。空気を震わせる音ではなく、僕の頭の中に直接響くような、そういう種類の音だった。
聞こえた言葉は——「次はおまえの番だ」ではなかった。
「ありがとう」でもなかった。
もっと奇妙な言葉だった。
男はこう言った。
「——寒かったろう」
僕は意味がわからなかった。
寒かった?
何が?
でも、その言葉を聞いた瞬間、身体の奥から何かが込み上げてきた。
涙だった。
理由がわからないのに、涙が止まらなかった。
寒かったろう。
その言葉が、僕の中の何かに触れた。
ずっと一人で、誰にも頼れなくて、深夜のコンビニで蛍光灯の下に立ち続けて。
寒かった。
ずっと寒かった。
気づいていなかっただけで、ずっと。
男がカウンターの上のコーヒーとおにぎりに手を伸ばした。
初めて——僕が差し出したものを、受け取った。
男の手が商品に触れた瞬間、指先から温かさが広がるのを見た。
あの冷たさが消えていく。
男はコーヒーとおにぎりを両手で持った。
大事そうに。
それから、身体の向きを変えた。
出口に向かって歩き始めた。
二人目の客——ミウラさんに似た人が、男の隣に並んだ。
二人が自動ドアの前に立った。
ドアが開いた。
ガラスの向こうに、今夜は闇が見えなかった。
代わりに、薄い光があった。夜明け前の空みたいな、灰色がかった白。
道が見えた。
まっすぐに伸びる一本の道が、コンビニの自動ドアの向こうに。
通り道。
開いている。
男が一歩を踏み出した。
自動ドアの外に出た瞬間——。
男の輪郭がぼやけた。溶けるように。光に吸い込まれるように。
二人目の客も同じだった。並んで歩いていた二つの影が、同時に薄くなり、光の中に消えていった。
音はなかった。
最後に見えたのは、男の横顔だった。
振り返らなかった。
もう振り返る必要がなかったのだろう。
通り抜けた。
四十四日間のループが、終わった。
自動ドアが閉まった。
蛍光灯がパッと点いた。BGMが戻ってきた。冷蔵庫が唸り始めた。
午前2時45分。
一分間が終わった。
僕はレジの中に立っていた。
涙の跡が頬に残っていた。
カウンターの上には何もなかった。僕が並べたコーヒーとおにぎりも消えていた。
男が持っていったのだ。
供物を受け取って、通り抜けていった。
寄り道の儀が、四十四日目にしてようやく完了した。
僕はメモ帳を取り出した。
四十四日目。
最後の正の字を書いた。
ペンを置いた時、右手の冷たさが消えていることに気づいた。
あの硬貨に触れてからずっと冷たかった右手が、普通の体温に戻っていた。
ポケットの中の百円玉を取り出した。
製造年を見た。
令和八年。
普通の百円玉に戻っていた。
僕は百円玉をレジの中に入れた。
それから、最後にもう一度だけ、自動ドアの向こうを見た。
外は真っ暗だった。いつもの夜。いつもの駐車場。いつもの闇。
あの光はもうなかった。
道は閉じた。
第10章 余韻
バイトを辞めた。
店長には「一身上の都合で」とだけ伝えた。引き留められるかと思ったけど、店長は黙って頷いただけだった。
「そうか」
それだけ。
目は合わなかった。いつものように、どこか別の場所を見ていた。
でも、僕が事務所を出る時、後ろから小さな声が聞こえた。
「——気をつけてな」
振り返ろうかと思った。でもやめた。
店長が何を知っていたのか、もう聞く必要はなかった。
アパートも引き払った。
たいした荷物はない。段ボール三つに収まる人生だ。
引っ越し先は、練馬から離れた場所にした。知り合いもいない、縁もゆかりもない町。
それでよかった。元々、僕にはどこにも「帰る場所」なんてないのだから。どこに行っても同じだ。
新しいアパートは、前よりも少しだけ広かった。
荷解きをして、布団を敷いて、最初の夜を迎えた。
静かだった。
冷蔵庫の音もしない。BGMもない。蛍光灯の白い光もない。
ただ暗い部屋に、一人。
目を閉じた。
その夜は、夢を見なかった。
土の中の夢も、暗い場所の夢も。
何も見ないまま、朝が来た。
目が覚めた時、テーブルの上には何も置かれていなかった。
缶コーヒーも。おにぎりも。
何もなかった。
新しいバイトを見つけた。今度は深夜じゃない。昼間のファミレス。
皿を運んで、注文を取って、テーブルを拭く。普通の仕事だ。
夜は眠る。朝に起きる。普通の生活。
あの四十四日間が嘘みたいだった。
でも、嘘じゃないことは自分が一番よくわかっていた。
ポケットの中に、あのメモ帳がまだ入っている。正の字が並んだメモ帳。四十四本の線。
捨てられなかった。
時々取り出して、眺めた。
あの店を辞めてから三ヶ月が経った頃だった。
スマホでニュースを見ていたら、小さな記事が目に留まった。
練馬区の某コンビニが閉店した、という記事だった。
チェーン名と住所を見て、すぐにわかった。あの店だ。
閉店の理由は「建物の老朽化に伴う取り壊し」とされていた。
老朽化。
築十年そこらの建物が老朽化するだろうか。
でも、表向きの理由なんてそんなものだ。
本当の理由は、たぶん誰にも語られない。
あのコンビニが「通り道」の上に建っていたこと。毎晩2時44分に自動ドアが開いていたこと。
それを知っている人間は、もうほとんどいない。
店長は知っていたのかもしれない。でも、語らないだろう。
ミウラさんは——もう、語れない。
掲示板の投稿者たちも、とうに消えている。
僕だけが残っている。
これを書いているのは、だから、記録のためだ。
忘れないために。忘れてはいけない気がするから。
引っ越してからしばらくして、近所を散歩するようになった。
新しい町に慣れるために、休みの日にぶらぶら歩く。
スーパー、公園、古本屋、クリーニング屋。
どこにでもある住宅街。平穏な日常。
ある日の散歩の帰り、最寄りのコンビニに寄った。
飲み物を買うだけのつもりだった。
店に入って、飲料のコーナーに行って、ペットボトルのお茶を取った。
レジに向かう途中で、ふと窓の外が目に入った。
コンビニの裏手。
塀の向こうに、木の枝が見えた。
ぐるっと回り込んで見る必要もなかった。
わかった。
塀の向こうに、墓地がある。
小さな、古い墓地。
僕は立ち止まった。
偶然だ。
練馬には古い墓地があちこちにあると、店長が言っていた。練馬じゃなくても、東京の住宅街にはそういう場所がいくらでもある。
コンビニの裏手に墓地があるくらい、珍しいことじゃない。
偶然だ。
そう思った。
お茶を買って、店を出た。
普通の夜だった。普通のコンビニだった。
帰り道、僕は一度だけ振り返って、コンビニの明かりを見た。
蛍光灯の白い光が、闇の中に浮かんでいた。
あの光と同じだった。
どこのコンビニでも同じだ。蛍光灯の光なんてどこでも同じ。
わかっている。
わかっているけど。
その夜、ベッドに入って、なかなか眠れなかった。
別に怖いことがあったわけじゃない。
ただ、考えていた。
「通り道」は、あの場所だけなのだろうか。
武蔵野台地の一部に存在する、と記事には書いてあった。
「一部」というのは、一箇所だけという意味だろうか。
それとも——複数あるのだろうか。
コンビニが取り壊されたら、通り道はどうなる?
閉じるのか。
それとも、別の場所に移るのか。
あの客は通り抜けた。あの通り道は役目を終えた。
でも、通り道そのものは——?
考えすぎだ。
もう終わったことだ。
僕は目を閉じて、眠りに落ちた。
数日後の夜のことだ。
もう寝ようとしていた。歯を磨いて、部屋の電気を消して、ベッドに入った。
時計が目に入った。
午前2時40分。
まだ起きていた。最近、この時間まで眠れない日が増えていた。
別に待っているわけじゃない。
ただ、身体がこの時間帯に慣れてしまっていて、すぐには切り替わらなかった。
午前2時43分。
眠気がやってきた。意識がぼんやりと沈み始める。
午前2時44分。
——ふと、目が覚めた。
何かが聞こえた気がした。
音、ではない。もっと微かな何か。空気の質が変わったような感覚。
気のせいだ。
僕はもう一度目を閉じた。
眠った。
翌朝、目が覚めた。
いつも通りの朝。陽射しがカーテンの隙間から入ってきている。
ベッドから起き上がって、顔を洗おうとキッチンに向かった。
テーブルの横を通り過ぎた。
二歩進んで、止まった。
ゆっくりと振り返った。
テーブルの上。
何もなかった。
何もなかった、けど。
テーブルの上に、うっすらと丸い跡がついていた。
缶を置いた跡みたいな、小さな水の輪。
一つ。
僕はしばらくそれを見つめていた。
指で触れた。
冷たくはなかった。
ただの水滴の跡だった。
結露か何かだろう。
そう思った。
僕はその跡をティッシュで拭いて、普通に朝食を食べて、普通にバイトに行った。
何も起きていない。何もなかった。
ただの水滴の跡だ。
それ以降、テーブルの上に何かが置かれることはなかった。
水滴の跡も、もう現れなかった。
普通の日常が続いた。
あの四十四日間は、本当に終わったのだ。
たぶん。
これを書いている今、僕は新しい部屋のデスクに向かっている。
季節は秋になった。窓の外で虫が鳴いている。
あれから何ヶ月も経つのに、なぜ今これを書いているかというと、昨日、少しだけ妙なことがあったからだ。
大したことじゃない。本当に大したことじゃないんだけど、一応書いておく。
昨日の夜、買い物を忘れていたことに気づいて、近所のコンビニに行った。
午前2時44分だった。
時計を見て気づいた。ああ、この時間か、と。
別に意図したわけじゃない。たまたまだ。
自動ドアを開けて、店に入った。
飲み物と、おにぎりを手に取って、レジに向かった。
レジには若い店員が一人だけ立っていた。僕と同じくらいの年齢に見えた。
商品をカウンターに置いた。
店員が顔を上げた。
僕を見た。
そして——固まった。
ほんの一瞬だけ。すぐに「いらっしゃいませ」と言って、バーコードを読み取り始めた。普通の接客。普通の対応。
でも、あの一瞬。
僕を見て固まったあの表情を、僕は知っている。
深夜のコンビニで、自動ドアが開いて、客が入ってきた時に。
何かが違う、と感じた時の表情。
見覚えがあった。
鏡で見たことがあった。
会計を済ませて、僕は店を出た。
外は暗かった。
少しだけ立ち止まって、コンビニの明かりを振り返った。
ガラス越しに、レジの中の店員が見えた。
こっちを見ていた。
僕は歩き出した。
足音が、アスファルトの上に響いた。
自分の足音だけだ。
自分の足音だけの、はずだ。
これで話は終わりだ。
最初に書いた通り、信じるか信じないかは任せる。
ただ、一つだけ。
午前2時44分にコンビニに行った時、レジの店員がこっちを見て固まったら。
それは——たぶん、気のせいなんかじゃない。
僕もそうだったから。
あの夜から、すべてが始まったから。
僕は普通に暮らしている。
普通に暮らしている、と思う。
テーブルの上には何も置かれていない。
夢も見ない。足音も聞こえない。
でも、時々——本当に時々だけど。
午前2時44分に目が覚める。
理由はわからない。
目が覚めて、暗い天井を見つめて、しばらくじっとしている。
何かを待っているみたいに。
何を待っているのかは、わからない。
わからないまま、また眠りに落ちる。
それだけの話だ。
それだけの話、で終わるといい。
本当に。




