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 九月も中旬になると学校全体が学園祭ムードに包まれる。放課後の部活動も近日で大会がないところは自由参加となっていて、ほとんどの生徒がクラスや部活の演し物の準備に追われていた。

「こういう雰囲気ってソワソワしちゃうよね」

浅見に言いつけられた学校説明会のプリントをホッチキスで留めながら慧は弾んだ声を出す。

「ソワソワっていうか…まぁお祭り感はあるな」

次のプリントに手を伸ばしながら凪葵は冷静に返事をした。コスプレの内容が無難に犬だか狐だかの付け耳と尻尾におさまったというのもあるのだろう。本当はそれすらもイヤなのだろうが、クラスの演し物である以上回避はできず(というか小柴の圧に勝つことはできず)、凪葵なりの落としどころを見つけたようだ。凪葵の他にもコスプレなんかないというクラスメイトは何人かいて、みんなで持ち寄った中からそれぞれ借りることになっていた。

「こないだみぃちゃんのコスプレ写真見せてもらったんだけど、めっちゃガッツリですごかったよ」

慧は写真を思い出して笑った。みぃちゃんとはこれまた慧と普段一緒にいるグループの一人でクラスのリーダー格でもある女子生徒のことだ。一泊合宿の打ち上げをしようと言い出したのもこの子である。

「やりたい奴だけやればいいのに…」

パチンというホッチキスの音と凪葵の溜め息が同時に響いた。教室は日々増えていく大小様々な道具に埋め尽くされているので別の部屋で二人は作業している。二人きりの部屋は静かだが、遠くから聞こえてくる楽しそうな声や音楽が丁度いいボリュームで届いている空間は特別感があって、慧はこの時間に幸せを感じていた。だが、不意にその穏やかな領域を破るように慧の携帯から着信音が鳴りだした。

「どしたの?」

慧はスピーカーにして電話に出る。

「ミケいまどこ~?ちょっとこっち手伝ってほしいんだけど!」

小柴の声が携帯から響く。

「今あさっちから頼まれてる仕事やってるんだけど~」

「そんなの後回しでいいって!クラスの方全然進まなくってさ。すぐ戻ってきて~!」

小柴は言いたいことだけ言うとプツっと通話を切った。

「え!ちょっと!」

慧の手からプリントがバラバラと落ちる。相変わらず勝手気ままな小柴に『も~』と言いながらも慧はプリントを片付け始めた。

「ナギも一緒に来て」

浅見からの仕事を凪葵に押し付けることもできないし、どうせなら二人きりの時間も残しておきたい。慧は凪葵の腕を掴むと教室へと向かった。実際、教室に引き返してみるとクラスの半分くらいしか人がおらず作業がはかどっているようには見えなかった。

「あれ?みんなどうしたの?」

キョロキョロと教室内を見回しながら、慧はコスプレ自作組に混ざって縫い物をしている小柴に声を掛ける。

「あ、ミケありがと~!みんな部活の方とか買い出しとか行ってて実働部隊がいないんだよね」

小柴は屈託なく笑って礼を言った。こうやって愛嬌があるから勝手なことやってても憎めないんだよねぇ、と慧は心の中で苦笑する。

「大浦クンもいたんだ。ちょうどいいや、あそこの壁作ってるとこ手伝ってくれる?」

殺風景な教室を目隠しするための段ボールの板、もといカフェの壁を小柴は指さした。教室一面に張り巡らせる予定の壁は確かに大掛かりで人数が必要そうだ。慧と凪葵がそちらへ行こうとすると、小柴の声が飛んだ。

「ミケはこっち!衣装入るか確認するから!」

持っていた裁縫道具を放り出すと小柴は慧の腕を引っ張る。慧がよろけながら小柴についていくと、教室の一角に積み上げられている衣装の中から小柴は猫耳と肉球のついた手足を取り出した。

「これつけて」

手足の部分を慧に押し付けて、猫耳のカチューシャをズボッと慧の頭に押し込む。慧は言われるままに靴型になっている猫の足と手袋状になっている猫の手をつけた。

「ヨシ。女性用だけど入るね」

うんうん、と手の肉球を掴みながら頷いていたが、全体を確認すると小柴は首を傾げる。

「ん~なんか違うなぁ…」

今日の慧は白地に緑のNENECOロゴが入ったTシャツに、ジーンズを履いている。TシャツがオーバーサイズなのとNENECOのロゴが可愛いらしいのでそこまで男らしさを感じさせる恰好ではないものの、猫耳が取ってつけたように浮いていた。

「え~なんでだろ?ねぇ、みぃちゃ~ん」

小柴は振り返って自作組の方に声をかける。みぃちゃんは顔を上げて慧を見ると少し笑った。

「ハハッ。なんか面白いことになってんね、ミケ」

みぃちゃんから見てもちょっとちぐはぐなようだ。自分から来たわけじゃないのに、と慧は少し赤くなる。

「んー…手足だけすごいモフってるのがおかしいのかも」

みぃちゃんは立ち上がって慧の近くまで来るとじぃっと慧を上から下まで眺めた。

「あ~そうかも。ミケ、明日モフモフの服着て来て」

「え?!この時期にモフモフ着るの?!」

慧が持っている服の中で一番モフモフしているのは冬用コートだ。明らかに十月初旬にある学園祭で着るような服ではない。

「いや、そこまで思いっきりモフモフじゃなくてもいいよ。なんかないの?」

「え~どうだったかなぁ…」

自分の部屋のクローゼットを想像するがすぐには思い出せない。

「探しといて!」

小柴は強引にピシッと指をつきつけた。

「こっちはまだ呼び込み担当決まってなくて忙しいからさぁ~」

その話まだ決着ついてなかったんだ。勝手に役割を決められて以降その辺りはノータッチだったから慧は知らなかった。

「誰かいないかなぁ。目立つ人…」

教室内をチラッと見まわした小柴の目が、ふと止まる。

『えっ…』

小柴の見た方を慧も見た。凪葵が床にしゃがみこんで段ボールを張り合わせている。

「ちょっ…待っ…!」

慧が制止するより小柴の動きの方が早かった。素早く凪葵の傍まで歩み寄ると、声もかけずにグイッと凪葵の顔を上げ前髪を搔き分ける。

「……悪くないじゃん」

小柴は意外そうにポソリと呟いた。凪葵は何が起こったのか分からないまま放心している。まるで強引な男子にキスされる直前の女子みたいに、顎を掴まれたまま固まっていた。

「い、いや!大浦君は目立つの苦手だから!」

慧はバッと二人の間に割り込んで凪葵の顎から小柴の手を離す。

「だ~いじょうぶだって~。看板持って歩いてもらうだけだから」

小柴はもう一度確認しようと慧を押しのけようとする。だが、慧も頑として動くまいと力を籠める。『いいじゃん』『ダメだって』と押し問答を続ける小柴と慧の横をフッと影が横切った。

「お…たしかに。悪くないね」

みぃちゃんが腰をかがめて凪葵の前髪を掻き上げている。

「…っ!」

二対一となると分が悪い。慧は小柴を止めた方がいいのか、みぃちゃんを止めた方がいいのかもう判断がつかなくなっていた。当事者の凪葵はというと魂が抜けたように茫然自失としてされるがままになっている。

『マズイマズイマズイ!!』

受験の時だってこんなに頭をフル回転させたことはない。慧はどうにかこの状況を打破する方法を必死に考えた。小柴とみぃちゃんの『悪くない』は慧にとって大いに都合の『悪い』ことだ。もし凪葵が、二人が息を飲むほどの絶世の美男子だったら。はたまた声を無くすほどの醜男だったら何も問題はなかった。だが、『悪くない』は『イイ』のだ。高嶺の花は手を出しにくいが、ちょうど手の届くところに花があるなら欲しいと思うのが人の性である。今までは前髪という雑草に覆われて見えなかったが、白日のもとに晒されれば皆気づくだろう。

『冗談じゃない!』

二人を止められないなら凪葵を連れて逃げるしかない。そう思った慧が凪葵の腕を掴むより先に、みぃちゃんの手が慧の手首を掴んだ。凪葵の前髪がパサりと元に戻る。

「大浦ク~ン」

小柴が猫撫で声で凪葵を呼ぶ。おそらく凪葵は慧が衣装合わせをしていたことさえ知らなかったのだろう。ついていけない状況に恐れ戦いて視線だけを小柴に向けている。

「そこの男子!大浦クンにコレ着せて!」

強い口調で命令すると小柴は衣装の山から黒い服を掴むと一番近くにいた男子に押し付けた。

「すぐにっ!」

小柴の声にビリッと反応して傍にいた数人の男子は慌てて凪葵を引っ張ってキッチン予定の教室の隅へと連行していった。

「ちょっと!」

追おうとした慧を小柴とみぃちゃんが羽交い絞めにする。

「着替えるだけだって~」

「そうそう、誰も食ったりしないって」

もがく慧が二人に宥められている間、キッチンの中でも『ちょっと待て!』とか『やめろって』と凪葵がもがいている声がする。しかし、すぐに静かになると警察に連行される犯人化のように両脇を固められた凪葵がヨレヨレで出て来た。着替えた時にほどけたのか、後ろ髪からゴムが外れている。

「よっしゃ、あとは髪だな」

みぃちゃんは慧の腕を離すと凪葵の傍に立ち、あっという間に後ろ髪を括り大きめのヘアクリップで前髪をとめた。

「お~いいじゃんいいじゃん」

ロングテールコートを着させられた凪葵は多分執事のコスプレ、ということなのだろう。クラスの中でも高い方に入る凪葵によく似合っている。よれた服を直すと小柴は満足そうにニヤリとした。

「うぅ…」

慧はもうどうしようもなくなって小さく呻くしかできない。悔しいかな、小柴とみぃちゃんを称賛したくなるくらい凪葵がカッコよく見える。

「大浦クン、呼び込み担当決定ね」

小柴に言われやっと脳の処理が追いついたのか、凪葵がギョッとした顔をした。

「え?!絶対イヤだぞ!」

髪についたヘアクリップを凪葵が外そうとした時、にわかに教室の入り口が騒がしくなった。

「でさ~、そん時にアイツが…」

「マジで?ウケるんだけど!」

口々に喋りながら帰ってきた買い出し係のクラスメイトが、教室の中を見て固まる。

「…え……誰?」

全員の視線が凪葵に集まった。これほどの注目を浴びたことがない凪葵はどうしていいかわからない。

「……大浦?」

髪の長さから判断したのか、誰かがボソッと呟いた。

「え?!大浦くん?!」

「うそっ!」

途端に蜂の巣をつついたような騒ぎになり皆が凪葵を囲む。

「すごーい!超似合ってる!」

「マジか。化けるもんだな~」

賞賛と感心の言葉を受ける凪葵の表情は硬い。

「でしょ~?もう絶対呼び込み担当決定だよね」

なぜか小柴が自慢げに胸を逸らしている。

「うんうん!呼び込みできそう!」

「おめでとー!」

いや、微塵も嬉しくないんだけど。慧には凪葵の心の声が聞こえるようだった。

「ちょっと!大浦君困ってるって!」

慧は必死に声を上げてみるが誰も聞いていない。

「あ…あの…」

凪葵が呼び込みはしないと言いかけた時、小柴が凪葵の耳元で何か囁いた。凪葵の目が確認するように小柴を見る。

「~~~もつけたげる」

再び小柴が凪葵に耳打ちした。その場にいる全員が事の成り行きを確かめるように口を閉じる。凪葵はしばらく葛藤するように床を見つめていたが、やがて重い溜め息と共に言葉を吐き出した。

「わかった。やるよ」

「ナギ?!」

一体何を吹き込まれたのか。慧は驚天動地に陥った。

「よかった~!やっと決まったよ~」

「ホント良かったね~」

またしても大騒ぎになる教室の中、慧だけが置き去りにされた。


 凪葵が呼び込み担当を承諾して以降、クラスメイトの凪葵に対する態度がガラッと一変した。今まで風景の一部かというくらい素通りしていた人達が、代わる代わる凪葵に声をかけていく。放課後も、気づけば誰かに引っ張られていってしまっていて、ここ数日慧はまともに凪葵と会話ができていない。クラスのノリの良さが慧にとっては裏目に出ていた。

『ボクだけが知ってるナギだったのに…』

カフェの小道具を作りながら慧は沈んだ気持ちになる。想いを伝える勇気はまだ持てなかったが、周りより凪葵と仲が良いことは慧を安心させていた。みんなが凪葵と関わるようになった今、凪葵の中で自分は何番目なんだろう。

「おーい、宇佐美、大浦…はいないのか」

浅見が教室の入り口で慧を手招きした。慧はぼんやりとしたまま浅見の元へ歩み寄る。

「この間頼んだ学校説明会の資料、どうなった?」

資料?なんのことだっけ…凪葵のことばかり考えていて、他にあてるリソースがない。

「ホッチキス留め頼んだだろっ機械壊れたから!」

呆れる浅見の声にやっと慧も思い出した。

「あ…途中で呼ばれたから…」

あの後、急に凪葵が人気者になってしまったから放ったらかしになっている。

「どうした?どっか具合でも悪いのか?」

いつも明るい慧がぼーっとしていることに気づいた浅見が首を傾げた。

「え…いや、大丈夫です。すみません、すぐやります」

返事も待たずに資料が置きっぱなしになっている部屋へと向かおうとした慧の肩を浅見が叩く。

「ホントに大丈夫か?無理なら言えよ?」

珍しく気遣ってくれる浅見に慧は目をしばたたいた。

「ホント、大丈夫だよ」

浅見にも心配されるとなんだかおかしい。慧は少し笑って答えた。

「じゃあ、やってくるね」

まだ納得していなさそうな浅見を置いて、踵を返す。

「大浦にも声かけろよ」

後ろからかけられた声に、一瞬慧の動きが止まる。だが、すぐに首だけ浅見に向けると慧は何事も無かったかのように『は~い』と答えた。


 学校説明会の資料を置いている部屋のドアを開け、慧の動きが止まる。隣に凪葵の姿はない。浅見の言いつけを守らず、一人でここまで来てしまった。

『どうしよう…このまま一人でやっちゃおうかな』

凪葵が今どこにいるか、誰と一緒にいるのかもわからない。凪葵がみんなと仲良くしているのは良いことだ。別に一人でいることが悪いとは思わないが、やっぱり誰かと過ごす時間だって大切だと慧は思う。

『思うんだけど…』

薄暗い作業部屋の中に、凪葵と二人で過ごした穏やかな思い出が浮かんで、消える。凪葵が誰かと一緒にいたいと思う時、その誰かは自分であってほしい。こうしている間にもその『誰か』になれる可能性が薄れていってるんじゃないかと思うと、焦燥感で胸が寒くなる。慧は無意識のうちに拳を握りしめた。凪葵の中の自分の立ち位置とか、周りとの調和なんか今は気にしている場合じゃない。作業部屋の扉を閉めることも忘れて、慧は走り出した。


 教室にも、校庭にも、食堂にも、職員室にも凪葵の姿は見当たらない。教室を見た時点で電話をかけたが、凪葵が出ることはなかった。コール音さえ届かないのかともどかしくなる。

『あとどこが…』

額に浮いた汗を手で拭い、ふと以前にもこうして凪葵を探していたことを思い出す。あれは確か浅見から仕事を言いつけられた時だったか…

『漫研は学園祭で演し物ないって言ってたけど…』

それにクラスの誰かが凪葵を連れ出しているなら、そこにいる可能性はほぼない。だが、慧が思いつく凪葵の居場所はもう部室しかなかった。ダメ元で向かいながらもう一度電話をかけてみる。相変わらず何度かのコール音の後に留守番電話に繋がった。楽しそうに学園祭の準備をしている生徒達の間を縫って旧棟へと走る。部室の集まる二階、一番奥の部屋。

カタン

軽い音を立てて部室のドアを開ける。まるでデジャブのような光景がそこにはあった。本棚に囲まれた部屋の窓辺にもたれて、凪葵が寝ている。

『やっと、見つけた…』

そっと後ろ手でドアを閉めると、凪葵の肩がピクンと反応した。

「ん…」

窓から差し込む日差しに眉を顰めながら、凪葵の視線がゆっくりと慧に向く。

「…ああ、宇佐美か」

寝起きの声で呟いた凪葵は、なんだかホッとしているように見える。

「ここにいるとは思わなかった」

凪葵の方へと歩み寄りながら、凪葵が他の友達と一緒じゃなかったことに慧も少しホッとしてしまう。

「教室いると落ち着かねぇから」

ふぅ、と息を吐いて凪葵が伸びをした。

「急に人気者なっちゃったもんね」

「おもちゃだろ、あんなん」

慧のクスクス笑いに凪葵は渋面を返す。

「寄ってたかって面白がりやがって…こっちの身にもなれってーの」

凪葵にとって今のクラスメイトの態度は珍獣を見る目のように映っているらしい。

「ゴメンね」

自分があの時周りを止めれていたら…

「あっ宇佐美のこと言ってるんじゃないぞ?!他の奴らが冷やかしてくんのがメンドくさいってことで…」

慧の謝罪の意図を取り違えた凪葵は慌ててフォローを入れる。

「オマエがそんなんで楽しんでるとも思ってないし、現に今ここに来たのが宇佐美だったから安心してるくらいだし…」

「…安心?」

凪葵の言葉につい、慧は問い返した。

「ん?ああ…他の奴じゃなくて宇佐美で良かったって…」

その言葉は水滴となって慧の心へ落ちた。ギリギリを保っていたコップの縁から、水が溢れ出す。想いが、滴り落ちる。慧の手が凪葵の頬に触れ、静かに前髪を掻き分けた。

「ナギ、大好きだよ」

慧は腰を屈めて、凪葵の唇に自分の唇を重ねた。心臓は口から飛び出そうなほどドキドキしているのに、妙に頭は冷静だ。きっと凪葵は驚いて目を見開いているだろう。どうするだろう、突き飛ばされるだろうか。告白と同時に勝手にキスするなんて許されることじゃないかもしれない。でも、今の気持ちは拙い自分の言葉じゃ言い表せなくて…慧はそっと唇を離した。


 ほとんど鼻がくっつきそうなほど近くにある慧の顔が、凪葵を見つめている。あまりにも想定外な慧の動きに凪葵は指一本動かすことができず、ただ慧を見つめ返した。フッと慧の相好が崩れる。

「あ~あ、やっちゃった」

ゆっくりと慧の体が離れる。凪葵はそれを目で追うしかでしなかった。

「ナギ、好きだよ」

もう一度、慧は同じ言葉を繰り返す。

「ナギがもう少しボクのこと意識してくれるようになるまで頑張ろうと思ってたけど…我慢できなくなっちゃった」

慧がこの場にそぐわない苦笑をもらした。まるでお腹が空いたからお菓子を食べてしまった子供みたいに。

「ナギの中でボクはそういう存在じゃないとは思うけど…」

少し俯いて、しばらく慧は黙り込む。

「一度考えてみて」

再び凪葵の顔を正面から見つめた慧の表情は、もう子供のようなそれではなかった。


 昨日のことは、それ以降ほとんど覚えていない。確か夕暮れ時になるまでぼうっと部室で座り込んでて、周りが暗くなったことに気づいて帰ったような気がする。慧は惚けている凪葵を気遣わしげに見ていたが、それ以上何も言わずに部屋を出て行っていた。今日になっても症状は変わらず、凪葵は何も書いていないノートにただ視線を落としている。高熱で頭に霧が掛かったような感覚だった。

「…ギ、ナギ!」

肩を揺さぶられハッと顔を上げる。視界に慧の顔が入った瞬間、昨日のキスシーンが脳裏に浮かんで凪葵の体は固まった。

「今日って時間ある?あさっちから言われてた資料作成が途中だったからさ、やろうと思ってるんだけど」

慧の声にじわりと凪葵の脳が機能し始める。そう言えば浅見から押し付けられた仕事が途中だったか…

「体調悪い?ボクやっとこうか」

反応の鈍い凪葵を心配そうに慧が覗き込んだ。

「いや…やる」

掠れた声でなんとか返事をすると、凪葵は席を立った。

 パチン、パチン…

ホッチキスの音が作業部屋に響く。今日も遠くからは生徒の声に混じって学園祭で使用する音楽が流れている。

「あれ?」

資料を順番に集めていた慧の手が止まった。

「コレ、表紙がないんだけど…」

内容ごとに分類されている資料を慧が指さす。えっ、と小さく声を上げて凪葵は手元の資料をパラパラめくった。

「ごめん、俺が取ってる」

資料の最後にもう一枚表紙が挟まっている。しかもその資料を二部取っていたことに初めて気付いた。留める時に分厚さでわかりそうなものなのに、全然気が付かなかった。

「今日ずっと上の空だね」

慌ててホッチキスの後ろで外していると、慧がクスクスと笑う。

「…そんなことない」

慧に言い当てられ凪葵は決まりが悪くなった。

「そんなコトあるよ。ボクがさっき教室で話し掛ける前も何人かナギに声掛けてたのに全然気づいてなかったでしょ」

慧の指摘に凪葵は目を丸くする。なんの事だか見当もつかない。そんな事あったか?

「ほらね」

慧は凪葵の反応に苦笑した。

「プリントちょうだい」

止まっていた凪葵の手から資料を取り上げると、慧は芯を外す。

 カシャン

机に置かれたホッチキスが、やけに大きな音を立てた。

「そういえばさ」

資料の順番を確認しながら慧が落ち着いた声で話す。

「どうして呼び込み担当することにしたの?」

揃えた資料を机で整えると、慧は凪葵の前へと戻した。

「………あー…」

小柴に言われたことを思い出して、受け取った資料にホッチキスを挟んだ凪葵の手が再び止まる。自分の作業を再開していた慧の手も止まった。このまま黙っていても逃げられそうにない。

「笑うなよ?」

凪葵はチラッと慧を見た。慧は一瞬不思議そうに首を傾げたが、すぐに頷く。

「……BOFのカードくれるって言うから…」

言いながら、自分でもその理由が恥ずかしくなって凪葵は視線を外した。

「BOF?…って…バトルオブフォレストのこと?」

凪葵の答えに慧がキョトンとして問い返す。凪葵は渋々頷いた。小柴が呼び込み担当の報酬として出してきたのは大人から子供まで人気カードゲームだった。発売当初は一部のマニアックな人間の間でしか存在を知られていなかったが、ゲーマーとしも有名な人気俳優がSNSで発信したことにより爆発的に人気が出て今では販売開始直後に売り切れるほどにまでなっている。絵の綺麗さとゲームバランスの良さから凪葵もこのカードを集めているのだが、小柴はどこでその情報を手に入れたのだろうか。しかも小柴が提示してきたカードはめちゃくちゃレアリティが高くて、自分が一番欲しいものだった。巷でも人気の高いそのカードは、転売サイトの最安値でも十万を下らない。その上、凪葵の態度が一瞬揺らいだところを見逃さず小柴はさらに同キャラの別カードも付けると言ってきた。少しレア度は下がるものの、それでもなかなか手に入れることのできない一枚だ。まんまと術中にハマって凪葵は呼び込み担当を承諾してしまった。

「…プッ」

不意に小さく声がした。顔を上げると慧が必死に笑いを堪えている。

「だから!笑うなって言っただろ!」

今でも喉から手が出るほどそのカードは欲しいが、傍から見ればたかがカードの一枚や二枚と受け取られることも重々承知している。凪葵は羞恥心で顔から火が出そうになった。

「だって…メンドくさいこととか人前嫌いなナギが…」

カードゲームで…と言いながらついに慧は声を立てて笑い出す。

「めっちゃ可愛いね、ナギ」

「あ~もう!だから言いたくなかったんだよ!」

凪葵はヤケになってバチンとホッチキスを押し込んだ。


 毎日が学園祭の準備だの浅見の命令だのに追われて過ぎていく。高校に入ってから凪葵の周りは何かと忙しない。おかげでいくつかのゲームのランキングはダダ下がりだ。凪葵はチェックしていた攻略サイトの記事を読み終えると携帯をポケットにしまった。次の時間は視聴覚室まで移動しなければならない。廊下を歩いていると、少し先にピンクの頭が見えた。嫌でも目に飛び込んでくるそのふわふわした後姿は、ランキングが下がったのは忙しさだけではないことを思い知らせる。部室での告白以来、ふと気づけばそのことを思い出して他の全てが疎かになってしまっている。だが、不可解なのはその後の慧の言動だった。告白の最後に見せた真剣な眼差しとは裏腹に、次の日から慧は何事も無かったかのように自然に振舞っている。もしかしたら夢だったんじゃないかと何度も思うが、その度に触れた唇の感触が蘇った。

『なんであんな普通なんだよ』

前を歩く慧は友達とじゃれあって楽しそうに笑っている。ひょっとしてタチの悪い罰ゲームに巻き込まれているんじゃないか。

『…そういう奴じゃないか』

悪い予想はあっさりと消え去るが、だとしたら後はどんな可能性が残されているのだろう。

『…ホンキ?』

チラリと過ぎった考えに凪葵は眉根を寄せた。じゃあなんだってアイツはあんなに平然としているんだ。堂々巡りの思考回路に出口が見つからない。遮光カーテンが引かれ照明の消された視聴覚室では世界史のDVDが流れている。毎日学園祭の準備に明け暮れているクラスメイト達は半数以上がうたた寝していた。教師も色々忙しいのだろう、担当教諭でさえ前方のスクリーンを見つめる目が虚ろだ。出席番号順に座らされた席で、凪葵は映像ではなく目の前の慧の高等部を見つめていた。ブリーチしているからか、光を反射するその髪はとても細い。不意に慧がくるりと振り返った。

「なんかついてる?」

小声で言いながら慧は髪をくしゃっと撫でつけて笑う。自分の視線に気づいていたのだろうか。

「どうしたの?」

今度は体半分をよじって凪葵に向き直る。凪葵は半分口を開いてどう尋ねたものかと逡巡した。

「なんでそんなに普通でいられるんだ?」

凪葵の問いは想定内だったというように、慧の目尻が下がる。

「だって、ボクまで変に意識しちゃったらギクシャクしちゃうでしょ?」

音響設備が整っている部屋では慧の声はかき消されそうだ。

「これでも頑張ってるんだよ。すっごいドキドキしてるんだけど。ホラ」

唐突に、慧の左手が机にあった凪葵の手を掴んだ。だが、正直普通に温かいという感触しか凪葵にはわからない。手の平のドキドキを示したいのか、その温度を示したいのか。

「ん~伝わらないかぁ」

慧は苦笑すると、グッと凪葵の顔に近づいた。

「もう一回キスしたら、ボクの気持ち信じてくれる?」

急に縮まった慧との距離に、部室での一件がフラッシュバックする。

「何も言わないとホントにしちゃうよ?」

声は穏やかだが、不意に慧の視線が真剣なものになった。

『一度考えてみて』

慧があの日に見せた同じ表情に、動けなくなる。いいともやめろとも言えないまま、二人の唇が重なった。時間にしたら部室でのキスの方が長かったかもしれない。慧の唇はすぐに離れたが、あの告白が夢でも冗談でもないことを凪葵にわからせるには充分だった。

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