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 とは言ったものの。

『多分来てくれないんだろうなぁ』

慧は騒がしいカラオケ店の一室で携帯を見ながら小さく息を吐いた。打ち上げという名目の集まりはクラスの半数くらいが参加している。ほとんどが社交的で活発な友達ばかりだが、高橋さんを始め真面目だったり大人しいタイプのクラスメイトもちらほら出席していた。集合場所に凪葵の姿が無かったから、途中参加になるなら部屋番号を伝えないとと思ってこまめに携帯をチェックしているが、凪葵からの連絡は来る気配が無い。

『まぁナギがこういうの来るイメージも湧かないけど』

凪葵とのLINEは慧が時間と場所を送ったメッセージのまま止まっている。既読はついているが、行くとも行かないとも返事はなかった。

「ミケ!次のやつミケが入れたやつだよ!」

突然肩を叩かれハッとして顔を上げると、目の前にマイクが差し出されていた。慌てて携帯をポケットにしまいマイクを受け取る。

「オレも一緒に歌うぜ~!」

いつも一緒にいるグループの男子がもう一つのマイクに向かって大声を出し音がハウリングした。明るいテンポの歌は流行りのアイドルデュオの曲だ。慧はいつものノリに笑いながら歌いだす。途中掛け合いになる部分で男子生徒がふざけて慧はケラケラ笑って歌えなくなってしまったが、ふと自分が上滑りしているような、わざと楽しんでいるような違和感を感じた。あれ?ボクってこんな風に笑うんだっけ?間奏を挟んで曲が終盤に差し掛かっても、そのしっくりこない感覚は拭えない。体は勝手に動いて歌を口ずさんでいるから余計にちぐはぐな気分になる。曲が終わると慧は隣に座っていた友達にマイクを押し付けた。

「ボクトイレ行ってくる!」

半ば飛び出すように出て行く慧にマイクを押し付けられた友人は首を傾げた。

「そんなに我慢してたのか?」

部屋の扉を閉めると僅かに喧騒が遠ざかり、慧はほんの少しホッとする。だが、その安堵した自分にまた疑念を抱き、眉を顰める。なんでこんなに落ち着かないんだろう。いつもなら仲間たちとバカ騒ぎして、それが楽しくて帰りたくなくなることだって少なくないのに。慧は壁にもたれ掛かると胸をギュッと握りしめた。


 梅雨に入り毎日のように雨が続いている。慧の心の不調も天気と同じように続いていた。あの打ち上げの日からなんとなく、でも確実に気持ちが晴れることがない。その原因をハッキリさせたくて毎日のように誰かと遊びに出掛けてはすっきりせずに帰宅する。そんな日々を暮らしていた。

「お~い、NDYの2人」

4時間目の体育が終わり、クラスで体育館の片付けをしている所浅見が手を振る。慧は持っていたカラーコーンをクラスメイトに渡すと浅見の方へと駆け寄った。

「また雑用で悪いんだけどな、体育館倉庫の備品チェックと数学準備室の整理頼みたいんだよ」

慧と凪葵が揃うと、あんまり悪いとは思っていない口調で浅見がプリントを差し出す。凪葵が手を出さないので慧が受け取った。プリントには備品の名前と個数が表になっている。

「なんで数学準備室まで…」

慧がプリントを受け取ってしまったから仕方なく、という風情で凪葵がプリントを覗き込みながらボソリと呟く。浅見は体育教師で数学は関係ないはずだ。

「鈴白先生が片付けヘタだからな~、頼むわ」

全然理由になってない言い訳を残して浅見は『よろしく~』と軽く言うと別の生徒の方へと行ってしまった。

「あさっちの用事だけならともかく…なんで他の先生の用事まで」

取り残されて突っ立ったまま慧がぼやく。

「そんなこと言うなら軽々しくプリント受けとんなよ」

「ゔ…ごめん…」

面倒くさそうな凪葵の呆れた声に慧は言葉に詰まって謝った。そうは言っても浅見のことだ。拒否したところで無理やりにでも2人に押し付けてきただろうが。

「ゲッ…しかもコレ外の倉庫のじゃね?」

備品の名前を確認していた凪葵が嫌そうに眉を顰めた。言われて慧もプリントを確認する。綱引き用の縄や白線を引く道具の名前が並んでいるところを見ると凪葵の言う通りグラウンド脇にある倉庫のことのようだ。雨が降っている中グラウンドを横切らなければいけないのは面倒以外の何物でもない。

「うわ~最悪…」

雨が止んでいるタイミングを狙いたいが、いつまでも仕事を抱えたままというのも気持ち悪い。

「どうしよう…」

慧が困った表情をしていると、凪葵はジャージのポケットから携帯を出して天気を調べ始めた。体育の授業中でも携帯を手放さないのは凪葵らしいというかなんというか。

「放課後ならちょっと止むかも」

一時間毎の降水確率が表示されている天気予報のアプリでは昼過ぎから低めの数字になっている。凪葵が週間天気予報に切り替えると、明日以降も高確率の雨マークだった。

「様子見てできそうだったらやろっか」


5時間目の途中くらいから雨は小降りになり、6時間目が終了するチャイムがなる頃には曇天ながらも予報通り雨は上がっていた。

「しかたない、ちゃちゃっとやって帰ろうぜ」

「そうだね」

放課後のぬかるんだグラウンドには運動部の姿もなく静かだ。2人は体育倉庫に辿り着くと南京錠を開け立つけの悪い引き戸を開いた。

「青コーン20個」

「1…2…ある」

「黄色20個」

「ある」

慧がプリントの項目を読み上げながら凪葵が数をチェックしていく。

「サッカーボール15個」

「1…2…たぶんある」

「たぶんじゃダメだって!ちゃんと数えて!」

途中から凪葵が億劫になってきたようで手を抜き始めたところに慧の叱責が飛ぶ。

「え~触りたくないんだけど」

凪葵は泥で汚れたサッカーボールを指先で押し退けて数を数えた。

「ん~ある。たぶんある」

「も~本当に?ちゃんと数えてよね~」

相変わらず面倒くさがりだなぁと思いながらも慧も手が汚れるのは嫌なので手伝おうとはしない。

「大体これって体育委員の仕事だと思うんだけど」

ブツブツぼやきながら凪葵は手を払う。そもそも生徒にやらせる仕事ではないような気がするが今更言ったところでやらなくていいことにはならないと思った慧は黙っておいた。

「え~っと、次がソフトボール50個」

「ゲッ…マジで?」

絶対手が汚れるパターンだが致し方ない。凪葵はキョロキョロと辺りを見回してそれらしいカゴを見つけると、走り幅跳び用のマットレスの上に中身をバラまいた。1つ1つカゴに戻しながら数える凪葵を見ながら、慧は少し微笑む。相変わらず言われたことはきちんとやるんだからなぁ。

「49…50、あったぞ」

案の定手は砂だらけになり、凪葵が不機嫌そうな声を出す。

「ていうか空気抜けてるやつも数えてよかったのか?」

カゴを元の位置に戻しながら凪葵が振り返る。

「どうだろ…ついでに入れとけとか言われそうだよね」

素直に報告したら仕事が増えそうだ。慧は浅見の性格を思い出し笑った。これ以上手間が増えるのはごめんだとばかりに凪葵は溜め息をつく。

「次いこ、次」

2人は空気圧のことはなかったことにして作業を続けた。

「あ、次で最後だよ。バトン10本」

慧が最後の項目を読み上げ、凪葵が探すがそれらしいものが見当たらない。倉庫にあるものは粗方見たはずなのだが。

「隅の方にあるのかなぁ…」

持っていたプリントを置いて慧も捜索に加わるがなかなか見つからない。棚の下やボールのカゴをどけても出てこない。それほど広くもない倉庫を2人で黙々と探し続けた。

「こういう時にさ~、マンガとかだと倉庫の扉が閉まって閉じ込められたりするよね」

いい加減探す場所もなくなってきたところで慧が冗談交じりに呟いた。その言葉に凪葵が手を止め、2人同時に倉庫の扉を振り返る。

「…それはないな」

「うん、引き戸だしね」

開けっ放しになっている倉庫の扉は立てつけが悪いので結構な力が必要だった。これが勝手に閉まるのであればイジメを疑うべきだ。

「バトンは諦めて帰るか」

浅見には無かったと報告して、自分で探してもらおう。2人の意見が一致し、倉庫を出ようとした瞬間。

ザアァッ

激しい音と共に土砂降りの雨が降り出した。

「えぇ…こういう展開なの…」

「ウソだろ」

倉庫の入り口で2人で茫然と立ち尽くす。扉が閉まって出られないよりかはマシだが、この大雨ではどちらにせよ身動きが取れない。

「降水確率低いんじゃなかったのかよ」

口の中で愚痴を言いながら凪葵は携帯を取り出した。昼間も見た天気予報のアプリで今度は雨雲レーダーを確認する。

「あ、すぐ止みそう」

ポチポチと操作する凪葵の声が楽観的に変わった。どうやらにわか雨らしい。

「しょうがないね。ちょっと待ってようか」

慧は空を見上げて息をついた。雲はどす黒く本当にすぐに上がるのか疑わしい雰囲気だが、情報を信じるしかない。慧としてはお気に入りのブランドのTシャツが濡れるくらいなら雨が上がるのを待ちたかった。

「そういえば…」

2人で雨を見上げていると、ふと凪葵が呟いた。

「こないだコンビニ行った帰りも降られたんだよなぁ」

「ちょっ…ナギ雨男なの?!」

独り言のような声に思わず慧はツッコミを入れる。

「いや、雨男ってワケではないと思うけど」

「現に雨降ってんじゃ~ん」

「タイミングが悪いだけだろ」

慧の非難に雨を見つめたまま凪葵はバツが悪そうな表情をした。慧の口調から本気で機嫌を損ねているわけではないことを凪葵もわかっているのだろうが、話の方向としては分が悪い。

「そんなこと言って、宇佐美の方が雨男なんじゃね?」

凪葵はチラリと慧を見て苦し紛れを言う。

「ボクはぴっかぴかの晴男です~」

慧も負けじと言い返しながら凪葵を見上げた。向かい合って雨男を押し付けあっていたが、すぐに慧はその子供じみたやりとりに笑いだしてしまった。

「ナギって案外ガキっぽいとこあるねぇ」

ケラケラと笑われて凪葵がむすっと不貞腐れる。どっちがだよ、と低い声を出すが結局凪葵も口元は笑っている。

「コンビニと言えばさ、最近流行ってるアイス知ってる?」

慧は笑い続けながらも話題を変えた。

「アイス?」

「そうそう、SNSでバズってるんだけどさ…」

慧は自分の携帯を出すと写真を探して凪葵に見せる。そうやって他愛もない話をしているうちに、いつの間にか雨は上がっていた。


 倉庫の報告をするため職員室へ行くと、男子バレーボール部の顧問でもある浅見は不在だった。机にプリントだけ置き、2人は教室へと鞄を取りに戻る。

「そうだ、準備室の片付けも言われてたんだった!」

廊下を歩きながら慧が思い出してポンと手を打つ。

「どうしよう?いつする?」

雨が上がるのを待っていたこともあり、さすがに今日はもう時間がない。

「さっさと済ませたいから明日やるか」

教室に入り凪葵が自分の机から鞄を取る。備品チェックも然ることながら、準備室の片付けも既に不可避案件だろう。慧もリュックを肩にかけると2人は再び廊下へと戻った。

「ところで、数学準備室ってどこなんだ?」

昇降口へと向かいながら凪葵が尋ねる。

「え!ナギ知らないの?準備室は…」

説明しようとしてはたと慧は気づいた。そういえば自分も場所を知らない。

「どこだろうね?」

知っている勢いで喋りだしたのに、実は知らなかったという事実に凪葵がキョトンとして目を丸くし、次の瞬間噴き出した。

「フハッ!宇佐美も知らないのかよ」

その表情に、慧は目を奪われた。自分の前で初めて声を立てて笑うその横顔に。決して凪葵は表情が乏しいわけではない。ただ長い髪が邪魔をしてハッキリとその全貌が見えることは少ないし、大概の場合面倒くさそうな顔つきをしていることが多かった。その凪葵が今自分の前で相好を崩していることに驚く。

「明日先生に聞くか」

しかたないな、とまだ笑っている凪葵から目が離せない。びっくりしすぎて心臓がドキドキしている。

「宇佐美?」

いつもなら打てば響く速さで反応を返す慧が黙っていることに気づき、凪葵が振り返った。視線が合い、慧はハッとして取り繕うように笑顔を向ける。

「そうだね、明日聞こっか」

ついさっきまで感じていた心の晴れない違和感とは別の感情で気持ちがざわついて落ち着かない。慧はなぜか自分が動揺していることを気付かれたくなくて、凪葵から目を逸らした。


 次の日も慧の心情を現すかのように天気はすっきりしない。昨日のことを思い出すと緊張に似た何かに包まれ説明のつかないモヤモヤに取り込まれてしまう。慧は寝不足気味の目を擦りながら教室のドアを開けた。

「ミケ、おはよ~!」

すぐにクラスメイトたちが声をかけてくる。挨拶を返しながら、無意識に視線は凪葵を探していた。廊下側の一番後ろの席。凪葵は慧より登校が早い。今日もいつも通り自分の席に座ってゲーム機に目を落としていた。

「ナギ、おはよ」

毎日挨拶しているのに今日だけしないのはかえって不自然な気がして、平静を装って凪葵に声をかける。凪葵もいつも通り顔を上げた。

「おはよ」

挨拶が終わるとすぐにゲーム機に目を戻してしまうところもいつも通りだ。なんとなく日課をこなせた気になって慧は安堵する。きっと自分はいつもと違う凪葵の一面を見たことに驚いているだけだ。そのうちこのどぎまぎした感情も薄れるはず。そう思うと少し心も軽くなった。


張りつめていたものが緩和されたからか、1時間目からやたらと眠い。

『昨日あんまり寝れなかったからなぁ…』

頑張って目を開けていようとするが、気づくと意識を手放していて頭がガクッとなって目が覚める。それも昼ご飯を終えて5時間目が始まると限界を迎え、6時間目は教科書すら前の科目のまま過ぎていた。

「…佐美、宇佐美」

肩を揺すられて突っ伏していた顔をゆるゆると上げる。ぼんやりと開いた視界には凪葵しかいない。

「あれ?」

「もうみんな帰ったぞ」

きょろきょろと誰もいない教室を見回していると、凪葵の呆れた声が降ってきた。

「熟睡しすぎ」

慧は大きく伸びをしてなんとか眠気を振り払う。欲を言えばもう少し寝かせてほしかった。

「準備室の片付けいけるか?」

まだ眠いことがわかったのか、凪葵が顔を覗き込んでくる。慧はコクンと頷くだけの返事をした。準備室の場所は凪葵が確認してくれていて、その背中を2、3歩遅れてふらふらとついていく。まだ夢の中にいるようにぼうっとしてしまうのは、雨で視界が暗いからかもしれない。凪葵が準備室の鍵を回し扉を開けた。雑然、という言葉がぴったりな惨状が目に入り、さすがに慧も目が覚める。

「すげーな、これは」

とにかく本が多い。学術書から参考書や過去の教科書らしきものまでがそこら中に散らばっている。あとは数台のパソコンと書類、そして何が入っているかわからない山積みの段ボール箱。何をどう片付けたらいいのかさっぱりわからない。

「まずは本入れるか」

ひとしきり放心状態になったあと、凪葵がボソリと呟いた。一先ず二手に分かれて本棚の整理をしていく。おそらく本を抜き取ったあと元に戻すことを怠ったのだろう、きちんと本を立て直していくと一定の空間が開けてきた。次にその空間へ本を入れていくのだが、分類がよくわからない。およそ高校レベルでは無さそうなものから算数の教科書まで種々様々で中には数学系のクイズ本まである。最初はある程度ジャンル分けしようと努力したが、凪葵が早々に諦めて手近にある本を突っ込む形になった。それでも粗方散らばった書物を入れ終えると踏み場もなかった床が顔を出す。2時間ほどかかってなんとか整理したと言えるところまで片付いた。

「あとこの段ボール箱どうする?」

開けられた形跡のない箱を見ながら慧がへとへとな声でたずねる。

「もう端に寄せといたらいいだろ、疲れた…」

立ったりしゃがんだりの作業が多かったからか、隣で凪葵も同じく疲れ果てている。

「絶対いらないもの入ってそう」

文句を言っても始まらない。慧は諦めて一番上の段ボール箱を持ち上げた。

「あっ」

箱の大きさから中身が重いと勝手に想像していたが、案外軽く体のバランスを崩す。

「あぶなっ…!」

凪葵の手が伸び支えようとするが間に合わず、段ボールごと2人は床へ転がった。段ボール箱が床に当たってゴトン、と鈍い音を立てる。

「い…た…」

転んだ拍子に床にぶつけてしまったのか、慧の膝にじんじんと痛みが走る。頬に何かが当たりギュっと閉じていた目をゆっくりと開きながら顔を上げると、すぐ横に凪葵の顔があった。

「え…」

仰向けに倒れている凪葵は、頭を打ったのか後頭部を押さえ顔を顰めている。

「ナ…ギ…?」

慧の掠れた声に凪葵の目が動き、至近距離で視線が合う。前髪が左右に流れ、いつもなら隠れているその外観が露わになっていた。

「…っ」

心臓が掴まれたように縮み、慧の息が止まる。合宿の時にこっそり見た、凪葵の顔。

「大丈夫か?」

声と共に吐息が当たり、慧は反射的に上体を起こした。

「だ…だ…だ……大丈…夫」

急に胸がドキドキしだし自分の頬が紅潮していくのを感じる。視線を外したいのに縛られたように動けない。いや、動きたくない。

『え…?』

咄嗟に動きたくないと感じた自分に戸惑う。鼓動がドクドクと耳元で鳴ってうるさい。なのに、慧の周りだけ時が止まってしまったかのように、シンと静まり返っている。

「宇佐美?大丈夫なら…どいてほしいんだけど…」

ゆっくりと体を起こしながら凪葵が伺うように声をかけた。

「へ…?…あっ!」

凪葵の言葉に慧は初めて自分が凪葵の上に乗っかっていることに気づく。

「ご…ごめん!」

ガバッと立ち上がると、自分がどういう状況だったかを把握し恥ずかしさにさらに顔が赤くなった。

「ごめん!」

もう一度そう言って頭を下げると居ても立ってもいられなくなり、慧は数学準備室を飛び出した。

『なんでこうなったんだっけ?!』

混乱する頭で慧は廊下を駆け抜けていく。

「お~い宇佐美!廊下は走るんじゃ…」

「すみません!!」

教師が走る慧を見つけ注意しようとしたが、慧はその脇をすり抜けた。気持ちがいっぱいいっぱいすぎて声をかけて来たのが浅見だということにも気づかない。さっき見た凪葵の顔と、その凪葵の上に覆いかぶさっていた事実だけが鮮明で他のことを考える余裕がなかった。心拍数が上がりっぱなしなのは感情のせいなのか走っているせいなのかも判別がつかない。気づいたときには自分の教室まで戻ってきていた。

『どうしよう…ナギ置いてきちゃった…』

肩で息をしながらやっと現実を振り返る。段ボール箱を運ぼうとして、バランスを崩して、倒れて…そこまで考えるとボンっと頭が爆発したようにキャパオーバーを起こした。

『いやいやいや…でも転んじゃったのは事故だし』

全てを事故の副産物だと考えれば説明がつく。

『いや、つかないか!』

凪葵から視線を外すことができなかったことを思い出してついノリツッコミを入れる。

『あ、でもいきなり他人の顔が目の前にあったら…』

別の人で想像してみようと、いつも一緒にいるメンバーを思い描いてみた。

『…びっくりはするけど』

あんな風にドキドキしない気がする。なんで凪葵の顔に反応しちゃったんだろう。

『いつも見えてないからかな』

普段の凪葵を思い出そうとして脳が誤作動を起こし、あの至近距離で見つめあってしまった凪葵を思い出す。

『違う違う!ていうか見つめあったって何!?』

慧は頭をブンブン振って考えを打ち消した。どうしよう。置いてきてしまったけど今は合わせる顔がない。

『ナギ、ごめん!』

ガタンと音を立ててリュックを取り上げると、慧は昇降口へと走っていった。


 家に帰る途中も、ご飯を食べている時も、お風呂に入っていてもずっと心ここにあらずだった。

『明日会った時どうしたらいいんだろう』

リビングで三角座りをして母親がつけているドラマを観るともなしに目で追う。百歩譲って赤面したことには言い訳ができるかもしれない。かばってもらって恥ずかしくて赤くなっちゃった~なんていつものノリで言えば通じるような気がする。

『でもなぁ…』

じっと見つめてしまったことや、そのあと逃げるように帰ってしまったことについては言い逃れができない。

『なんで逃げちゃったんだよボク…』

後悔しても遅いし、もし同じ時間に戻れたとしても同じ行動を取ってしまう気はするが、それでも自責の念に駆られ慧は溜め息をついた。

『そもそもなんであの時…』

もう何度も思い返して耐性がついてきたのか、間近で見た凪葵の顔を思い出してもオーバーヒートすることはなくなっていた。ただ、静かに鼓動が速くなることだけは変わらない。

『なんであの時視線を外したくなかったんだろう』

「ねぇねぇミケちゃん、この人どっちとくっつくと思う?」

慧が物思いに耽っいることなど気付く由もなく、母親がテレビから目を離さず尋ねてきた。

「え、何?観てなかった」

急に現実に引き戻され母親を見上げる。

「このヒロインよぉ。こないだまで違う人といい感じだったのに」

言い方はおっとりしているが、母はどうもドラマの展開に納得がいかないらしい。慧はたまたま今日ここにいるだけなのだが、一応内容に集中してみる。場面は波打ち際で男女が向かい合っていて、アップで撮っているからかやたらと距離が近い。その不自然な距離感は意図せず昼間の自分達を彷彿とさせ居心地の悪さを感じた。

「ずっと君を見ていたよ」

男性の方が打ち明けるようにセリフを言う。女性はそれを泣きそうな目でじっと見つめていた。映像はすごく安っぽいのに向かい合う2人が一々昼間の出来事とかぶってしまう。ちょっと待って。この展開は…しばらくそのままどちらも喋りもせず見つめ合う。慧は胃の辺りから変な緊張がじわじわせり上がってくるのを感じた。BGMが盛り上がり最高潮に達した時、やにわに男性が女性を引き寄せ抱き締めた。

「君のことが好きだ!」

「えぇ?!」

ドラマのストーリーなんか全然わからなかったが、そのセリフに不意打ちを食らったように慧は叫び声を上げてしまった。

「ね?えぇ?!ってなるよねぇ」

母親は勘違いしてうんうん頷いているが、もう慧にはそんなことを気にしている余地はない。テレビではひしっと2人が抱き合っている。

『…まさか…ボク…ナギのこと…』

結論を出しかけて、すぐにドラマに当てられただけかもしれない、と慧にしては珍しく冷静に分析する。確かに凪葵のことは好きだ。好きだけど、それが友人としてなのか恋なのかわからなかい。

『そもそも恋ってなんなんだろ』

膝に乗せていたネコのクッションにもたれる。告白されることはたまにあるし、実は一度付き合ったこともあるのだが、結局友達の延長線でしかなかった。キスはおろか手を繋ぐことさえなかった『お付き合い』は歓喜もトキメキもなく、一緒にいても寂しいと言われて終わりを迎えた。好意を寄せられ、それじゃあと軽率に返事をしてしまった結末は、相手を傷つけ、慧の中でもトラウマとして残っている。どっちつかずの感情を迂闊に恋愛と結びつけて凪葵を振り回すなんてことは絶対できない。

『ちゃんと確かめないと』

慧はクッションに回していた手にギュッと力をこめた。


 「ミケちゃ~ん、遅刻しちゃうわよ~」

ノックの音と共に掛けられた声にハッとして慧は目を覚ました。手元にあった携帯を確認すると8時近くになっている。

「寝坊した!」

慧は慌ててベッドから飛び降りると急いで着替えをすませ階下へと降りる。昨晩は友情と恋愛についてどうしたら違いがわかるのか考え込みたせいで寝る時間が遅かった。そういえば、うっすらとした意識の中で携帯のアラームを止めて二度寝してしまったような記憶がある。

「朝ごはんどうする?」

洗面所で顔を洗っていると後ろからのんびりした母親の声が聞こえた。

「いらない!すぐ出ないと遅れちゃうから!」

バタバタと最低限の準備をしてリュックを掴むと慧は家を飛び出した。全速力で学校へと向かい予鈴と共に正門を抜ける。廊下を走って慧が教室の前まで来ると、浅見が扉を開けようとしているところだった。

「オマエな、昨日も廊下は走るなって言っただろ」

扉にかけていた手を止めて浅見が呆れた表情で慧を振り返る。

「す…すみま…せ、ん…」

家から教室まで猛ダッシュした慧は息も絶え絶えだ。昨日って何のことだっけ、とチラッと思ったが浅見に尋ねる余力はない。

「朝は時間のゆとりを持って行動すること」

珍しく教師らしいことを言いながら浅見が扉を開けた。浅見に続いて慧も教室へと入る。

「あれ~ミケ遅刻?」

浅見の姿を見てバラバラと席に着く友人達が茶化すように声を掛けてくる。

「ギリギリセーフだな」

教卓へと向かいながら浅見が答えた。遅刻を免れたことにホッとしながら慧も自分の席へと向かう。途中、ふと凪葵の席へと目が向いた。凪葵はゲーム機を専用ケースへと戻していて慧の視線に気づいていない。慧は遅刻寸前になったことで挨拶するタイミングを失ったことに無意識に安堵してしまった。


 その日はそのまま凪葵と会話をするタイミングもなく6時間目を迎えていた。朝の挨拶かNDYの用事がないと案外凪葵と関りがないことに初めて気付く。

「先週の確認テストの結果を返すから、名前を呼ばれたら取りに来てください」

科学の教師が名前を読み上げていき、順番にテストが返却されていく。東浜中高校は二学期制で大きなテストの回数は少ないが、合間に確認テストと呼ばれる小テストが実施される。慧はテスト用紙を受け取り渋面になった。科学はニガテだとわかってはいるがここまでとは…全問中3分の1も丸がない。

「赤点の人は今日の放課後補習するので残ってください」

教師の淡々とした声に、途端に教室中から不満の声が上がる。慣れっこなのだろう、教師は涼しい顔で補習をする教室と時間を黒板に書いた。

「え~…補習組かぁ…」

慧は落ち込んでぺたりと机に体をあずける。特に用事があるわけではないが、補習というだけで気が重い。それでもクラスの半分くらいが不服そうな声を出しているのをみると同士が多そうなことには安心した。

「ミケも補習?」

隣の席のクラスメイトが身を乗り出して聞いてくる。慧はあたふたとテストを裏返して苦笑いを見せた。ミケも、というからには自分も赤点なのだろうが解答用紙を見られるのはちょっと恥ずかしい。

「一緒に行こうぜ」

慧の態度で赤点だったことがわかると、クラスメイトは気を紛らわせるように笑って肩を叩いてきた。


 放課後、補習教室へと入ると他のクラスも合同だからかほぼ満席状態になっていた。

「普通の授業と一緒だな、こりゃ」

一緒に来た仲間たちと空いた席に分かれて座る。ほどなく、教師が入ってきて補習が始まった。内容は確認テストの解説だが、全然慧の頭には入ってこない。

「これは中学で習ってると思うが…」

問題の一つを黒板に書き出しながら教師が説明をする。こういう出だしの話について、慧はいつも懐疑的になってしまう。

『習ってるなら答えられるはずなんだけど。そもそも聞いた記憶もないよ』

基礎はわかっているよねという体で続けられる説明はますます理解が追いつかず、慧の耳は聞くことを諦めてしまった。クルクルと手の中でシャーペンを回しながら周りへと目を向けると、同じような顔をしている生徒が何人もいる。中には最初から放棄しているのか寝ている人もいた。慧はふと凪葵のことを思い出し教室の中を見渡すが、その姿はなかった。

『ちゃんと勉強してるんだなぁ』

結局今日は凪葵と一言も交わすことなく一日が終わった。

『昨日置いて帰っちゃったことだけでも謝りたかったんだけど…』

今朝寝坊したせいで忘れた教科書を隣のクラスの友達に借りに行ったりしてバタバタしているうちに休み時間はなくなっていた。放課後もまさかのこの補習だ。時間が空けば空くほど話しかけ辛くなりそうで怖い。だが、慧は同時に自分が無自覚に凪葵を避けていることにも気づき始めていた。本気で話がしたいなら、昼休みもあったし、移動教室の合間でも凪葵を掴まえられたはずだ。教室で話す内容でも無いし、忙しいからと言い訳をしてそうしなかったのはどう切り出していいか未だ答えが見つからないままだからだった。

『こんなんじゃ自分の気持ちもわからないままだよ…』


 補習が終わったのは日が傾き始める頃だった。正確に言うと慧の終わった時間が遅かった。補習の最後にもう一度テストが配られ全問正解した人から解散となったのだが、途中の説明を聞いていなかった慧はまったくわからず、しかも教科書を忘れてきていたので手掛かりさえ持たずで、最終的に先生が付きっきりで一から解説をしてくれたのだ。そのせいでテストの範囲については人に教えられるくらい完璧になったが、そのおかげでさらに科学が嫌いになった。

「疲れた~」

まだグラウンドでは運動部が残っているが、校門へと向かう生徒は一人もいない。凪葵とは喋れなかったし補習は長引くしで散々な一日だった。自業自得と言われればそうなのかもしれないが。

「どっか寄って帰ろうかなぁ」

まだ晩御飯の時間には早いし気分転換もしたかった。慧は沈んだ気持ちを浮上させるようにワイヤレスイヤホンの音量を上げる。誰かに連絡を取ろうかどうか。携帯を見ながら歩いていたらバス停のベンチにぶつかりそうになり慌てて顔を上げる。

「…あ」

視線の先にいた人物に驚き小さく声がもれた。慧の声に相手も振り返る。

「ナギ…なんで……バス…」

思わぬ場所での遭遇に慧の言葉はバラバラになった。なんでここに凪葵が?なんでバス停にいるの?凪葵は慧と同じく徒歩通学のはずだ。

「オツカレ」

片言みたいな慧の言葉は小さくて凪葵には届いていなかったらしい。凪葵はいつもの上機嫌でも不機嫌でもないトーンで僅かに頭を下げた。予想外の遭遇にまた慧の胸はドキドキと高鳴ってしまう。どうしよう、こんなところで会うとは思わなかった。まだ心の準備ができていない。でもここには他に誰もいないし話をする絶好のチャンスだ。謝らないと…急激に頭が回転してクラクラする。なんて言ったらいいんだろう。昨日はごめんね?ぶつけたところ大丈夫?置いてくつもりはなかったんだ?

「宇佐美」

慧が口を開く前に凪葵が声を掛けた。自分の思考で満員だった精神がプツンと切れる。

「音漏れしてる」

凪葵が淡々とした口調で言い、慧の手元を、携帯を指さす。

「え…え?!ああ!!」

さっき音量を上げたことを思い出し慧は慌ててボタンを押しまくった。ダメだ。またテンパってる。やっぱりちゃんと考えてからじゃないと凪葵と話せそうもない。

「そんな爆音で何聴いてんだよ」

面白そうに口の端で笑いながらつと凪葵の手が慧の耳元に伸びた。左耳に入っていたイヤホンを凪葵の指が掠め取っていく。

「…!」

耳たぶに触れた感触にびっくりして慧は飛び上がりそうになった。凪葵はそんな慧を気にすることなくイヤホンを自分の耳元に持っていくとしばらくじっと音に集中する。

「ああ、なんか聴いたことある」

道の向こう側からバスが走ってきた。凪葵はバスを確認するとイヤホンを慧へと差し出す。無意識に慧は手を出してイヤホンを受け取っていた。

「じゃ、また明日」

凪葵はそれだけ言うとバスに乗り込んでいく。慧は何か言うこともできずにイヤホンを受け取った姿勢のままそれを見送った。バスの姿が見えなくなったところで、やっと金縛りにあった体と脳が動き出す。

『今…絶対顔赤い…』

バスが走り去った方を見ながら慧は手の甲で顔を隠した。凪葵の指先が触れた左側が熱い。この気持ちをどう表したらいいんだろう。限りなく恋に近い何か…いや、また予想外な凪葵の行動に驚いただけかもしれない。じゃあこのドキドキし続ける鼓動と頬の紅潮はなんなんだろう。ああ、でも凪葵が昨日のことを怒って無さそうでよかった。頭の中を色んな思いが混じりあう。フラフラと足は自宅の方へ向いていた。もうどこかへ寄り道する心のゆとりはない。

『さすがに今日はもう謝るのは無理だろうから、それは横に置いとくとして』

凪葵が声を立てて笑ったあの表情を見た瞬間から今日までの3日間、ドキドキしてあたふたするこの気持ちはどちらなんだろう。自分が自分の気持ちに振り回されるなんて理不尽で納得がいかない。倉庫整理の時までは楽しかったのに。

『…あれ?』

不意にその倉庫整理より以前にも自分の気持ちがモヤモヤしていたことを思い出す。友達と遊んでいても何か心に引っかかっていたことをすっかり忘れていた。

『なんでだっけ…合宿の打ち上げからだったような…』

頭のゴミ箱から記憶を取り出してみると、確かにその辺りからなぜか友達と遊んでいても今一つ楽しみきれていないようなちぐはぐな気分を感じていた。でも、倉庫整理が終わったあと雨が上がるまで凪葵と他愛もない、子供じみたやりとりをしているときは確かに楽しかった。思い返してみると、それほど一緒の時間を過ごしたわけではないが、初めて2人で帰った時も合宿の時も、浅見に用事を言いつけられて何かしている時も、凪葵と一緒にいるといつも楽しかった気がする。そもそも凪葵と仲良くなりたいと思ったきっかけ自体が、凪葵といると楽しそうだなと感じたからだった。

『そうだ、ナギが面白いなって思って話すようになったんだった』

自宅の門扉に手を掛けた時、やっと初心を思い出す。

『ボク、もともとナギのこと好きだったんだなぁ』

それが友情なのか、恋愛なのか。結果としてそこがわからない。

「慧ちゃん?」

門扉を握りしめたまま唸っていると、後ろから声を掛けられた。『ミケ』のあだ名が定着している今、この呼び方をするのは一人しかいない。

「ゆいちゃん」

慧は振り返って幼馴染の名前を呼んだ。ゆいちゃんこと竹内結衣は慧の隣の隣に住んでいる。中学までは一緒の学校だったが結衣は高校で私学のお嬢様学校に進んだ。

「久しぶりだねぇ。春休み以来かな?」

結衣は穏やかにニッコリ笑いながら慧の近くまで寄ってくる。結衣とは産まれた時から家族ぐるみで仲が良く、昔は一緒に旅行にも行くことがあった。母親同士が特に仲が良いのでよく晩御飯を食べたりもしていたのだが、中学の途中から慧が別の友達と遊ぶことが多くなるとそれも少なくなっていった。でも、顔を合わせると何でもない会話で盛り上がったり聞き上手な結衣に色々相談に乗ってもらったりすることもあった。

「制服姿初めて見たかも。よく似合ってるね」

制服は地味目な茶色いツーピースだが、結衣が来ていると品が良く見える。結衣は嬉しそうにはにかんだ。

「どうしたの?入らないの?」

恐らく少し前から見られていたのだろう、結衣は動かない慧を不思議そうに見る。

「あ~うん…ちょっと考え事してて…」

愛想笑いでやり過ごそうとして、少し言葉を濁した。いつもなんでも聞いてもらっていた結衣になら打ち明けてみてもいいかもしれない。

「ゆいちゃん、ちょっと時間ある?」

ストレートの綺麗なボブを揺らして結衣は可愛く小首を傾げた。

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