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 結衣と話したがる母親をなんとか押し戻して慧は自分の部屋へ結衣を案内した。高校生の男女が部屋に籠るなんて、と非難されるかもしれないが2人の間柄がそういうものではないことを母親はちゃんと把握している。

「えっと…何から説明したらいいかな…」

結衣は学習机のイスに、慧はベッドに腰掛ける。いざ話すとなると、またどこから手をつければいいのかわからなくなる。凪葵相手じゃなくてもこんなに困るなんて、自分は結構頭が悪いのかもしれない。

「高校楽しい?」

慧が考えあぐねていると、結衣が尋ねた。

「うん、楽しいよ」

「新しい友達できた?」

結衣が賢いのか、慧の性格を知り尽くしているからか、うまく結衣の言葉に誘導されていく。

「うん…できた、んだけど…」

結衣に促されるまま、慧は凪葵のことを一つ一つ話始めた。


 うまくまとまっているとは到底言えない説明だったが、慧が話し終えると結衣はう~ん、と頬に指をあてて考え込んだ。

「それは恋だね」

長考した割にキッパリとした口調で結衣は言う。

「どうしてそう思うの?」

慧は視線だけ結衣に向けた。

「だって慧ちゃんが私に人間関係の相談してくるの初めてだもん」

「え?!」

結衣の言葉に慧は驚いて身を乗り出す。

「そんなはずないよ!だってボク結衣ちゃんにはよく相談してたもん!」

「そんなことあるよ~。よく思い出してみて」

慧は持っていたクッションをぎゅうっと抱きしめて眉根を寄せた。結衣に相談したことと言えば…NENECOのTシャツでカラーを選びきれずどっちが似合うか聞いたこと、友達のお土産にもらった猫の置物が可愛くてどうやったらシリーズコンプできるか悩んだこと、その件で父親と口論になったこと…

『あれ…?』

そのまま視線を右上に上げて30秒ほど固まる。

「猫グッズの話しかしてない!」

おかしいな、と首を傾げるがいくら思い出しても結衣の言う通り人の話が思い浮かばない。

「でしょ?」

結衣はクスクスと笑った。

「ついでに…」

伏し目がちに、意味深に結衣は言葉を区切る。

「どんな話の時でも、慧ちゃんにとってはすごく大事なものの話だったと思うよ」

今までの相談事は結衣以外の人に相談していたら、そんなことと笑われていたかもしれない。結衣だからこそ、ちゃんと慧の相談を真面目に聞いてくれていたのだ。思い返せば、結衣に相談したTシャツはお気に入りの一枚になったし、猫グッズは地方のお土産屋さんでしか売っていないことがわかって親に頼み込んで泊りがけで手に入れに行った宝物だ。

「大事なもの…」

口に出してみるとじわじわくるものがある。

「大事な…」

クッションに顔を埋めて目を閉じると凪葵の顔が浮かんだ。急に心拍数が上がり頬がまた赤くなるのを感じる。結衣に断言されたからではなく、元々自分が特別な意味で凪葵に惹かれていることに思い当たった。過去の失敗から少し怖気づいた心がそれを見つからないように隠していただけで。

『最初から答えはずっとあったんだ』

いつからかは分からないが、打ち上げの時携帯を手放せなかったのは凪葵からの連絡を待っていたからだ。もうその時点で落ちていることは確かだ。友達よりも凪葵と一緒にいる方が楽しいと感じたのも、不意に見せた表情に心が奪われたことも、自分の気持ちに名前がついた今では全てに辻褄が合う。

「慧ちゃんもお年頃になったんだねぇ」

結衣がしみじみと頷いた。

「なにその言い方」

まるで親のような物言いに恥ずかしくなって慧は顔を上げる。

「だって慧ちゃん幼稚園の頃から雰囲気変わらないから、そのままふわふわした妖精さんみたいな大人になるんじゃないかと思ってたんだよ」

「…っボクだってちょっとは成長してるもんね!」

冗談なのか本気なのかわからない口調の結衣に言い返すが、アハハと声を上げて笑う結衣につられて慧も笑いだしてしまった。やっぱり結衣に相談してよかった。

「あ~あ…それにしても明日からどんな顔して会えばいいんだろ」

ひとしきり笑ったあと、また同じ悩みに立ち戻る。気持ちはハッキリとしたがそれはそれで難しい。

「凪葵くんは慧ちゃんのことどう思ってるんだろうね?」

「…多分、友達…クラスメイト…ぐらいかなぁ」

凪葵が特別自分を意識しているような素振りはない。悲しいかな、今は慧の片思いだろう。結衣はまた少し考えるように口をつぐんだ。

「告っちゃえば?」

しばらくしてさらりと結衣が言う。

「え?!いきなり言うの?!」

自分の感情についさっき気づいたばかりなのにもう告白するなんて…そうは思いながらも慧は凪葵に伝えるところを想像してみた。

「慧ちゃん可愛いからワンチャンあるかもだよ」

いやいや、簡単に言うけれども。慧の中ではフラれるか、良くて『友達として好きだよ』と伝わってしまう予想しかつかない。

「いや、無理だよ」

どっちも耐えられないとプルプル頭を横に振る。

「でも意識してもらえるきっかけにはなるかも」

さらに重ねてくる結衣に慧は困惑する。告白すれば意識はするだろうけど、前向きに意識するかどうかは別問題なわけで。失敗すればフラれるどころか避けられるかもしれない。考えるだけでもそれは悲しい。

「やっぱ無理!告るのはナシ!」

慧はもう一度ブンブンと顔を振った。結衣はそんな慧を見て楽しんでいるのか笑っている。そんな結衣の反応にやっと自分がからかわれているのだと慧は察した。

「も~ボクで遊ばないでよ」

クッションで半分顔を隠しながら慧がジト目で睨むと、結衣はごめんごめんと笑いながら謝った。

「本気で恋してる慧ちゃんが可愛くて」

同い年なのに結衣には敵わない。慧が口を尖らせていると、階段を昇ってくる足音とすぐにノックの音が響いた。

「結衣ちゃん、晩御飯食べて行かない?」

中からの返事を待たず母親がドアを開ける。時計を見るともう7時近い。

「あ、今日は失礼します。ごめんなさい」

ドアの方を振り返りながら結衣は丁寧に謝った。え~、たまにはいいじゃない~と子供のように駄々をこねる母親にまた今度来ますと頭を下げながら結衣は立ち上がる。

「お母さん、結衣ちゃん困らせないでよね」

さっきまでの会話が聞こえていなかったか内心ドキドキしながら慧は母親を諫めた。

「慧ちゃんばっかりずるいわ。お母さんも結衣ちゃんとお喋りしたいのに」

慧は結衣の背中をぐいぐい押して玄関へと向かわせる。このままだと無理やりにでも食事を出しかねない。自分だってもう少し結衣とゆっくり喋りたかったのに。

「ホント慧ちゃんとおばさんって似てるよねぇ」

不平を言いながら口を尖らせる母親と慧を見比べて結衣は靴を履きながら苦笑した。

「あんまりソレ言わないで」

「まぁっミケちゃん反抗期なの?」

掛け合いのようなやりとりに笑いながら、じゃあまたねと言うと結衣は自宅へと帰っていった。

「ボク宿題あるから終わってからご飯にする」

玄関の扉が閉まるとまだ不満げな母親を残して慧は自室へと引き上げた。

「はぁ…」

再びベッドへと腰掛けると慧は溜め息をつく。母親の登場によって話がうやむやになってしまったが、明日から凪葵の前でどうしたらいいかがまだ解決していない。

『いつも通り…とはいかないよね…』

特別な感情がわかってしまった以上これまでと同じではいられないし、そもそも『いつも通り』がどんなのだったか思い出すことさえできない。

『大体いつも通りにしてたらナギが振り向いてくれることなんかなさそうだし』

考えると憂鬱になる思いを振り切るようにベッドへと上半身を投げ出し、ふとその先に思いを馳せる。

『もし…ナギがボクのこと好きになってくれたら…』

どうなるんだろう?告白して、凪葵がOKをくれたら恋人ということになるだろう。そうしたらもっと一緒にいる時間が増えて、デートしたり、手を繋いだり、キ…

「…っ!」

自分の想像に驚いて慧はベッドから飛び起きた。

『えっウソ…ボク今何考えたんだろう?!なんかすっごい恥ずかしい…』

恋人同士がキスをするなんて当たり前のことだが、凪葵と自分がそうなるかもしれないと思うとものすごく恥ずかしい気持ちになる。しかもまだ片思いの癖にそんなこと考えるなんて。都合がいいにもほどがある。

『…でも』

赤くなった顔を両手で隠しながら、慧は少し後ろめたい気持ちを抱えつつ考えた。

『そうなれたら…嬉しい…』

初めて抱く傲慢な感情に羞恥心を覚える。相手にも自分を好きになってほしい。好きな人と一緒にいたいし触りたい。相手にもそう思ってほしい。そしてその先も…

『どうしたら好きになってもらえるんだろ』

凪葵とはその手の話をしたことが無いので好みがわからない。ゲームが好きということぐらいしか思いつかなかった。

『ゲーマーになったら会話も増えるのかなぁ』

携帯のゲームも有名どころはやったことがあるが、どハマりしたことはなく、付き合い程度にしかしたことがない慧としては何か違う気がする。もとより、物静かな部類に入る凪葵が自分のような騒がしい、よく言えば明るいタイプの人間を受け入れる余地はあるのだろうか。

『なんか凹みそう…』

また溜め息をつきそうになった時、鞄の中から携帯の振動音が響いた。取り出してみると結衣からの通知が表示されている。

『私はそのままの慧ちゃんが好きだよ。がんばれ!』

メッセージと共にファイト!とスタンプが続いていた。

『そのままのボク…』

あたかも慧の心の声が聞こえたかのようなタイミングの内容に驚きつつ反芻する。まさに今凪葵が好きになってくれそうな人物像を勝手に作り上げてそこに合わせにいこうとしていた自分がいた。でも、無理して相手に合わせるとどこかで無理が出てくるのはそのとおりだ。慧自身も凪葵に自分の思い通りの行動をしてほしいわけじゃない。

『そのままのボクかぁ…』

慧はありがとうのスタンプを返信して画面を切ると頬杖をついた。


 次の日。慧は珍しくアラームより少し早く目が覚めた。ここ数日のモヤモヤから解放されたからか、睡眠時間としてはさほど変わらないのに頭はすっきりとしている。

「あらミケちゃん、今日は早いのねぇ」

階段を下りてリビングに入ると朝の紅茶を飲んでいた母親がテレビから目を離した。

「うん、なんか目が覚めちゃった」

冷蔵庫から牛乳を取り出していると、朝食の準備をしに来た母親と目が合う。

「な…なに?」

じっと見つめてくる母親に、顔に何かついているのかと慧は固まった。

「楽しい夢でも見たの?」

慧はキョトンとして母親を見つめ返す。

「え、なんで?」

「なんか良い顔してるから」

母親はニッコリ笑って閉まりかけていた冷蔵庫の扉から玉子を取り出した。

「ここのところ顔色が良くなかったでしょう?お母さん心配してたんだからね」

フライパンに火をつける母親の背中を見ながら、慧は舌を巻いた。おっとりしているようでよく見ている。

「そうかな?普通だけど」

食器棚からコップを取り出しながら慧ははぐらかすように至って冷静なフリをした。さすがに昨日の話を母親にする気にはなれない。母親もそれ以上何があったのかは突っ込んでこなかった。昨日あれほど結衣を強引に引き止めようとした人と同一人物とは思えない対応だ。それは慧に関心がないからではなく、聞かれたくないことなのだと判断したからだろう。きっと今慧が誤魔化したことも見抜いているに違いない。慧は気恥ずかしさにコップに注いだ牛乳を一気飲みすると洗面所へと向かった。

『そんなにわかりやすいかな…』

顔を洗ってタオルで拭きながら鏡で自分の顔を確認する。少なくとも自分ではよくわからない。

『ナギにもわかったら恥ずかしいなぁ…』

ポタポタと前髪から滴る水滴を拭いていると寝癖がついていることに気づいて、手櫛で整えているとハッと自分の行動に我に返る。

『こんなの気にしたことないのにっ』

身だしなみに気を付けないわけではないが、自分の行動が全て恋愛と繋がっているような気がして急にあたふたしてしまう。

『時間が…そうだ、今日は時間があるから気になるだけ!』

自分で自分に言い訳をするが、どこか気持ちが浮ついていることは疑いようもない。でも、そんなフワフワした気持ちも今は楽しくなってしまう。油断すると表情筋が緩みそうで、朝食をそそくさと済ませると慧は早々に自宅を出た。

『浮かれてて忘れちゃってたけど、まだ謝れてないんだよねぇ』

今日もしとしとと降る雨の中、傘をさして学校まで歩く。

『置いてっちゃったことあんまり気にしてなかったみたいだけど…やっぱりちゃんと謝りたいな』

昇降口で傘を畳んで振り返る。

「ナ…ナギ!」

スニーカーを靴箱に入れようとしていた凪葵が目の前にいて思わず声が出てしまった。まあまあ大きめの声に凪葵が振り返る。

「おはよ」

パタンと靴箱を閉める凪葵の声は通常営業だ。

「お…おはよ!」

返事をする声が裏返りそうになる。なんで心の準備ができてないときに限って会うかな?!

「今日は早いな」

『そしていつもよりカッコよく見えるのはなぜっ』

好きだと思ったらこんなにフィルターがかかるものなのかと平静を失ってしまう。

「…?宇佐美?」

入り口に突っ立ったままの慧を訝しみ凪葵が少し首を傾げる。

「あのっ…雨だからさ!早く起きなきゃって思って!」

わたわたと自分の靴箱へ向かいながら、慧は自分の心に静まれと言い聞かせた。納得したようなしていないような顔で凪葵は慧を見つめている。

『あれ?待っててくれてるのかな?』

靴を履き替えている間も動こうとしない凪葵に心臓がドキドキする。

「それ」

慧が上履きに踵を入れ振り返ると凪葵が慧の脇を指さした。

「持って入るのか?」

凪葵が指さした方を見ると慧は傘を持ったままだった。

「あ!傘!!うん、入れるよ!」

もう自分が何をしているのかよくわからない。

『こんなんじゃナギにバレるよっ』

慌てて傘立てに傘を突っ込んで小走りに戻ると、凪葵は相変わらずそこにいた。慧が隣に着くと何も言わずに歩き出す。

『やっぱり待っててくれたのかな』

都合良く考えすぎかなと思いながらも嬉しくてほわほわしてしまう。

『あ~もう挙動不審すぎるよ』

心臓の音が凪葵に聞こえるんじゃないかとチラリと見上げるが、凪葵の顔はいつも通り前髪で隠れて見えない。

『あ、でも今なら…話すチャンスかも』

心構えも言葉の準備もできていないが、逆に今ならサラっと謝れるかもしれない。

「あの…ナギ」

凪葵は教室への足を止めず、ん?と顔だけ慧に向けた。

「こないだは…置いてっちゃってごめん!」

色々すっ飛ばして謝罪だけが口から出てしまった。凪葵の足がピタリと止まる。

「いや…別にいいけど…」

凪葵の口調に怒りは感じられない。何を謝ってるんだろうと不思議そうにも聞こえる。

「打ったところ、大丈夫だった?」

恐る恐る顔を上げながら慧が尋ねる。

「うん、ちょっとだけ腫れた気がするけどもう…」

「えっ?!どこ?!」

凪葵が頭に手をやると同時に慧は腕を伸ばした。慧の指に凪葵の髪が触れ、勢い余って顔が近づく。

「…!」

やりすぎたとわかった時にはもう遅かった。さすがに凪葵が驚いたように目を見開いている。

「ご…ごめん!なんか…色々ほんとごめん!」

慧は急いで凪葵から離れた。これじゃ怪しいを通り越して変質者だよ!

『なにやってんのボク~!』

慧は居た堪れずぎゅっと目を閉じた。凪葵にドン引きされているんじゃないかと思うと怖くて仕方がない。

「あの…宇佐美…」

控えめな声で凪葵が声を掛ける。

「大丈夫だから。ホントに怒ってないから」

顔上げろって、と言われてやっと慧は少し顔を上げる。

「俺の態度はいつもこんなんだから…誤解するかもしれないけどホント怒ってないから」

頭を掻きながら凪葵は言葉を探していた。慧の様子がおかしいのは自分が怒っていると思っているからだと勘違いしているようだ。

「だから…行くぞ」

早口に言うと凪葵は慧の腕をグイッと引っ張った。居心地の悪そうな凪葵にハッと周りを見ると、ケンカでもしているのかと生徒たちが遠巻きに自分達の様子を伺っている。

「う…うん」

注目から逃げるように慧は引かれるままその場を後にした。


『変な感じになっちゃったけど、謝れてよかった』

カチカチとシャーペンをノックしながら慧は考える。授業中の教室は静かだ。あの公衆の面前での謝罪直後はさすがに少し凪葵とぎこちなくなったが、1週間ほど経った今では気合いを入れなくても挨拶できるくらいにはなっていた。とは言うものの、挨拶以外に話しかける勇気もネタもなく凪葵との距離は縮まっていない。何か理由でもないと以前のように一緒に帰ろうと気軽に声をかけるのも躊躇われた。

『片思いしてる人ってみんなこんな感じなのかなぁ』

臆病になったり、自分でも予想外の行動をとってしまったり、片思いはなかなかに忙しい。昼ご飯をいつものメンバーで食べ下らない話をしていると放送の音が鳴った。

「一年二組の宇佐美さん、大浦さん浅見先生がお呼びです。職員室までお越しください。繰り返します…」

「ミケ呼ばれてるよー」

話に夢中になっていた慧の肩を友達が叩く。

「ホントだ。ちょっと行ってくる」

何やらかしたんだよ、とふざけてくる友達に何もしてないよと笑って言い返しながら慧は席を立った。

『またNDYかな』

教室に凪葵の姿はなく、一人で廊下を歩く。呼び出された理由はわからないが、慧にとっては渡りに船だ。どんな内容であれ、浅見の用事ならば凪葵との接点が自動的に生まれる。職員室に着き浅見の元へ向かったが、ここにも凪葵はいなかった。

「大浦は?」

イスを回して慧を振り返った浅見が尋ねる。

「教室にいなかったから一人で来たんだけど…」

職員室の扉を振り返ってしばらく待ってみるが、凪葵が入ってくる気配はない。浅見も同じように見ていたがまぁいいや、と前置きして慧に視線を戻した。

「現国の田中先生、急に入院になっただろ?長期間休むことになるかもしれないから、私物をまとめないといけなくなってな」

浅見はチラッと隣の席を目で示す。二、三日前に急遽現国の時間が自習になりそういう説明があった気がする。田中先生は妊娠中で、どうやら経過が思わしくないらしく緊急入院となったとか。

「また荷物整理?」

この間数学準備室の整理をしたばっかりなのに。口では不満を言うが慧の顔は笑っている。理由はなんでもいい、凪葵と一緒にいられる時間ができるのなら。

「でも私物とかわかんないよ~。全部まとめていいの?」

整頓されている田中先生の机には教科書や授業で使うタブレットも置かれている。

「それなぁ、俺もわからないんだよな。シール貼ってるやつは学校のなんだけど」

浅見は立ち上がると田中先生の机からタブレットを手に取り裏面に貼られているシールを指さした。シールには高校の名前と管理番号が印字されている。

「ま、辞めるわけじゃないから、多少間違って学校のものが入ってても大丈夫だろ」

簡単に結論付けると浅見はタブレットを机に戻した。いいのか、そんな大雑把な考えで。

「俺も会議とか部活とかで忙しいからさぁ。頼むわ」

慧の心の中を読んだのか浅見は自己辯護するように言った。

「大浦にも伝えといて。そんなに急ぎじゃないから」

慧は返事をして職員室を出ると携帯を取り出した。まだ昼休みは半分ほど残っている。

『ナギ、どこにいるんだろ』

最後まで現れなかったのは放送を聞き逃したからだろうか。電話をかけてみたがコール音が続くだけだった。別に急いで伝える必要もないが、せっかくの話すチャンスを先延ばしにはできない。教室へと引き返し凪葵を探すが、まだ帰ってきていない。

『購買か…食堂かな…』

小走りで思いつく場所を巡るがどこにも凪葵の姿はなかった。刻一刻と昼休み終了の時間が近づいてくる。もう一度教室を確認しようと足を向けた時、よく凪葵と喋っている二人組みが廊下の向こう側からやってくるのを見つけた。

「ねぇ、ナギどこにいるか知らない?」

駆け寄って尋ねてみると、男子生徒達はキョトンとした。

「ナギ?」

誰のこと?と互いの顔を見合せている。

「大浦くんだよ!大浦凪葵!」

あだ名が無いとは聞いていたが、下の名前でピンとこないかなと焦れったく思いながらフルネームを言うと、二人組はやっと『ああ』と合点のいった表情になった。

「知らないけど…部室かな?」

「部室?」

てっきり凪葵は帰宅部だと思い込んでいた慧は驚いて聞き返す。

「アイツ漫研だから。旧棟の2階にあるよ」

見たまんまの部活に入ってるんだな。ちょっと笑いそうになりながら慧は礼を言って踵を返した。旧棟と呼ばれる校舎は敷地内でも奥まった場所にあり、今はいくつかの科目室と部室に使われている。

『旧棟でも放送入るはずなんだけどな…』

頻繁に行くわけではない旧棟のことを思い出しながら慧は走った。渡り廊下を抜け旧棟2階に辿り着くと部屋のプレートを確認しながら進む。部室が集まるこの階は今は生徒もおらずシンと静まり返っていた。階段から一番奥の部屋に『漫画研究同好会』の字を見つけ足を止める。外から様子を伺ってみるが、こちらも静寂に包まれていて人の気配はない。

『ホントにいるのかな』

心配になりながら慧は小さくノックをしてゆっくりと扉を開いた。昔教室として使用されていたこの建物は慧たちのクラスがある今の校舎の教室より一回り小さい。中を覗くとびっしりとマンガが詰め込まれた本棚の奥に、窓にもたれかかるようにして座っている凪葵を見つけた。凪葵以外は人がいないことを確認してそっと中に入る。傍まで寄ってみると規則正しい呼吸音が聞こえた。

『寝てる…』

顔を覗き込んでも凪葵は目を覚まさない。束の間、慧は凪葵の顔を見つめていた。合宿の時にも寝顔を見ているが、あの時は暗くてハッキリとは見えていなかった。無防備な表情にドキドキと慧の心臓は早鐘を打つ。

『前髪どけたら起きるかな、さすがに』

あの時みたいに凪葵の顔を全部見たいと思い手を伸ばしかけた時、不意に凪葵の目が開いた。凪葵は慧の姿を確認するとパチッと瞬きをして目を見開く。

「宇佐美?!」

凪葵がびっくりしてガタッとイスから落ちそうになる。

「こんなとこにいたんだね」

触れる前に凪葵が起きてしまったことを内心残念に思いながら慧はニッコリ笑った。

「なんでここにいるんだよ」

座り直しながら凪葵がもっともな問いを口にする。

「呼び出しかかってるのに来なかったのはナギの方だよ」

屈めた腰を伸ばしながら慧はわざと非難するように言った。

「呼び出し?」

「うん。さっきあさっちからまた用事言いつけられたから」

そう言って慧は浅見から依頼された内容を説明した。

「あの野郎…生徒をなんだと思ってるんだよ」

凪葵は渋面を作る。だが、慧が話を聞いてしまったからにはやらなければならない。

「今日は用事あるからパス。明日ならいける」

凪葵は立ち上がると傍の机にあった昼ご飯のゴミをゴミ箱へと投げた。

「ボクも特に用事ないから、じゃあ明日にしよっか」

部室を出ようとする凪葵を追いながら慧が言う。まるで遊びに行く約束をしているようでくすぐったい。廊下に出るとすぐチャイムが鳴り響いた。

「げっ、コレ予鈴?本鈴?」

慌てて凪葵が慧を振り返る。

「どっちだろ…予鈴だと思うけど」

「どっちにしろダッシュだな」

携帯を取り出して時間を確認すると凪葵は走り出した。もう少しゆっくり二人でいたかったのに…そうは思うものの授業が始まってしまう。慧も凪葵の後に続いた。


 次の日の放課後、職員室に行くと浅見が二人の姿を見て手を上げた。

「悪いな。よろしく」

例によって悪いとは少しも思っていない軽々しい口調だ。

「そこの段ボールに入れて置いといてくれ」

田中先生の机には新品の段ボール箱が畳まれたまま立てかけてある。

「生徒使いが荒いんじゃないんスか」

「あ~部活行かないと!忙しい忙しい」

凪葵の不平を無視して浅見はさっさと職員室を立ち去った。

「はぁ…」

諦めたように凪葵は溜め息をつき、しゃがみこむと段ボール箱を組み立てだした。

「田中先生整理整頓してるからすぐ終わるよ」

浅見の指示とは言え、自分も凪葵との接点ができるという邪まな気持ちもあったため慧としては少し後ろめたい。

「終わったらカフェでも行こ。奢るから」

フォロー半分、下心半分で言った慧を、凪葵が見上げて首を傾げる。

「宇佐美も言いつけられた側だろ?奢らなくていいから」

本当は少しでも長く一緒にいたいだけなんだけど…やっぱりダメかな。慧が諦めかけた時…

「自分で払うし」

手元に視線を戻しながら凪葵が言った。

『えっ…それって一緒に行ってくれるってこと?』

凪葵の背中を見つめ期待が膨らむ。

「じゃあ…どっか寄って帰る?」

「終わったらな」

おずおずと確認する慧に凪葵はさらっと答えた。途端に慧の心は弾んでしまう。さっさと荷物詰めなんて終わらせてしまおう。

「ボク机の上のものから入れてくね!」

急にハイテンションで凪葵の手から段ボール箱を奪い取ると、慧は机の上のものをポンポンと入れ始めた。

「あ!ちょっと待てって!コップそのまま入れたら割れるから!」

見境なく詰めていく慧を凪葵が慌てて止める。

「も~細かいなぁ。ナギは」

一度入れたものをひっくり返され慧は口を尖らせて見せた。

「俺が細かいんじゃなくて宇佐美が大雑把なんだよ」

段ボール箱と一緒に用意してあった緩衝材にコップを包みながら凪葵が呆れたように言う。

「えへへ~ごめんなさ~い」

梱包されたコップを受け取り、慧は笑った。

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